第一話 再会の重さ

 八月二八日 金曜日


「クラス会、何人くらい来るかな」

 ファミリーレストランで何杯目かの珈琲を飲みながら、高校時代からの親友の一人、川北忠かわきたただしが言った。

 カラオケのバックに流れる映像の撮影をする映像制作会社のアシスタントディレクターという特殊な職業柄、人気アーティストの発売前の音源などを先行して貰えることもあるたかは、忠が好きなアーティストの音源を手に入れたのでついでに飯でも、ということに相成った。

「どうだろうな。りょう大輔だいすけにも会いたいけど」

 貴にとっても忠にとっても変わらぬ、バンドメンバーでもあった親友。何物にも比べることのできない程の数少ない大切な親友達だ。

「でもちょっと楽しみだよな。久しぶりに会う顔が多そうでさ。涼子りょうこちゃんも来るかもしんないし」

 そこに他意は感じられなかった。だが、貴はほんの一瞬、表情を曇らせた。涼子の名が出た途端、貴は繋げる言葉を失ってしまった。

「あ、お前、もしかしてまだ……」

 少し見開かれた忠の目が語る。

 失敗した。

 今更、こんなことで、こんな場面で顔に出すことなどなかった。一瞬の逡巡の後、貴は苦笑めいた表情を作る。

「や、そうじゃなくてさ。やっぱりあの時、ちゃんと言っときゃあ良かったかなってさ……」

 頭を掻く。どこか悪戯っぽい笑みに変えて。

 誤魔化せるだろうか。自分も、忠も。

「そっか。お前なりに後悔してるって訳だ」

「ま、そんなとこですかねぇ」

 忠は少し安心したのか、苦笑して残った珈琲を一気に飲み乾した。

「さてと、そろそろ行くとしますか」

 気付けば随分と長い時間入り浸ってしまっていた。小遣いの少ない学生ではあるまいし、と貴は内心苦笑する。

「行かれますかっ」

 貴は伝票を手にすると高校時代に良く使った、おどけ口調で言いながら席を立った。

「懐かしいなぁ、それ」

「へへっ」

 支払いを終えた二人は店を出て自分の車へと歩いて行くと、各々エンジンの暖気を始めた。

「ちょっと疲れてんじゃないかと思ったけどさ、安心した」

 忠が苦笑交じりで言う。

「ま、それほどヤワじゃありませんって」

 口先だけでも。

 まだ強がることはできる。きっとこうして心配をかけてしまっているのは姉のかなみだけではないことは、忠を見ても判ってしまう。

「まぁな。……時間あれば、またバンドとかやりたいけど」

「ま、無理だろうな。おれと諒に時間がなさ過ぎるよ」

 多忙なのは貴だけではない。勿論忠の言った通りに、昔と同じようにとはいかなくともバンドができるのならば、どれほど良いだろうか。

 自分が懸命になれるものがあればどれほど救いになるか。

「そろそろいいか?んじゃ、土曜な」

 運転席の中の水温計を見て忠が言う。

「んっ」

 敬礼を崩した感じの挨拶をし、笑い合って二人は別々の方向へ車を走らせた。



 途端に貴は自己嫌悪の念に駆られた。

 駄目だ。

 きっと今の不安定さは、忠にも伝わってしまった。ただでさえ心配をかけてしまっているのだ。せめて親友に対してだけでもそんな弱りきった姿を見せたくはなかったが、心も、体も簡単には言うこと聞いてはくれない。

 の名が出ただけで、動揺が顔に出てしまうなんて。

(情けない)

 仲間がいなければ一人で立つことすらできないのに、仲間達に何一つ本当のことを言えない。

 自ら仲間達を突き放してしまっているのに。

 それでいてこの有り様だ。

(どうしようもない)

 交差点が近付くと、貴は車の速度を落とし、方向指示器を出す。

「?」

 ふと、道路の右側をスーツケースを引いて歩いている小柄な女性に目が留まった。ブルーグレーのサマーカーディガンに白いプリーツスカート、肩にかかる少しだけ明るい色のセミロングの髪が歩調と共に軽く弾んでいる。

 派手派手しくはなく、とはいえ地味でもなく、そこはかとなく花があるような女性だった。ゆっくりと右折しながら、貴はその女性を目で追う。

 妙な予感がした。

 貴は車を左側に寄せて停める。意識的に避けようとしている。

 振り向くな、という念が矛盾となって貴の胸中を駆け巡る。

 女性は貴の車が停まっている方向に歩いてきた。

「……舞川まいかわ?」

 それならば声をかけるべきではない。貴の真横を歩き過ぎる女性に視線も向けられない。酷く矛盾した心と体がもどかしい。

「……舞川、か?」

 窓ガラス一枚を隔てた貴の呟きが女性の後姿に届くはずもなく。

 今の自分を一番見せたくない相手なのに、それでももし本当に……。

(本当に舞川なら……)

