第四話 与えられたもの。応えられるもの。

 三月三〇日 水曜日


 一方的な電話をかけてしまった。ただ会いたい、と一言しか言えなかった。

(待ってろ)

 一方的に電話を切られた。けれどあれほど頼りがいのあるたかの声を聞いたのは久しぶりだった。涙が出てきてしまったけれど、貴に泣き顔は見せたくなかった。涼子りょうこは涙を拭いて洗面所で顔を洗うと、深呼吸をした。あれから電話でしか貴の声は聞いていない。会いたい、と心の底から何度も思ったけれど、怖かった。貴が、ではない。貴を拒絶してしまう自分がだ。

 会いたいと強く思うたびに、また貴を拒絶してしまうのではないかと心のどこかに潜んでいる魔物が蠢きだす。セックスにまでことが及ばなくても、貴を拒絶してしまうかもしれない危険性は僅かながらでも孕んでいる。一時期は男性の顔を思い浮かべただけでも嘔吐してしまうことがあったのだから。

 それは過去のことだと思いこんでいた。しかし、何一つ済んだこと、過ぎ去ったことではなかった。

 電話はお互いにしていた。涼子がかける時もあれば貴からかかってくる時もある。涼子が会いたいと一度も言わなかった代わりに、貴も会いたいとは言ってはくれなかった。それも当たり前だ、と心のどこかで思っていた。もしかしたらこのまま終わってしまうのではないかと恐怖に戦いた。

 鏡を見る。泣き続けていた訳ではないので目は腫れてはいなかった。ひとまず安心すると涼子は自室で貴を待った。

(勝手な女……)

 どうしていつも何も言えない、何も行動も起こせない自分を貴は好きでいてくれるのだろう。貴に対しての信頼を否定する考えがいつの間にか涼子の中に芽生えていた。心の奥底に潜む魔物がいつの間にか蒔いた種が、芽を出してしまっている。

(泣けばそれで許してくれる関係なんて嫌だな……)

 以前、女の泣くという行為は反則行為だ、と夕香に聞かされたことがあった。男は女の涙に弱い。特に惚れた女の涙には逆らえない。夕香はそう自信満々に言っていた。

(それを武器だと判って使う女は狡猾だけどね。知らずに天然でやっちゃう涼子とか香奈みたいな女は男にとってはぐうの音も出ないわよ)

 夕香はそうも言っていた。涼子は今まで泣いてことが済むなどと思ったことはいと思っていた。基本的に涼子は子供の頃から泣き虫で、いつも姉の晶子にあやされていた気がするが、泣いた所で何も解決しないという事実は数え切れないほど経験して判っていたと思っていたのに。

(いつも泣いて、助けてくれるたかに甘えっぱなしだ、私は)

 半年の間に喧嘩らしい喧嘩はしたことがなかった。多少の口論はあったが、いつもそれは貴が先に折れてしまう。ずるい女になってしまっている。

 嫉妬、姦計、媚びる、嫌い、女々しい、こういった言葉に女という文字がつくのは女の本質を見抜いた上で作られた漢字なのではないかとすらで思ってしまう。涼子にはいつも正直で誠実な貴に対して、自分はなんて厭らしい女なのだろう。

 それでも貴のことが好きで、貴の気持ちを受け止めたい、と貪欲なまでに思っている。今の電話にしてもそうだ。貴はもしかしたら会いたくなかったのかもしれない。だから貴からは一言も会いたいとは言わなかった。貴もまた拒絶されることを恐れているのかもしれない。それほどの傷を涼子は貴につけてしまったのだ。

