第二話 それぞれの胸の内

 二月二十八日 月曜日


 涼子りょうこの家に電話がかかってきたのは、二〇時を三分ほど過ぎた頃だった。涼子は風呂から上がり、脱衣場で髪にドライヤーを当てているところだった。電話の音には気付いたが、家族の誰かが出るだろうと思い、髪を乾かし続けているとほどなくしてその音が止み、数秒もしないうちに双子の姉である晶子しょうこから声がかかる。

「涼子ー!電話ぁ!夕香ゆうかから!」

「あーい」

 その声に涼子はドライヤーの電源を切ると自室へと駆け込んだ。電話の子機を取り上げると通話ボタンを押す。

「もしもし?」

 自分の出した声に張りがないのが判る。とりあえずは装ってみたけれど、失敗したようだった。

草薙くさなぎー』

「どしたの?」

 電話の相手は中学時代からの親友の草薙夕香だった。いつもならばこのまま長話にでも突入するところだが、今の涼子にはそれほどの気力は伴っていなかった。

『何よ元気ないわねぇ。たかちゃんと何かあった?』

「ううん、別に……」

 言い淀み、それが瞬時に後悔に変わる。それだけで夕香には伝わってしまう。

『ちょうどいいわね』

 少しため息交じりの声が聞こえてきた。苦笑しているように聞こえなくもないが、しっかり者の夕香にしてみれば世話の焼ける親友、といったところだろう。

「……何が?」

『これから軽く呑みにでも行かないかな、って思って』

「ごめん夕香、悪いけど……」

 とてもそんな気分ではない。落ち込んだ気分を賑わいで紛らわせるようなものではないのだ。

『あたしも呑んで騒いで忘れなさいなんて言うつもりはないわよ』

「……」

 ということは、涼子の状態をある程度見抜いた上で話を聞いてくれる、ということか。どうするか、と考える間もなく夕香は言葉を続ける。

香奈かながね、話したいことがあるっていうのよ。皆に聞いて欲しいって』

 電話の向こうの声もいつもの夕香とは違い、それと判るほどに明るくはない声音だ。なるほど、涼子の事ではなく香奈の事であるのならば、と涼子も考えを改める。

「香奈?」

 香奈は夕香と同じく中学からの同級生で、今でも最も親しく付き合っている内の一人だ。生渇きの髪に手櫛を入れて落ち着かせると、電話機の脇に置いてある小さな鏡を見てみる。紺地に白い水玉のパジャマを着た自分の姿。目の下の隈が目立ち、明らかに本調子ではない顔をしている。それもそうだ。ここ数日熟睡できた験しがない。

『たー坊のことだって』

ただし君の……?」

 そんな涼子の様子に気付くはずもなく夕香は話を続けた。川北かわきた忠は香奈の恋人で、貴の親友でもあり、涼子もまた高校時代から付き合いのある男友達だ。香奈と忠は以前、一度別れ話が出たことがあったが、またそのことなのだろうか。もしも香奈の話というのがまたそういうことなのならば、香奈を放っておくことはできない。今は涼子自身にも余裕がない状態だが、そんな時にでも人を思う心をなくしてしまってはいけない。

『そ。まぁ大体予想はつくけど、あんたはあんたで余裕なさそうねぇ……』

「大丈夫。行く。お姉ちゃんには?」

 短く涼子は答える。自分のことも話しておくべきだ、と涼子は判断した。あの夜のことを。

『勿論話してあるわよ。でもあんたが来るかどうか判らないから、って言われてね。直接声かけたって訳。んじゃ判ったわ、待ってるからね。……大丈夫?』

 夕香の気遣いに涼子は少しだけ笑顔になると、うん、と頷いて電話機を置いた。つまりは姉にもばれているということだ。毎日顔を合わせているのだからそれも当然のことなのだけれど。


 同日 バー Laurelローレル


「なるほどね……。で、香奈は忠と別れたいの?」

 夕香はそう言ってカシスソーダに口をつける。集まったのは、夕香、香奈、晶子、涼子の四人だ。香奈の話に耳を傾け、話を聞き終え、まず口を開いたのは夕香だった。香奈の話は忠と別れるかどうか、という話だった。どうも忠が浮気をしているかもしれない、と香奈は言うのだ。香奈に確証はないものの、それとなく感じていると言うのだが、涼子の知る限りでは、川北かわきた忠という男は二股をかけるような性格ではないように思えた。それについては夕香も晶子も同じ意見だったようだが、香奈の思い詰めた表情を見ると一概に香奈の勘違いだと断じることはできなかった。