 貴はそんな矛盾の中、知らずパワーウィンドのスイッチを押していた。湿度の高い空気が車内に入り込むことに何の抵抗も感じなかった。

「舞川!」

 貴は窓から身を乗り出して声を上げた。殆ど無意識だった。いや、無意識を装っていたのかもしれない。

 クルリとその女性が貴の方を振り返る。

「……水沢みずさわ君?」

 声をかけられた女性は一瞬の逡巡の後、間違いなく、貴の名を口にした。

「へへ、久しぶりっ」

「わあぁ、水沢君久しぶり!元気だった?」

 小走りに近付いてきた女性は、やはり貴の高校時代の同級生、舞川涼子まいかわりょうこだった。

 屈託のない笑顔に言い知れぬ不安を感じる。高校時代は童顔だった可愛らしいその顔は、いくらか大人びている気がした。

 今一つ決まらない挨拶だったかな、と貴は能天気に頭を掻く。そのくらいのことはまだできるのだと自身に言い訳をしながら。

「ん、あぁ、元気元気。とりゃあず乗んなさい、送ってってやっからさ」

 笑って言うと貴は助手席側のロックを解除した。涼子の前でだけは、この弱りきった自分を見せる訳にはいかない。

 いつでも自分をさらけ出している『前向きな水沢君』を演じなければならない。

 そう、しなければならない。

「え、ホント?……じゃあ、お言葉に甘えて」

 涼子は助手席側に回ってドアを開けると、ただ地元に帰ってくるだけにしてはやけに大きいスーツケースを後部座席に置き、助手席に座った。

「お邪魔しまぁす。あぁ、涼しい」

 そう笑顔で言い、シートベルトを装着した涼子に、貴も笑顔を返して迎えると、ゆっくりとクラッチを繋いだ。

「寒くない?」

「うん、大丈夫」

 涼子の声を待たずに貴はエアコンを少し弱めた。

「どうしたんだよ、こっちに来るなんてさ」

 確かここ数年、正月も帰ってきてはいなかったはずだった。忠の恋人である香奈が涼子とは仲が良いため、時折情報は入ってきていた。

「ほら、もうすぐクラス会でしょ?だから……」

「でも来週じゃん、するってぇと、休暇ってやつ?」

 貴は煙草を一本取り出しながら涼子に言った。

「うん、まぁ、ね」

 窓の外に流れる景色を見詰めてか、涼子は答えた。

「そいつぁ羨ましい。おれなんか休暇なんて取らしてくんねぇもんなぁ。週に一度の日曜だって休めるかどうかも判んないし」

 言いながら煙草を咥えると、貴はシガーライターを押し込む。

「やっぱり大変なんだね、ADさんって」

 景色から目を離し、涼子は言う。綺麗だったソプラノはあの頃よりも少し、落ち着いている。誰も彼もが無邪気な子供のままではいられない。

 これが現実なのだろう。

「ま、自慢にもなりませんが。ところでどうですか、都会の生活ってやつは」

 休む間もないほどの忙しさなど本当に自慢にもならない。嫌な気持ちを切り替えるように貴は努めて明るく涼子に尋ねる。

「やぁ、都会の生活って言われても……。電車で二時間弱だしね。そんなに大袈裟なものじゃないよ。確か水沢君の職場だって私の会社とそんなに離れてないでしょ?」

 苦笑して涼子は言った。確かにそれほど都心とは離れていないこともあって、東京で独り暮らしをするとは言っても大仰なことではない。実際に貴のように地元から通勤している者も多い。