 いくらそう思ったところで、オートバイが静かに近付いてくる音に気付いた瞬間に、それら全てのことは吹き飛んでしまう。

 涼子は駆け出して玄関の扉を開けた。そこに最愛の人が立っている。

「ごめん、涼子」

 涼子が玄関の戸を閉めるのを待っていたかのように貴は涼子に駆け寄り、苦しくなるほどの力で涼子は抱き寄せられた。

 ――拒絶すらも許さない――

 そんな貴の思いが伝わってくるようで、再び目頭が熱くなる。

「た、かぁ……」

 吐息とともに出た涙声は掻き消えてしまうほどだった。貴の胸に顔をうずめた瞬間に涙が溢れ出た。離れたくない。

 背に回された貴の腕が痛い。痛いけれど気持ちが良かった。好きな人に抱かれるということが、これほどまでに気持ちを落ち着かせるものだったのだということを涼子は思い出す。いつもこの胸に甘えている。貴の腕の力が少しだけ緩んだ。その代わりに涼子が腕に力を入れる。

(離さないで……)

 言葉にしようとも声が出せなかった。貴は右腕を離すと涼子の頭に手を乗せた。優しい手。この手に触れられてめちゃくちゃにされたい。いくら傷つこうとも、貴の女だ、という確たる証が欲しかった。

「よっ!た……か、くん……」

 二階の窓がらりと開いて、能天気な、驚愕した、躊躇った声が最後には遠慮がちに飛び込んできた。

「!」

 涼子は慌てて貴から離れた。

「うわちゃー……ごめん涼子っ」

 そう言い残して晶子は慌てて窓を閉めると、カーテンまで閉めた。次いでここからでも聞き取れてしまうほどの音量でヴィヴァルディの四季が聞こえてくる。何も見ない、何も聞かない、という晶子の思いやりに気付いたのか、貴が少しだけ吹き出すように笑った。

「公園でも行くか」

 それでもばつが悪いのは変わらないのか、貴はそう言って涼子の顔を見る。

「み、見られ、ちゃった……」

「なんだよ今更。いいじゃんこれくらい。なにもキスしてるとこ見られた訳じゃないんだし」

 ま、別にキスでも何でも見られてもいいけどな、と付け加えて貴は笑顔のまま言った。



 同日 北前児童公園


 学生時代、週末の夜には皆で良く集まっていた公園に涼子と貴はきた。

「久しぶり、かな。ここくるの」

 貴はそう言ってベンチに腰をかける。涼子もそれに習い、貴の隣に座った。時間はもう二二時を過ぎている。平日だからなのか自分達が学生だった時代とは違い、公園には誰の姿もなかった。見るからに当時のままの遊具は何度も重ね塗りされたペンキがところどころ剥げていて、涼子達が集まっていた頃の色合いや、そのもっと昔の色、そして涼子達が利用しなくなってから上塗りされた色がとりどりに現れていた。公園の遊具と同じように、自分達もまた、変わり、長い年月を過ごしている証だ。

「そう、だね」

 晶子に抱き合っているところを見られた恥かしさと、先ほどまで考えていたこととが綯交ぜになり、涼子の頭は混乱していた。

「ごめんね」

 それでも涼子はまず貴に謝った。多分怒られる。それは判っていたけれど、涼子の我侭で呼び付けてしまった。

「四〇〇字詰め原稿用紙五枚以内で提出」

「ん?」

 突然訳の判らないことを言う貴に涼子は不思議顔を作った。

「理由だよ。おれが納得できる理由じゃないと突っ返す」

「……だって」

 そういうことか、と思ったが涼子の理由が貴に納得される訳はない。これは少しではあるがやはり怒っているのだろう。多分涼子が謝ってしまったことで自分に責任を感じて、自分に対して腹を立てている。貴はそういう性格だ。

「まず一つ、それを書くに当たって助言してあげましょう」

「……う、うん」

 本当に書くのだろうかと思いつつも涼子は貴の言葉を促すことしかできない。あまりに突飛した怒り方で他に言葉を見つけることができない。しかもその怒りの矛先は涼子ではなく貴に向かっているのだから、涼子としては何も言いようがない。

