第一話 再会の重さ

 八月二八日 金曜日


 久しぶりに地元の駅に戻ってきた。

 帰ってきたのは二年ぶりだった。会社に勤めていた頃は仕事が忙しかったこともあるし、当然にして事件のこともあった。涼子りょうこ自身こんなに落ち着いた気持ちでこの街に帰って来られるとは思ってもいなかった。昔を思い出して嫌悪感が込み上げてくるような、嫌な気分もない。

 部屋の荷物はあらかた実家に届いているので、今は少し大きめのスーツケースが一つだ。涼子は久しぶりに辺りを散策してみることにした。

 駅の周りは三年の月日の中で色々と変わっているところもあった。お洒落な喫茶店やファストフードショップが新たにできていて、昔からあるゲームセンターや本屋、CDショップもまだ健在だった。

 ゆっくりと時間をかけて商店街を見て回っていると小腹が空いてきた。商店街の中に最近流行のコーヒーショップができていたことに驚きつつも店に入ると、何だか妙な予感がした。

「涼子?」

「え?」

 店は入り口からすぐにレジカウンターになっていて、注文をしてすぐに品物を受け取り、奥のイートインスペースに移動するタイプの店だ。涼子が順番待ちの列に並んだ前の女性が涼子に気付いたのか、涼子の名を呼ぶ。その顔は確かに見覚えがあった。

明日美あすみ?」

「おぉー?やっぱり涼子だ!久しぶりじゃないの!」

 声をかけてきたのは中学時代の同級生、川上かわかみ明日美だった。高校は各々別の高校に進んでいたが、高校時代にバレーボール部に所属していた涼子とは、練習試合や地区大会でも何度か顔を会わせていた。

「偶然だね、どしたの?」

「いやぁ、サークル終わって帰ろうと思ったんだけど、お腹減っちゃってさ」

 ぽり、と頭を掻いて明日美は屈託のない笑顔を見せた。涼子や涼子と特に仲が良かった友人たちの大半は高校を卒業して就職を選んだが、明日美は進学を選んだらしいということは聞いていた。

「サークルって大学の?バレー?」

「そ。涼子はもう辞めちゃったの?」

 そもそも明日美と仲良くなったきっかけは、同じ部活だったバレーボール部だ。当時は涼子もバレーボールの試合がテレビで放映される日はテレビに噛り付くようにして見ていたものだった。

「辞めちゃったねー。会社もそういう活動してないところだったし」

 バレーボールは好きだったが、中学でも高校でも良い成績は残せなかった。背は低くともそこそこに運動神経も良く、セッターとしてレギュラーは取れていたけれど、地区大会ではいつも緒戦敗退が多かった。

「そっかぁ残念だね。でも社会人かぁ。凄いね。あたしはまだ想像もつかないや」

「会社も辞めちゃったから凄くないよ」

 苦笑して涼子は言った。仕事が巧く行かなくて止めた訳ではないのだけれど、本当の理由は言うことはできない。

「え、そうなんだ。あ、確かそっか、東京?都心の方行ってたって話だもんね」

「うん。でも結局帰ってきちゃった。かっこわるいよね」

 きっとさほど親しくもなければ、付き合いもないような人間が聞けば、そんな言葉が耳に入ることもあるのだろう。これは涼子自身にとってもそんなくだらない誹謗中傷に慣れるためのトレーニングだ。

「そんなことないでしょ。就職とか独り暮らしとか、かっこつけでやるものじゃないじゃん。失敗したり、ダメだったりすんのって、誰にだってあることだし、そういうことからいろいろ学んで大人んなってくんだから、そういうのかっこわるいなんて言う奴の方がダサイわよね」

「相変わらずね、明日美」

 歯に布着せぬ物言いは相変わらずだが、そう言ってくれると少し気持ちが楽になる。

 注文の順番が回ってきたので、ひとまずおしゃべりは中止になる。この街に来て早々出会ったのがこんなにも懐かしい顔だとは思ってもみなかった。相変わらず活発に行動をしてそうな明日美は高校を卒業してからの数年間で何か変わったことはなかったのだろうか。

