Ⅲ 続・夏霞 -連翹空木-
序章
二月二十二日 火曜日
「まだー?早くしないと遅刻しちゃうよー」
そんな重苦しい世間の動向を他所に、貴には今、交際を始めて半年になる恋人がいる。名を
「遅刻って、学校じゃないんだから」
そう苦笑しつつ言い、貴は部屋のあらゆるところを物色している。今晩のドライブのために作った、お気に入りの曲を集めたカセットテープがどうしても見つからないのだ。
「おっかしーなぁ、どこやったんだっけなぁ」
狭いスペースに無理やり押し込まれたようなミニコンポの周りに目をやってみてもカセットテープらしきものは見当たらない。
「ごはん食べてから行くんでしょ。間に合わなくなっちゃうよ」
形の良い眉を寄せて涼子は言った。近頃はオートバイばかりに乗っていて車に乗らなくなってしまったのも、そのカセットテープが見つからない要因の一つだ。頻繁に車に乗っていればそのカセットテープは間違いなく今頃カーステレオに飲み込まれっ放しになっているだろう。
今晩は大磯にある海沿いのホテルの駐車場でドライブシアターが開催されるとかで、そのチケットを貰った貴は涼子と出かけることにしていた。涼子の言う通り、大磯へと向かう途中に夕食を摂る予定なのだが、渋滞する時間帯、道を考慮しての出発時間なので上映に遅れるということはないはずだ。しかし涼子は今日、この日を随分と心待ちにしていたようなので気が焦っているのだろう。
「んー、まぁ仕方ないか。前に録ったテープもあるし」
「だから部屋と車で聞くテープは別にした方がいいよっていつも言ってるのに」
「だって面倒だったんだもん」
涼子の言うことは尤もだが、貴は気分次第でよくテープを入れ替える。その都度同じものを二つ作る労力はできれば避けたいものだ。
「その面倒臭がりが今の事態を招いてるんですぅ!」
だん、と涼子が足踏みをする。貴の部屋は安アパートの二階だ。構造上、必要以上に物音が響きやすい仕上がりになっている。このままでは下の住民にゴメイワクになってしまう。貴は慌てて玄関に駆け寄った。
「わぁかった、判りました!」
急いでブーツを履こうと先日涼子が掃除をしてくれたばかりの靴箱に目をやると。
「あったぁ!」
満面の笑みを浮かべて貴はブーツのすぐ脇にあったカセットテープを手に取った。すぐに持ち出せるように、と一旦玄関に置いておいたのだ。自分の行動に全く覚えがないのも困りものではあるが、この際それも忘れておくことにする。
「え、これ?」
「……なんで目の前にあったのに気付かないかなぁ」
貴はブーツを履いて立ち上がると涼子に言った。
「あ、そうやって人のせいにするんだ」
「あ、してない。してません。ささ、参りましょうか、お姫様っ」
貴は涼子の頭に手を乗せた。ふわり、と髪の香りが貴の鼻腔をくすぐる。途端に抱きしめたい衝動に駆られるが、貴はそれをぐっと押さえ込んだ。
「爺や、今日のディナーはなんですの?」
「……それは姫じゃなくお嬢様だ」
随分と上機嫌の涼子の額に貴は軽くチョップした。
本当に良く笑うようになってくれた。それに本当に何ごともなかったかのように、強く振舞っている。助手席に座り、音楽に合わせて軽く指でリズムを取っている涼子を横目で見る。
もうすぐ一年程になるだろうか。以前涼子は都心部で一人暮らしをしていて、その頃働いていた会社で残業をしていたところ、見回りのはずのビルの警備員に暴行された。ニュースにまで取り上げられたほどの事件だった。高校を卒業してから涼子と顔も合わせずにいた貴は、涼子がそんな事件の被害者になっていたことなどまったく知らなかった。半年前のクラス会で涼子と再会するまでは。
涼子は男性不信、ノイローゼにまで陥った。何とか普通に生活できるようになるまでにどれほどの辛さがあったかなど、何も知らずにただ無為な日々を過ごしていた。高校を出てからずっと、離れ離れになってからも想い続けていたというのに。
涼子の口から全ての真実を明らかにされた時に、貴は自分の不甲斐なさを呪い、自分が涼子を守れるのなら、出せる力の限りを出して涼子を守ろうと思った。そして半年前のクラス会の後、貴と涼子はお互いの想いを通じ合わせた。
それから半年。涼子は何に脅えることもなく、貴のそばで笑顔でいてくれる。この半年間で自分に何ができたのかは判らない。けれど、涼子の笑顔が常に共にあることは貴にとっては何よりの救いであり、たった独りで戦わせてしまった涼子に償えているのだとも思えた。
涼子に対する償いの気持ちは貴独りの決意の現れだ。恐らく涼子は償いという気持ちなど持たずに、対等に、共に歩むことを望んでいる。しかし貴には常に己に向いている、あの時の無力さ、苛立ちのすべてを払拭することはできない。
涼子の笑顔を見ると癒される。きっと涼子と共にあることで、いつかはその償いの念を捨てることができる日がくる。そうなったときに初めて涼子と対等に歩むことができるのではないか。
今はまだその時ではないのだ。
「あ、この曲入れたんだね。すごい好きー」
曲が変わり、不意に涼子が口を開いた。古い曲だ。貴の姉であるかなみがCDを持っていたのでダビングしたオールディーズ。
「たか、この曲ライブでやったよね」
「あぁー、懐かしいなぁ。初めて指弾きした曲なんだ、これ」
煙草を咥えながら貴は言う。高校生の頃に貴は今も付き合いが続いている親友達とバンドを組んでいた。その頃に文化祭のライブでこの曲を演奏したことを涼子も覚えていたようだった。高校生の頃にも涼子とは様々なことがあった。その過去に心沈むこともありはしたが、今ではその気持ちも随分と和らいできていた。
本当に自分達はうまくいっていた。幸せだ、と感じていた。
もう半年なのか、まだ半年なのか、それは判らない。
ただ、貴は今までに感じたことのない、幸せな時間を間違いなく過ごしていた。
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