「わ、別れたくないよ……。今だって、ずっと好きだもん」

 問い詰めてみたら?という晶子の提案は香奈には無理そうだ。香奈は元々内気な性格で、中々自分の思った通りに気持ちを表現できないことがある。忠と付き合うようになってからは、そういった部分がどんどんと影を潜めていったのだが、その忠と別れるかもしれないという危機感がそうさせているのか、いつもよりも内気になってしまっているようだった。晶子のように快活な性格だったらそれもできたかもしれない。晶子は涼子とは違い、いつも自信に満ち溢れているし、誠実だ。

「香奈ちゃん……」

「どうしよう……」

 もしも忠が本当に香奈とは別の女と付き合っているのならば、今まで誠実だったぶん許せないという気持ちもある。しかし忠への怒りを涼子達が露にしたところで香奈の不安が消える訳ではないし、気分が晴れる訳でもない。そもそも香奈以外の人間が直接とやかく言って良いことではない。香奈の話を聞いて、できうるならば助言をしてあげる程度でなければ必要以上に踏み込んで、つけなくても良い傷をつけてしまったり、生まなくても良い軋轢を生んでしまう可能性だってある。

 もしも自分が香奈と同じ立場だったらどうするだろうか。無意味な仮定ではあるかもしれないが、少し考えてみる。この際自分がどうのこうのという都合は忘れなければならない。この四人の中では涼子が一番香奈に近い性格をしている。もしかしたら何か言ってあげられるかもしれない。

(例えば、貴に私とは別に好きな女の人ができて、その事実に何となく気付いちゃったら……)

 少ししてそれが駄目だということに気付く。今の自分にはそんなことすら想像もできない。いや、したくない。少しだけ浮かんだヴィジョンは香奈のことではなく、自分のみに降りかかってくる最悪の結果だ。もしかしたらそういう結果に、本当になってしまうかもしれない。

「もう少し、様子を見てみるしかないわねぇ」

 晶子がスティックチョコレートに手を伸ばしてそう言った。

「そうね。で、香奈、これだけははっきりさせておいた方がいいと思うんだけど、あんた、たー坊に別に女がいたとしたらどうする?」

 夕香は容赦なく言い放つ。しかしそれは香奈の決断を促すための言い方だ。涼子もこういう夕香の毅然とした態度や言葉に幾度となく救われてきた。

「私だって、こうなっちゃったらもう別れ方くらい決めてるよ……。みじめなのは、嫌だから」

 香奈はそう言って俯いた。

(……別れ方)

 ドキリ、と涼子の心臓が飛び跳ねるように動いた。

「別れ方ね……。果てしなく後ろ向きだけど、まぁあたしもいざとなったら決めてることってあるわ」

「それって、別れること想定して付き合ってるってこと?」

 晶子が信じられないように言う。以前の涼子であれば晶子と同じ気持ちになっただろう。晶子は高校時代から付き合っている恋人がいて、今もその関係は揺らぐことがない。近い内に結婚の話が出てきてもおかしくないほどだ。しかし今の涼子には香奈や夕香の言うことも判るような気がした。もしも貴と別れることになったら自分はどうするだろうか、と考えた。そしてその答えが自分の中に至極簡単に生まれたことに涼子は戸惑いと恐怖を感じた。しかし、貴は何も悪くない。香奈とは少し事情が違う。悪いのは全て自分なのだ。

「そういう訳じゃないけどね」

「え?」

 夕香の言葉に晶子は言葉を返す。

「付き合い始めた頃からりょうとどういう風に別れようかなんて考えてないわよ、あたしだって」

「何かきっかけがあったとき、とか?」

 きっかけ。

 今涼子にはそのきっかけがある。そしてそのきっかけは大きく膨らんで、破局を迎えるかもしれないほどのものだ。

「そうね。ま、諒と何があったって訳じゃないけどね、付き合いも長くなってくると時々不安になるのよ。ただでさえアイツ、そういう世界に身を置いてる訳でしょ。香奈の気持ちが判るなんて言えたもんじゃないけど、ちょっとは判るかな、って」

 夕香の恋人である谷崎たにざき諒もまた、貴の高校時代からの親友だ。しかし諒はプロのミュージシャンになるべく高校を中退してしまった。今はスタジオミュージシャンとしてドラムを叩く日々を送ってはいるが、音楽業界もいわゆる芸能業界だ。夕香も不安の種は尽きないのだろう。

