夏霞

yui-yui

Ⅰ 夏霞 -Side M-

序章

 八月七日 土曜日


 水沢貴之みずさわたかゆき―通称貴―はしがないアシスタントディレクター。

 ADというある意味では特殊と言われる仕事以外は、平凡な顔立ちといい、髪型といい、ファッションスタイルといい、何処にでもいるごく普通の二一歳だ。

 その平凡な貴の顔色が優れないのは、平凡な自分とは不釣合いなほど特殊な仕事のせいだ。ここ数日の間続いたロケーションがやっとのことで一応の落ち着きを見せ、休みも取れていないまま仕事を続けていては疲れが抜けるはずもない。

 特にロケーションが続けば、ADの中でも3rdサードという最下位にいる貴は雑務に追われ、眠る時間どころか食事の時間すらもろくに取れない。少しでも時間が空けば何か胃に入れることはできるが、睡眠をとるには時間が短く、連日の寝不足がたたっている。

 今日は大京町にある事務所でワードプロセッサに向かい、デスクワークに没頭していたのだが、集中力が保てない。誰が見るでもなくつけられたままのテレビは顔色の悪い中年男と美人のニュースキャスターを映し出していた。

『――半年前の、S機器株式会社の女子社員が、上司に暴行を受けた、という事件を皆さんは覚えているでしょうか……。その事件の裁判での最終判決が今日、下りました。裁判に打ち勝った女性の方は……』

 テレビから流れてくるニュースを耳に入れながら、そんな事件があったことすら知らなかった自分に気付かされる。半年前まではまだ専門学校の学生だった。社会という世界がこれほどまでに酷く、これほどまでに自分を殺して行かなければいけない場だとは夢にも思っていなかった頃だ。

 貴はそれでも無感情に体を動かす。データ入力を終えた文書を保存して、プリントアウトを始めた。印字されて行く感熱紙を目で追うこともなく、再びテレビに目をやる。

 二十秒程度の切り取られた時間枠にキッチリと人の不幸を嵌め込んで、悲壮感の漂った表情を演出し、それを淡々と読み上げるニュースキャスターの気持ちなど貴には判るはずもない。

 虫唾が走る。

 ニュースキャスターに罪がないことなど百も承知だったが、何故だか、こんなことがあったのか、と思うことはできなかった。顔をしかめて胸ポケットから煙草を一本取り出すとそれに火を点ける。プリントアウトが終わるまでの僅かな時間をももてあまし、オフィス内を見回す。

 嫌な気分が膨れ上がる。

 さして広くもない雑居ビルの一階。薄暗い間接照明はハイセンスでお洒落な空間を演出しているらしいが、職場にそれを持ち込む精神が悪趣味以外の何物でもない。プロデューサー兼社長の趣味だという奇妙な形のデスク。何でも有名デザイナーがデザインを手がけた、実用性の低い高価な代物らしい。そのデスクについているのは不潔そうなべったりとした長髪を束ねようともしないアシスタントプロデューサー、愛想笑いと天才的な皮肉のセンスを持った初老の経理の女性社員。多額の借金は持つが腕もない中年カメラマン、そしてそんな上司達に上辺だけ従順な自分だけだ。

 なまじっかクリエイティビティな仕事をしているせいで弱小会社のくせに妙なところで見栄を張りたがる。

(社長殿は厭らしい金儲けの話し合いで元請様に出向中ってね)

 心の中で呟いて、小さく嘆息する。

(毎日毎日、終りも何もない……)

 意味など一つも見出せずに、無為に過ぎてゆく毎日。

 数少ない社員の気分を害さないように。現場に出れば気まぐれな雇われ監督やスタッフの機嫌を損ねないように気を遣い、自分を殺して。

 そんな日々に終りを告げたくとも色々なものが邪魔をして、この身を縛り付ける。

 社会人としての責任だとか、世間体だとか。

 気に入らないことすべてにへつらうことにももう慣れてしまっていた。



 家に付いたのは十九時を少し過ぎた頃だった。ここ最近では奇跡的に早い時間だ。

 蒸し暑い空気にむせ返り、細ってしまった神経に呼応するかのごとく、顔を見れば吐き気さえ覚える人間関係の中、何も考えないようにと考え続けて仕事に打ち込んでいたらいつの間にか早く終わっていた。

 幸いロケーション素材のまとめや編集などは貴の仕事ではなく、やることをとりあえず終わらせた貴は帰路に着いた。

 暇な時期ならば土曜日は休みになることもあるらしいが、今まで一日として土曜日に休みをもらった覚えがない。

 喫茶店を経営している貴の家は、十九時だともう閉店の準備をしている。

 幼い頃に両親が亡くなり、貴が中学を卒業するまでは姉のかなみと共に親戚の人々に世話になっていたのだが、かなみが調理師や栄養士、衛生管理士の資格等を取ってから、元々あった土地と財産、保険金などを利用して家と店を建てた。

 それからすぐにかなみは以前から付き合っていた恋人と結婚し、現在は貴も一緒にそこに住まわせてもらっている。


 新宿にある会社からは一時間半ほどかけて通っている。

 近いうちに一人暮らしをして、姉夫婦の負担を減らしたい気持ちはあった。それならば職場に近い方が、とも思えたが、態々大切な仲間達と離れて暮らすことに意味を見出せなかった。