 明日美が注文を終えたので、涼子も次いで注文をした。


「涼子、ちょっと変わったね」

「そぉ?」

 品物を受け取ってテーブル席につくなり、明日美が言った。その言葉にどきりとする。

「うん、なんかちょっと大人っぽい」

「気のせいだよ」

 涼子は苦笑した。何度も今のままではいたくない、今の自分から卒業したいと思っていた。けれどその思いは今も捨てられないままだ。

「そうかな。眼鏡のせいかな」

「そうかも。たかだか二、三年じゃ変わらないよ」

 そう言って涼子は眼鏡を外し、ケースにしまうと少し笑顔になる。

 中学の頃も高校の頃も眼鏡はかけていなかった。特に視力は悪くない涼子にとって、これは事件の被害に遭ってから、外に出歩けなくなったときに療養の一環として医者に薦められた方法だ。

 度は入っていないが、フレームより外の視界からできるだけ意識を外すようにするためのもので、周囲のことまで気を散らさないようにするためのものだという。

 気休め程度、と言われてはいたものの、涼子にとっては意外と効果的だったので、独りで出歩くときには眼鏡をかけることが多くなった。

「なんだろ、落ち着いたっていうのとはちょっと違うけど……」

「気のせいだってば」

 どこか諦めにも似た気持ちはある。

 それが、夢や希望を追い求めてはしゃいでいるような姿ではなく見えるだけの事であろうことは、何となく想像はできた。良い方には上向かないかもしれないけれど、悪い方には転がって行ける。落ちようと思えば人は簡単に落ちる。

 それでも涼子は自ら転げ落ちるような真似だけはしないよう、強く思っていた。

 きっと何事も自暴自棄になってしまってはいけない。そんなことを考えながら、涼子は無意識のうちに肩に付くセミロングの髪を少し指に絡め取った。脱色したような明るい髪の色は生まれつきだ。明日美も同じように明るい髪色だったので、学生時代には髪を染めているのでは、と何度も疑われ、その都度二人で生徒手帳を教師に見せなければならなかった。

一彦かずひこ君は元気?」

 気持ちを切り替えて涼子は言った。一彦というのは貴達と同じ中学校出身の、明日美の恋人だ。

「さぁ、元気なんじゃないの?」

「え、会ってないの?」

「別れた」

 実にあっけらかんと明日美は言い放った。その、あまりにも何でもないような言い草に、一瞬涼子の反応が遅れた。

「えっ、あ、ご、ごめんね……」

 高校を卒業するまでは付き合っていたはずだが、一体いつ別れたのだろうか。

「え、全然いいよ。今あたし好きな人いるしね!」

「そうなんだ」

「そ。ま、色々変わるよね」

 実に明るく言う明日美に、そういうものなのか、とひとまず涼子は納得した。涼子が変わったという明日美の話も、明日美にとっては事実以外の何物でもないのだろう。いくら涼子が否定しようとも。

 何があってもどんなことがあっても、結局人は前に進む以外にない。それを教えられた気がした。


「結構話し込んじゃったね」

「明日美は時間大丈夫?」

 店内は、通りに面した入り口以外に窓はない。入り口から見える外の景色はもう日も暮れてしまっていた。積もる昔話に夢中になって時間を忘れてしまっていた。

「うん、そろそろ帰らないとまずいけどね」

「ごめんね、なんか色々話しちゃって」

「何謝ってんのよ。涼子が引き止めた訳じゃないじゃん」

 けらけらと明るく笑って明日美は言った。昔から明日美は自然体で生きていると感じさせる。それはそれで全てが巧く回る訳ではないのだろう。けれど、何事もマイナス方面に考えがちになってしまう涼子から見れば、できない生き方だからこそ憧れてしまう。

「それもそっか」

 少しだけ明日美に便乗するように、明るく涼子は言った。

「あたしだって話し足りないくらいだしさ、じゃあまた今度会おうよ。戻ってきたってことは、家に電話すればいるんでしょ?」

 自分のトレーの上を整理しつつ明日美は立ち上がった。

「うん。私も電話するね」

「うん、絶対ね」

 涼子もそれに倣い立ち上がる。思えば高校を出てからこうして友達とゆっくりお茶を飲むこともなかった。心が軽くなる。

「かしこまりっ」

「あはは、それ懐かしいね」

 涼子としては普通に返事をしたつもりだったのだが、思えばこれは中学時代に流行った返事だった。涼子は今でもこれを使っているのだけれど、明日美にとってはもう懐かしいことなのだろう。

