最終話 連翹空木
六月一二日 日曜日
「やっぱり終っちゃってたね」
「まぁでも一年中何でも咲いてるなんて方が珍しいんじゃないの?」
植物園を出て車に乗り込むと
「かも。本当は三月末頃から花が咲くから、ダメ元だったんだ」
「春先に咲く花なのか」
「うん、そう。
「へぇ。でもじゃあ結構綺麗な花なのか」
まだ寒さも残る春先に咲く花、というだけで何だか綺麗な花というイメージがある。安直かな、とは思うが、綺麗でもない花を涼子が態々見たがるとは思えない。
「ううん、綺麗は綺麗だけど、そんなに派手派手しくはないかな。自然のやつで生い茂ってると結構綺麗っていうか、わーってなるんだけど」
「なんでそれが見たかった訳?」
素朴な疑問を貴は口にした。自然に咲いているものはあまり見られないものなのだろうか。
「たかと二人で見たかったんだ」
「ほう。またなんで」
「花言葉がね」
「お、随分乙女チックに出ましたな」
そうか、と思い至る。花にはそれぞれ花言葉がある。貴も趣味で小説を書くときに少しだけ調べたことがあった。涼子の部屋にはいくつかぬいぐるみもあったはずだが、何と言うか時々こうした涼子の女の子らしい一面を見ると、やはり女の子なのだな、と思う。当たり前のことだと判っているつもりでも、こうして時々思い知らされる。
「一応乙女のつもりですから、これでも」
苦笑しつつ涼子は言った。今まであまり涼子の乙女らしい部分を見てこなかったせいか、貴は慌てて訂正した。そもそも涼子は乙女チックな女だっただろうか、という疑問は口にしない。
「は、これは失礼。で、どんな花言葉なんですか」
「色々あるんだけど、私が好きなのは『希望』、『叶えられた希望』っていうのがあるんだ」
「それはまた……。我々には丁度いいですなぁ」
「でしょ」
その花言葉は正しく貴と涼子の関係を表したような花言葉だ。
昨夜、正に二人の希望は叶えられた。これからも希望は沢山出てくるだろうけれど、今の二人は何としても叶えたかった希望を叶えた。だから涼子は貴と二人でその花を見たかったのだろう。
「たかに抱かれなくちゃ本当の意味でたかの女になれないって、そういう呪縛みたいなのに捕らわれちゃったけど、でもね、それは本当の女がどうとかじゃなくて、私の希望だったの。ただ、単純にたかに抱かれたかったっていうだけの」
「そっか」
浄化されたいという気持ちは常に涼子の中にあったのだろう。
涼子と繋がることができたあの瞬間、貴自身も何か憑き物が落ちたような感覚に捕らわれた。
きっと貴も涼子もあの事件にずっと呪縛されていたのだ。しかし二人が繋がったことで二人はやっとその呪縛から解き放たれたということなのだろう。
「たかだってそうでしょ」
「そう、だな……」
それを見透かしたように涼子は言う。
確かに涼子の言う通りだった。貴は最愛の人と結ばれることを望み、男として愛する女を抱くことを望んだ。そしてそれはようやく、とてつもない遠回りをして、叶えられた希望だ。
「いっぱい、我慢させちゃったね」
「別にそんなこと、どうでもいいよ」
大切なのは過去に捕らわれることではない。今からどう前に進んで行くかだ。特に貴と涼子の間では、過去を忘れてはならない代わりに、捕らわれてもいけないのだから。
漸く希望は叶えられたのだから。
「でも」
「今は、違うじゃん」
力強く、貴は言う。精一杯の気持ちを込めて。涼子の目を見て。
「……うん」
涼子も視線を外さないまま頷いてくれた。それだけで貴は満足した。振り返ってしまうことはこの先いくらでもある。けれど、前を向いて歩いて行かなければならないのは何も貴と涼子だけではない。貴と涼子を支えてくれた親友達もみんなそうして前を向き、歩んできたのだから。
「ま、もちろん我慢させられた分取り返しますけどね」
「……もう。やらしいな」
とりあえず満足できたので貴は切り替えて話題を軽くした。いや、これはこれで本心でもあるのだが。