 独りきりになった自分がどれだけ脆弱な人間かは、嫌と言うほどに解っていたから。



 ポストに手を入れると広告やダイレクトメールの類を雑に掴んで、玄関のドアを開く。手に掴んだそれらを何となく見やり、靴を脱いでから両手でそれらをもう一度確認した。

「ただいまぁ」

「あら、今日は随分と早いのね」

 台所から姉のかなみの声が聞こえてきた。店の片付けはもう終わっているらしく、これから夕食の準備なのだろう。かなみの夫である哲也てつやはまだ帰ってきていないようだった。システムエンジニアをしている哲也は貴以上に忙しい時もあるらしく、貴が働き始めてからはあまり顔を合わせていない。

「ま、今日はね。哲くんは?」

 義兄の名を口にして、ダイレクトメールに目を通す。中に一枚の葉書が埋もれていた。

「貴ほどじゃないけど今は忙しいみたいよ。で、今日は、てことはまた忙しくなるんだ。明日は?休めるの?」

 かなみの声音が変わるのが貴にも判る。夫の哲也てつやもシステムエンジニアなので忙しい身だ。弟である貴もここ何週間か、日曜でもろくに休んでいないせいだ。

 義兄である哲也も忙しい人なのだろうが、流石に貴ほど不規則な生活は送っていない。顔を合わせればかなみと共に貴を心配してくれている。激務といえば哲也も激務には違いないだろうに、貴の仕事と比べたら甘い方だよ、と苦笑して言っていた姿は、少なくとも貴自身よりもよほど大人だ。

 取り出した葉書が貴宛のものだったことを確認すると、台所に入る。

「休めるよ。まだ予定も詰まってないから、すぐに忙しくなることはないと思うしさ」

 貴はそう言って、冷蔵庫に近付く。言いながら嘆息してしまった。かなみを心配させてしまうだけの言い方に貴は自重した。

「なになにー」

 わざと明るく、声を高くして、貴は葉書の内容を読み上げた。

「九月四日に前川高校三年五組のクラス会を予定しておりまぁす。お手数ではございますが参加不参加を記入して、返信してください、ねぇ。ほぉクラス会!もっちろん参加しますよぉ」

「クラス会?」

 貴はそうだよ、と答えて冷蔵庫のドアを開けた。そこから缶ビールを二本取り出すと、自分の部屋へ向かう。

「メシ、準備できたら声かけてね」

「はいはい」



 貴は自室のドアを閉めるなり、肩にかけていたバッグを放り投げて、ベッドに腰掛けた。

 缶ビールのプルトップを歯で引っ掛けて開けると、そのまま一気に半分くらいまでを胃に流し込む。ほど良い苦味と刺激が身体の中を通過して行くのが判る。ほんの一瞬、疲れた身体と神経を麻痺させることができる。

 シャツの胸ポケットから煙草を取り出して火を点けて、深く煙を吸い込んだ。

 軽く血の気が引いて、軽く手にもしびれが走る。貧血にも似た感覚と共にゆっくり目を閉じると、仲間達の顔が瞼の裏に浮かんできた。

 当時組んでいたロックバンド、-P.S.Y-サイのメンバー達。気に入らなくて睨み合いや喧嘩をした奴ら。いつもきゃあきゃあ……。いや、ぎゃあぎゃあ煩かった女の子達。

 懐かしい思いに駆られた貴は缶ビールを床に置き卒業アルバムを本棚から引っ張り出そうと立ち上がった。ぐらりと視界が揺れ、倒れそうになる。本棚にたん、と手をつき体のバランスを取ると、立ちくらみが収まるまで、そのままじっとする。程なくして視界のもやが晴れるのを確認すると、卒業アルバムを掴み、再びベッドに横たわった。

「……懐かしいな。あいつらみんな元気かな」

 アルバムを開いてそう独り呟く。思えば高校を出てから一度も会っていない人間のなんと多いことか。

 一年の時のスキー教室。二年の時の修学旅行。三年の時の卒業旅行。各クラスの集合写真や部活動の写真。

 パラパラとアルバムをめくり目を通し終えると、貴は本棚からもう一つ、自分のアルバムを取り出して開いた。

 高校三年の夏休みに行ったライブの写真が目に留まる。いつも同じ顔が映っている。ばかで何も考えていない、無邪気な、純粋な笑顔。

「あと一ヶ月近くあるのか……。久しぶりに会いてぇな、みんなに」

 これ以上写真を見ていると涙が出てきてしまうかもしれない、と思った。昔を思い出して涙するほど老け込んではいない。疲れ切っている訳ではない。

 そう言い聞かせる。

 貴は残るビールを一気に飲み干して、灰の長くなった煙草の火を消すと、アルバムをしまって机の上に置きっぱなしになっているワードプロセッサを開いた。今や趣味としか言えなくなってしまった、小説の続きを書き始めるためにワードプロセッサを立ち上げて、椅子に座る。

(このくらいしかなくなっちまったな……)

 趣味と呼べるものが。

 バンドも皆が忙しくなりできなくなってしまった。フロッピーディスクを飲み込ませて、キーボードを叩く。

 逃げ道なのかもしれない。

 それでも、捨てられないものを護ろう、それだけは捨てずにいよう、と貴は心に固く誓う。

 何を失くしたのかは、もう判らない。

 ただ、一つだけ……。

(あいつは、来るか?……おれが出るかもしれないって判ってるこのクラス会に)

 いくつもの写真の中で、常に貴のすぐ近く似合った笑顔。

 思い出さないようにしていた想いは、やはり打ち消すことができなかった。

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