第六話 相反
三月十日 木曜日
仕事を終えて家に戻ってきた
『セックスレス・カウンセリング』そんなタイトルの本だ。セックスレスのことについて様々な事例や、原因の解析などが挙げられている。ここ数日この本を読んではいたが、涼子と同じ事例など勿論載っている訳もなく、結局解決どころか手掛かりにもならない。自分で何とかするしかないのだが、どうにもならないのが現実だ。夜を共にすることがあればきっとまた
どうにも、どうすることもできない。
不意に電話が鳴った。
「はい、
『あ、涼子、私』
「
電話の相手は香奈だった。ぶつ、っと公衆電話独特の音がした。外からだ。
『うんとね、ちょっと
「貴?」
『
「うん、ぜんぜん構わないよ」
『うん。ごめんね』
「いいよ別に。私だって忠君と時々ご飯食べたりするもん」
それが良いことなのか悪いことなのかは判らないが、高校時代からの仲間とは男女分け隔てなく付き合っていることが多い。
『ふふ、じゃあお借りしまーす』
「レンタル料は
『うん、かしこまりーっ』
香奈は高校時代に仲間内だけで流行った口調で明るく言った。忠との問題が二股をかけている云々のことなので、きちんと涼子に連絡を入れたかったのだろう。
「変なこと言ったらちゃんと突っ込まないとだめだよ、香奈」
『うん、判った。それじゃまた連絡するね』
「かしこまりー。ばいばい」
電話の子機を置いて涼子は溜息を付いた。本を閉じ、考えを巡らせる。何故心から想いを寄せているのに拒絶してしまうのか。先日の貴の抱擁を思い出せば身体が熱くなるというのに、どうして貴を受け入れようとはしないのだろう。幾度となく自問してみたが、答えは既に判り切っている。要するに男という性に恐怖を感じてしまうからだ。
欲望の虜となって全身を嫌悪の塊で貫かれるあの苦痛は恐怖以外の何物でもない。
初めて貴とベッドを共にしたときも、貴が怖かった。自分の身体に優しく触れていてくれた時は、それがほんの僅かな時間であっても、心地良かったのに。中心に触れられた時、溜まらなく怖くなった。触れているのは貴の指だと判っていたはずなのに、大丈夫だと思い込もうとするほどに体が強張っていった。
貴の荒い息遣いがあの暗闇の瞬間を思い出させた。何も考えられなくなって、涼子は叫び声をあげた。その叫びは声にならない、無言の叫びとなって貴の胸を押し返した。
あの時の貴の表情を見て瞬時に正気に戻った涼子は、視線を手元に落とした。自分でも判らないうちに異様なほど手が、全身が震えていることに気が付いた。
拒絶した。
一番大切な人を。あれほどに力を与えてくれた人を。
自分をここまで愛してくれた人を。
何という酷い仕打ちで傷付けてしまったのだろう。あの時の貴の顔はきっと一生忘れることができない。それでも貴はその後にすぐに毛布を涼子の体にかけて、肩を抱いてくれた。その優しさに気が狂いそうになるほど泣いた。貴は自分に非があったことを必死に涼子に伝えて、何度も謝った。またしても泣くことしかできなかった涼子は何も貴に言葉を返せなかったのだ。
酷い。
あまりにも醜悪な自分に嫌悪感が頸を擡げる。貴の声が聞きたくなったが、今は香奈の相談に乗っている最中だ。どうにもならない。あの日、貴が触れてくれたうなじに貴の指の感覚を思い出す。抱いてくれた貴の腕、頭を預けた胸。身体が熱くなる。朦朧とした意識の中で不意に涼子は自分の中心に触れた。そこは既に酷い有様になっていた。
――はやく。
こみ上げてくる快感に嫌悪しつつ、涼子は考えるのを止めた。
三月十五日 火曜日
貴のアパートの前で涼子は貴が出てくるのを待っていた。今日はお互いの休日が合ったため、一日ゆっくりと過ごすことにしていた。電車で池袋にまで繰り出して、水族館に行って、食事をして、という計画以外は特に何もない休日だが、それでも普通にデートをするのは久しぶりだった。
