第七話 報われない心
三月十五日 火曜日
「たか……」
「ん?」
自分の名を呼ぶ
「あの、変に勘違いしないで聞いて欲しいんだけど……」
「うん。その前にコーヒーちょうだい」
「あ、う、うん」
涼子は貴のカップにコーヒーを入れてカップを手渡した。
「さんきゅ。んで?」
「うん……」
貴の隣に座り直して、涼子は俯いた。こういうときは黙って待つに限る。涼子には責めるような言葉は厳禁だ。特に今の精神状態では。少しの沈黙が流れた後、涼子は口を開いた。
「ちょっと、たかといるときついことが、あるの……」
「うん」
涼子の顔を見れば一目瞭然だ。今日涼子と待ち合わせ場所で顔を合わせた瞬間にそう思った。恐らくはまともに眠れていないのだろう。それは貴自身も同じだが、涼子ほどではない。
「変な意味じゃなくて」
好きじゃなくなったから、だとかそういうことではないのは解る。もしもそうならばもっと秀逸な、しかし秀逸なだけに即座に気付いてしまうような繕いかたをするはずだ。だから貴には判る。今の涼子の言葉は本心からの言葉だ。
「解ってる。変に勘違いしないように、最後まで聞くよ、ちゃんとさ」
「うん……」
穏やかに言って貴はコーヒーカップを置いた。
「……きついっていうのは、たかが好きじゃなくかったから、とかそういうことじゃないの」
少し間を置いて、涼子は話し始めた。貴は煙草の灰を灰皿に落として、涼子の言葉に耳を傾ける。
「私はね、多分前よりずっとたかのこと好きになったと思うの。……でもね、たかは優しいから、それが私には辛いことも、あるの」
言い訳でも何でもないように聞こえる。事実、貴も涼子の家の前で、何も考えずに涼子を抱きしめたときにそう感じた。だから、涼子の言っていることは本当だ、と思える。
「何もしてあげられなくて、一人で勝手に落ち込んで、泣いて、甘えて、たかに何も言えないのに、たかは、たかは全部そういうの判っちゃって、それでも私のこと責めるようなことはしないでしょ?いつも一番に気にかけてくれるから、たかに何もしてあげられない私は、辛いんだ」
「……」
貴は涼子の言葉に無言を返した。それは貴としては当たり前のことでしかない。特に貴にとっては涼子の行動など判り易いことが多い。涼子にとっては、自分が敏感に涼子のことを感じて理解している、と思っているのかもしれないが、特に気を遣っている訳ではないし、それが悪い習慣になってしまって気遣いが足りていないとも思う。その証拠のように、涼子はこうしていつも寝不足の顔をしている。そして独りで泣いている。
「おれさ、何で涼子のこと好きなんだと思う?この間ちょっと考えてみたんだ。確かに机上の理屈みたいにさ、顔はめちゃめちゃ好みだし、可愛いし、おっとりしてるし、そういうところはおれの個人的な好みにもばっちり合ってるけど」
あの公園でのひと時の後に考えたことだった。どうして離れたくないのだろう。何故こんなにも好きなのだろう。人を好きになるのは理屈じゃない。そんな言葉で総てを理解して、鵜呑みにできるほど人間ができている訳でもない。何か惹かれる理由は必ずあるのだ。
「でも何か、判んないんだよな」
結局出た答えはそれだった。しかしそうではない、とも思っている。
「判らない?」
「そ。何か判んないけど、涼子じゃないと嫌なんだよ、おれ。前にも言ったけどさ」
涼子以外考えられない。高校を卒業した後も、ずっと涼子が好きだった。最悪な別れ方をしてしまってから、再会など望めるはずもないと諦めていた。涼子以外誰も好きにはなれなかったし、恋愛をしている暇もなかった。だから、思いもかけぬ形で再会したときには、つい声をかけてしまっていた。もしもクラス会の前に涼子と再会していなければ、話す機会はなかったかもしれない。しかし結果論ではあるが、貴はずっと涼子のことを想っていたし、涼子もまた同じ気持ちだったのだ。遅かれ早かれこういう結果にはなっただろう、とは思う。それもこれも無意味な想像ではあるが。
「例えばさ、可愛くて、おっとりしてるってんだったら
ただ単に好みを挙げるだけが好きになる理由ではないことも充分に判っている。キスやセックスをしたいと思うだけの相手というのも違うことは判っている。
「結局そういうことをしたいのは涼子だけで、これって、おれがおまえのこと好きだからなんだよな」
「だけど私は……」
貴の言葉を聞いて何かを言おうとして、そして言葉に詰まる。貴は少し間を置いて、再び口を開く。
「ん。だけど涼子は、今はそれには応えられない。そしたら男はどうすると思う?やっぱりそこはさ、涼子の希望に沿いたい。この間強引にどうのこうの言ったけど、やっぱり涼子がしたい、って思ってなきゃおれだって嫌なんだよ」
強引に押し通すだけの辛さは、嫌というほど味わっている。それは貴も涼子も知っている辛さだ。強引にしてしまったこと。強引にされてしまったこと。物事には全てに度合いというものがある。勿論貴は涼子の嫌がることなどする気はない。いくら涼子の気持ちが強くても、身体のどこかでそれを嫌がっていれば、貴はそれを強引になどできはしない。
「……したい、って思ってる、よ」
そう、涼子は言う。言わなければならない状況に追い込んでしまっている。言わばこれは言葉の暴力に近い。貴はそうして涼子に言わせてしまっているのだ。確かに涼子は貴に抱かれたい、と言ってくれた。しかし、涼子の体が男を恐怖しているうちは、どんなに涼子が言葉で抱かれたいと言ってくれていても、気持ちで思ってくれていても、抱く訳にはいかない。