「えへへ、でしょ」

 涼子の親友たちの間では今でも使っているので、特に懐かしい思いに駆られることはなかったが、それもこれも、人それぞれに時間の流れが存在しているということに他ならない。

 変わることも、変わらないことも、人それぞれで、良い悪いだけで判断できるものではないのだろう。

「それじゃ」

「うん、まったねー」

 涼子は大きく手を振る明日美に、手を振り返して商店街を離れた。


 商店街から離れ、用水路脇の道を歩く。春には桜が咲き乱れ、毎年歩くのが楽しみになる道だ。

 道路の右側を歩いていると、一台の白いスポーツカーがゆっくりと通り過ぎて行く。車の種類は判らないが、小さめの、流線型が綺麗な車だ。そのスポーツカーはゆっくり通り過ぎたかと思うと、ハザードランプを付け、涼子の五メートルほど先で道路の左側に車体を寄せて停まった。

 少し、不安に駆られる。

 正直に言えば少し怖い。涼子はできるだけ車から離れ、顔を背けながら車の脇を通り過ぎた。そんな涼子の不安は杞憂だったが、それでも意外なことは起こる。

舞川まいかわ!」

 突然自分を呼ぶ声に、涼子は小さく身を震わせ、くるりと振り返る。

 車の窓から半分身を乗り出して声を上げたのは。

「……水沢みずさわ君?」

 声の主の方を見る。声の主は涼子の名を呼び、手を上げた。

 会いたくて、会いたくてたまらなかった。けれど、一番会いたくなかった相手でもあった。

 ――水沢貴之たかゆき

 涼子の二一年の人生の中で最も好きになった人だ。涼子は何かに引かれるように貴の方へと歩いて行く。

「へへへ、久しぶりっ」

「わあぁ、水沢君久しぶり!元気だった?」

 訳が判らなくなっていた。今明るい声を出したのは、心の底から貴に会いたいと願っていた自分なのか、明日美の言葉に反射的に思ってしまった、諦めに似た感情に大人ぶった態度を上乗せした自分なのか。

「ん、あぁ、元気元気。とりゃあず乗んなさい、送ってってやっからさ」

 久しぶりに見た貴の笑顔は、ほんの少しだけ大人びていたが、何よりも疲労の色が見える。

 疲れた笑顔のままで貴は助手席側のロックを解除した。

「え、ホント?……じゃ、お言葉に甘えて」

 どうかしている。本来ならば、こんなにも簡単に会話を交わせるはずではなかった。

 しかし、迷いを捨てれば答えは簡単に見つかるものだと、本当は判っていた。

 その迷いを涼子だけがずっと捨て切れずにいただけで。

 涼子は助手席側に回ってドアを開けると、スーツケースを座席の後ろのスペースに置いた。

「お邪魔しまぁす。あぁ、涼しい」

 貴の前で笑顔になれている。そんな自分に貴も笑顔を返してくる。そのやり取りが物語っているようにも思えた。

(過去のこと……。過ぎ去ったこと……)

「寒くない?」

 言いながら貴はエアコン操作して、少しエアコンを弱めてくれた。

「うん。大丈夫」

 そんな本当に些細な、それでも一緒にいる人間に対しての気遣い一つでも、ほんの少し、嬉しくなってしまう。

「どうしたんだよ、こっちにくるなんてさ」

 去年も一昨年も正月にも盆にも帰ってこなかった。学校に通っていたときほど友人たちとも顔を合わせていないのか、あまり細やかな情報は行き来はしないのかもしれない。特に、地元からでも通える会社に就職するのに、東京へと出て行ってしまった涼子を見れば、貴に涼子の情報は行かないようになってしまうことも、心のどこかで判ってはいた。

