挿話-3- Promise

序章 Little Sister

(あれは何年前だったかな……)

 舞川晶子まいかわしょうこは部屋の外から僅かに見える河川敷にかかる橋を眺めていた。夜景というには少々ランクが落ちるかもしれないが、これはこれで風情がある、と晶子は思う。

 昔と言うほど時間が過ぎ去ったとは思いたくない。

 高校時代とは違い、今はこうして夜の風景を見ながら酒を嗜むこともできる。それもこれも、様々なことが起きて、起こり続けて、やっと平穏になったからなのかもしれない。

 だから、少しだけ昔を思い出しているのかもしれない。

 晶子はそう思った。

 学生の頃でも昔を思い出し感慨に耽ることはあったが、酒が呑めるのとそうでないのには大きな違いがある、と今になって初めて判る。

 要するに大人になった。

 大人になってしまったのだろう。

 そんなことを考えていると、コンコン、と壁を叩く音。それからカラカラと窓が開く音が響いてくる。

 隣の部屋には妹の涼子りょうこがいる。きっと涼子もお互いに強くもない酒を呑んでいるのだろう。涼子の部屋と繋がっているベランダに出ると、涼子が既にベランダに出ていた。

「どしたの、涼子」

「お姉ちゃんと二人で呑みたいな、って思って」

 晶子と同じ顔で、絶対に晶子にはできない柔和な微笑みを涼子は見せた。

 妹と言っても晶子と涼子は一卵性双生児、所謂双子だ。双生児は先に母親の胎内から出た方が妹、弟となることがあるようで、舞川家もそれに倣い、晶子は出生の順番だけで涼子に「お姉ちゃん」と呼ばれてきた。

「そうね。暖かくなってきたし、今夜はここで呑もっか」

「うん」

 三月も終わる夜の空気。厳しい寒さは幾分か和らいできたものの、とはいえ暖かさを感じるにはまだ何日かは必要で。

 涼子の笑顔にはもう少し暖かい夜の方が似合いだ。けれど、開花し始めた桜の儚さは涼子に良く似合っている気がした。



 月曜日―

 冷たい雨が上がった月曜日。

「ふふ、お姉ちゃんは本当にきょうちゃんが好きなんだねっ」

 嬉しそうに笑う涼子。

 八年前のことだ。

 家が近くて、小学生の頃から一緒に遊んでいた秋山響一あきやまきょういちのことを晶子はずっと想っていた。

 中学一年生の時、部活動の終わる頃に正門前で待ち合わせていた時、遅れていた響一を待っている間に涼子が言った言葉。



 金曜日―

 新しい傘が白い粉雪に彩られた金曜日。

「わたしも好きな人、早く見つかるといいなぁ」

 くすくす、と可愛く笑う涼子。

 七年前の中学二年生。

 響一に告白はできないままだったけれど、進展はしていたと思う。

 時々、いつも三人で行動していたところから抜け出して、二人きりで遊びに行ったりしたのも中学二年生の頃からだ。



 日曜日―

 てるてる坊主が効いた日曜日。

「しっかりね。ちゃんとお姉ちゃんが響ちゃんのこと想ってればきっと大丈夫だよ」

 満面の笑顔で晶子を送り出す涼子。何の迷いもない顔で。

 六年前になる。

 響一の方から晶子に告白してきてくれた。

 そして、晶子は、今までの涼子の笑顔の裏側を始めて知らされた。



「響一さ、涼子の気持ちって気付いてた?」

 響一が運転する車の中、助手席で晶子は言う。響一の趣味であるクラシックが静かな音量で流れる。小学生の頃から吹奏楽部に所属していたせいか、それとも元々こういった音楽が好きで吹奏楽部に所属していたのか、そういえば訊いたことがなかった。

「え?」

「中学の時さ、あたしに告白してくれたでしょ。その時」

 確かに唐突に言われても何のことだかは判らないだろうと思い、晶子は補足した。

「あぁー、知ってた。っつーか晶子には悪いけど、ほんと、そのちょっと前までは俺が決められなくて悩んでたんだ」

「え、それ本当?」

「あぁ。どっちも泣き顔見たくないなぁって思ってたんだけど、きっと俺が決めなくちゃいけないことなんだろうって、すっげぇ悩んだ。俺はどっちが好きなんだろう、どっちとずっと一緒にいたいんだろうってな」

