第一話 起因と結果と成すべきこと
二月二八日 月曜
「しっかし忠君、そりゃいくらなんでも……」
諒より遅れること二〇分。忠は体躯の大きい忠自身が抱えきれないほどの酒やつまみを買って貴の部屋に訪れたのだ。
「いやほら、場所はお前が提供、んじゃ酒とツマミは俺が提供って思ってさ」
忠はそう言ってつまみがどっさりと入ったビニール袋をテーブルの脇に置いた。アルバイトが終わってから疲れた身体に鞭を打って急いで掃除をしたのだが、そうでなければ大変なことになっていただろう。おかげで疲労度も倍増してしまった。それもこれも今日という日が判っていながら前もって掃除をしなかった貴自身の落ち度なのだが。
「なんだよ、それじゃオレなんだか悪ぃじゃん」
「いいんだよ。お前は今日は聞き役だからな。もう少ししたら
貴は着の身着のままできた諒にそう言って笑った。今日集まるのは高校時代に
「んじゃ、まずはカンパイだな」
がしゅ、と音を立てて大きな缶ビールのプルトップを引いて貴は言った。
「大輔待たないでいいのかよ」
「あぁ、遅くなりそうだから先にやっててくれってさ」
そう言いながら貴は各々のグラスにビールを注ぐと、缶を置いた。
「そか。んじゃ、……おめでとうっ!」
「おめでとうっ!」
貴達が酒を呑むようになってからの仕来りのようなものだ。どんなことがあってもこの仲間内で呑むときはこの乾杯の音頭で、と決まっている。
「おぅふ」
意味不明なげっぷをして貴が煙草に火を点ける。その途端、貴の部屋のドアがどんどん、と叩かれ、次いでドアが勢い良く開いた。
「おっつかれー!」
朝見大輔だ。やせぎすの身体に長身。こけた頬は過労でも何でもなくただ単に太れない体質なだけで、相変わらず不健康そうな顔をしている。現場から直接きたのか、作業服のままだ。
「うわっ!お前連絡しろよー、今乾杯しちゃったじゃねぇか」
「早く終わりそうだったからソッコーで仕事片付けてきた親友に対する言葉か、それが」
靴を脱いで部屋に上がってきた大輔に諒が言うが、大輔もそれを返す。
「まぁまぁ、仕切り直しゃいいじゃん」
「ちと待ってろ」
忠が言うと同時に貴は立ち上がり、大輔のためにグラスを取ってきてそれを手渡した。そのグラスに貴はビールを注ぐ。
「ほら、お疲れ」
「おう、さんきゅー、おっととと」
注がれたビールが泡を作り、その泡がグラスの口付近で止まる。
「オレだってなー、できりゃ全員で乾杯したかったんだけど、貴が先にやっていいって言うからだなぁ」
「まぁ待て。……おめでとうっ!」
更に大輔に言い募ろうとする諒を止めて、大輔がグラスを高く掲げた。
「おめでとうっ!」
大輔に次いで三人がグラスをぶつける。
「くあーっ。でもま、早く終わって良かったぜ。何か話あんだろ?」
一息ついて大輔が言う。
「そ。おれと忠がな」
「んで、その話ってのは何なんだよ」
諒が忠を促すように言う。
「貴から話せよ。俺は後でいいからさ」
「いんや、忠君からどうぞ。忠君のお気遣いには負けました」
「でもよ……」
「まぁ冗談はともかく、後にさせてくれ。忠の話がどんな話かは判んないけど、さ……」
貴は言いながらミニコンポの電源を入れた。ほどなくして
「んじゃ忠から」
さりげなく大輔がそう言う。雰囲気や会話の流れを読むのは昔から上手い男だ。
「ん、判った。俺さ、別れるかもしんない。……まぁ多分確実」
「またなんかヤバイのかよ……」
貴は言って火を点けっぱなしだった煙草に手を伸ばした。忠には
「前はどっちが悪いってんじゃなかったけど、今回は俺が悪いんだわ」
「何が原因なんだよ」
「フタマタ、かけた……」
大輔の言葉に少し言い淀んでから、忠は少し声を落としてそう、言った。
「ん」
「え」
一瞬だが、自分の耳を疑う。
「おまえがぁ?」
そして一瞬の沈黙の後、貴、諒、大輔の三人は疑いの目で忠を見ていた。
「言われると思ったよ」
