第十七話 再起動

 六月一日 水曜日


 先日、晶子しょうこから電話があった。

―― もう少しだけ、待ってあげて ――

 そう言われた。判らなくなってきている。あれほどに何とかしたくて、気遣って、傷付けないようにしようと思っていた。

 それなのに、涼子りょうこは自分とは関わりのないところで強くなろうとしている。

 涼子に必要ないと思われているのかもしれない、と考えた時、怖くて仕方がなかった。本当に、根本的なところで必要とされていないのではないかと思い込み、愕然とした。

 しかし。

 その強い思いこそが、涼子を追い詰めていったのかもしれないのだ。

 何度も何度も同じことを考えて、何度も同じ結論にたどり着く。

 もしも涼子が自分を必要としない答えを出したとしたら、それはそれでもう貴にはどうすることもできない。そう何度も思っているうちに諦めに似た感情が芽生えてくるのを貴は感じていた。

 このまま宙に浮いたような状態が続くのならば、どんな答えでもいい、早く答えを出して欲しい、と思うようになっていた。独りでいるとどうしても考えて、考え込んでしまう。そんな貴を仲間たちは色々と気遣ってくれているのだろう。

 大輔だいすけがもうそろそろ部屋に遊びにきてくれる頃だ。


「まぁ、なんつーかさ、気持ちばっかりはな……」

 アーリータイムズを仰って大輔は言う。

「まぁね」

 どれだけ想っていてもそれが相手に正しく伝わらなければ意味がない。あまつさえ、それが重圧になったり、負担になってしまえば、それは想うという行為からも外れてしまいかねない。正しく伝わったとしても、相手の気持ちが動いてくれなければ何の意味も持たない。

「でもなぁ、待っててくれって言ったんだろ?」

「晶子ちゃんがね」

「そういう言い方なら終わりはねぇと思うけどなぁ」

 大輔の言葉も、晶子の言葉も信じたいのは山々だった。しかし、今まで半年以上もの間、自分のしてきたことがまるで無意味だったことを考えるとそう簡単には信じることなどできない。そして何も答えが出ていない今はまだ無意味だったことが、何故無意味だと判ったのか、その本質的な理由はまだきっと見つけられないままだ。

「全部が全部、おれが無意識だったとしたって涼子を追い詰めてったってんなら、多分もうないよ」

「そればっかりはなぁ……。お前らがどういう付き合い方してるかってのも知らないし、何とも言えないけどさ」

「だから結局は待つしかないんだけどさ。正直キツくて」

 貴は苦笑して酒を仰った。力が入らないような感覚。これほどまでに色々な面で力を無くしてしまうとは思ってもみなかった。見切りをつけられたことが、自分の無価値さが貴を苦笑させる。

「お前は結構強いって思ってたんだけどな」

 そらキツイわな、と付け足して大輔は煙草に火を点ける。きっとこれは甘えだ。大小の違いはあれど大輔もりょうただしも、夕香ゆうか香奈かなも辛い思いはしてきているのだ。自分だけが辛いなどと喚いていても何の解決にもなりはしない。貴自身がそれを判っている。それに付き合ってくれている仲間たちも当然そんなことは判っているはずだった。

「勝手に思い込んでんだよ、みんな」

 何が強いものか。傷付いて帰ってきた涼子を想い続け、確かに貴は涼子に笑顔をもたらしたのかもしれない。けれど、それは貴ではなくてもできたことだ。貴がそれをしたからといって、涼子の、男を恐れる気持ちは少しも変わっていなかった。それどころか、更なる恐怖心を植え付けてしまった。涼子の信頼を得たつもりになって、涼子が抱える傷を抉って、広げて、深くして。

(何が、強ぇもんかよ……)

 自分が惚れた女に一時でも見限られて、立っていられなくなる男の何が強いものか。

「確かにそうかもな」

 トン、と灰を灰皿に落とし、大輔は頷いた。

「俺もお前も、結局一人の人間でしかないもんな」

「……」

 一人の人間にできることなどたかが知れている。仲間たちが貴を強いと思っているのは幻想に過ぎない。

 本当は心の奥底でいつも悔いている。無理やり涼子の唇を奪った日から。あの時から涼子が貴のことを思ってくれていたのならば、尚のこと。

 卒業するまでには充分な時間はあった。お互いの気持ちを整理するだけの時間も、そこから先に進む時間も。

 進めなかったのは貴自身だ。貴だけが一つ所に留まり、戻ることもできずに、ただ時間だけが過ぎてしまった。

 あの時に涼子に気持ちを告げられなかったのは貴だ。涼子はそれで自分を責めるのは間違っていると言った。しかしそれでも、理解はできても納得はできなかった。

 貴が動かなかったことで涼子は負わなくても良い傷を負ってしまった。そして貴は更にその涼子を傷付けた。満身創痍の涼子はそれでも貴を思い続けてくれた。自己欺瞞だと思われても、傲慢だと思われても、そのことだけはいつも貴の心の奥底で燻り続けていた。

