第五話 決意と、事実と
三月九日 水曜日
四年前に涼子の唇を無理やり奪ってしまったことを思い出す。それが最後の歯止めとなっていた。あれは最悪の愚行だった。今まであれほど悔いたこともない。だから、恐怖を押しのけて、貴の抱擁を受け入れてくれた涼子を蹂躙する訳には絶対にいかない。
「んっ」
涼子の背に手を回した瞬間、ぴくっ、と体が揺れた。震えじゃない。脅えじゃない。涼子は懸命に貴に応えてくれようとしている。長い長いキスの後、貴はもう一度だけ涼子を抱きしめて、開放した。
「あぁ、やっぱ駄目だ」
「……え?」
体を震わせて涼子が声を出す。本気で脅えている声だ。
「あ、違う違う!そうじゃない!」
慌てて涼子を抱きしめてやる。失敗した。言い方を間違えたのだ。
「おれ、涼子じゃないと駄目、ってこと」
耳元で静かにそう言う。言った瞬間に、下半身に集まっていた下品な血液が顔に集中してくるようだった。
(なんでこう、クソ似合わないキザったらしいこと言うかな、おれは……)
かぁ、っと熱くなった顔を見せないようにそのまま、今度は普通の声で告げた。
「不安にはさせない。おれは絶対にそんなこと、しねぇから」
「うん……」
駄目だ。果てしなくだめ。宇宙一のダメ男。マルデダメオだ。
「うぐあーっ」
「な、なに?」
涼子の耳元で貴は訳の判らない叫び声を上げる。びっくりしたらしい涼子が本当に焦った声を出した。
「だめだぁ!なんつーえーかっこしーかおれは!ハズカシー!馬鹿か!バカ?ばかなの?」
駄目だ。本当に頭の中が滅茶苦茶だ。顔に集まったと思った下品な血液どもは今もってまだ下半身の一部に集中しっぱなしだ。涼子はこういうことを解っているのだろうか。
涼子が付き合った男は貴が初めてだ。それまでの涼子の恋愛というものを構築していたのは、姉である
姉や友人に聞いた話ならばリアリティもある。しかし後者は危険だ。漫画にせよ小説にせよ奇麗事しか描いていないことが多い。こんな男の事情など書いている恋愛小説は、あるにはあるが、それでもそれを涼子が読んでいるかどうかは判らない。そして大多数の女が、貴の今もって続いているこの現象を下品な助平の象徴としてしか見ない。男と付き合って、既にそういうことを知っている女にとっては別にどうということはないのだろうが、涼子は知らない。知らないはずだ。しかも涼子にとっては特別に辛いことでもあるし、恐らくは最も恐怖の元凶に近い現象なのかもしれないのだ。それに姉や友達に聞いた話でも、どこまで知っているか疑問だ。
相手を愛しいと思えば思うほど、近ければ近いほど、こういう状態に陥ってしまう。そしてそこから先は暴走を最大限に、文字通り力を出して、理性で抑えつけなければならないのだ。
(ほらみろ……。やっぱおれが足りねぇんじゃねぇか……)
涼子をいたずらに不安に陥れないよう、お茶らけて言いはしたが、それでもどうしようもない現実が貴の胸中に突き刺さる。
「ふふ、たか、おかしいよ」
涼子は笑ってそう言った。その笑顔を見て改めて涼子は自分好みの顔をしている、と思う。勿論好きになった最大の理由が顔と言う訳ではないが、好きになった理由の一つでもある。もう一度キスなどしようものなら、全てが吹き飛んでしまいそうだった。
「あー、もう駄目だ。おれは駄目だ」
涼子から離れてふらふらと歩き出す。これ以上涼子に中てられていては危険すぎる。
「た、たか?」
「動くな、そこなオナゴ、今拙僧は荒ぶる魂をソクラテスに変えて……。ソクラテスって何した人?」
貴はしばしの無言の後、頭を捻って涼子に訊いた。自分で言っておいて無責任ではあるが、貴には「偉い人っぽい」ということくらいしか判らない。
「ギリシャの哲学者。観念論的哲学」
「なんだそりゃ!だめだ、そんなの判らない。荒ぶる魂をシェークスピアに変えてぇー……?」
貴は観念して次なる偉そうな人の名を挙げる。それもすぐに疑問に変わる。
「イギリスの詩人。劇作家でもある人」
何も言わなかったというのに涼子が答える。
「ロミオとジュリエット?」
「そ」
劇、と聞いて思い出した。確か合っているはずだとは思いながらもつい訊いてしまった。可笑しくてたまらないと言わんばかりの涼子の笑顔に、短く答える。