忠は苦笑する。元々川北忠という男は二股などかけられるほど器用な男ではない。それは貴だけではなく、諒も大輔も良く知っている。女性に対する不器用さについては貴も忠のことをとやかく言えるほどではないのだが、だからこそ、忠が二股をかけていたことが信じられなかった。
「しっかしなんでまた。香奈ちゃんに飽きたって訳じゃないんだろ?」
大輔が言う。うんうん、と貴と諒も頷く。二人の関係は長いこと見てきているのだ。少なくとも倦怠等で別れるようなことはない、と貴は思っていた。
「最初はさ、すぐに別れようと思ってたんだ」
「香奈とか?」
忠の言葉に諒が反応する。
「いや、もう一人の、かすみっつーんだけど」
「それで深みにはまったなんてお前、ありがち過ぎて洒落にもなんねぇぞ」
「そりゃ俺だって洒落で済むとは思ってなかったけどさ」
半ば呆れつつ諒が言う。忠は諒の言葉を認めるかのように言った。
「まぁ香奈ちゃんと別れようってんだから、洒落とかそういうレベルじゃないよな」
貴をはじめ、諒も大輔も判っている。忠にとって香奈という女がそんなに簡単に割り切れる存在ではないことくらいは。
「でもさ、何で香奈と別れるんだよ」
乾杯の一口だけしか呑んでいなかった忠のグラスにビールを僅かに注ぎ足して貴は言った。それほどまでにそのかすみ、という新しい女が忠にとって大切な存在になったのだろうか。どうもそうは思えない。
「香奈だけじゃなくて、かすみともさ。……なんか、二人に面目立たないっていうか」
グラスのビールを一口呑んで忠は言う。貴は忠が買ってきてくれたさきイカの袋を開けて、さきイカを一つ口に放り込み、何度か噛んだ後に口を開いた。
「そういうこと訊いてんじゃないんだけど」
「そもそもの理由、って所からはじめようぜ」
さきイカをくわえた貴が言うと、その後に大輔が付け足した。つまりはそういうことだ。
「なんつーのか、前向きっていうのかね。よくその辺判んないけどさ。一番に愛されていなくても一番に愛することはできるから、って……。その言葉が強烈に頭に残ってて、それってどういうことなんだろうって思ってさ。最初はずっと断ってたんだ。俺には香奈がいるし、香奈と別れるつもりだってなかったし」
一番に愛されていなくても一番に愛することはできる。貴もその言葉の意味を考えてみる。それでそのかすみという女は満足ができるのだろうか。
「不倫願望でも持ってんのか、その女は」
諒が淡々と言う。確かにそう捉えることもできるかもしれないが、忠が気にかけた女である以上、いい加減な性格などではないと貴には思えた。不倫がいい加減な気持ちから生れる訳ではないとも思うが一旦その考えは頭の外に追いやった。ともかく、忠はいい加減な女を長年付き合ってきた香奈との天秤にかけるような男ではない。忠の中ではきっと複雑な感情が渦巻いているに違いない。
「最初はあんま私生活のこととか良く知らなかったんだけどさ、少し、その言葉の意味が知りたくなって付き合ってみた、ってのが最初だな」
そのかすみという女の言葉が強烈に忠の心に焼き付いたうえで、と貴は認識する。
「で、なんか判った訳?」
「感覚的に、かな。言葉に表せっていうと難しいんだけど。何となく、こういうことなんだなぁって判ってきたら、急にかすみが哀れに思えてさ。そんで、こんなことをしてた俺自身にも嫌気が差したっつーか、結構ダメージ、でかくてさ……」
グラスに残ったビールを一気に呑んで忠は言った。後悔しているのだろう。したところで何かが得られる訳でもないのだろう。だからこその後悔だと貴は良く知っている。
「なんかさ、女ってまぁ一概にそうとは言えないんだろうけど、一番いいと思ってる男には女がいるから、二番目で手を打つ、なんてこともあるらしいけどな」
諒がそう言った。それは確か、以前諒の恋人である
「なんかちょっと違くねぇかな。この場合、忠には香奈ちゃんがいて、香奈ちゃんだって忠のことが好きで、っていう普通じゃ手の入れ所がない部分じゃん」
