第三話 残滓

 九月四日 土曜日


 県立前川高等学校の正門の前に懐かしい顔触れが揃った。

 草薙夕香くさなぎゆうかは勿論、もう一人の親友、水谷香奈みずたにかなや、彼女らの恋人であり、たかの親友でもある谷崎諒たにざきりょう川北忠かわきたただしらも来ていた。

涼子りょうこ!」

 夕香と香奈が、涼子の姿を見つけて駆け寄ってきた。

「夕香!香奈!ひさしぶり!元気にしてた?」

 涼子は、駆け寄ってきた二人の肩に腕を回して抱き着いた。

「元気元気、ちょー元気!」

 夕香が本当に嬉しそうに答え、小さく飛び跳ねた。親友達の笑顔が涼子の屈託を小さくしてゆく。

「あたしね、こっち帰ってきちゃったんだ」

「え?そうなの?」

「ホント?涼子」

 涼子の言葉に夕香と香奈は目を丸くし、口々に言った。クラス会に出席することは伝えてあったが、地元に戻ってきたことはこの日まで秘密にしていた。これは姉の晶子にもお願いしていたことで、ほんの少しでも親友達を喜ばせようと思い画策していたことだった。

「うん。こっちで何かいい仕事探すつもり」

「そうなんだ!じゃ、また前みたいに一緒に遊べるんだね、ね!」

 香奈が涼子の腕から脱して言った。

「よっし、これで全員だな。みんな、そろそろ行こうか」

 今回幹事をすることになった、当時のクラス委員だった渡辺晃わたなべあきらが言った。昔から面倒見の良い人物で、初めてのクラス会でいきなり幹事になったというのも頷ける。

 彼の一声で全員が歩き出した。


「なんだよお前、すっげぇじゃん!」

「かっかっかっ!オレわ、もっと大物になっちゃうよ!」

 居酒屋の宴会用の一室。その一番奥の左端に涼子達は陣取っていた。男性陣はもはや有名人となりつつある諒の周りで騒いでいた。この時ばかりは貴も屈託のない笑顔を見せていた。

「ちゃーんとテレビ出たらよ、俺のこと呼べよな!昔のバンド仲間の天才ギタリストつってよ!」

「ばーか、俺達だろ、俺達!」

「判った、判った。うわはははははははは!」

 こんな風に気の置けない仲間たちと、ばかを言い合って笑うなどということは、高校を卒業して以来涼子にはなかったことだが、それは涼子や貴だけではなく、皆も同じだったのだろう。このはしゃぎようを見ればそれは一目瞭然だった。社会人になってから数年。息の抜き方も、力の抜き方も、きっとこれから覚えて、そして少しずつ大人になって行く。

「なぁにやってんの涼子!もっと呑みなさいよぉ、ほぉらぁ、貴ちゃんも!久々にみぃーんな集まってるんだから!」

 夕香が涼子のグラスにビールを注ぎ足した。グラスからビールが溢れ出しているのは酔っているというよりも、夕香の元々の性格だ。細やかな気使いができるのに、昔からそういうところが大雑把なのが夕香だ。

 夕香も夕香で週末に休みが取れる仕事ではなかったせいか、この雰囲気に飲まれてかなり酔ってきているようだった。「なぁにやってんの」などと言われても、ここで涼子までもが酔っ払ってしまったらこの先数時間後のことがいささか心配であったりする。

 隣の貴の顔を見ると、どうやら貴も同じことを考えていたらしく、一瞬難しい顔を作っていた。面倒見が良いと言うのか、馬鹿になりきれないと言うのか、損な性格であることには変わりがない。などと考えていると、向かいの席に座っていた香奈が俯いておとなしくなっていた。

舞川まいかわ、香奈がやばそうだ」

 トントン、と涼子の肩を叩いた貴が言った。周りが騒がしいせいで、貴は顔を寄せて言ってきたのだが、その行動一つでどきり、と胸が鳴る。

「え?ホントだ。ちょっと香奈、香奈!平気?」

 なるべく平静を装うように、少しだけ声を高くして涼子は言った。向かいに座っている香奈が青白い顔を上げた。

「きもちわるい」

「あったりまえ。呑み過ぎですよお前さんは」

 ツン、と香奈の額を軽くつついて、貴は言った。

「ちょっと表出よう、香奈」

「……ん」

 貴が足元の覚束ない香奈を抱えて先に外に出た。涼子は店員に声をかけて水を一杯もらうと、二人を追って外に出た。県道沿いにある店の外は車通りも少なく、思ったよりも涼しい風が吹いていて心地良かった。

「大丈夫か?香奈」

 涼子が香奈に水を手渡すと、貴がそう言った。高校生の頃にもこういうことは何度もあった。未成年ながらに酒を呑み、呑み方を知らない無茶な呑み方ばかりを繰り返していたせいで、誰かが潰れることがよくあった。涼子も貴も、香奈も忠も諒も一度はやっている。どういう訳か夕香だけは潰れたことはなかった。

「空気悪かったし、仕方ないか」

「ちょっと淀んでたね。あんまり換気もできてなかったみたいだし」

 空調は動作していたのだろうが、いかんせん人数が多すぎたし、人いきれや煙草、アルコールの匂いが充満していた。暑いだとか煙いだとかいうよりも、そもそもその空気の悪さに中てられたのかもしれない。それは誰もが気付いていたようだったが、まだ変調をきたすほどではないのだろう。それに多少の空気の悪さよりも皆、各々の昔話や近況報告などで盛り上がっているのだ。気付かなくても無理はない。