「いやぁ涼子さんほどじゃないっすよぉー」
「またそういうこと!」
恐らく涼子にとっては心外なのだろう。
しかし涼子の変に生真面目な正確は、性行為に興味があるというよりもむしろ、きちんとした知識を得たいというところからきている知的好奇心なので無碍にはできないものがある。結ばれる直前の涼子はそれが顕著に現れていて、貴も苦渋の決断をしなければならない局面に立たされたこともあった。それでも二人のために、と男友達には絶対言えない(言ったが)ようなこともしてきた。今思い出すだけでも、恥ずかしくて体のどこかがむずむずしてくるようだった。
「だってホントじゃん」
「ホントじゃないですー!」
「えー」
つまり、軽く言ってしまえばそういうことであるとは思うのだが、涼子は別段性行為を楽しむ為に知識を得ようとした訳ではない。心外なのも良く判るのだが、ついついからかっていて楽しくなってしまう。
「じゃあいいよ。もうしないから」
つい、と涼子が顔を背けて言う。そう言われれば困るのは貴だ。
「え……」
「もうちゃんと希望は叶えられましたから!」
しかし涼子も本心で言っている訳ではないことは判る。それならば、と更に貴は悪ノリを続けた。
「ひどい!一回しといて捨てるなんて!僕を弄ぶなんて悪女ですか!」
「捨ててなんかあげません。一生飼い殺し?」
「ひぃ!」
「まぁでも別にぃ、たかがどぉーしてもしたい、って言うんだったらぁ、してあげてもいっかなぁ、って思うけどぉー」
「……やりすぎっ」
「だね」
ぽす、と涼子の額に軽くチョップして貴は笑った。
涼子も笑顔になる。屈託のない笑顔。これこそが貴が本当に望んでいた希望そのものだ。
今度こそ、この大切な人の笑顔を失ってはならない。
生涯をかけてでも守り抜かなければならない。もしかしたらこの先に、また涼子の笑顔を奪ってしまうような出来事が起こってしまうかもしれない。
そうなったらまた全力で取り戻さなければならない。今回の件でそのための手段は嫌というほど学んだ。それが涼子に選んでもらった男の役割だ。できることならば、今度こそ本当に涼子を泣かすもの全てから涼子を守りたい。そして涼子に一番大切な人だと思われていたい。必要とされていたい。二度と離れてみよう、などと言われたくない。そして言わせるようなことをしたくない。
「さって、エンジンも暖まったことだし、帰るか!」
ひっそりと心の中で決意をして貴は少しだけ声を張った。
貴が心の底から欲しかった涼子の笑顔。連翹空木を見ることはできなかったけれど、すべての希望は叶えられた。そして来年の春先に、必ず涼子と二人でその花を見に行こう、と新たな希望を胸に抱く。
「そうだね。どこかでご飯食べてこ」
「よーし、じゃあ牛丼!」
「えー!ラーメンがいい!」
冗談めかして言った貴に涼子がそう言ってきた。今までそういった店にはデートでは行ったことがなかったせいか、貴は目を丸くした。それも固定概念だったのかもしれない。
「あれ、その手のは冗談だったんだけど」
「でもラーメン食べたい。そういうとこ殆ど行ったことないよね、二人でだと」
涼子も判っていたのだろう。勿論ファミリーレストランなども多かったし、特に気取ったところばかりでもなかったが、そうした安くて旨い、というお手軽な、例えば男が一人で入りやすいような店にはあまり行っていなかった。
二人が自然にいられるために、なすべきことはまだまだ沢山、山のように残されている。涼子と通じ合えたことは喜ぶべき出来事ではあるが、これもまた通過点の一つでしかない。
「んだな。よっし、じゃあラーメンにすっか!」
「うん!」
共に歩むべき笑顔で涼子はとても嬉しそうに頷いた。
続・夏霞 -連翹空木- 終り
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