Ⅱ 夏霞 -Side F-
序章
八月七日 土曜日
仕事はとある事情で約一年前に辞めた。
周囲の女友達などは、涼子は可愛いなどと言うけれど、男性にもてた験しは一度もない。一五〇センチメートルに届かない身長は流石に平均的とは言えないが、自分では平々凡々とした顔立ちに背格好だと思っている。そんなことを思えるようになったのもつい最近のことだった。
ベッドとテレビと冷蔵庫以外は殆ど片付いた部屋を見て、涼子は嘆息した。二週間後にはこの部屋を出て行かなければならない。1DKのお世辞にも広いとは言いがたい部屋だったが、三年の月日を過ごした部屋だ。多少の感傷はあるが、良いことは殆どなかった。仕事を辞めて一年、様々なことに整理、決意をし、涼子は実家に戻ることに決めていた。
見るでもなくつけてあったテレビには顔色の悪い中年男性と美人のニュースキャスターが映し出されている。
『――半年前の、S機器株式会社の女子社員が、上司に暴行を受けた、という事件を皆さんは覚えているでしょうか……。その事件の裁判での最終判決が今日、下りました。裁判に打ち勝った女性の方は……』
(私のことだ……)
涼子はテレビを消して、テーブルの上に置かれているポータブルカセットプレイヤーを手に取った。
人の不幸を報じることに何の意味があるのだろう。こんな事件があった、ということだけは報じられても良いとは思うが、その後の経過など、無関係の人々は気にも留めないだろう。それよりも、そんな事件で心を痛めた家族や、関係したすべての人に、思い出したくもない過去を思い出させるような報道の仕方には疑問を抱いてしまう。
涼子は勤めていた会社で、男性から暴行を受けた。刑事事件にもなり、裁判には何度も出た。家族にも触れ合えない精神状態のまま、涼子はこの部屋で独りで生きることを選んだ。
家族はそんな涼子の我侭にどう対処して良いか判らないようだったけれど、涼子の望むままにさせてくれた。心配してくれていたことは痛いほどに判っていた。けれど、加害者の家族の顔を見ただけでも絶望に飲み込まれ、殺意すら湧き上がってくる涼子の心を、自分でもどう対処して良いのかが判らなかったのだ。
結果ただ生きているだけなのかもしれない。
事実、死のうと思ったこともあったのだから。
嫌な気分を払拭するために、涼子はポータブルカセットプレイヤーから伸びているイヤフォンを耳にすると、再生ボタンを押した。
音質はお世辞にも良いとは言えない。スタジオでライン録りした音源だ。
今まで生きてきた中で、一番好きになった人が参加していたバンド。ただの高校生の、学生バンドだったけれど、涼子はこのバンドが大好きだった。
男への恐怖心が増大し、外に出歩けなかったときも、男の顔を見ただけで嘔吐したときも、死のうとすら思ったときも、いつでもこのバンドの曲が涼子を支えてくれていた。
高校最後の夏休みに行ったライブの直前に入った練習での音源だ。一番できが良かったから、ともらったカセットテープをすぐに五本のメタルテープにダビングして、それをマスター音源として保存していた。そのマスターから更にダビングをしてテープが伸びてしまったらまたマスターを元にダビングして、という作業をずっと繰り返しながらも聞いている曲だ。
(夏霞、って言うんだ。ちょっとハズいけどな)
この曲を書いた彼は、恥ずかしそうに、はにかむように笑った。
今となっては涼子に生きる力を与えてくれた楽曲だと言っても過言ではなかった。涼子はその曲を聞きながらベッドに身体を投げ出した。
「
最愛の人の名を呟いたら涙が出てきてしまった。
涼子が中学三年生の頃から想い続けていた相手、
この街にきて、独りで暮らすと決めたときに、忘れようと決意したはずだった。
たった独りで、孤独にも、恐怖にも、立ち向かった。でき得るならば、許されるならば、貴に捧げたかった純潔も穢されてしまった。
どうしようもない絶望の中で、何度も会いたいと思った。いや、今でも会いたいと思ってしまっている。
実家に帰れば彼と会う機会もあるのかもしれないと、淡い期待もした。しかしいざ貴と会うとなれば、涼子はまた逃げ出してしまうだろう。
涼子にしか修復でき得なかった貴の時間を、涼子自身が壊したままにしてしまったのだから。
「ん……」
遠くで電話の音が聞こえていた。涼子は知らず眠ってしまっていた。ポータブルカセットプレイヤーのバッテリーの充電量がいつの間にか尽きていた。
「……」
身体を起こすと、涼子は電話に手を伸ばす。
「もしもし、舞川です……」
『あ、あたしー。寝てた?』
電話の相手は涼子の一卵性双生児の姉である、舞川