(くそー、かわいいなぁ……)
本当ならばいくらでも見ていたい涼子の笑顔をできるだけ見ないようにして貴は更におちゃらける。
「おぉ涼子、どうして貴女は涼子なの?」
「それはジュリエットがロミオに言う言葉だよ。逆、逆」
笑いながら涼子は言う。逆だとは気付かなかったが、涼子を笑わせるためと、下半身の荒ぶる魂を鎮めるためにやったことだ。夜で、ジーンズを履いていたことは幸運だった。あまり目立たない。それは見事に功を奏した。涼子は笑ってくれたし、荒ぶる魂は無事に鎮まりつつある。
つくづく男というものは馬鹿で御しがたい生物だ。好きだから、愛しくてたまらないからそうなってしまうけれど、そうなってしまったらどうしても欲しくなる。原因と最後の目的は絶対に違う、といっても中々納得してもらえるものでもないのだろう。さきほどは抱きたいときに抱く、などと言ってしまったが、それでも涼子の気持ちを無視することは絶対にできない。まだ笑いを引いている涼子を貴は促すように貴は帰ろう、と手を差し出した。
三月十日 木曜日
「貴」
「おっ?」
整備工場のアルバイトを終えて、帰路に着く途中、声をかけられた。自分よりも少々下の目線で探してしまうのは、涼子の身長が自分よりも十センチ以上低いからだ。そういうことにまで涼子の影響が出ている辺り、相当涼子に中てられているとも思うが、逆にそのことは今は誇らしい気もした。
涼子とほぼ同じ視線の位置には香奈がいた。涼子より幾分背は高いはずなのだが、何故涼子よりも小さく見えるのだろうか。
駅近くの整備工場で働いている貴は、こうして時々電車通勤をしている友人達と遭遇する。時間にして一九時半。帰宅する人も多い時間帯だ。会社勤めの人々が疲れた肩を下げて、安息の我が家へと帰って行く。
「おや、香奈ちゃんじゃないですか、今帰りか?」
ぽんぽん、と貴の手がコート姿の香奈の小さな頭の上で二度跳ねた。
「やん、なんでそうやって子供扱いするの」
その手を払いながら香奈は仔犬のようにコロコロと笑った。本当に妹のような存在で、忠には失礼だとは思うのだが、何故か女として、異性として意識することができない。顔は可愛いし、スタイルも涼子よりは良いし、内気だけど優しいし、女としては申し分ないのに、何故かそういう目では見られない。
香奈が砕けた話方をするのも、貴が高校生の時からの友人で、慣れ親しんだ仲だからだ。貴の方もそういった信頼関係からか、そういう目では見られないからなのか、ついついスキンシップをしたくなる。
「ちっちゃいからですとも」
「差別だー。それに涼子より私のが背ぇ高いもん」
反対の手でまた香奈の頭の上に手を乗せると、香奈はそれも跳ね除ける。
「涼子はいいのだ。いいか、香奈よ、悔しかったらたくさん食べて大きくなるのじゃ。しかし夕香よりは大きくなるな。夕香を追い越すということはおれを追い越すのと同義だ」
テレビゲームに出てくる王様のように腕を組んで(あの小さなドット絵では腕を組んでいるかどうかは聊か謎だが)偉そうに言ってやる。つまるところ、偉そうにしていても貴と夕香の身長はほぼ同じであり、貴もまた男友達の中では背が一番低い。
「もう延びる年じゃないもん」
「なぁに、中学生はこれからだぞぅ」
うひひ、と笑って更にからかう。香奈の人徳というのか、何と言うのか、高校時代からこうして男友達にも女友達にも可愛がられてきた。年をとって老人になっても可愛いおばあちゃんになること請け合いだ。生涯可愛がられる星の下に生まれたんだろうな、とも思う。
「もうっ!」
「いてっ冗談ですよ、冗談。そういえば香奈メシは?帰って食うか?」
香奈は手に持ったカバンで貴の太もも辺りを叩いてきた。そんな星の下に生まれたのではないかと思わせる香奈でも辛いことはある。こうして明るく笑っている香奈が本当に忠の浮気に気付いているのならば随分と気丈になったものだな、と思う。
「誘う気なの?」
「うん、そのあと酔わせて連れ込んじゃう」
これまでも食事くらいならば夕香とも二人でしたことはあったし、もちろん香奈とだって何度もある。その程度のことで涼子が嫉妬する訳もないし、涼子も忠や大輔と機会があれば食事をしているのだ。香奈も勿論それを判って言っている。