「ま、そうだね」

 涼子の職場が近い所にあることも知ってはいた。知ってはいたけれど、仕事に忙殺されていれば食事に誘うこともできはしない。何よりその手段を貴は取ろうとはしなかった。

「うーん、こっちにいた時の方が全然楽しかったってことだけは、確かかなぁ」

 確信に満ちた言葉。もう戻れはしないことを知っていながら。

 その言葉の深い深い中心にあるシンパシー。

「やっぱりそっか。所詮馴染みの薄い会社だけの付き合いじゃ中々学生時代みたいな友達は出来ないかもなぁ。みんな同じなんだな」

 そんな身勝手な、本当であればシンパシーとも呼べない感覚に、少し安堵して貴は言う。

「そうかもしれないね。仕事が終わって時折お酒呑みに行ったりするくらいで、それほど深い付き合いはしてないかな、やっぱり」

「こっちには親友がいるし、か?」

 酷い言い様だ、と内心自嘲する。友人に頼らなければ自分を保てないのが貴だ。しかし涼子は違う。涼子はそんな友人からも離れて生きることを、自らが選んだ。

 そんな涼子に投げかけて良い言葉では無かった。

「うん、そうだね」

「ははっ。そっかぁ、おれなんかたまの休みになりゃあ忠達と会ってるからなぁ。今も忠とメシ食ってたとこだよ」

 涼子の表情を見ることもできず、何の感情も乗せられない言葉を並べ立てる。上っ面で会話していることを自覚する。

 がち、と音がしてシガーライターが元の位置に戻ると、貴はそれを引き取って咥えたままの煙草に付けた。じじ、という音と共に煙草の香りが車内に漂い始める。

「へぇ、いいなぁ。他の皆は?夕香ゆうかにもたまに会ってるんでしょ?」

「うん。夕香はね、休みが中々合わないから、ホントにたまぁにですけどね。大輔もゆかりちゃんと同棲始めちゃって今は忙しいみたいでさ、あんまり会えなくなっちゃったし」

 シガーライターを元の位置に差し込み、少し窓を開けると貴は言った。ぷかりと輪っかの煙を吐き出す。夕香は涼子の親友であり、貴や忠の親友でもある諒の恋人だ。

「そぉかぁ。でも大輔君と縁ちゃんの話聞いた時はホントびっくりしちゃったなぁ。きっと上手くやってるんだろうね、あの二人のことだから。ちょっと羨ましいな」

 煙の輪っかが窓から入り込む風に壊される。そう言い切れてしまう涼子は今、どんな表情をしているのだろう。

「だろうねぇ」

 そう言うことしかできず、窓の外に煙草の灰を落とす。肺に溜めた煙を吐き出すと、ゆっくりと車を左折させた。

「諒君も今じゃ有名人になってきちゃってるもんね。こないだテレビ見てたら出てたよ、なんか新人のユニットのバックでドラム叩いてた」

「舞川も見たのか、あのテレビ。そういやあのばか野郎にも全然会ってねぇなぁ。ま、お忙しい人だってのは判ってるんですけどねぇ」

「うん……」

 諒は高校を中退してプロのミュージシャンになった。諒の両親も、恋人である夕香も、反対こそしなかったものの随分と心配はしていた。それでも貴はどこかで自分の夢にまっすぐ走っていった諒を羨ましく思っていた。

 高校を辞めてまで追いたい夢を持ち、その夢を追って、突っ走って行った親友を、冷めた目で見る者もいた。しかし貴にその感情はなかった。自らがやれなかったことをやってのけた親友に対し、誇らしい気持ちと羨望感、そして自分自身への焦燥感が常にあった。

 ほんの少しだけ、しばらく会っていなかった親友に思いを馳せていたが、我に返ると一度頷いたっきりだった涼子が押し黙ってしまっていた。

 少し俯き加減に自分の手を見詰めている。

「……ん?どした、舞川」

 貴が横目で涼子を見る。その表情を見て取るには車内は暗すぎた。

「お姉ちゃんに、会った?」

 その声は少し、沈んでいるようにも聞こえた。

晶子しょうこちゃん?時々姉貴の店で会うくらいかな。最近はまったく会ってないけど」

 涼子には一卵性双生児の姉がいる。涼子や貴とは別の高校だったので、貴はあまり晶子とは面識がない。それを知っていながら訊いてくる意図は貴には読めない。

「そっか……」

「晶子ちゃん、どうかしたんですか」

「ううん、お姉ちゃんじゃなくて私が、ね……」

 そう言うと涼子は再び俯いた。晶子から何か涼子のことを聞いてはいないのか、そういう確認だったのかもしれない。

 ややあって涼子は顔を上げる。

「私ね、会社辞めてきちゃったんだ。……もうこっちで働くつもり」

 暗い車内で、その声だけがひどく悲しみを帯びている様な感じがするのは貴の気のせいではないはずだった。

 かけてあげるべき言葉一つ見つけられない。何を言ってあげれば良いのかなど判るはずもないまま、だけれどこのまま黙っているのはいけない気がして、貴は口を開いた。

「それじゃあ再就職は日曜日休める所にましょうか!そうすりゃまたいつでもみんなと会えるようになるじゃないですか!」

 砕けた風な敬語を使ってしまうのは貴の癖でもあったが、何かを取り繕う時などはこれが出やすかった。

 どうかしている。

 普通の神経ではない。

 どの口がそんなことを言っているのか。

 あの、舞川涼子に対して。

(いかれてる……)

 それだけ何かを失って、本当の自分からは引剥がされ、引き離され、狎れて行ってしまう。

「うん……」

 涼子は小さく頷いた。その声が穏やかに聞こえてきたことに貴は少しの安堵を覚えた。

 何か訳は有りそうだったが、訊くことはできなかった。人には言いたくなければ、聞きたくもないことが必ずある。

 それに訊かれたくないことを訊かれるのは誰だって、辛い。

 何よりその資格は、貴にはない。

「そぉだ、どっかでコーヒーでも飲もうよ。おごっちゃうから、いろんな話聴かせて!」

 少しの沈黙の後、涼子の声は明るさを取り戻していた。

「ゆぅっし!行かれますか」

 内心とは裏腹に、貴も声を高くした。会うべきではなかったのかもしれないという後悔を、今更ながらに感じて。

「あはっ、その口調聴くの久しぶり。変わってないね、水沢君は」

「そぉんなことないざんしょ、大人になったと思いません?」

「ふふっ、やっぱり変わってない」

 涼子は嬉しそうにクスクスと笑いながら、軽く握った拳を口元に運んだ。

 貴だけが気付いている、昔からの涼子の癖だ。

 少しだけ、ほんの少しだけ、あの高校時代の一番楽しかった頃を思い出す。


 ――そこに、何か違和感が共存している。


 この、再会の重さを今はまだ理解できていなかった。

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