第二話 大人

 同日 喫茶店 Snow Bridgeスノーブリッジ


「……でさ、そのことずっと黙ってたんですよただし君は。まったくすっとぼけやがってさ、ダマテン小僧とか言ってよくいじくり倒してたよ」

「ふふっ、そっかぁ。で、結局忠君が謝っちゃったんだよね。どっちが悪いっていう喧嘩でもなかったのに」

 共通の話題といえば、共通の友人たちの間で起こったできごとだった。涼子りょうこが訊かせて、と頼めば入ってくる情報は当然それだ。

 たかの方にも友人たちからは情報が行っているようだった。なし崩しにお茶に誘ってしまったが、誘ってしまった手前、取り立てて何か話題を探さなくても良いのは涼子も少しだけ気が楽だった。

「そ、もう今じゃ妬けてくるほど幸せ絶頂ってやつでさー。勝手にやってて下さい、の世界ですよまったく」

 けらけらと笑いながら貴は言う。以前のままの自分達ならば他人事の恋愛事情ですら話すことはできなかったはずだった。それだけ前に進めた、ということなのだろうか。とてもそうだとは思えない。

「へえ、で?水沢みずさわ君は?今彼女いるの?」

(正気じゃない……)

 こんなにも核心を突いた言葉。聴きたくない気持ちと、諦めを欲するために聞きたい気持ちが入り混じる。

 両極に揺れる涼子は今、自分自身を制御できていない。そしてそれを、その言葉を涼子に言われた水沢貴之が何を思うかまで、涼子の考えは至らなかった。

「いませんね。彼女イナイ歴二一年ッス」

「え、ホントに?」

 だからと言って何が変わるものか。もう前に進んでしまった貴と未だに前に進めていない涼子には、もう二度と埋まることのないほどの深い溝があるに違いない。

「悪ぅござんしたね」

 貴は少しおどけた風にプイッ、と窓の外に視線をやった。とてもではないが当たり障りのない自然な会話とは言いがたい。本当はこんな話をしたかった訳ではないけれど、かと言って涼子から話せることはきっと何一つもない。

 あの時のように逃げてしまえば良かったのだ。泣いている貴を背に、走って逃げてしまえば良かった。

 貴に恋人がいないと判ったことで、涼子は後悔の念に押し潰されそうになった。

 今貴に恋人がいたのならば、きっと笑顔にだってなれたかもしれなかったのに。

 いや、それを貴のせいにするのは卑怯だ。そんな浅ましい考えを持ってしまった自分には、この重たい重圧のような気持ちを罰として受けなければならないのだろう。

「そーゆー舞川まいかわさんはどうなんですか」

 二人が入った喫茶店は特にきらびやかな飾り物もない、落ち着いた店で、この辺りでは一番遅くまで経営している店だという。一番奥まった窓際のテーブルに着いて二人は話し続ける。

 ゆっくりとしたメロディアスなピアノの曲がシックな店内にぴったりと合っている。

 そんな空気のせいだろうか。ついこんな話になってしまうのは。

「え、私?……私も同じ。水沢君のこと笑えないね、へへっ」

 曖昧な言葉を返すことしかできない。ずっと貴を想っていた。他の男など歯牙にもかけなかった。しかしそれも、今度こそ終わりにしなければならない。

 貴が住むこの街に戻ってきて、涼子がただ一つ、成さねばならないことだった。

「マジですか!舞川さんくらいデキた女性ならば男なんぞ選り取りみど……言い過ぎました」

 女性として意識されていない言葉なのかもしれない。高校時代の貴は冗談でもこんなことを言える人ではなかったはずだ。

(そっか……)

 もうあの頃のことは、吹っ切れたのだろう。

 学生時代の話など卒業と共に終わっている。きっと誰もが同じで、今更気にかけているのは自分だけだ。

(それも当たり前、か……)

 涼子は貴の前から逃げ出して、そして姿を消したのだから。

「もう、酷いな。私だって苦労してるんだから」

 視線を上げて無感情のまま涼子は言う。丁度そこに先程注文したブレンドコーヒー運ばれてきた。

「水沢君、お砂糖二つだったよね」

 貴の実家の喫茶店でコーヒーを飲むことが多かった。勿論二人きりでコーヒーを飲む機会は少なかったが、それでも当時の涼子にとっては大切な時間だった。貴が好きな食べ物や、コーヒーに入れる砂糖の量もずっと覚えている。

「よく覚えてるなぁ……。しかぁし!大人になった水沢君は最近ブラックに目覚めたのだ」

「へぇ、違いの判る男?」

 涼子は笑いながら砂糖を自分のカップに入れた。ややあって、再び口を開く。

「……ん。でもね、告白されたこととかもあったんだけど、ダメなんだ。なんか水沢君とかりょう君達みたいに前向きで自分をさらけ出して生きてる人っていないって感じちゃって。どんなに容姿が良くっても全然魅力感じないんだ。結局見た目だけで人を好きになることって、私はできないんだって思うし」