「涼子に言いつけちゃうんだー」
「どうぞご自由に。涼子さんは香奈ちゃんのことちゃんと信じていらっしゃるから」
自惚れかも知れないが、涼子にはそれくらいの信頼はされていると思うし、涼子と香奈の関係を思えば、妙に勘繰ることもない。
「え、貴は信用されてないの?」
「男なんていつもそんなものですよ……」
「ひょっとして、ノロケ?」
逆の意味で取ったのだろうか。冗談めかして言った貴に、香奈はそう言って開いた手を口元に持って行く。
「どこをどう聞き間違えるとノロケになる」
「あぁ、誘われちゃった。奢り?」
「馬鹿者、会社勤めしてる人間がプーにたかるんじゃない」
しかし香奈の足を止めてしまったことには変わりはないし、そんなに余裕がない訳ではない。次に忠にでも奢らせれば良いだけの話だ。その為には香奈と忠を別れさせる訳には行かない。一肌脱がなければならないかもしれないとも思うし、自分と涼子が付き合うようになったのは忠のお陰でもあるのだ。借りを返す良い機会でもあるのかもしれない。
「えー、いいでしょお兄ちゃん」
「誰がお兄ちゃんだ」
甘えるように香奈は言ってくる。本当に可愛らしい妹分だな、と貴は苦笑した。実際香奈に兄として扱われるのは悪い気はしないが、奢る時だけ、と言うのも随分と悲しいものである。
「私はかなみさんの妹でもあるから、貴はお兄ちゃんなのよ。それに晶子のことだってお姉ちゃんって呼んでるし」
「どこの理屈ですかそりゃあ」
「
貴の姉、かなみが経営する喫茶店の名前を出して香奈はまた仔犬のような笑顔になった。
「……ハンバーガーでいい?」
財布の中身を見て、思ったよりも現金が入ってなかったことに驚いた貴は、一瞬たじろいで香奈に言う。
「嘘よ、割り勘でいいから行こ。あ、ちょっと待ってね」
香奈は笑って貴の尻にかばんをぶつけると公衆電話へと小走りに駆けて行った。
「ねぇ貴」
食後のコーヒーを飲んで、涼子が淹れてくれたコーヒーの方がおいしい、とぼやいてから香奈は貴の名を呼んだ。
「あ?」
「その、あ?っていうの怖いよ貴。私、諒の口調、未だにちょっと怖いと思うときあるもん」
「ま、あいつの口の悪さは筋金入りですからね。で、なに?」
貴は苦笑してそう言った。中学生の頃は所謂、ちょっとしたやんちゃ坊主だったのだ。よく涼子や香奈のようなおとなしい女の子達が一緒にいてくれたものだ。
「涼子の次に好きな人、っている?」
上目遣いに香奈は訊いてきた。涼子と香奈の性格が近いことを香奈は知っているし、忠と貴もまた似ている部分があることを香奈は知っているのだろう。だからこそ香奈は最初から自分に忠のことを訊きにきたのだ。ということは忠はまだ香奈には謝っていないということになる。かすみという女とまだ切れていないのか、香奈に謝るためのタイミングが見つからないのか、どちらかは判らないがあまり先延ばしにしてもいけない。
「香奈ちゃん」
「もぉ、本気で聞いてるのに」
「え、おれも本気だけど」
「え、やだ……」
貴のまじめな表情に香奈は赤面した。なかなか良い反応だ、と貴は独り満足したが、あまり我らが妹をからかっても可哀想ではある。
「本気の冗談」
「……」
言った貴を上目遣いで睨んでいる。そんな表情もなかなか可愛い。
「ま、例え話でいいんだろ?で、じゃあおれの二番目に好きな子が香奈だったとして、香奈がおれに告白してきたらどうするかってこと?」
「え、何で……」
気を取り直して口を開いた貴に香奈は驚愕の眼差しを返してきた。
「ま、そういうこと」
「うん……」
忠から話を聞いている、という意思を貴は告げたが、それは暗に忠の浮気が事実である、と香奈に知らしめることでもあった。香奈は俯いて小さく頷いた。
(これは……しくったな)
貴は言ってしまってから後悔した。独断でして良いことではなかった。
「あのな、これは忠がダチだから弁護するってんじゃないんだけど、男ってさ、ホンットにアホな生き物でさ、特に女のこととなると自制が効かなくなる時もあるんだよ。忠の馬鹿が何考えて別の女と付き合ったかなんて正直知ったこっちゃないけど、特にあの馬鹿は不器用な野郎だから、そんなのうまく隠し通せる訳もないし、自分の気持ちが持つ訳もないんだ」