貴の部屋まで行かなかったのは、少し顔を合わせ辛かったからだ。あの日から充分な睡眠をやはり涼子は取れていないでいた。少し厚めに化粧をしても良かったが、それでも貴にはすぐに感付かれてしまうだろう。そして眠れていないことを隠そうとするその行為に、貴は怒るかもしれない。元々涼子はしっかりと化粧をする方ではないし、貴もあまり化粧が好きではないため、出かけるときはいつも最低限の化粧しかしない。目の下にうっすらと浮いた隈が涼子の体調を物語ってしまうが、どんなにみっともない顔になっていても、それを隠すよりはそのままにした方が良い。そう涼子は判断して家を出た。
「お待たせお待たせ。……なんだ、寝不足か?」
「うん、なんだか久しぶりのデートだからかなぁ。楽しみすぎてちょっと緊張しちゃって……」
見破られる。そう思いながらも涼子は言葉を紡いだ。だけれど嘘ではない。これ以上貴に自分を責めて欲しくはない。昔からの貴の短所であり、長所でもあるところだ。まず誰でもなく自分を責めるのは。
「なぁんだ。おれはてっきりゲームのやりすぎかと思っちゃったぞ」
「そんな訳ないでしょ、たかじゃないんだから」
自然に笑顔が漏れて、涼子はそこで初めて安心した。それが貴の優しさからくる気遣いだと判っていても。
「あ、ひっでぇな、おれだって昨日は遅くまではやってないぞ」
「ホントにー?」
「水沢さん、うそつかない」
貴はネイティブアメリカンのパロディをして笑った。いまは貴の優しさに応えるべきだ。
「じゃあ今日は信じてあげましょう」
涼子は笑って、貴が差し出した腕にじゃれ付くようにして歩き出した。
数時間水族館を楽しんだ後に、二人はファミリーレストランで昼食をとった。
「あぁ、もう少し蛸を見ていたかったなぁ……」
「たか変わってるよね……。なんで蛸なの?」
ぷ、と吹き出しながら涼子は言う。貴は「ごめん、どうしても見ていたい」と言って十分もの間、水槽の中を蠢く蛸の前で足を止めていたのだ。その間涼子は仕方なく一人で水族館内を見て回った。
「だってさー、すんげー面白くない?あの動きったらもう、カンドーモノですよ」
「そうかなぁ……。私は鮫とかのが凄いなーって思うけど」
「鮫は、凄いっていうか怖い」
「それも子供の時に見た映画のせい?」
以前聞いた話を思い出す。子供時代の可愛らしいエピソードを聞いて、心が和んだのを良く覚えている。
「そそ。あんなのにがぶってやられてみ、いくら無敵の水沢君でもお手上げですよ」
くくく、と忍び笑いを漏らす。子供の頃に見た映画のエイリアンのせいで、恐怖映画だとかパニック映画が怖くて見られなくなった、と涼子は貴に聞いたことがあった。鮫もジョーズの影響だろうか。
「でもジョーズは確かに怖いよね」
「怖い怖い。あれが作り物だっつったってあんくらいでかいのなんか絶対いるだろ。マジコエェ、チョーコエェ。映画の中じゃなくたってあいつら人間食うんだぜ。何て恐ろしい生き物なんだ……!」
大げさに貴は言うが、半分は冗談だろう。
「中学、高校の頃は散々他の学校の人にも怖がられてたのにねー」
「お、お辞めなさいや、そういう話は……」
子供の頃に見た映画のせいで鮫が怖いことがばれる方がよほど恥ずかしいことではないだろうかと涼子は思ったが怖いものを見ているときの貴は可愛いところがあって、涼子はそういう貴も好きだった。以前テレビで十三日の金曜日が放映された時に、一緒に見ていたのだが、貴がしきりにチャンネルを変えようとするのがおかしくてたまらなかった。涼子もそういった映画はあまり好きではないが、貴の反応を楽しむためにがんとしてチャンネルを譲らなかった。一度映画館にもちゃんと行って見ようか、と意地悪な案まで浮かんだほどだった。
「そういえばこの間、香奈と何話したの?」