「でも今はできないだろ。だから待ってればいいんだよ」
我慢するのではなく、耐えるのでもなく、待てば良い。きっといつか体を重ねられる日がくる。愛し合えない訳ではない。入れて出すだけがセックスではないという考え方もあるけれど、そんなにロマンチストではない。セックスに至っては男は常に現実主義者になってしまうものだからこそ、相手を思いやる気持ちが必要だ。
「おれもさ、女と付き合うのは涼子が初めてなんだし、判んないことなんてそれこそ山のようにある訳ですよ。だから失敗して、傷ついても、そこから学んでいけばいいんじゃないかって思うようになった」
きっとどんなカップルだって喧嘩の一つや二つをして、失敗して、傷ついて、お互いを確かめ合っている。
「だいたいさ、涼子、おれに何もしてあげられないとか言うけど、じゃあおれはどうすんだよ。おれなんて泣かせない、って決めたのに、いつもおまえのこと独りで泣かせてるんだぜ」
穏やかに貴は言う。自分の不甲斐なさを前面に出しすぎると、涼子はそれすらも自分のせいにしてしまう。良くも悪くも貴と涼子は似ているところがあるのだ。
「そっか……。そうだよね」
「ん?」
一人頷いて涼子は小さな拳を作った。
「たかが勝手に私を泣かせる全てから守るって決めたんだもんね」
うん、と言って涼子は微笑んだ。涼子が何を言っているのか、何を言わんとしているのか、貴には判らなかった。
「じゃあ私も……」
そう言って、涼子は服を脱ぎ始めた。
「ベッド、行こ……」
ブラウスもスカートも脱いで、脱いだスカートで体を隠しながら、涼子は耳まで真っ赤になって小さく言った。
「お、おい……」
「今、私、たかに抱かれたいよ」
言われた瞬間に、貴の顔にも血液が集中した。
「だ、だってお前」
涼子の大胆な言動につい吃音が交じってしまう。フィルターにまで到達してしまった煙草の火が貴の指に近付いた。慌てて照れを隠すつもりで貴は煙草の火を消した。
「私が、今したいって思ってるんだよ。『強引な水沢君』は駄目だって何度でも挑戦するって言ってたもん」
「……わぁかったよ」
少し間を置いて、軽くため息をつくと貴は観念した。こういう健気なところが涼子の良いところであり、きっと最愛の理由の一つなんだろうと貴は思った。たまらなく愛しい。小さい体で、その体全部で貴を好きだ、と言ってくれる。たったそれだけのことかもしれないけれど、だからこそ貴は涼子が好きなのだ。
「でも、もしもまた駄目だったら、ごめんね」
「涼子がおれのこと好きなまんまでいてくれるんだったら『強引な水沢君』は何度でも挫けませんよ」
もう貴の顔すら見られないほど照れている涼子に、笑顔になって貴は言った。
貴の腕の中で小さく震えて、声を押し殺す涼子の髪をなでながら、貴は真っ暗な部屋の宙を見つめていた。
途方に暮れるというのはこういうことなのかもしれない。
「ごめんね……」
「謝るなって」
何をしても、何を思っても、いつも涼子を泣かせてしまっている。言葉だけ、上辺だけならばいくらでも言い繕うことができる。結局のところ『前向きな水沢君』も『強引な水沢君』も、何もかも通用しない。貴にすべての責任がある訳ではない。これは貴が被って良い責任とは違うものだ。それをしてしまえばまた半年前と同じことを繰り返してしまう。他人の痛みを判ったつもりになって、自分も涼子も必要以上に傷つける。それでは誰一人救われはしない。自分自身も救われない。そしてそんな自分が最愛の人を救える道理がない。
だからといって涼子の責任でもない。誰の罪でもなく、これは涼子の痛みだ。
貴でもどうすることもできない涼子自身の痛みであり、苦しみだ。その涼子の苦しみが真実だ、と受け止めることはできる。いや、それしかできない。ほんの少しでも、涼子の痛みを、苦しみを判ってあげることなどできはしないのだ。貴が涼子になり代わることができない限り。
「また次でいいんだよ。焦ることないって言ったろ?」
「でも……」
「前に比べたらたいした進歩だって」
今貴が弱気になってはいけない。こんな時だからこそ、嘘でも虚栄だとしても、言わなければならないことがある。前向きでも強引でもどちらでも良い。もはや嘘吐きでも構わない。とにかく、今貴には涼子に言ってあげなければならないことがあるのだ。
「だって今日はさ、感じてくれただろ」
涼子はそれに無言を返した。しかし、小さく一度だけ頷いた。それで充分だ。貴はそう思うことにした。
明かりを消したまま、薄手の毛布をかけて貴は涼子を包むように抱いていた。
「今日は、帰るね」
そう言って涼子は上体を起こした。貴も体を起こし、毛布を涼子の肩からかけてやると、ベッドから降りた。
「送ってくよ」
「うん……」
涼子を送り、貴は部屋には戻らずに、ただ闇雲にオートバイを走らせていた。無力な自分に腹が立って仕方がない。そして自分を責めたところで涼子を救える訳でもない。
涼子が悪い訳ではない。
自分だって悪くない。
何も、誰も、悪くない。
涼子は懸命に貴を想い、貴もまた懸命に涼子を想っている。
風きり音がごうごうと響くヘルメットの中で貴は叫んだ。
「これ以上、どうしろっていうんだ……!」
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