「ポイントは三つ。まず一つ目。おれは涼子にす……っげぇ会いたかった。でもおれは電話かけたりしてるのに、会いたいって言い出せなかった」

「で、でもそれはっ」

 それは自分も同じことだ、と言おうとして遮られた。

「まぁ聞きなさいや。んでポイント二つ目。おれは正直言って、さっきおまえを抱きしめるまで、少し怖かった」

「うん……」

 これも同じだ。立場は違うけれど。拒絶してしまうのではないかという恐怖。拒絶されるのではないかという恐怖。お互いに想い合っているのに会うことが怖かった。会えば終わってしまうかもしれない、そう考えたことすらあったのだから。

「で、最後のポイント。それは涼子もまるっきり同じ理由である、と。これを踏まえて、答えられることはなんでしょーか?」

「えと……二人で同じこと、怖がってた……?」

 考えるまでもなくそのままの答えを口にする。貴が同じことを考えていただろうことは予想はできたが、その同じ思いで涼子が罪悪感を少しでも持ってしまったことを貴は既に見抜いているのだ。

「ご名答。で、同じこと同じタイミングで考えてて、それでも先に会いたいって言ってくれた涼子のどこが悪い?どこに謝る必要がある訳?どうせ自分のことろくな女じゃねぇだとかくっだらねぇこと考えてたんだろ。当たってるだろ。……そういうの悪ぃけど、おまえに惚れたおれに対してかなり失礼」

「……」

 随分と勝手なことを言ってくれる、と涼子は少しだけ憤慨した。あれだけ思い詰めた自分がばかばかしい。嘘のように心が軽くなる。こんなにも簡単に今まで涼子が鬱蒼した気持ちを持ち続けてきたことを見抜いて覆す貴は大好きだけれど少々憎らしい。だから貴とは離れられない。離れたくない。

「という訳で、謝るのはおれの方。こんなもん本当は男がしっかりしなくちゃいけないのに」

 ごめんな、と貴は頭を下げた。

「そんなことないよ」

 この貴の言葉には涼子は反論した。涼子は極端な男尊女卑という考え方は嫌うが、それでも好きになった人を立てたいという気持ちは持っている。それを差し置いても貴の考え方は時々突飛したものになることがある。

「これがあるんだな。おれは涼子と付き合うきっかけになったあの日さ、涼子を泣かす全てから守るって決めたんだ。そんなもん涼子がどうこうできる問題じゃないぜ、言っとくけど。おれが勝手に決めたことだからさ」

「……ずるいよ」

 男は女を守るもの。男は女をリードするもの。そういう考え方を貴は持っている。涼子も引っ張って行ってくれる貴のことは確かに好きだが、今回のその考え方は少々突飛している。電話するしない、で男尊女卑も何もない。要するにお互いが足踏みをしている時に、先に足を一歩踏み出すのは男の役目のはずなのに、と貴は言っているのだ。そんなものはただ単に貴の我侭でしかない。謝られる筋合いなど涼子にもないのだ。

「ずるくて結構。でさ、そのおれがこうして不甲斐なくもまた涼子を泣かした訳だよね」

「違うよ!それは違うの!」

 半年前、再会した頃の貴の思い込みがまた蘇ってくるようだった。あの時の貴は自分が全て悪いのだと全てを背負い込んで、涼子に踏み込む隙を与えてくれなかった。

「まぁ違くてもいいよ。おれが泣かしたことに変わりはない訳だ。あまつさえ、自分の女にビビッてた。そういう訳で、だね、もう『前向きな水沢君』は暫く勤まりそうもないから休業して、『強引な水沢君』に変身することにしました」

「強引な……?」

 涼子のその考えはどうやら違ったようだった。強引、というのは今までの貴にはなかったことかもしれない、と涼子は付き合い始めてからの半年を瞬時に思い起こした。どこかへ遊びに行くにも、ほんの数時間会うときでも貴は常に涼子の都合を第一に考えてきてくれた。