「一人の人間の力じゃ、惚れた女も守れないのに……。ぶっ壊すことは、簡単なんだよな……」

「そりゃ考えすぎだよ」

「そうかもしれないけどさ」

 考えすぎかもしれない。思い違いかもしれない。それでもきっと、間違いでもないのだ。考え得る全ての事柄を考慮していたらきりがないことは判る。

 しかしそれでも、過ぎてしまったことでも、考えてしまう。どうでも良いことだと捨てることではないから。

「色々と、誤解とか思い違いとか、重なりすぎちゃったんだろうな」

 煙草に火を点けながら貴は大輔の言葉を聞く。

「涼子がさ」

 貴は煙を吐き出して、言葉を続ける。

「おれに抱かれたいって言ったのを、一番都合のいい解釈で取って、勝手に涼子を塗り固めてたのかもしれないって。涼子はあぁいう女だから、って判ったつもりになって」

 涼子を気遣う気持ちだけを押し付けて、逃げていたのかもしれない。自分のことだから気付けなかった。所詮は他人だ。痛みを抱えた涼子の本当の気持ちなど、欠片も理解していないのだとしたら、涼子の決断は決まっているようなものだ。

「下手なこと言うつもりはないけどさ、俺だってゆかりのこと全部判ってる訳じゃないし、相手のこと全部判ろうったって無理な話じゃん」

 諒や夕香、忠や香奈だけではない。大輔も恋人の縁との関係で思い悩むことは当たり前にあるのだろう。

「それはそうなんだけど、でも、知らなくちゃいけないこととか、判ってないといけないことだってある訳だろ」

 その辺りのことを考えると、貴は単に涼子のことを判ったつもりになっていただけだったのかもしれないと思えるのだ。

 きっと本質的なところでは理解できていない。それは恐らく、貴と涼子だけではなく。今大輔が言ったように、そう簡単に人一人を理解することなどできない。

「まだ一年もたってねぇんだしさー」

「たださ、涼子の言葉を、あの言葉だけは額面通りに取っちゃいけなかったんだ」

 抱く抱かないの話ではない。それだけで決められることではなかったのだ。

「腹はくくっとかないといけないんだろうな……。嫌な言い方になっちゃったけどさ」

「とりあえずは。覚悟はしようと思う」

「そっか……」

 結局のところ、貴自身の覚悟が全てを決める。涼子がどんな答えを導き出そうと、受け入れる覚悟は決めなければならない。

「できることなら元に戻って欲しいけどな」

「そうなればいいんだけど」

 苦笑して煙草の火を消すと、貴は大輔のグラスにアーリータイムズを注ぎ足した。少しだけ、気持ちは楽になった。ほんの少しでも不安を吐き出せる相手がいれば、まだやって行ける。そしてそれは、もしも涼子と離れることになったとしても同じことなのだろう。きっと全てを忘れることはできないけれど、全てのことは時間と共に薄れてゆくのだ。何ごとも。



 六月二日 木曜日


 仕事を終え、オートバイを走らせているうちに、ふと思い至って、貴はバンドをやっていた頃に良く通っていた楽器屋に行ってみようと思った。

 今現在創作とは呼べない程度の趣味で、それも遅々として進まず、ほぼ無趣味と言って良いようなもので、バンドに参加しないまでも久しぶりにベースを弾いてみようかと思い至った。

 ただ無為な時間があると考えなくても良いことまで考えてしまう。何か少しでも気を紛らわせる何かが欲しかった。

 オートバイを店の前に停めて、貴は店内に入った。約四年ぶりだ。

「いらっしゃい……ん?」

 店長が貴の姿を見て声をかけてくる。そして一瞬の逡巡。覚えてくれているだろうか。

「お前、貴か?」

「ども、隊長、お久しぶりっす」

 高校生の頃、何故だかこのいつも眠たそうに見える伏し目がちの店長、伊藤又吉いとうまたきちは隊長と呼ばれていて、隊長はすぐに貴を思い出してくれた。恐らく当時の自分達は四年の年月程度では忘れられないような客だったかもしれないな、と貴は苦笑する。

