第三話 箍

 二月二十八日 月曜日


「おぉーっ!ついに苦節半年!」

 ホテルに入った、と言った瞬間にりょうははしゃぎ出した。

「最初がホテルっつーのはちと抵抗あったんだけどなー……。できればおれの部屋のが良かったんだろうけど」

 たかはあまり重苦しくならないよう心掛けつつそう言った。

「でもまぁ、夜に遠くに出かけたんじゃなぁ。我慢だってできなかったんだろ、お前」

 くくく、と大輔だいすけが笑う。

「場所なんてどーだっていいじゃねーかよ。で?で?どうだったんよ、涼子りょうこちゃんは!」

「ばーかっ」

 ガツ、と拳骨で大輔が諒の頭を殴る。手加減の度合いを間違えたのか、大輔が殴った拳を開いて痛そうに手を振った。

「いってぇーっ!おま、オレだって冗談でだなー」

「冗談でも言っていいことと悪いことがあるだろ、諒」

 ただしも大輔に同意したが、貴は大げさに頭を押さえる諒を責める気にはなれなかった。笑顔で諒の冗談に付き合えたならば、どれだけ良かっただろう。忠も大輔も、貴の話が明るい話ではないことには気付いているようだった。いや諒のはしゃぎようからしても、諒もわざと明るく振舞っているのだと判る。

「まぁまぁ、大輔、忠」

「だけどよー」

「そうだぜ、貴、あんまりにも下品だこの馬鹿は」

 普段から男同士で集まっても猥談をしなかったせいもあるのだろう。それは彼らが貴と涼子の関係、特に涼子が過去に暴行されたことを暗に気遣ってのことだということは貴にも判っていた。高校生の頃はそういった話を恥かしげもなく大声でして、夕香や香奈に白い目で見られたものだった。

「最初は大丈夫だったんだ」

 貴は一区切りつけるように咳払いをして話し始めた。貴の声のトーンでこの先が明るい話ではないということが三人にも伝わったのだろう。

「部屋、暗くして、普通に抱き合って、キスして、服なんか脱がしちゃったりして……」

 そこまでだった。諒、忠、大輔の三人はただ黙って貴の言葉を待った。

 ジリジリと煙草の燃える音だけがした。ややあって、貴は再び口を開いた。

「でさ、下着の上からだったけど、胸触った瞬間におかしいとは思ったんだよ」

「おかしい?」

「あぁ。びく、って震えたんだ」

「え、でもそんなもんちょっと感じやすい女なら……」

 大輔が言う。

「揺れたんじゃなくて、震えたんだぜ。……だけどおれ、初めてだったし、全然周り見えてなかったんだ。やっぱり大輔の言った通りなんじゃないかって、あんま良く判ってないくせに、そう思ったんだ」

「……まぁ、判らない訳じゃないな」

 理性に歯止めがかからないことがこれほど恐ろしいものか、とその後に感じた。

「ずーっとさ、考えてたよ。涼子を抱く時はオヒメサマを扱うみたいに大切にしてやろうって、ずっと考えてた。だけど、駄目だった」

 理性が吹き飛んだ時の行動など本能でしかない。しかし本能で涼子を求めていることは心のどこかで判っていた。女なら誰でも良い訳ではない。涼子でなくては駄目だった。涼子とこうすることをずっと望み、ずっと押さえ続けてきた。だからこそ愛おしくて、強烈に沸き上がった気持ちに都合の良い考えをべったりと張り付けた。

「そんなもん仕方ないだろ。お前は男であっちは女。女に男のそういう時の気持ちなんて判りっこない、っつうとちょっと語弊あるけど、判れっつうのも無理な話だしさ。おおかた馬鹿だの助平だの言われるのが関の山じゃん」

「そうだな、特にお前らなんか一回もしてないんだし、涼子ちゃんはああいう性格だし、もっとこう、なんつーか、ロマンチックなのを想像してたのかもしんないし」

 大輔と忠が貴を弁護するように言った。恐らく大輔も忠も、自分が初めてしたときのことを思い出したのかもしれない。

「そこまで子供じゃねぇだろ、いくらなんでも。こんなこと言いたかねぇけど、その、なんだ、涼子ちゃんは間違っちゃいるけど、最悪の形だけど、一度は男を知って……」

「諒!」

 諒の言葉を忠は声の限りに遮った。あまりにも突然の大声だったので忠以外がびくりと肩を震わせる。

「や、いいよ忠。実際その通りなんだ。言っていいこととか悪いこととかじゃないよ。腹カチ割って話さないと折角おまえらに話してる意味、ないだろ」

「貴……」

「あ、悪ぃ。オレも他意があって言ったんじゃねぇんだけど……。ごめん、貴」

 貴の言葉に諒は謝ったが、実際諒の言う通りなのだ。非はそのことを失念していた自分にある。

「だからいいって、気にすんな。……ま、諒の言う通りさ。あいつは最悪の形でだけど男のどうしようもなく酷い現実を知ってる。だからこそ、おれの責任は重大だったんだ。おれはあいつに怖くない、大丈夫だって思わせてやらなくちゃいけなかったのに……」

