第一話 When the flower of a cherry tree blooms.
四月
昨日まで降っていた冬の再来を感じさせる雨は上がり、何度も深呼吸をして
「わぁ、ちょ、ちょっと待ってよ
「何してんだよ
いつもの光景だ。
晶子と涼子が途中から響一と合流して、登校する。
「今日は響一が遅かったせいなんだから少しゆっくり歩きなよー」
晶子が言って笑う。
涼子は何をするにも人よりも少しだけペースが遅い。その代わり何をやっても的確だ。歩くこと、走ること以外は。
響一を挟んで右側が晶子、左側が涼子だ。いつもこうして歩いている。しかし今日は涼子が並んでいない。それほどに早い足取りで歩いているのだ。時折涼子は小走りになっては転びそうになり、自分と響一を追いかけてくる。
小学生の頃からいつも三人一緒だった。響一は良く男友達に冷やかされたりしたらしいが、女の身である晶子には痛くも痒くもない。
「でもお前、これずっと涼子のペースだったら遅刻だって!ほら、もうちょい頑張って歩けよ涼子!」
「が、がんばってるよぉ」
ふーふーと言いながらやっとのことで響一の左側につく。遅刻といっても授業に間に合わない訳ではない。三人は各々部活動をやっており、その朝の練習に間に合わなくなる、という状況だ。
「あぁ!今日漢字テストだ!響一ちゃんとやってきた?」
「俺はこれでも漢字得意なんだよ。晶子と違って」
「お姉ちゃん漢字苦手だもんねぇ」
涼子も漢字は得意だったはずだ。というよりも、涼子は英語が若干苦手なだけでそれほど苦手な科目はなかった。
「まぁねぇ。漢字なんて読めりゃいいのよ、書けなくたって!あぁ、覚えてたら昨日涼子に教わったのに……」
「ははは、後悔するか諦めるかどっちかにしろよ」
響一と晶子は同じクラスだったが、涼子は違うクラスだ。涼子のクラスは漢字テストはないのだろうか。涼しい顔を、と思ったが、早歩きのせいで部活前だというのに疲れた顔をしていた。
「まぁ仕方ないわね!」
「何だよ、帰りにラーメン奢ってくれるなら教えてやらんでもないぜ」
「結構よ!」
「お姉ちゃん今月洋服買っちゃったからお小遣い残り少ないんだよねー」
「あたしは涼子みたいに貯蓄はできない性質なのよ!」
涼子の言葉に苦笑して晶子は言った。涼子はあまり衝動買いなどをしない。コツコツと溜めているのだろう。
「でも今日は響ちゃんが寝坊したから、その罰としてお姉ちゃんに漢字教えてあげたら?」
「さすがはマイリトルシスター!そういう訳で響一、よろしくー」
くすくすと笑いながら援護射撃をしてくれた妹に便乗し、晶子も笑顔になる。
「涼子、それはちょっとずるくないか?」
「へっへっへぇ」
頭を掻いて照れ笑いをする涼子。
「涼子はいつでもあたしの味方なのよ」
「俺の味方はいねーのか」
「涼子に迷惑ばっかりかけてるんだから味方になんてついてくれないわよ」
「そ、そんなことないよ」
口元に小さな拳を当てて涼子は言う。
涼子の癖だ。こういうところは可愛らしいと思うが、何故自分にはこういった女の子らしい仕草ができないのだろう、と晶子は首を傾げる。
涼子が似合うのだから、同じ顔をしている自分にも似合うはずだ、と判ってはいても、そう簡単にできるものではない。
「ほら見ろ、ちゃんと俺の味方だってしてくれるって言ってるぞ」
「涼子、騙されちゃダメよ、それで何回痛い目にあってると思ってるの!」
「お前なぁー!そんな俺が酷い人間みたいに言うなよ!何にもしてないだろー!」
ぐわぁ、っと手を上げて響一は叫びだした。本当にいつも涼子には頭が上がらないくせに、晶子にはこうして手まで上げてくる。ぽん、と響一の手刀が晶子の頭の上で跳ねる。
「ひっどーい!暴力反対!」
「何が暴力だ。これはツッコミという正当なコミュニケーションなんだって何回言ったら判るんだよ。なぁ涼子」
「涼子にはツッコミしないくせに!」
「あー、煩いな、さてホントに遅れるぞ、もう少し早く歩けるか?涼子」
ぽん、涼子の肩に手を乗せて響一は言う。
「えー、で、でも遅れちゃうから、頑張るよ」
「じゃ、ちょっと急ごう!」
晶子は陸上部員だった。短距離走の選手で、校内でもそこそこの記録を保持していた。一年生でレギュラーを取っているのは晶子ともう一人だけだった。五月中頃には中学校総合体育大会、総体と称した大会があり、予選は五月の頭に行われる。もう一ヶ月もないせいか、練習には力が入っていた。響一は吹奏楽部、涼子はバレーボール部で、どの部活も春の大会に向けて頑張っている。涼子や響一はまだ基礎練習しかやっていない時期に、晶子だけが上級生と同じメニューをこなしている。
「あぁー、今日もシンドかった……」
「私もー。球拾いばっかりで飽きちゃうし疲れちゃうよぉ」
正門の前で帰りの待ち合わせをしていた晶子と涼子はお互いに疲れた顔をしていた。
「響一は?」
「さっき部室の方へ行ったらなんだかもうちょっとかかるんだって」
「えー!なによもう」
「どうしたの?」
急に憤慨した晶子を見てか、涼子が不思議顔を作る。
「いや、漢字テストねー、思ったよりできたからラーメン奢ってあげるって言ったのよ」
「あ、そうなんだ。良かったね!」
「まぁね。普段漢字なんてあんなにできないから」
少しは国語の成績アップに繋がるだろうか。もしそうなったのならラーメンどころの騒ぎではなくなってしまう。