 言い終えてコーヒーをかき交ぜる銀のスプーンを止めた。つ、と視線を落として止まったスプーンを見詰めると、涙が出てきそうになる。

 涼子が就職をしてからの三年間で、二人ほど、涼子に想いを伝えてくれた男性がいたけれど、その気持ちに応えることはできなかった。何を考えているのかが判らなかったこともある。僅かな時間しか経っていない間で、自分の何処を好きになったのかと、疑問に思ったこともある。とりあえず付き合ってみて、という行動は涼子にはできなかった。

「ムツカシイ奴らが多いんですかねー。やっぱりあれですな、諒の言ってた『押し付けるな、指示するな、おれはおれでいさせろ』ってやつ。自己主張が足らんですよ、きっとそういう連中は」

(あれ……)

 それは高校時代から彼らの常套句でもあった言葉だ。どこか有名な海外のロックバンドのメンバーが言っていたことの受け売りだと知ってはいたが、それでも彼らはいつもそうして、見えない何かに抗っているようにも見えた。

「水沢君も言ってたじゃない、『自分でいろ、誰かみたいにはなるな』って。……でもホントにそうなんだよね、きっとそういう人達ってカタチだけで女の子を見てるのかもしれないって思うこと、あるよ。全部がそうじゃないとは思うけど、この女とだったら格好が着く、とか釣り合いが取れる、とか。そういう人って絶対いると思う」

(何か……)

 何かがおかしい。貴の言葉には力がない。やはり疲れているのは仕事のせいだけではないのかもしれない。

「私が釣り合いの取れる対象だなんて時点でどうかしてるけどね」

 そう言って涼子は貴の目を見る。

「でもさ、そこまで言ったら本当に好きだとか、難しくなるんじゃないのかな」

「そうだね。もしかしたら、全然判ってないのかも知れないね。私たちも」

 涼子が貴を好きになったのは、一目惚れに近い感覚だったが、それは外見だけの話だ。本当に貴のことが好きだと判ったのは時間をかけてゆっくりと水沢貴之という人間を涼子なりに理解して行ったからだ。

「少し変ったのかな、舞川は。なんか大人になったって気がするよ」

(大人……)

 どう大人なのだろう。明日美あすみにも言われたが、自分では全く自覚することができない。それどころか自分だけが前に進めていない子供のままなのではないのだろうか。そう思えるのに。

「え?そ、そうかな。きっと大人ぶってるだけだよ、独りで暮らすための技っていうやつかな。そうでもしないと自分を保っていられないっていう気がするの。特に独りだなぁ、って感じちゃったときなんか。……大人な訳ないでしょ?私が」

 今思いついた言葉を並べているだけだ。そんなことを考える余裕すら、涼子にはなかったのだから。

「大人か……。高校ん時は、こんな日がくるなんて思ってもみなかったもんなぁ。オトナが嫌いでさ、悪ぶって見せて、ガキで結構じゃねぇか、なぁんつってた頃が懐かしいですよ、水沢君は」

(……そっか)

 貴は貴で失くしてしまったものがあるのかもしれない。もしもそれが今の水沢貴之を形作っているのだとしたら。

「うん。でも楽しかったよね。もう二度とあんなこと、ないんだろうなぁ……」

(私もきっと同じなんだ)

 そう思いながらコーヒーを一口飲む。気持ちを落ち着かせるために。

「私ね、この時期になるといつも思い出すんだぁ、あの頃のこと」

 言いながら、涼子は考えた。失くしてしまったものの大きさは本人にしか判らない。かけがえのないものを、言葉や形で表せない何かを、きっとみんな失くしてしまう。

 それが大人になることなのかもしれない。

 だから、失ってしまった涼子は、大人に見えてしまうのかもしれない。

 昔を思い返して、懐かしむことにきっと意味はない。

 人間は時間に準じて、ただ前に進まなければならない生物なのだから。


 それから一時間ほど、二人は話し続けて店を後にした。 再び車に乗り込むと、貴は涼子の家まで車を走らせてくれた。

「ありがと、水沢君。じゃ、また土曜日ね。来るんでしょ?水沢君も」

 家の前に着くと涼子は車を降りた。そして運転席側へ回ると、小さく手を振りながら貴に言う。巧く笑顔になれていますように。そんな思いを胸に秘めながら。

「当然行きますよ。じゃ、ごっつぉさん舞川、また土曜な。……それと今度はおれがおごるからな、コーヒー」

「うん。じゃ、おやすみ……」

 それでも、きっとクラス会で会うのが最後になるかもしれない。前に進めていない、見掛けだけが大人ぶっている涼子は、きっともう貴とは会わない方が良いのだろう。明らかに以前とは違う涼子を前にしても、貴は以前と変わらない態度で接してくれようとしていた。巧くはできていなかったと思うけれど、それもまた水沢貴之という、涼子が好きになった男の不器用な優しさの一つだ。

「どうしたら……」

 走り去る車を見送りながら涼子は呟いた。

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