「なるほどな」

 大輔が相槌を打つ。灰の長くなった煙草を消して新たにもう一本取り出すと、それを貴にも渡して火を点ける。

「でもさ、それ、初めてじゃ無理だろ……。ちゃんと、そういう好き同士がお互い初めてで、男がリードするのが当たり前みてぇの、涼子ちゃんは思ってたのかもしんねぇけど、でも……」

「それは涼子だってある程度は判ってたはずだよ。まぁ情けない話、涼子に散々おれだって初めてなんだから、って言ってたからさ」

 深い溜息と共に、貴は煙草の煙を吐き出した。

「そっか……」

「でもさ、結局おれがしたことと言やぁ、あいつを襲ったゴミ野郎と同じだよ。目ぇ血走らせて、鼻息荒くして、あいつの身体触ってただけだ。……感じてなんかいなかった。涼子は、脅えてたんだ、おれに」

 男として女を求めるよりも前に、涼子の恋人としてまずやらなければいけないことを貴はしなかった。半年も経ったというのに、いや、高校時代に傷付けてしまってから、もう四年も経ったというのに、貴はまた同じ過ちを繰り返してしまった。

「脅えてた?涼子ちゃんが、お前を怖がったってこと?」

「貴をってよりも、男を、だろ」

 その通りだ。恐らく貴個人ではない。涼子は男の恐ろしい部分を、箍が外れた男の勢いを、身をもって知っている。そして脅え、戦き、憎んでさえいるのではないかと貴には思える。それ故に涼子は絶対に貴以外に身体を開こうとはしない。それは結局、貴個人ではなく、男を恐れているということと、貴個人を恐れていることと何ら変わらない。涼子にとって貴がただ一人の男である以上。

「だから、だよ。おれはあいつの男だから、ってんじゃなくて、あいつにとってもっと特別な存在じゃなくちゃいけなかったのに……」

「ちょっと待てよ貴。それじゃお前、そんなこと考えてたら一生涼子ちゃん抱けないんじゃ……」

 忠が言う。最悪そうなっても仕方ないとは思うし、それは自分が我慢すれば良いだけのことだ。よしんばこの先涼子と寝る機会があっても、貴はもう涼子を抱くことはできないかもしれない。貴もまた、涼子に拒絶されるのが怖いのだ。

 あの時、泣き崩れる涼子を必死でなだめた時も、本当は恐ろしくて仕方がなかった。その震える細い肩にすら触れられないような気がした。それすら拒絶されてしまうのではないか、と。

「結局やることだけが愛し合うってことじゃねぇ、とは思うけど、な……」

 諒が神妙な面持ちで呟くように言った。理屈ではそういう考えもあるのだろう。世の中にはセックスレスの夫婦も多いと耳に挟んだこともある。しかしそんな風に冷静に自分達を判断するにはまだ早すぎる。セックスレスはお互いの考えが合致していなければ成立はし難いものだ。それほどに男の性欲に相対する理性というものは脆いことがある。

「そんなもん詭弁だよ。少女漫画のロマンティックな優男じゃないんだから。やりたい盛りのガキみたいに穴開いてりゃいいってのとは話は別だけど、やっぱり体を合わせるのは、俺は大事なことだと思う」

「無責任なこと簡単に言うなよ忠。相手が普通の女なら問題ねぇよ。だけどな、涼子ちゃんは誰にも、同じ女にだって判んねぇほど辛い思いしてんだぞ」

 忠の言葉も諒の言葉も貴には重くのしかかった。身体を合わせたいと思っていたのは事実だ。それはことに及ぶ前の涼子もそう思っていた。

(早く抱いてくれないかな、ってずっとナイショだったけど、そう思ってたんだから)

 はにかみながら涼子はそう言った。しかし、今はどうなのだろう。あれから電話はしているが、仕事の都合もあり、顔を合わせてはいない。

「無責任なのはてめえらだ。貴はそんなこと百も承知なんだぜ。もうちょっと頭使え」

「あ、ちょ、待て待て、何か険悪だぞ」

 酷く棘のある言い方で大輔が二人の間に割って入った。こういう時の大輔の態度は口論をしている者達に対し、正しいことを言っているだけに相手を逆上させかねない。貴は慌ててフォローを入れた。