「おー、暫くぶりだなぁ。なんだ、前校きっての悪ガキがイッパシに社会人かぁ」

「まぁ仕事辞めて今はプーっすけどね」

 貴は苦笑しつつ頭を掻いた。もうそろそろ就職もきちんと考えなければいけないな、と思いつつも今は気持ちが楽器に向いてしまっていた。

「なんだしょーもねぇなぁ。そういや諒のやつぁ未だにちょくちょく顔出すぞ」

「まぁあいつはおれらの中では唯一音楽やめなかったヤツだし、ある意味プロですからねぇ」

 結局高校も三年生に上がってすぐで辞めてしまって、そこから音楽一直線だった。貴も何か、どこかのタイミングが違えば諒と同じ道を歩んでいたのかもしれないな、と思うとなんだか奇妙な気分になった。

「スティックなんか他所行けばもっと安く買えるのに態々ウチで買ってくんだからなぁ。あいつも大した奴になったもんだ」

「へぇ、そうなんすか」

 恐らく、高校時代に世話になった分の恩返しなのだろう。諒なりの。馬鹿で口も頭も悪いが、そういうところは義理堅い男だ。

「あぁ。んで、お前は?」

「あ、いや、高校出てからバンド辞めちゃったんですけどね、久しぶりにやってみたくなって。何か手ごろなベースないっすか?」

 決して広いとは言えない店内に所狭しと並べられたエレキギターやエレキベースを見渡しながら貴は言った。久しく感じたことのない高揚感が貴を包む。辞めてしまったとはいえ、やはり貴は音楽が好きなのだ、と再確認した。

「前のは手放したのか」

「いや、まだありますけど、四年も手付かずなんでもうだめでしょ」

 一人暮らしを始める際、処分してしまおうかとも思ったが、当時、懸命にアルバイトをしてやっとの思いで手に入れたことを考えると、たとえその役割を果たせなくなったものだとしても処分することはできなかった。今は押入れの奥底で眠っている。

「見てやるから持ってこいよ。ありゃお前が必死こいてバイトして買ったもんだろ」

「覚えてるんすか」

「ウチの店で唯一、儲けなしで売ってやったベースだからなぁ……」

 店の天井を遠くに見つめ、隊長は言った。

「え、マジすか」

「おー、マジだ。入値そのまんまだよ。つーかあの時分で高校生のコゾーが持つにゃ大層なもんだぞ」

「まぁ、対バンした連中とかに良く言われましたよ、確かに」

 自動車やオートバイにも主流や流行等があるように、楽器にもそれが存在する。当時やんちゃだった貴は大勢が使っているものを使いたくない、という理由から、何とか隊長に値下げをしてもらい、狙っていたベースを手に入れた。しかしそれがまさか利益なしで売ってくれていたとは知りもしなかった。

「まぁそんな訳で俺も思い入れのあるベースだからな。今度見てやるよ」

「ほんとっすか」

 一人暮らしをはじめてまだ三ヶ月ではあるが、三ヶ月前に一度ケースを開けて見た時は、弦が錆び付いているくらいの外見だった。それでも実際にアンプにつないで音を出していないので、実際に使えるかどうかは判らない。

「あぁ。多分大丈夫だとは思うが、ダメならまぁ相談には乗ってやっから、とりあえず近いうちにもってこいよ」

 高校時代もこうしてメンテナンスやパーツ交換、修理など、色々と面倒を見てもらっていた。なんだか急に懐かしい気持ちに駆られた。

「今からじゃまずいですかね?」

「ん、構わねぇよ」

「んじゃ取ってきます!」

 隊長の返事も待たず、貴は店を飛び出すとオートバイにまたがった。

(あれ、そっか……)

 貴自身が夕香に言った言葉を思い出す。

(ちょっとおれ、自分を殺しすぎてたかなって)

 高校を出てからこっち、貴は何をしてきたのだろう、と考える。好きだったバンドも辞め、趣味で書いていたはずの小説もまったく書けないままで。そもそも涼子が好きになってくれた貴は、あの頃の自分はどんな生き方をしていたのか。

(少し、判った気がする……)