「ほら、もうすぐクラス会でしょ?だから……」

 咄嗟に嘘をついてしまった。明日美は擁護してくれてはいたが、やはり東京へ出て行って、おめおめと帰ってくるのは格好がつかないものだ。

「でも来週じゃん、するってぇと、休暇ってやつ?」

 貴は煙草を一本取り出しながら涼子に言った。

「うん、まぁ、ね」

 窓の外に流れる景色を見つめ、少し口篭もってしまった。

「そいつぁ羨ましい。おれなんか休暇なんて取らしてくんねぇもんなぁ。週に一度の日曜だって休めるかどうかも判んないし」

 貴は言いながらぐっ、とシガーライターを奥に押し込んだ。

 貴の仕事が忙しいというのは聞いていた。日曜日も祭日もなく働き詰めになっているらしい。しかし、この疲れきった笑顔はそれだけのものだろうか。

「やっぱり大変なんだね、ADさんって」

 景色から目を離し、少し微笑んで涼子が言った。運転席から前を見ている貴の横顔は記憶よりも大人っぽくなっていた。

 誰も彼もが無邪気な子供のままではいられない。

「ま、自慢にもなりませんが。ところでどうですか、都会の生活ってやつは」

 自重、も含まれているのだろうか。忙しさ自慢や不幸自慢をする者もいるが、貴はそれ以上は話したくなかったのだろう。わざとらしいほどに明るく言って話題を切り替えてきた。

 しかしそれすらも涼子にとっては楽しい話題でも何でもなかった。

「やぁ、都会の生活って言われても……。電車で二時間弱だしね。そんなに大袈裟なものじゃないよ。確か水沢君の職場だって私の会社とそんなに離れてないでしょ?」

 苦笑して涼子は言った。それほど都心とは離れていないこともあって、東京で独り暮らしをするとは言っても大仰なことではない。実際に貴のように地元から通勤している者も多い。

「ま、そうだね」

 それが判っているからなのか、貴もそれにはすんなり同意した。

「うーん、こっちにいた時の方が全然楽しかったってことだけは、確かかなぁ」

 何一つ、楽しい思い出などなかった。涼子の言葉は自分でも驚くほどに確信に満ちていた。

「やっぱりそっか。所詮馴染みの薄い会社だけの付き合いじゃ中々学生時代みたいな友達は出来ないかもなぁ。みんな同じなんだな」

 少し安心したのか、貴はそう言って笑った。

「そうかもしれないね。仕事が終わって時折呑みに行ったりするくらいで、それほど深い付き合いはしてないかな、やっぱり」

「こっちには親友がいるし、か?」

「うん、そうだね」

 一度は自分から離れてしまったけれど。

 それでも繋がりがなくなった訳ではない。あの頃から、今でも涼子のことをずっと気にかけてくれている心温かな親友の顔を思い出すたびに、自分の選択は間違いだったのかもしれない、と思ったものだった。

「ははっ。そっかぁ、おれなんかたまの休みになりゃあただし達と会ってるからなぁ。今も忠とメシ食ってたとこだよ」

 がち、と音がしてシガーライターが元の位置に戻ると、貴はそれを引っ張ってくわえたままの煙草に付けた。

「へぇ、いいなぁ。他の皆は?夕香ゆうかにもたまに会ってるんでしょ?」

「うん。夕香はね、休みが中々合わないから、ホントにたまぁにですけどね。大輔だいすけゆかりちゃんと同棲始めちゃって今は忙しいみたいでさ、あんまり会えなくなっちゃったし」

 シガーライターを元の位置に差し込みながら少しだけ窓を開けて貴は言った。

 ぷかっ、と輪っかの煙を吐き出す。物心ついた頃から父が愛煙家だったせいなのか、自分では吸わないが、涼子は煙草の香りが嫌いではなかった。

 貴は学生の頃から喫煙をしていたが、当然、煙草を吸う姿は今の方が様になっていた。

「そぉかぁ。でも大輔君と縁ちゃんの話聞いた時はホントびっくりしちゃったなぁ。きっと上手くやってるんだろうね、あの二人のことだから。ちょっと羨ましいな」

 煙の輪っかが窓から入り込む風に壊される。

 親友たちの中でもそういった決断を下した者もいた。結婚とまでは行かなくとも、お互いの将来を考えたり、明日美のように別れてしまったり、様々なことで時間は流れているのだ、と否応なしに感じさせられてしまう。