「舞川は大丈夫か?」

 入り口のすぐ脇に香奈を真ん中にして座り込み、貴が言う。そんな何気ない一言でも胸が高鳴ってしまう。

「うん。何だかみんな雰囲気が危なそうだったから、途中で控えたんだ」

「あぁ、おれも」

 笑顔になって貴は言う。流石に夕香や諒のテンションに飲まれてしまったら、香奈だけではなく、何人がこうなってしまっただろうか。想像するだけでも少々恐ろしくなる。ただ、あの場にいて、妙な話が持ち上がるよりも、こうして少人数でいた方が気持ちが少し楽だった。


「あぁ、風が気持ちー」

 数十分経っただろうか。風に当たっていた香奈が、ようやく口を開いた。これから酒を呑まなければ大丈夫だろう。

「ありがと、涼子、貴。もう平気だから、二人は楽しんでおいでよ。もう少ししたら私も戻るからさ」

 香奈がそう言って、少し笑った。

「……ホントに平気なの?」

 少しだけ、戻りたくない気持ちが心の中から出てしまった。

「おー、いたいた。香奈平気か?」

 涼子がそう言った直後に、忠が店から出てきた。貴はそんな忠をジト目で睨みつけた。

「あ、悪ぃ悪ぃ。もう中入ってろよ、二人とも。後は俺が一緒にいるからさ、な」

 少し済まなそうに言う忠の顎を貴はぐにっ、と音が出そうな勢いでつまんだ。

「遅いっ!今度メシ奢れよ、おれと舞川に!」

 貴は言って笑うと涼子を促して、店の中へと入って行った。


 店の中では諒や夕香や諒が何らかの話題で盛り上がっていたらしいが、涼子と貴の二人がついて行くには聊か先走った話の内容だった。

「おっ、いいところに帰ってきたじゃん。今お前らの話で盛り上がってたんだって」

 大輔が貴に言って、ひひひっ、といやらしい笑い方をした。大輔は基本的にはおとなしい性格だけれど酒に酔うと豹変する少々困った癖があった。それは今でも変わっていないらしい。酒のペースは先程よりは随分と落ち着いたようだが、酔いは進んでいるように感じられた。

 そしてこの場にいなかった二人を肴にしていたというのならば、この先は聞きたくない話ばかりになるということだ。やはりずっと香奈と一緒にいれば良かった、と涼子は後悔した。

 それはきっと彼らにとってはずっと曖昧になったままの話であっただろうし、もはや時効になっているのだろうという予測もあってのことなのだろうことは涼子にも想像できた。

「私たち?」

 涼子は言いながら椅子に座った。

「そ。貴と涼子ちゃんの話」

 諒がポップコーンを手に取りながら言った。

「おれ?」

 何も含みがないような表情で貴も言う。

 涼子は耳を塞ぎたい衝動に駆られた。しかし貴の前で、大人ぶってしまった自分がそこから逃げ出すことなどできはしない。演技でも、例えそれが見破られようとも、今は毅然としていなければならない。

「あのねぇ、貴ちゃんねぇ、涼子のこと好きだったんだって、ねっ」

 夕香が、貴のグラスにビールを注ぎながら言った。

「え、えぇ?」

 僅かな驚愕に涼子は発すべき言葉を失った。本当は薄々判っていた。

 だけれど、こうして言葉にされてしまうと、急に恥ずかしくなってきてしまう。顔に血液が集中するのを意識しつつ貴を見ると、貴は少しだけ俯いたようだった。先日見たばかりの、疲れきったような笑顔が見え隠れしている。まるでそんな昔の話題になど付き合切れない、と物語っているかのように、涼子には大人びた横顔に見えた。

「そんで、涼子ちゃんも貴のこと好きだったんだってさ」

「……」

 夕香と諒の言葉に、貴は特に反応を返すこともしなかった。

 何となく感じていた。

 あの頃はお互いそんな空気の中に身を置いていたのだから。

 しかし問題はそんなことではない。

 あの日の出来事は、自分がどれだけ卑怯なことをした人間なのかを嫌が応にも思い出させる。誰にも、大切な親友にすらも、触れてほしくはなかった。

 しかしそれも無理からぬ話なのだと判っていた。涼子と貴の間に横たわっている、暗く、重たい秘密。それをこの親友達は知らずにいる。何かがあった、ということは誰もが気付いている。

 涼子か貴か、当事者のどちらかが話す気がなければ、やはりそこは見通すことのできない霞の中のようなものだ。

 ある程度の時間が経った今ならば、涼子か、貴か、どちらかが口割る。そんな風にも考えたのかもしれない。けれど、どんなことがあっても、涼子は口を割るつもりはないし、貴もそれは同じだろう。

 自分の卑怯さに辟易しても、それでもまだ大切だと思える人を裏切る。

 事実も、真実も、何一つ言えない、あの日からずっと逃げ続けている涼子には、こうするしかできなかった。

 そして、涼子は思い出してしまった。

 あの、酷く息苦しかった夏の終わりの日のことを。

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