「まだ付き合い始めたばっかりの涼子には判らないかもしれないけれどね」

 そう夕香はわざと付け足したように言った。

「……判るよ」

 涼子は夕香の言葉を聴き終えると、一息入れてそう言った。

「え」

 香奈が微かに驚愕の声を上げる。それもそうだろうと思う。付き合い始めて半年という期間は本当ならば一番楽しい時期のはずだ。事実つい先日まで涼子はその楽しく、幸せな時間に溺れているほどだったのだから。

「……やっぱりね」

 驚かなかった夕香は軽く頷いた。これは夕香の優しさだ。原因を知って驚いていたことには間違いはなかったのだろうが、やはり電話の応対で涼子にも何か不安がある、くらいのことは感付かれてしまったのだろう。そしてそれを打ち明けるためのきっかけを夕香は与えてくれたのだ。

「やっぱり、って夕香は何か知ってるの?」

「涼子に何かあったってことくらいしか知らないけどね。何も言わないんだもの」

 まったく悪い癖よね、と付け足して夕香は苦笑する。夕香の言葉に涼子も頷いた。確かに話してどうにかなることはないのかもしれない。だけれどそれでは半年前と何も変わらない。一人で塞ぎ込んで、一人だけで考えて、また夕香や晶子、香奈に心配をかけてしまうだけだ。

「涼子……」

 三人が口々に言い、最後に香奈が涼子の名を呼ぶ。痛いほど香奈の気遣いが伝わってくる。

「大丈夫。香奈。余裕ない訳じゃないから……」

 香奈を安心させるように涼子は笑顔を作る。誰がどう見ても作り笑顔だろう。言葉とは裏腹に余裕がない証拠だ。

「さてと、じっくり腰据えて話したいわねぇ。あたしの部屋いこっか」

 夕香は伝票を手にして立ち上がる。

「そうねぇ。女四人で集まることも少ないからね」

 晶子もそう言って立ち上がった。

「私も付き合ってもらったからね。涼子の話には勿論最後まで付き合うよ」

 一つ頷いて香奈は笑顔になる。

「うん……。ありがと、みんな」

 皆の気遣いに嬉しくなって、涼子は笑顔になる。今度は作り笑顔ではない、本物の笑顔になっているだろうか。



 同日 草薙夕香の部屋


「さてと、じゃ、準備も整ったことだし、聞きましょうか」

 控えめに夕香は言う。整えられた2DKの部屋に四人は各々場所をとり、腰を下ろす。飲み物や軽く食べるものを準備し終えて、後は涼子の話を待つだけの体勢になった。

「何か貴とあったの?」

 香奈が早速訊いてくる。

「うん、まぁちょっと穏やかじゃないんだけど……」

 意を決して涼子は話し始めた。

「私たちね、もう半年でしょ。でも今まで、一度も、その、一緒に寝たことがないのね」

「え、えぇと、寝たっていうのはつまり……」

 少し言い淀んだ涼子に晶子が確認するように口を挟んだ。しかし「寝たことがなかった」ではなく、「寝たことがない」という言い回しにはまだ誰も気付かないようだった。

「うん、まぁ、そういうこと。多分ね、貴は私があんな目にあってるから、今までずっと気遣ってくれてたと思うの。だけどね、私はあんな目にあったからこそ、早く貴に抱いて欲しいってずっと思ってた。それは、私が、貴に抱かれることで穢れた身体を捨てられるって思い込んでたせいもあるし、早く貴のものになりたかったって思ってたせいでもあるのね」

「汚れた、なんて貴ちゃんは思ってないわよ、絶対」

 夕香はそう言って反論する。それは涼子にも良く判っていた。貴がそんな風に思う訳がない。これは涼子の中でだけの激しい思い込みなのだということも充分に判っているのだ。それでも貴に抱かれることによって浄化されるイメージがいつも付き纏う。それほどに、自分が汚されたと思うほどに、酷い仕打ちを受けたのだ。それ故に涼子は自身が穢れてしまったと強く思っている。

「うん夕香、それは判ってる。……それで、この間、夜にやってるドライブシアターに行って、帰りに初めてホテル入ったのね」

 うんうん、と三人は頷く。涼子は淡々とあの日のできごとを語って行く。まるで国語の教科書を朗読するような感じだ。自分が実感してきたできごとではないようにすら思える。もしそうだったらどんなにか良かっただろう。

「途中までは良かったの。普通にすごくドキドキしてて、やっと本当の意味で貴の女になれるんだな、って思ってた。……だけど、拒んじゃったの」

「……え、何で?」

 そう。

 抱かれたいと望んでいたのは自分だったはずなのに、拒んでしまった。拒絶してしまった。身体が男を受け付けなかった。どんなに想いが強くても、どんなに切望しても、自らの身体が貴を受け入れようとはしなかった。