 クラッチを切り、ギアを入れて、貴はオートバイを走らせた。



「隊長!隊長!持ってきた!」

「うぅるさいな、聞こえてるよ。どら」

 貴はエレキベースの入ったソフトケースを隊長に渡すと祈るような気持ちになった。

「うぅわ、何だこりゃ……。弦錆び錆びじゃねぇか。とりあえず弦外す前に鳴るかどうかだけ試すか」

 ケースからベース本体を取り出し、隊長は言う。貴は無言でそれに頷いた。隊長は手際よく貴のベースを扱い、シールドケーブルをベースに刺した。そのケーブルの反対側の先にはアンプがあり、すでにケーブルはアンプに刺さっている。隊長は続けてアンプの電源を入れると、錆びて切れそうな弦を弾いた。久しく聞いていなかった、心地良い低音が響く。

「おー、鳴った!」

「配線系統は大丈夫そうだな。まぁあとはネックだが……んー、ロッド調整だけでいけるかもな。明日までにはやっといてやるよ」

 そう隊長は言って、アンプの電源を落とした。とりあえず大事にはならずに済んだようだった。

「おぉー、ありがとうございます!」

「なんつーかな、最近じゃブームも落ち着いて寂しい限りだぜ。あの頃のお前らみたいなばかガキどもも少なくなったしなぁ」

 苦笑しつつ隊長は言う。確かに最近ラジオや有線放送で聞こえてくる曲は貴にしてみれば変てこなものばかりだ。貴が高校生だった頃は空前のバンドブームと呼ばれていた頃で、貴の同級生にも幾人ものバンドマンがいたものだった。しかし時が過ぎてみればそれは本当に単なるブームだったのだ。諒ほどに突き進んでいる人間以外は、数年もすれば、まだそんなことをやっているのか、等と言われてしまうこともあるのかもしれない。

「おれも例に漏れず、か……」

 貴がバンドをやらなくなった理由は飽きたからではなかった。以前の仕事ではバンドをやる時間などなかったし、バンドを組んでいた仲間もまた仕事に明け暮れてバンドどころではなくなってしまっていた。それでも辞めてしまったことには変わりはない。

 それは自分自身に余裕がなかったからだ。何者も踏み込むことができないほど、きっと貴には余裕がなかった。しかし、こんな言い方は良くないのかもしれないが、ある意味では好機なのかもしれなかった。何も涼子に見離されたと態々偽悪的な解釈をする必要はないが、それでもそれをゆとりだと考えれば良い。何もない無為な時間を、好きなことで埋めれば良い。

「取り戻しゃいいじゃねぇか。何事も手遅れなんてこたないぜ」

「……そっすね」

 まるで今の貴のことをすべて知っているかのような口ぶりで隊長は言う。全ては手遅れではない。そう信じたい。

「ま、何にしても始めたんなら諦めないことだよ、何事もな」

「がんばるす」

 隊長にまで背中を押された気になって、貴は笑顔を返した。



 曇天の中だったが、気分は良かった。

 ぽつりと雨が降り出したが、部屋まではそう遠くない。街中を貴はオートバイで走った。上機嫌でメロディを口にする。高校時代に貴が自分で創った曲、夏霞のメロディだ。練習スタジオでライン録音したものは今も持ってはいるが、最近はあまり聞いていなかった。曲を創り始めた頃は、作詞もしてはいたが、途中から忠や大輔、歌う人間に書いてもらうようにした。

(手前味噌な感じだけど)

 好きな曲だ。涼子も、夕香も、香奈も好きだと言ってくれていた。

 気分が高揚して行くのを自覚する。

 自然と速度も上がり、風を切る感覚が更に強くなる。車で走るのも勿論好きだが、走る気持ち良さはやはりオートバイの方が格段に上だ。

 対向車が路面の起伏で少し跳ねる。早々と点灯していたヘッドライトが一瞬だけ上向いて貴の視界に無遠慮に入り込んだ。

(まぶしっ)

 そう目を細めた視界の隅に、何かが横切ろうとしていた。瞬間、フロントブレーキを軽く掴み、クラッチを切り、アクセルを軽く吹かすと、回っているエンジンの回転数を合わせ、エンジンブレーキをかけようとして。

「!」

 踏み込んだシフトレバーに硬い感覚が返ってくる。ギア抜けを起こし、エンジンブレーキがかからない。貴は慌ててリアブレーキペダルを踏み込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る