普通、という言葉の範疇が、この場合は極端に曖昧になってしまうような気もする。
「そのかすみって女の考えてることが知りたかった、とかそういうことなのか?」
大輔の言葉に諒は少し考え方を変えたようだった。
「まぁ大雑把に言えばそういうことだと思う。その先を知りたかった、っていうのが本当のところかな。俺がずっとかすみを二番目だと思ってたら、かすみはどうするんだろうって」
それだけでもないのだろう。言葉にして聞いてしまえば脈絡も何もない陳腐な行為だとしか思えない。そもそも人を好きになること事態は決して悪いことではないはずなのに、それが一人ではないとなれば、途端に悪いこととされてしまう。
「普通ならすぐ手を引くんだろうけど……」
「普通だったらそもそも忠にそんなこと言わないだろ。女がいるって判った時点で終わりだろ」
愛だの恋だのという人間の感情に普通という感覚が当てはまる訳がない。男と女が付き合って、別れて、また付き合って。そのリフレインは他人の目から見れば確かにごく普通のできごとだろう。だけれど、恋に落ちた本人にとっては全てが特別だ。
「だから、そこで終わりにしなかったそのかすみさんの考え方っていうか、なんつうか、その辺に惹かれた、とか?」
一番に愛されていなくても一番に愛することはできる。どういうことなのだろう。その言葉と言葉自体が示していることは判る。判るような気がする。しかし、その意図が判らない。かすみという女は二番目に愛されるという事実よりも、ただ単に愛されている、という事実が欲しかったのだろうか。自分が一番に愛している人に愛されている。例えそれが一番ではなくても。前向きといえば前向きなのかもしれない。しかし貴にとってはその考えは前向きではなく、果てしなく後ろ向きな考え方だ。
ただ、寂しいだけだ。そして愛することを拒絶された女は、何を思うのだろう。
「そういうことだったんだろうけどさ、……結局俺には香奈だけだなーってさ」
自嘲じみた笑顔で忠は言った。その笑顔に貴は反感を覚えた。もうすでに終わってしまったかのような忠の口調に。態度に。気持ちに。
「当たり前だろ。香奈みたいな女なんかどこ探したっていやしないぞ」
「そういうことじゃなく」
忠は中途半端な言い方をして、さきイカに手を伸ばす。
「あぁ、まぁそらそうなんだけど、でもさぁ、それで香奈と別れるってのはなんかお門違いなんじゃね?」
貴が疑問に思っていたことを諒が口にした。確かに、半端な気持ちを結局は捨てきれずに付き合ってしまったかすみという女にも、裏切ってしまった香奈にも面目は立たないと思うが、それで香奈と別れると判断した忠の考え方は間違っているような気がした。
「どうも香奈の奴、気付いたっぽい」
「うわ……」
大輔が声を上げる。しかしその大輔の声は貴と諒の気持ちも代弁していた。香奈は女友達の中で一番内気な性格をしている。まだ学生の頃ではあったが、忠と付き合う前は暗い女だ、とすら思ったことがあったほどだ。勿論それは誤解で、元々香奈は自分の気持ちを表現するのが苦手だっただけだ。涼子も今と比べると決して快活と言える性格ではなかったが、その涼子と、快活と言う言葉をそのまま人間にしたような夕香の後ろにいたような子だった。同い年でありながら、涼子や夕香と同じ年数を付き合っていながら、香奈は忠を除く男連中の共通の妹のような存在だった。そんな香奈がずっと想い続けてきた忠に、自分以外に女がいると知ったらどうなってしまうだろう。
「そりゃちょっとフォローできねぇな」
さすがに諒も香奈を慮ってか、苦い表情を作る。
「だろ?こないださ、二人で出かけて、帰る間際になってから急に泣き出してさ……」
その自嘲じみた笑みが、どうにも貴には引っ掛かる。
「だから、香奈と別れんのか?」
思わず口に出してしまっていた。
「合わせる顔、ないしな。ずっとさ、ずっと付き合ってた女を俺は裏切ったんだから」
「だから、それで別れんのかって訊いてんの」