ひとしきり笑った後、涼子はふと気になっていたことを貴に訊ねた。あの翌日、貴は香奈との話が終わった後に涼子に電話をかけてきた。自分勝手な妄想に貴を登場させてしまった直後だったせいか、酷い羞恥心が込み上げてくる。
「あぁ、あれなぁ……。ちょっとやばいことやらかしたわ」
「え?」
食後のコーヒーを飲みながら貴は自嘲気味に笑った。
「おれさ、香奈に言っちゃったんだよ、忠のこと。忠からも相談受けててさ。ま、そん時は男皆で集まって話したんだけどさ」
「え、じゃあ忠君本当に?」
「うん、まぁ……」
貴も涼子と同じで、ショックだったのだろう。川北忠とはそう簡単に浮気などできるような人間ではない、というのは女の側でも男の側でも同じ認識だ。
「そっちはそっちで、確証は掴んでなかったみたいだけどさ、香奈はもう気付いてたみたいだったからおれ、香奈に言っちゃったんだよ。別れさせたくなかったし、忠に謝らせたかったし」
ということはやはり香奈には何の非もなく、忠だけが気の迷いを起こした、ということなのだろう。言葉にしてしまえばそれほど大事ではないような気がしてしまうが、恐らくそのわずかな気の迷いであっても、できてしまった溝は、深い。
「とはいえ忠にはぶん殴られても文句は言えないなぁ……。あんなもん、本人同士の話なのに……」
自嘲的に貴は言って煙草に火を点けようとしてその手を止めた。
「でも、香奈もたかからそういう話、聞けた方が良かったんじゃないかな……。たかに前話しておいてもらってた方が忠君に直接言われても、ちょっとはダメージ少ないって言うか……」
フォローを入れるつもりで涼子は言ったが、それでも貴の自嘲の意味を解ってしまう。
「かもしんないし、まぁそれが香奈のフォローになるんなら良かったんだけどさ、おれはおれで忠の信頼を裏切るようなことしちゃったからさ」
「で、なんて言ったの?」
「香奈は忠一筋だろ。絶対別れるなんて言わないと思ってたから逆に、じゃあ別れるか?って煽ったんだけど、やっぱり別れたくないってさ」
香奈本人から聞いていたとはいえ、香奈の答えが涼子の想像する通りで良かった、と涼子は頷いた。
「うん」
「だから、忠が誠心誠意、ちゃんと謝ればきっとあの二人は大丈夫だよ」
簡単には壊れたりはしない。そんなに軟な付き合い方をしてきた訳ではないのだ。自分達も、自分達の周りにいる誰も。涼子はそう信じたかった。そう信じて、自分達も絶対に大丈夫だ、と思いたかった。
「そっか。じゃ問題はたかと忠君の方なのね」
「だなぁ。でもそれこそ、そこはちゃんと謝ろうって思う」
貴なりに後悔をして、その後悔を繰り返さないようにするために、しっかりと礎にする。水沢貴之とは、そういう男だ。だから、間違えた程度で、一度駄目だった程度で、見捨てられたりはしない。
「喧嘩、しないようにね」
「ま、そこは勿論ね」
ファミリーレストランを出た二人は映画を見て、ゲームセンターに寄って、貴の部屋に戻ってきた。
「つっかれたなー」
「いっぱい歩いたねー」
涼子がインスタントコーヒーを淹れながらそう言った。貴の部屋の冷蔵庫には食材があったので、涼子が久しぶりに料理の腕を振るい、夕食を摂った。
「ほんとは昨日買い物行ってきたんだけど」
「ふふ、知ってる。日付見ればすぐ判るもの」
貴が涼子の手料理を楽しみにしていてくれたことが嬉しかった。身体を開けなかった以上、涼子にできることは今まで以上にしてあげたいと涼子は思う。作った涼子に対し、後片付けはおれの仕事だ、と洗い物はさせてはもらえなかったので、洗い物が終わるタイミングを見計らってインスタントコーヒーを淹れた。二人掛けの小さなソファーにどんと腰を下ろして貴はリモコンでステレオのスイッチを入れた。
「あ、たか、私
「あいよー」
貴の隣に座って涼子は言った。高校生の頃から貴の好きな音楽を涼子は聴いてきた。貴が薦めてくれたものもあったし、涼子が自分で聴くようになったものもあるが、洋楽の好みは貴と涼子は近いものがある。