「あ、いや、ごめん」

「あぁ、オレの方こそ悪ぃ」

 その昔、取り上げている議題はまるで違うことであったが、同じような状況があった。やはり言い合いをしていた忠と諒の間に大輔が今と同じように棘のある言い方で正論を口にした。それは正に火に油を注ぐような状況になり、忠と諒と大輔は一触即発。それを仲裁に入った貴に対して諒が逆上し、それで冷めた忠と大輔を他所に、結局何故か貴と諒の喧嘩になってしまったことがあった。それを思うと随分と大人になったものだな、とも思う。ふと今の状況を忘れて、貴は気持ちが軽くなった。

「お前もだよ大輔。気遣ってくれんのはありがたいけど、相変わらずツッコミきついぜ」

「……反省」

 貴は表情を和らげて大輔にも言った。皆が皆、自分のことを気遣ってくれていることがありがたい。それは半年前にもあったことだが、貴は改めてそう思った。

「大輔の言ってることって合ってるだけにカチンとくんだよな」

 冗談めかして諒が言う。

「そうそう、それで昔喧嘩したじゃん、何でか貴と諒で」

 最初は俺と諒だったはずなのになー、と忠は笑った。

「そうだよ、なんでオレと貴なんだよ」

「おまえがキレてっからだよ」

 かかか、と貴は笑い、温くなり始めたビールを一気に呑み干した。

「大体大輔の言い方に問題あんだよ」

「もっと優しくしろって?」

「そういうこと」

 諒の言葉に大輔は煙草を消しながら笑って言うと、諒はうん、と大きく首を縦に振った。

「諒に話をするときは、だな。……まず小学三年生までの漢字しか使っちゃいけねんだ。ムツカシイことは噛み砕いて、判りやすく話さなくちゃいけねぇんだぜ大輔」

「なるほど、それは知らなかった。ちょっと学んだぜ」

「ちょっと待てコラ」

 冗談めかした貴の言葉に大輔はわざとらしく神妙に頷いて見せた。それに反応して諒が貴に掴みかかった。

「あっ痛っ!折れた!骨折れた!三日はくっつかねぇ!」

「それ俺のネタだろ」

 大輔の骨は良く折れる代わりにくっつくのも早い。

「ネタだったのか」

 忠はそう言うと全員が笑った。一頻り馬鹿な話が続き、笑い合った後に貴は不意に言った。

「おれも早くお前らと下ネタ話せるようになれるといいんだけどな」

「そん時ゃ涼子ちゃんのお味、どうだったか聞かせてもらうからなぁ」

「嫌だってくらいノロケてやるって」

 今度は諒ではなく大輔がそう言い、貴は笑顔になってそれを返した。



 三月九日 水曜


 アルバイトを終えて、本屋で色々な医学の本や精神学の本などを数冊貴は購入し、自室に帰ってきた。こんな本などで涼子の症状が、本質がどういったものなのかが判るとは到底思えないが、気休めにはなると思ったのだ。

 それほどに貴は参っていた。涼子の意思じゃない。何度も何度も考えた。そう思い込んだ。涼子が自分を嫌って避けた訳ではない。理屈は判る。理解もできる。けれどもやもやとした不安は決して拭い去ることはできない。

 涼子は傷ついている。恐らく貴を傷つけてしまったことで。結局涼子を守るどころか脅えさせているだけだと気付いた時には愕然とした。折角買った本を開こうともせず、貴は仰向けに転がった。煙草も酒も呑む気がしない。その時、電話が鳴った。

『あ、私……』

 涼子だと取る前に直感した。公衆電話ではない。家の電話だ。これほどに涼子の声が恋しいくせに、会いたいくせに、不安ばかりが募る。あの時以来、電話でしか話していない。会うことが怖かったのが一番の理由だ。仕事の折り合いがつかないのは言い訳でしかない。短い時間でも以前は会っていたのだから。

「うん」

 冴えない返事を返してしまった。最悪だ。こんな時にこそ平気な顔をしていなければならないのに。もう完全に手遅れではあるが、貴は気を取り直した。

「元気か?」

『うん、大丈夫』

 憔悴した声だ。貴は亮子の声と自分自身に焦りを感じた。

「今度いつ休みだ?」

『……』

 返事はない。涼子が答えるまで、貴は待った。

 胃が痛くなるほどの沈黙だ。受話器を持つ手がじっとりと汗ばんでいる。

『会いたいよ……』

 びくり、と体が揺れた。頭が真っ白になって、その次に出てきたのは抑えようもない怒り。

 あまりにも強烈な怒りだ。

「待ってろ」

 貴はそれだけ言うと受話器を置き、立ち上がる。目に付いた一番近い柱に強烈に頭を打ちつけ、その柱を殴る。

(何やってんだおれはっ!)

 自分のあまりの不甲斐なさにこれほど腹を立てたのはいつ以来だろうか。何が涼子を泣かす全てから守りたいだ。付き合い始めてから半年。涼子の涙の原因はいつだって貴でしかない。

(くそっ!)

 貴はヘルメットとキーを取ると部屋を飛び出た。

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