「貴」
口調を強くした貴を嗜めるように大輔が口を挟んだ。
「それさ、かすみってのと別れるのはいいとしたって、なんで香奈とも別れちゃう訳?おれそこ判んねぇわ」
「だってお前」
「おまえさ、香奈になんて言って別れるつもりだよ」
「そりゃあ」
忠の言葉をわざと遮って貴は続けた。
「他に女作って悪かった、とか言って別れるつもり?まだちゃんと気付いてもいない香奈に」
「貴、忠の決めたことだろ」
忠に何も言わせないようにしている貴に気付いたのか、諒が真剣な眼差しで言ってきた。しかしこうでもしなければ忠は本当に香奈と別れ話をしてしまうかもしれない。自分だけが断罪したつもりになっても何も変わらない。半年前の貴と同じなのだ。今の忠は。
「決めたこと?おれ、どうしても忠が面倒臭がってるようにしか思えない。そもそもお前だって香奈と別れたい訳じゃないんだろ?」
「……そりゃ、そうだけど」
忠は貴の言葉を待っているかのようだった。その目は貴の言っていることに非難を表している訳ではなく、むしろ貴の言葉の後にある何かを待っているような視線にさえ思えた。忠も自分が決めたことに絶対の自信がないのだろう。そのはずだ。だからこそ、今日この席を設けようと考えたのだろうから。だから、救いようがない訳ではない。
「だってそうだろ?香奈は何も悪いことしてないんだぞ。その香奈にお前が別れ話を持ちかけんのかよ。悪いけど責任じゃないぜ、そういうのは。別れちゃえばそれでいいやって言ってるようなもんだって」
「じゃあ、どうしたらいいんだよ……。俺に香奈と今まで通りに付き合う資格があるなんて思えないしさ」
確かに本来直実な性格の忠が考えそうなことだとも貴は思う。諒も大輔も、忠の性格を良く知っているからこそ、忠の決めたことに水を差そうとは思わなかったのだろう。過ちを犯した自分が、その過ちを正すというだけでは、裏切ってしまった香奈と今まで通りに付き合うことはできないと。
しかし、その前にしなければらないことがある。貴は忠が面倒臭がっていると言ったが、忠はそのことを忘れているだけなのだろう。
「ばっかだなぁ、忠君。簡単ですよ」
「?」
「謝ればいいのっ」
ばん、とテーブルに両手をついて貴は頭を下げながら言う。香奈は物静かで内気で、とても心の優しい女だ。誠心誠意、忠が全てを正直に話して謝れば、許してくれない訳がない。勿論簡単には許されないことだろう。香奈が忠のことをどれだけ想っているかは涼子にも聞いていたし、二人で一緒にいるところを見ていれば判る。香奈自身も忠と別れたいと思っているのならば話は別だが、別れたいと思っているのならば忠に涙を見せはしなかったはずだ。
「くっ……くくく」
「あっはっはっはっはっはっ!」
大輔が突然忍び笑いを漏らした。それに続いて忠も笑い出す。当然のごとく貴には何が何だか判らない。
「はっはっはっはっは、そりゃ貴らしくていいや!忠、そうしろ!貴の言ってることぜんっぜん間違ってねぇよ!」
そう笑いながら、ぜぇぜぇと呼吸して諒が言う。それほどおかしなことを言ったのだろうか、と貴は憮然とする。
「くっくっく……そ、そうさせてもらうよ」
忠は頷いて、しつこく笑い続ける。貴らしいとはいったいどういうことだ。悪いことをしたら謝る、というのは小学生だって知っていることだ。笑うのならば、その小学生以下の自分達を笑うべきではないのだろうか。助言をしたはずなのにこれほど笑われるとは思わなかった。
「なんかすっげぇムカッ腹」
「気にすんな。楽にいこうぜっ」
忠はそう言って、ビールを貴のグラスに注ぐと、貴の背を叩いた。
「ま、でもやっぱ聞いてもらってよかったよ。貴、サンキューな」
「あんまり嬉しくねー」
「まぁいいじゃねぇか。さて、じゃ、今度はお前の番だ」
そう言うと大輔は煙草に火を点けた。
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