「だろうねぇ」

りょう君も今じゃ有名人になってきちゃってるもんね。こないだテレビ見てたら出てたよ、なんか新人のユニットのバックでドラム叩いてた」

 涼子の一番の親友である、草薙くさなぎ夕香の恋人、谷崎たにざき諒は貴の親友の一人だ。夕香から電話がかかってきて、テレビをつけてみたら高校時代の友人が、人気アイドルのバックでドラムを叩いていたのだ。

「舞川も見たのか、あのテレビ。そういやあのばか野郎にも全然会ってねぇなぁ。ま、お忙しい人だってのは判ってるんですけどねぇ」

「うん……」

 少し俯き加減に涼子は自分の手を見つめた。

 ある程度の近況は知られている。

 しかし不自然なほどに涼子の情報だけが届いていない。当たり前なのかもしれないが、伝わっていても本当はおかしくない。

 姉の晶子しょうこは涼子に何が起きたのかを全て知っている。おいそれと人に話すような性格でもなければ、簡単に人に話せる話でもない。

 だからこそ、涼子は事の顛末は晶子に任せても良いと思っていた。

 機微に長けている晶子ならば、話す相手をきちんと選ぶだろうし、その相手は涼子も気の置けない相手のはずだ。そういった相手に、知らないことで無用に傷つけられることは避けられる。

 だけれど、貴にだけは知られたくない、という思いは強かった。

 あの日、水沢貴之を傷つけた舞川涼子は穢れてしまった。

 穢されてしまったことを、知られたくなかった。

「……ん?どした、舞川」

 横目で涼子を見たのか、貴が言う。気付くと無言で考え込んでしまっていた。

「お姉ちゃんに、会った?」

 本当に姉からは何も伝わってはいないのだろうか。

「晶子ちゃん?時々姉貴の店で会うくらいかな。最近は全く会ってないけど」

「そっか……」

 貴の仕事が忙しいのは知っていたし、晶子からもたまに会う程度だという話は聞いていた。そして何よりも、晶子も貴にことの顛末を話したのならば、それを涼子に隠す訳がない。

「晶子ちゃん、どうかしたんですか」

「ううん、お姉ちゃんじゃなくて私が、ね……」

 そう言うと涼子は再び俯いた。しかし、貴の言葉で判ってしまった。涼子のことなど、今の水沢貴之の人生には何の関係もないのだ。少し考えてみれば当たり前のことだった。だとしたら、今更何を隠そうが何の意味もない。

 ややあって涼子は顔を上げると、口を開いた。

「私ね、会社辞めてきちゃったんだ。……もうこっちで働くつもり」

 だめだ。やはり全ては話せない。

 むしろ話す必要もない。一面の事実だけを話せば良い。そこに至るプロセスなど何の関係もないし、今の空気を悪くしてしまうだけだ。折角貴に会えたというのに。例え涼子の想いが通じはしなくとも、それでも、という思いはやはり消し去ることはできそうにない。

「それじゃあ再就職は日曜日休める所にましょうか!そうすりゃまたいつでもみんなに会えるようになるじゃないですか!」

「うん……」

 涼子は小さく頷いた。不器用な優しさは相変わらずだった。胸が締め付けられる。そんな小さな、誰にでも見せるような優しさ一つでも思い知らされる。

「そぉだ、どっかでコーヒーでも飲もうよ。おごっちゃうから、いろんな話聴かせて!」

 その思いを必死に打ち消しながら、涼子は勤めて明るく、切り出した。

「ゆぅっし!行かれますか」

「あはっ、その口調聴くの久しぶり。変わってないね、水沢君は」

 明らかに変わっていた貴に対して、あえてその言葉を口にした。きっと変われていないのは自分だけだ。それでも、変わったように見せかけなければならない。何も確証などないけれど、水沢貴之が想ってくれていた舞川涼子はもう、何処にもいないのだから。

「そぉんなことないざんしょ、大人になったと思いません?」

「ふふっ、やっぱり変わってない」

 昔から稚気に溢れた人だった。けれどいざというときはリーダーシップを発揮して皆を引っ張っていったりもした。

 きっと、涼子の微妙な変化や迷いは貴に伝わってしまっているのだろう。だからこそこうした稚気を見せたり、おどけた敬語交じりの口調をする。貴の不器用な優しさに戸惑いながらも涼子は何とか笑顔を作った。

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