第十八話 雨

 六月二日 木曜日


(会うの、やめよ……。ちょっとだけ……。少しの間だけだよ)

 あの時言った言葉を、涼子りょうこは胸の中で何度も繰り返していた。

 誰のせいでもない。

 元々は香奈かなが言い出したことだとしても、決断したのは他でもない涼子自身だ。たかと距離を置いて、冷静に自分のこと、自分達のことを見詰め直そうと思っていた。見詰め直せると思っていた。貴に手紙を書こうと思いはしたものの、カチコチと進む時計の針ばかりを目で追って、ペンは一向に進まない。

「雨?」

 雨が降っていたことに今更ながらに気が付いた。天気予報は見ていなかったが、今日は朝からとても良く晴れていて、雨が降るような天候ではないと思っていた。

 屋根に当たる雨の音はそれほど大きくない。粒の細かい雨なのだろう。

「……」

 涼子はミニコンポの脇に置いてあるヘッドホンステレオを取ると、上着を羽織った。少し気分転換に雨の中を歩いてみるのも悪くないと思ったのだ。


 傘には大きくポツポツと音がなるほど大粒な雨は当たらなかった。涼子はLet it beを聞きながら雨の中を歩いた。

 ジョン・レノンは何度も涼子に「Let it be」と囁き続ける。

 しかしもうその時間は終わりだ。この歌の真意がどこにあったとしても、もうそのままにしてはおけない。

 考えすぎると良くないことは嫌と言うほど判っていたが、考えずにはいられない。そして考えれば考えるほど襲ってくる後悔の念。

 涼子の願いはいつだって叶えられないままだ。

 それこそ貴を初めて知ったあの日から、いつだって涼子は貴に与えられるだけで、何も与えられない。何も応えられない女だ。そんなことばかりが、貴や仲間たちが聞けば怒り出しそうなことしか頭に浮かんでこない。自責の念ももはや意味は成さないと判っているはずなのに。


 初めて貴と会ったのは中学三年生の頃だ。

 あの頃の涼子はまだ幼馴染みである秋山響一あきやまきょういちに心惹かれていたが、晶子しょうこもまた響一を想っていたこともあり自ら身を退いた。

 結果的に晶子と響一は結ばれたのだから、涼子は身を退いたというよりも、逃げ出したのだ。

 そんな中で、当初からバンド音楽が好きだった夕香ゆうかに誘われてライブハウスに行くようになり、そこで演奏している貴とりょうを初めて目にした。夕香はこの頃から既に諒とは仲が良く、貴と諒はその時からの知り合いになる。この時、涼子は初めて響一以外の男を、男として意識した。

 幼馴染だった響一のことはずっと昔から好きだった。けれども、晶子が響一が好きなことは本人からはっきり聞かなくても判るほどだった。

 涼子は響一を想う気持ちをひた隠すようになり、晶子と響一からも離れて行ってしまった。今はそれほどでもないが、当時の涼子は晶子にコンプレックスを抱いていたせいもある。実際には誰が比べた訳でもないが、どうしてか、いつも涼子は晶子よりも劣った存在だと思い込むようになってしまっていた。

 響一への想いを誤魔化す様になったのも、晶子に勝てる訳がない、という思いと、晶子と結ばれた方が響一も幸せだ、と自らに思い込ませていたせいもある。

 障害が生じたものからずっと涼子は目を背けて生きてきてしまったのだ。



 六年前 三月二〇日 日曜日


 この日、貴と諒が所属していたバンドVasteelヴァスティールは最後のライブだった。中学卒業とともに、貴と諒以外のメンバーが引越しと就職などでバンド活動ができなくなってしまい、これが最後のライブとなってしまった。ライブを終えて、あちこち、世話になった関係者に挨拶を済ませると、貴と諒が出入り口付近にいた涼子と夕香に近付いてきた。

「最後までさんきゅーな」

 客はあまりいない。中学生のバンドなど態々見にくるのは元々バンド音楽が好きな自分達くらいのものだ。それに加え、貴たちはバンドをやる前はかなりの不良だったらしく、その噂は涼子たちの学校にも聞こえてくるほどだった。恐らく客が少ないのはそのせいもあるのだろう。夕香から聞いた話では、バンドを始めてからというもの、貴も諒も喧嘩の売り買いなどしなくなったようで、それを聞いた他校の生徒達がお礼参りをしにきたほどだったという。

 涼子も最初からその話を聞いていたら、夕香の誘いを断り、近付くことすらしなかったかもしれない。

「最後ったって、高校行ったらメンバー見つけるんでしょ?」

「そらもちろんそのつもりだけどさ」

「ま、とりあえず当てはあるからな」

「そうなんだ」

 多少言葉遣いは荒いが、それだけで、貴と諒は涼子達にはいつだって優しかった。涼子がライブに行って、ライブハウスで貴たちに会うと、二人はいつも屈託のない、本当に嬉しそうな笑顔を向けてくれた。