 前を見ているせいか、表情を読み取ることはできなかった。

「もしかして後悔したこととか、あった?」

 冗談ぽく、そう言ってみる。多少の不安は晶子の中で燻ったが。

「はは、それはないな。涼子とは付き合ったことないんだからさ。涼子の女の部分って見たことないし、比べようないじゃん」

「そっか。はー、なんかすっごい安心」

 響一の言葉に安堵を覚える自分が少しだけ嫌だった。涼子が響一と晶子のために身を退いてくれたことは知っている。涼子は晶子がそれに気付いていない、と思っているけれど。

「でも同じ顔だからなぁ」

「ふふ、響一でも違いは判らない?」

「判るって、いくらなんだって」

 少し、胸にかかり始めていた暗雲が晴れたような気がする。

 響一は晶子を選んでくれた。涼子ではなく、晶子をしっかりと見てくれている。晶子を選んでくれた響一をもっと信じよう。身を退いてくれた涼子に胸を張れるように。

 涼子は涼子で今は恋人がいて幸せなのだから。

 響一への想いを押し殺し、響一から身を退いて、きちんと、自分の力で涼子も幸せを手に入れたのだから。涼子に負けないように、涼子と一緒に幸せになっていこう、と晶子は思った。

「何今更不安になってんだよ。涼子には水沢みずさわがいるし、お前には俺がいるんだからさ……」

「うん、ごめん」

「こういう恥ずかしいこと、言わせないでくれる?」

「だからごめん、って」

 鼻の下をこする響一に晶子は笑顔を向けた。



(そっか、もうすぐ七年になるんだ)

「お姉ちゃん、響ちゃんと、ちゃんとうまくいってるの?」

「なによやぶから棒に」

 笑って晶子は返した。

「ちゃんとうまくいってるわよ。そういうあんたはたか君とうまくやってるの?」

「ふふっ、やってるよ。あの通り貴は優しいから、ね」

 貴、というのは涼子の恋人の水沢貴之たかゆきのことだ。貴のことを思い出してか、柔和な笑顔を涼子はこちらに向けた。

 涼子と貴はまだ付き合い始めて一ヶ月だ。今が一番楽しい頃合いだろう。この先に待っている壁は、きっと高くて分厚い。それでも、その壁を一緒に打ち崩したり、乗り越えたりする為に、もっと二人の距離を近付ける時間はまだある。

「はいはい、ご馳走様ぁ」

「な、何よぉ、別にそういう意味で言ったんじゃないのに」

 ぱ、っと顔を赤くして涼子が言った。双子とは言え、こういうところは全く自分とは似ていない。似ているのは姿格好だけだ。

 性格は逆、と言っても良いくらいに違う。涼子は女らしい、控えめな性格をしている。炊事洗濯も晶子よりもてきぱきとこなす。涼子が作った物は食べ物であれ飲み物であれ、自分が作ったものよりもおいしい。子供の頃、親にはいつも「もう少し涼子を見習いなさい」と良く言われたものだった。

「あはは、判ってるって。でもさ、貴君といると幸せだったりするでしょ」

「う、うん……。いやーちょっとお姉ちゃん、そういうのすっごい恥ずかしいんだけどっ」

 更に赤面して俯く。

 同じ女から見ても可愛いと思う。涼子の恋人が貴のような優しい男で本当に良かった、と晶子はつくづく思う。

 貴ならばどんな時にでも涼子を守ってくれるはずだと思わせてくれる。百パーセントなどありえないことは晶子も判っているけれど、そのくらい本当に良い男で、涼子にはお似合いだ。

「あはは。でも良かった。涼子にはね、ちゃんと幸せになってもらわなくちゃいけないんだからね」

「お姉ちゃん……」

(あたしよりもずっと、もっと幸せにならなくちゃ駄目なのよ、涼子は)

「もちろん、あたしだって幸せになるけどね!」

「そうだね、一緒にね!」

 満面の笑顔で持っていたグラスを晶子のグラスにぶつけてくる涼子。六年前の笑顔とは違う、本当の笑顔を見ることができて、晶子も笑顔を返す。

「うぅ、やっぱちょっと冷えるね。あたしの部屋で呑も、涼子」

「うん」

「あ、明日は遊びに行くんだっけ?」

 自動車やオートバイの整備工場のアルバイトをしている貴と、貴の実家の喫茶店で働いている涼子は平日休みが殆どだ。

 明日は確かドライブに出かける、と言っていたことを晶子は思い出した。

「じゃあ深酒禁止だよ」

「元々強くないしね、お互い。お姉ちゃんだって仕事でしょ」

「そうだけどね。じゃあとちょっとだけ呑んで寝よっか」

「うん、そうだね」

 涼子のグラスに自分が呑んでいた缶チューハイを注ぐと、涼子が缶を持って、晶子のグラスに返杯した。チン、と小気味良い音が鳴り、晶子は一口酒を呑んだ。


 序章 Little Sister 終り

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