「あー、うん。お姉ちゃん」
明るく出ようにも寝起きでは張りのある声は出せない。そのまま「寝起きです」というような声になってしまって、少し可笑しくなってしまった。
『なんかクラス会の案内がきてるよ、涼子宛の』
「クラス会?」
晶子は涼子とは違う高校へ進んだので、こういった催し物があっても一緒には参加できない。確か先日晶子が通っていた高校の同窓会があったらしいが、学校側が主催する催し物だったので晶子は行かなかったらしい。
『うん、あの学校主催とかのじゃないやつ、
「あ、そうだね。渡辺君、懐かしいな。いつなの?」
クラス委員で、面倒見が良いことから同い年なのに『ナベさん』と呼び慕われていた同級生の顔を思い出す。
『九月四日だって』
「結構先だね」
『でも涼子が戻ってきてから少しあるから、時期的には丁度良いんじゃない?』
実家へ帰って、地元の生活に馴染むまで二週間ほどの時間だ。違和感はあまりないだろうけれど、人付き合いで面倒なことが発生することはあるだろう。そしてその二週間の間に、彼と出くわすことはないだろうか。
「……そうだね」
『大丈夫?』
「うん、それはもう全然大丈夫だけど……」
実際に水沢貴之を目の前にしたら、どうなってしまうかはまだ判らない。
『けど?』
「み……。ゆ、
涼子の一番の親友の名を咄嗟に出した。しかし完全に失敗だった。
『み』
最初に出そうとした人物の名の頭文字を晶子は言う。たったそれだけでも全てがばれてしまう。
「……」
『むしろそっち』
「え?」
貴の顔を思い浮かべてしまったせいか、一瞬だけ晶子が言うことを聞き逃してしまった。
『あたしが大丈夫なの?って訊いたのはそっち』
「……わかんない」
正直に涼子は答える。事件の後遺症などが怖い訳ではない。後遺症などはもう医者にも症状は見られないと診断されたし、事実、今は外にも普通に出歩けるようになるまで回復した。ただ単に、彼の前から逃げ出すように東京へ出て、独り暮らしを始めてしまった涼子には、貴に合わせる顔がないのだ。
『あたしはあれ以来会ってないから、早々会うことはないと思うけど、クラス会、来るかもしれないよ』
「だよね……。どうしよう」
二ヶ月ほど前に晶子は貴に会ったらしい。貴は幼い頃に両親を亡くしてしまったので、年の離れた彼の姉が親代わりだった。その彼の姉、水沢かなみは喫茶店を経営している。高校生の頃は良く皆で行ったものだが、その店で貴に会ったらしい。
『会えばいいじゃないの』
「でも……」
『なんかすっごい仕事忙しいみたいだし、来れないかもしれないよ。でも他に
貴はいわゆる芸能業界でアシスタントディレクターとして働いているという話は聞いていた。朝も夜もなく、休みも殆どないと嘆いていた、という話は親友である
例え望んでいなくても。
「そう、だね……」
(どんな顔すればいいかなんて会ってからでいいよ)
数年前に涼子自身が貴に言った言葉だ。自分で言っておきながら、その後、何も貴にしてあげられなかった。何も言ってあげられなかった。
結果、何もできなかった自分が情けなくて、傷を持ったままの彼を見ることが辛くて、逃げ出してしまった。
『そのとき貴君がいたら、そのときに考えな』
「うん、そうする」
さすがは双子なのか、かつて涼子が貴に言ったような言葉を涼子に投げかけてきた。涼子は勤めて明るく晶子に答えた。そうだ、今更何を悩んでももう三年という月日が経ってしまっているのだ。誰も彼もあの頃のままではいられない。三年も前のことに拘っているのはきっと涼子独りだけだ。自分だけが前に進めていない。きっと貴にも好きな人や恋人がいるかもしれない。
もしそうなのだとしたら、少しは楽になれるのかもしれない。諦めがつく、という寂しさの中で。
『ま、とにかく色々考えすぎないことだね』
「だね。ありがとお姉ちゃん」
そう思うと少しだけ涼子の心も軽くなった。そう、強引にでも思って、涼子も新たな人生を歩み始めれば良いのだ。そうでなければ涼子はずっと立ち止まったままになってしまう。
『よっし、じゃあ帰ってくるときパステルのプリン買ってきてね』
「かしこまりっ」
きっと晶子には伝わってしまっているだろう。無理矢理にでも決着をつけなければならない窮地に立たされている涼子の心境は。ただ、それがどんな決着であったとしても、やはり晶子も、家族も、涼子が前に進むことを望んでいる。それは涼子にも充分に判っている。
だからこそ。
『やったぁ』
前向きに、歩いて行かなければならない。
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