 演奏の上手い下手は良くは判らなかったが、下手だと思ったことはないし、貴と諒は中学生の割には技術がしっかりしている、とバンド音楽が好きな夕香が言っていたのだからそれなりの技術を持っていたのだろう。だからという訳ではないが、涼子は貴たちのライブを見るのが本当に楽しみだった。

「おう、ま、見てろって」

「良かった」

 涼子はそう言って笑顔になった。

「ん?」

「あ、水沢みずさわ君のバンド、カッコ良かったし、これで終わりなんて寂しいなぁって思ってたから」

「おぉー、舞川さんは見る目がありますなー。いやー、どっちかってぇと物好きですなぁ」

 苦笑しつつ貴は頭を掻いた。このバンドの客の入りは、音楽性よりもむしろ二人の過去の素行に依るものだろうと涼子は思う。確かに荒々しいし、本番中によく失敗もしているようだけれど、きちんと綺麗に録音してCDなどに出来たのなら、いつだって聞いているだろうな、と思うほどに。

 実際辛かった受験勉強の間も、貴たちのライブ音源をカセットテープにダビングしてもらって何度も聞いていた。

「え?そ、そんなことないよね夕香」

「うん、そう思うけどね」

「ちょっと涼子ちゃん、そこは水沢君のバンドじゃなくて谷崎たにざき君のバンドだろーがよー」

「あ、そうだね、ごめんごめん」

 一応リーダーである諒がぼやいた。涼子としては貴が所属しているバンド、というつもりで言ったのだが、リーダーにはリーダーのプライドというものもあるのだろう。

「どっちでもいいじゃないの別に」

「黙れヘビ女」

 夕香の天然のウェーブヘアをなじった悪口だが、これは諒しか言わない悪口だ。

「ヘビ女ぁ?あんた貴重な客に向かってよくそんなこと言えるわね!」

「言えません。すみません」

 涼子が初めて貴たちのライブを見たのは一昨年の大晦日だった。それから数えること五回目。夕香はその数回前からの参戦だけれど、夕香と諒は会うたびに仲が良くなっている気がする。もはやこの口喧嘩のようなものも恒例となってしまっていた。そして、ここにいる四人は同じ高校に進学が決まっている。クラスは別になるかもしれないが、それでも今まで以上の付き合いはできるのだろうな、と涼子は胸を躍らせていた。きっと高校生活は楽しくなるのだろう、と。

「んで、この後は?すぐ帰る?」

「おー、メシくらい食ってこうぜ」

「ごち?」

 中学生では一度の外食は中々手痛い出費だ。貴と諒はどうやら学校では禁止されているアルバイトをしているらしい。

 バンドをやるための費用は小遣いだけではカバーしきれないらしく、そのカバーしきれない分をアルバイトで稼いでいるらしかった。夕香はそれを見透かしたように言う。

「ライブ出るだけで毎回大赤字のおれたちにたかる訳?」

「まぁゲストで通してもらってるし、大目に見てあげましょ」

 聞けばライブに出るのは一回に三万円以上かかるらしい。メンバーが四人いれば一人頭一万円弱だが、それでも一ヶ月のうちに一気にそれほどの金額を失うのは手痛い。その上チケットの売上も見込めないと言うのに、涼子たちをゲストとして、チケット代を取らずに通してくれているのだ。その上夕食までご馳走しろとは随分な物言いだ。

「夕香……。割り勘でいいよ。ごはん行こ」

 何を言っても上から目線の親友に苦笑しつつ、涼子も言った。

「舞川はさん優しいですなぁ……」

「あ、あたしだって冗談よ!」

 しみじみと言った貴に夕香はムキになって返した。

「ホントかよ……」

「奢らせたことないでしょ!別に!」

 貴たちが奢ってくれたことはあったけれど、それは確かに涼子はもちろん、夕香が奢れと言った訳ではなかったな、と涼子も納得する。

「んー、まぁそうか。んじゃ会計終わるまでもうちょっと待ってて」

 そう言って二人は再びライブハウスの奥へと消えていった。



 六月二日 木曜日


(あの頃は楽しかったな……)

 ようやく響一への気持ちも薄れて、貴ばかりを目で追うようになった頃。ステージ上の貴はいつでも格好良かった。ギターやボーカルのように目立つパートではないけれど、目立つパートをしっかりと支えている貴のパートは今思えば確かに貴に似合ったパートだったのだろうなと思う。

 最後に彼らのライブを見たのは高校三年生の夏だった。中学生時代に組んでいたVasteelではなく高校に入ってからすぐに組んだ-P.S.Y-サイ(呑んだくれ敗残兵の遠吠え、という意味を持つらしい)というバンドだ。高校三年生の春には諒は高校を中退してしまい、プロの道へと進んでしまったが、その日だけは皆が揃って-P.S.Y-の最後のライブを行った。