そんなことを思いながら晶子は苦笑した。
「そうじゃなくて」
「え?」
涼子の言った言葉の意味を量り損ねて晶子は訊き返した。
「響ちゃんと一緒にいる時間が長くなるじゃない」
「な、何言ってんのよ涼子。あんな鬱陶しい奴と一緒にラーメンなんて食べたくないけどまぁそれなりに感謝してるから仕方なしに……」
ぴ、と人差し指を立てて涼子はその指を晶子の目の前に持ってきた。
「な、何?」
涼子が何を考えているのか判らない。
いや、きっと判りたくない。
「ふふ、お姉ちゃんは本当に響ちゃんが好きなんだねっ」
嬉しそうに、涼子が赤面しながら言う。
「え?えぇ?」
何か、態度に出ていたのだろうか。普通に、友達として、幼馴染として接してきたはずだというのに。確かに晶子は響一が好きだったが、涼子にはそのことを話したことがなかった。わざとらしい驚愕は、涼子に通じただろうか。
「じゃあ私は先に帰ってるね。お母さんに言っておくから」
「え、涼子、行かないの?」
違う。これではいつものスタンスではなくなってしまう。三人で仲良く登下校したり、休みの日には無意味に色々な映画を借りてきて三人で見たり、そうして長く続いてきた幼馴染の関係と時間が崩れてしまう。自分一人のせいで。
「私今日螻蛄なんだ。お財布忘れちゃったし」
スカートのポケットの裏地を引っ張り出して涼子は苦笑した。
「そのくらいならあたしだってまだ」
「それじゃね」
そう、財布を出そうとした晶子の言葉を遮って涼子は背を向ける。でも、と晶子は思い直す。少しずつ少しずつ小さくなる涼子の背を見つめて。
「きっとこのまんまじゃいられないんだ……」
小さな声で呟いた。
自分の気持ちに正直になりたい。そう願った。どうせこのまま何も起こらずに時間が過ぎてしまえば、三人は別々の道を歩んでいくことになるのだ、と。言葉だけでそう思っていた。
「ただいまぁ」
「あれ?お帰り。早かったんだね。ご飯もうちょっとだから先にお風呂入っちゃってよ」
涼子がお勝手から顔を出した。折角涼子が気を利かせてくれて響一と二人きりだったというのに、早く帰ってきてしまった。
「うん……」
「どうしたの?お姉ちゃん」
パタパタとスリッパを鳴らして涼子が近付いてくる。
「え?なんでもないけど?」
ぱ、っと表情を切り替えて晶子は笑顔になる。きっと作り笑顔になってしまっているだろうことは自分でも判っていた。
「そ、じゃあ早くお風呂」
「判ったわよぉ。はぁーやれやれ」
玄関に座り込みながら晶子はわざとらしく溜息をついた。
「なにそれ、オジサンみたい」
くすくすと涼子は笑う。涼子は何も感じていないのだろうか。自分が、晶子が今までの三人の関係を崩してしまうことをしてきていた、というのに。
「ほら、あたしお姉ちゃんだから、涼子より年食ってるのよ」
「あはは、先に生まれたのは私だって聞いてるけどね」
屈託のない笑顔。晶子は、涼子も響一が好きなのではないか、と思っていたのだ。晶子が響一のことを好きだったことが涼子に判っていたように、涼子が感じていたように、晶子にもそれは感じられたはずだったのに。
思い違いだったのだろうか、と晶子は靴紐を解きながらそう思った。
晶子が靴を脱ぎ終えないうちに涼子はお勝手に戻って行く。母親の手伝いをしているのだろう。晶子は靴を脱ぐと一旦自室に戻り鞄を部屋のベッドの上に放り投げた。ベッドに倒れこみたい衝動に駆られるが、それをやってしまうと涼子や母親から口煩く注意されてしまう。
「ぬぅ……。ここはガマンね」
思いを断ち切るようにベッドに背を向けて、晶子は風呂場へと向かった。
生乾きの髪にブラシを入れる。
「……髪、また伸ばそっかな」
晶子は小学四年生まではロングヘアーだったのだが、それ以降はショートカットで通している。涼子がロングなのに対して、まるで目印や区別化するように、晶子はずっとショートカットにしていたのだ。面倒はないし、髪を洗う時間も短くて済む。
涼子よりも活発的な性格だということも自負しているせいか、これが晶子の髪型、と自分でも決め付けてしまっていた。誰がショートカットにしろ、と言った訳でもなかったというのに。
つん、と前髪を少し引っ張る。
くるりと振り返った後に揺れる涼子の長い髪を羨ましいと思ったことは何度もある。
「んー……」
ドライヤーのスイッチを入れて乱暴に髪をかき回す。
「やっぱやめ」
これはこれで手間は少ないし楽だ。それに今の時期はまだ良いが、夏場になったら長い髪が肌に張り付いて鬱陶しくなってしまう。髪をまとめれば良いだけの話だが、その手間を考えるのならば、今のままの方が良い。しばらくドライヤーを当てていると程なくして髪は乾き、それと同時に腹の虫が鳴った。先ほど響一とラーメンを食べたばかりだというのに、恐ろしい食欲に自分でも呆れ返ってしまう。
しかし今は食べ盛りの育ち盛りだ。陸上だってやっているし、食べられるのならばなんだって食べたい。
「さぁって、ごはんごはん」
独り言が多いのはきっと不安が消せないでいる証拠だ。それは晶子自身判っていた。
(涼子は、響一のこと好きじゃないのかな……)
どうしたら良いかは、今は考える気にはなれなかった。
第一話 When the flower of a cherry tree blooms.
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