「……う、うん」
貴は一気にまくし立てる。ここまできてしまったら絶対に香奈と忠を判れさせる訳には行かない。これは貴自身がしでかしてしまった失敗に対し、果たさなければならない責任だ。
「いいか香奈、良く聞けよ、あいつは正直参ってる。香奈に隠すこと、これ以上好きでもない女と付き合いを続けること、香奈に謝ること、その責任で香奈と別れようとも考えてることで、あいつは今ぐっちゃぐちゃだ」
貴は先日部屋で話し合ったことを要約して香奈に伝えた。もう当事者である香奈の目の前では誤魔化しは効かない。忠は遅かれ早かれ必ず行動に出る。それならば、今忠がどう思っているのかを香奈に正確に伝える必要があった。香奈の中にそれが事実として浸透すれば、忠が謝ったときに初めて全てを知るよりもショックは少なくて済むかもしれない、と貴は考えを巡らせた。
「別れ、る?」
「あぁ。香奈はずっと忠一人が好きだっただろ?だけどあいつは、香奈の信頼を失うことをしたんだ。そんな香奈とはもう付き合う資格もなければ合わせる顔もない。つまりはそういうこと」
本当はその忠の気持ちを理解はしていたのだ。あの時でも。もしも自分が同じ立場にあったならば、やはり忠と同じことを考えたかもしれない。しかしそれは男側の勝手な言い分であり、女は何も悪くない。一方的に傷つけられて、一方的に別れを宣告された女の立場をまるで考えていない、浅墓な覚悟だと貴は思う。だからこそ貴は忠に食い下がって見せた。
「別れたいか?忠と」
「……」
沈黙が流れる。沈黙が流れるのと同時に香奈の瞳からも涙が流れ出す。
「……やだよ」
「でも、もう信じられないだろ?」
一度失った信頼を取り戻すのは難しい。男同士、女同士ならばまだしも、男と女の関係ともなればそれは尚更なのではないか、と思う。
「でも……」
「香奈が一番好きだって自分でも判ってるくせに、それでも他に女作るような奴に無理に付き合う必要なんかないぞ。何もあいつだけが男じゃない」
本意ではない言葉が口を突いて出る。しかしそれは逆説でもある。無理に付き合う必要などはない。忠だけが男ではない。そう言いながら、貴は香奈の反論を待った。香奈は涙を拭って洟をすすった。それでも涙は止まらない。今香奈の中では忠と共にした時間が思い出されているのだろう。
「でも……」
「でも好き、か?」
言葉にならない香奈の気持ちをゆっくりと促すように貴は言った。
「……うん」
香奈は小さく頷いてまた洟をすすった。貴は少し笑ってテーブルの左脇にあったお手拭タオルを香奈の鼻に押し当てた。当たり前の気持ちが当たり前の言葉として出てきたことに、貴は安堵の溜息を漏らした。そう簡単に別れられるのならば、お互いにこんなにも苦しんだりはしない。
「じゃ、香奈はあいつをまた、ちゃんと信じられるようになるまで見てないとだめだぞ。ま、不器用な男だからな、よぉく見てればすぐ判るぜ、今回みたいにな」
「うん……」
ずびーと洟をかんで香奈は頷いた。こんなに可愛い妹分を泣かせた忠が目の前にいない分腹が立ってはきたが、恐らく忠は自分に怒りをぶつけてくるだろうな、と貴は自嘲した。出すぎた真似をしてしまった。忠の事実はやはり忠の口から香奈に伝えなければならなかった。
(近いうちに忠とは会わなきゃか……)
香奈が落ち着いてきたのか、泣き止んで少しだけ笑顔になった。貴は周囲を見回して、香奈の方へ顔を寄せると、小さな声で言う。
「周りの人がね」
「え?」
香奈は貴に言われて周りを見回す。誰も彼もが興味の眼差しをこちらに向けていることに香奈もすぐに気付いたようだった。
「痴話喧嘩で、おれが香奈ちゃんを泣かしているような目つきでちらちらと見ているのです……」
「あ、ご、ごめんね……」
そう言ってはにかんだ香奈の表情は泣き腫らした目と赤くなった鼻にもかかわらず、可愛い妹の顔だった。
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