「あぁ。もう涼子のことなんか知らん」

 そう言い切られて、心臓が跳ね上がるほどどきり、とした。

「おれはおれが会いたくなったらすぐ会いに行く、何度突っぱねられようが抱きたいと思ったら抱く。結果駄目だろうと諦めないことにしたから。何度だって挑戦するから」

 見捨てられた訳ではない、と判ってはいたが、その言葉を聞き終えるまで涼子は不安を拭いきれなかった。そしてその言葉を聞き終えたその瞬間に、涼子は呟く。

「……やっぱりずるいよたか」

 どうして独りでそこまで強くなれるのだろう。何故こうも自分に力を与えてくれる言葉を言ってくれるのだろう。

「だからずるくて結構。おれはおまえの男だし、おまえはおれの女だから。男はいつでも身勝手なんだ」

 本当は判っていた。判っている。でも訊かずにはいられない。

「私がどれだけたかを傷つけたとしても……?」

「傷なんかこの鍛え上げられて数年ほったらかしのちょっとヤワくなった鋼鉄の腹筋が跳ね返す。つけられるもんなら傷つけてみろ」

「……」

 それは貴が涼子を想ってくれている証だ。これほど嬉しい言葉はない。全てを受け止める、と貴は言ってくれているのだ。そして涼子がこの言葉をしっかりと受け止めるには自分もまた強くならなければいけない。冗談めかしてはいるけれど、しっかりと頷いた貴の脇腹を涼子は人差し指で突ついた。貴の弱点の一つだ。

「はぁうっ!……涼子さん言っておきますが、そこは腹筋ではなくワキバラと言います」

「知ってるよ」

 くす、と笑顔になる。笑顔になれたことに涼子は自分でも驚く。

(きっと大丈夫。たかがいてくれたらきっと私も強くなれる……)

「ひゃっ」

 折角真剣にそう思った矢先に貴が涼子の両脇腹をがつ、と掴んだ。涼子も脇腹は弱いのだ。

「ひゃ、ひゃめてっ」

 止めて、と言おうとして失敗した。貴はそれを聞いて大笑いした後にその脇腹を掴んでいた手を背中に回してきた。驚くほど強くて、優しい抱擁。

「たか……」

 貴の腕から少しだけ逃れるように涼子は貴の胸に当てた腕に力を込めると貴はすぐに腕を解いた。そしてうなじに手をするり、と入れてきた。

「っ」

 体に緊張が走り、一気に体温が上がってくる。違う。それは拒絶ではない。そう自分に言い聞かせる。そしてそれが無意味なことに気付く。涼子は自然に貴に体を預けていることに自分で驚いた。もう一方の腕が軽く頬に触れる。涼子は瞳を伏せた。

 暖かい、少しだけささくれ立った唇が涼子の唇に触れる。

 最初は優しく、徐々に強くそれは涼子の唇を求めてきた。今の涼子にできることはそれに応えることだけだった。髪を撫でる手が不意に止まって、その手は背中に回される。

「んっ」

 再び体に緊張が走るが、今の涼子にはそれが心地良く感じられた。もう大丈夫かもしれない。そんな思いを涼子は必死に打ち消した。それでも、貴が覚悟を決めてくれていても、まだ安易に判断してはいけない。まだ弱いままの自分では貴に応えることはきっとできない。どれほど自分を求めてきてくれても、どれほど自分が貴を求めていても。もしもまた貴を拒絶してしまったら貴を傷つけることで自分も深く傷つく。

 貴の言葉を信じない訳ではない。けれど実際に傷を付けて、付けようとして、傷が付くのは貴も涼子もきっと同じだ。

 そして自分についた傷はもっと傷口を深く、大きくして再び貴を傷つけてしまう。一番大切な人の痛みだからこそ耐えられない。だからこそ、息が続かなくなるまで涼子は貴の唇に自分の唇を重ね、今の自分にできることで精一杯応えようと思った。

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