 その最後のライブ以来、壊れてしまった貴と涼子の関係は、ゆっくりと修繕されていったように見えたが、それは表面上だけのものだったのだろう。あの夏霞に歪んだ思い出は今でも自分達を締め付ける。思うが侭に気持ちをぶつけることしかできなかった貴と、応える準備はできていたのに何一つとして応えられなかった涼子は、あの時のほんの少しの亀裂が原因で今、こうなってしまっているのかもしれなかった。

 そしてその亀裂は少しずつ、ゆっくりではあるが確実に大きくなってきている。それが修繕不可能なほどにまで広がってしまっているのかどうか、今の涼子にはそれすらも判らない。

「……」

 実も蓋もないことをとりとめもなく考えながら歩いていたのだが、知らずに件の橋に来ていた。恐らくは涼子の意識外で、無意識的にここに向かっていたのだろう。幾度となくここで貴と待ち合わせをして、分かれた場所だ。涼子は貴のあの日の行動を肯定するために、貴に罪悪感を抱かせないために、あえてここでの待ち合わせを重ねていた。しかしそれはむしろ貴の想いに応えられなかった自分への戒めのためだったのかもしれない。そして、いつまで経っても罪悪感を消せないでいたであろう貴への重圧になっていたのかもしれなかった。

(――ごめん……どうしておれは)

 悔恨に満ちた貴の声。

 そんなことない、と許して全てを受け入れられなかった自分への悔恨。

 あの時に貴を抱きしめてあげることができていたら。

 あの時に、大好きだ、と伝えることができていたら。

(会うの、やめよ……。ちょっとだけ……。少しの間だけだよ)

 自分の我儘を通し、口を付いて出た言葉に後悔をしてみても今更何もならない。

 過ぎてしまったことよりもこれからのことだ。自分から突き放して、自分から会いたい、と言っても貴は許してくれるのだろう。もしも許してくれなければ、それはそれで受け入れるしかない。数ヶ月前にも一度、お互いにそんな思いに駆られたこともあったけれど、きっとあの頃から涼子たちは一歩として前に進めていないのだ。

「たか……」

 涼子は傘を閉じて雨に打たれた。雨よりも温度の高い水滴が頬を伝う。何も知らなかったあの頃に戻りたい。ただ馬鹿を言い合って笑い合って、貴を好きだと、想っていたかった。

 けれど失ってしまった。誰も悪くはないのに。誰も責められはしないのに。貴も涼子も心に傷を負う前の二人に戻れたらどれだけ幸せだろうか。

「水沢君……」

 皆が名前で呼び合う中、貴と涼子だけは苗字で呼び合っていた。それはお互いがお互いを意識しすぎて、気恥ずかしかったこともある。

 けれど皆が同じように名前で呼び合う中で、自分たちだけは違うというほんの小さな、特別な気持ちもあったように思う。

 それでも、付き合うようになったあの日、貴が自分の名前を呼んでくれたことがとても嬉しかった。

 恥ずかしそうに涼子、と呼ぶ貴がたまらなく好きだった。

(そっか……)

 気付けたような気がする。

(何でもかんでも、当たり前じゃないんだ)

 他人から見ればほんの些細なくだらないことでも。

(当たり前にしちゃいけないんだ)

 貴が傷ついて自分を責めることも、涼子が貴を追い詰めてしまったことも、今離れているという事実も。

 何一つ、貴とのことを当たり前のものにしてはいけない。時間が解決してくれることは沢山ある。けれど時間が大切なことを忘れさせることもある。

(忘れても、誤魔化してもいけないんだ)

 自分を想ってくれる最愛の人の言葉も、いつも支えてくれる大切な仲間たちの言葉も。

 気持ちも態度も、行動も、たった一度の呼吸すらも、全て。

(何一つ、当たり前のことなんかなかった)

 月明かりもない空をびっしりと埋める雲の僅かな隙間が涙で滲んで行く。全てを取り戻すのは無理かもしれない。それは判っているけれど、それでも前に進むしかない。もしも貴が許してくれなかったとしても、前に進むしかないのだ。

(もう、立ち止まるのは終わりにしよう)

 閉じた傘を再び開こうとはせず、涼子は歩き出した。



「涼子!どこ行ってたの!」

 家に戻るなり、晶子の悲痛とも言える声が響いた。

「え、ちょっと……」

 ずぶ濡れになっている涼子に何か言いたげではあったが、それを開口一番に言わないということはそれ以上の何かが起こったということだ。嫌な予感がする。

「貴君が事故起こしたって!」

「……え?」

 何か、鈍器で頭を殴りつけられたような錯覚に陥り、涼子はその場に膝をついた。

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