「ふーんふふふーん♪」
貴は歌に合わせて鼻から煙草の煙を吹き出しながら、メロディをハミングしはじめた。器用な人だな、と涼子は苦笑する。
「うーん、いいねぇ。Bon Jovi、いつ聞いてもいいなぁ」
「すっごい素敵な声だよねー」
「そうだねぇ……」
コーヒーを飲みながら貴もBon Joviのサウンドに浸っているようだった。涼子もコーヒーを口に含んでゆっくりと喉に通すと目を閉じる。
一曲が終わらないうちに、貴は軽くいびきをかき始めてしまった。疲れていたのかもしれない。涼子と一緒にいることで安心感があって、ということならば喜びもするが、恐らくは気の張りすぎで疲れたのだろうと判ってしまう。涼子も実際にそうなのだ。付き合い始めたばかりの頃のような、心地良い緊張感ではないことは明白だ。貴が眠ったのを確認すると、なんだか肩の力が抜けたような気分になる。
「そんなに気、遣わせちゃったのかな……」
涼子は一人呟いて、貴の寝顔を覗き込んだ。年よりも若く見えるのは自分もそうだが、貴も変わらない。男友達とはしゃいでいる時や、寝顔になると無邪気な男の子のような顔を見せる。お互いに気が張っている原因は、やはり涼子にある。自分にしか原因がないことを涼子は改めて自覚する。
「ごめんね」
涼子は貴の唇に指で触れるとそう言って目を閉じた。そして一息つくと、押入れから毛布を一枚取り出してそれを貴にかけた。
「あれ?寝ちゃってた?」
その途端に貴が目を覚ました。少し驚いたような顔を見せて涼子の顔と時計を交互に見ている。
「あ、ごめんね、起こしちゃった」
「あー、いいよいいよ。どんくらい寝てた?」
頭を起こして貴は煙草を吸い始めた。すっかり冷めてしまったコーヒーを口に運ぶ。
「五分も寝てないよ」
「そっか、良かった」
「良かった?」
ゆっくりと煙を吐き出しながら言う貴に涼子は聞き返した。張り詰めていた何かが切れて眠ってしまったのではないのだろうか。少なくとも涼子はそうだった。貴が寝た瞬間に安堵したのは誤魔化しようのない事実だ。貴のことが好きだという気持ちに偽りはない。ただ、それでも一緒にいれば息が詰まる思いをしてしまうのもまた、不本意ながら事実だった。
「久しぶりにゆっくりできてるからもったいないじゃん」
「……無理してない?」
自分のことを棚に上げている。そんな考え方をしてしまう自分に心底嫌気が差す。これでは駄目だと判っているのに、自分のせいにすればそれで済む、それで楽になるという考えに取り付かれてしまっている。それでも嫌悪したいその涼子自身は自己主張を続けてしまう。
「なんで?」
「疲れてるかなって思ったから」
「まぁちょっと疲れてるけどそんなの涼子だって一緒だろ」
笑顔になって貴は言う。疲れている貴を寝かせてあげたい、ということを言外に語ってしまっている。最低だ。本気で貴を寝かせてあげたかった気持ちはある。けれど、自己主張を続けている涼子の本心はまたその気持ちとは別のことを考えている。
「それは、そうだけど」
「気、張りすぎ、かな」
「!」
ばれている。貴のコーヒーカップにもう一杯コーヒーを入れようと、カップを掴んだその手が止まってしまった。
「やっぱりなー。でもま、仕方ないよな。責任はおれにだってあるんだし。でも一緒にいる時間が長かったら、そういうのも自然になくなるかなーって思ったんだけど、いきなりはやっぱ無理か」
ここまで見抜かれてしまっているのだ。今更取り繕うこともできない。涼子は正直に心情を吐露することにした。これ以上貴に後ろめたい気持ちを持ちたくない。自分だって貴のことが好きなのだから。
「たか……」
「ん?」
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