「身体がね……。震えちゃって。ものすごく震えちゃってね」

「震えて?」

「うん。ひきつけ起こしたみたいに、ね。身体が男を受け付けないの。どんなに抱かれたいって思っても身体が逃げるの」

 言いようもないショックを受けた。一番大切に想っていた人を拒絶してしまった。心の奥底で男という性を恐れ、憎んでいる部分が、まだ潜み、燻っている。そう思った。

 顔を思い起こしただけで嘔吐する日々があった。外に出ることが怖くなった。死んでしまおうとすら思った。

 それでも、貴や諒、忠や大輔達だけは特別だった。涼子が自身を保っていられる唯一の光明だった。無邪気に笑い合って、裏も表もなく自分をさらけ出している大切な仲間達に事実、涼子は救われた。話すことができるようになり、外にも出歩けるようになった。思い起こしただけで嘔吐する日は少しずつ少なくなっていった。貴と再会した半年前、貴の腕の中にいる自分は幸せだと信じていた。

 それなのに。

「怖くて、すごく怖くて、何も判らなくなっちゃって……。貴の身体を突き放したの」

 晶子、夕香、香奈が無言を返す。何も言葉がないのだろう。それは判っていた。いくら親友とはいえ、他人ではどうすることもできない問題だ。自分自身で解決する以外にない。それでもこのことを打ち明けておけば、心配はかけてしまうが、彼女達が知らずに言ってしまったことで気を揉む必要もないし、言われたことに傷つくこともない。半年前と同じことを繰り返すことは、ないはずだ。

「私はね、無理にでも抱いて欲しかったんだけど……。貴はゆっくり二人で考えていこう、って」

 そう言ったら涙が出てきた。堪えようと思ったが、震える声と共にとめどなく涙が溢れてくる。ずっと涼子を気遣って、抱かずにいてくれた。貴に申し訳なくて、自分が情けなくて涙が止まらない。

「うーんと、涼子。私、思うんだけど、あっ、でも、うんと、慰めにもならないかもしれないけど……。それって涼子は悪くないんじゃないかな……。誰のせいでもないんだもん。ゆっくり考えていこうって貴、言ってくれたんでしょ?」

 香奈がそう言って涼子の肩に手を置いた。貴もそう言ってくれていた。誰かの悪意だとかそういうことではない、ということくらいは涼子にも判っている。

 誰も悪くない。誰も責められない。

 確かにそうかもしれない。そうかもしれないが、本当にそれで良いのだろうか。

「香奈が言ってること、凄く良く判るよ。だけどね香奈、誰も悪くないからじゃあ仕方ないよね、って済んじゃう問題じゃないから……」

 お互いにとって深刻な問題だ。だけれど確かに誰かが悪いということではないのだろう。だからといってそこで解決する訳ではない。気遣ってくれる友人達に涙を見せないようにしようと懸命に言葉を紡ぎ出すが、ポーチから取り出したハンカチはどんどんと重くなってゆく。

「でもね、そこで涼子が自分を責めたって何の進歩もないことは判ってるんでしょ?多分貴ちゃんもああいう性格だから、自分の気遣いが足りなかった、って自分を責めてると思う。でもそれじゃあんた達、付き合う前と何も変わってないじゃない」

 口にこそ出さなかったが貴は確かに夕香の言った通り、そう思っていただろう。あの時貴は自分に謝ってきたのだから。

「誰のせいでもない、ってそう思うことは多分、私には許されないことなんだろうって思う。そのこと自体はきっと間違ってはいないのかもしれないけど、事実一番大切な人を拒絶してしまったのは私。私の意志が働いていなかったって言っても私の身体が貴を拒んだの。意思が、身体が、って分けられる問題じゃない。私の心も身体も、全部私の責任なのよ。だからその私が、誰のせいでもないからって何もしない訳にはいかないの」

「何もしない訳にはって……」

「うん、それで何ができる訳じゃないことも本当は判ってるの。だけど、罪の意識が消える訳じゃない。私は、確かに自分が一番大切に想っている人を一番酷いやり方で傷つけたんだから」

 涼子は当然身体のことも心のことも常に気遣ってくれている貴に気付いていた。だからこそ早く抱かれたい、抱かれることで貴に何かを示してあげたい、と強く願ったのだ。しかしそれは叶わなかった。叶わなかっただけではない。

 最悪の形で禍根を残してしまうこととなったのだ。

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