第十九話 二人

 六月三日 金曜日


 気が付くと病室のベッドの上だった。窓の外は穏やかに晴れていて、一瞬だけ、何故自分がここにいるのかが判らなかった。しかし、充分な睡眠をとったあとの、冴えた頭の時のように思考回路が回り始め、すぐに結論にたどり着く。

「あ、そっか……」

 隊長の楽器店からオートバイで帰っていたところ、対向車のライトが眩しくて目を細めた直後、猫が飛び出してきて、それを避けたまでは良かった。しかしエンジンブレーキをかけようとした瞬間、ギア抜けを起こし、エンジンブレーキが効かないままリアブレーキを踏み込んでしまった。踏み込みの強さにリアタイヤがロックして、降り始めていた雨のせいで塗れた路面に滑り、そのままバイクごと倒れた。しかし覚えているのはそこまでだ。猫は轢いていないはずだった。上体を起こそうと動いた途端、胸郭に鈍い痛みが走った。

「……!」

 状態を起こしてみて初めて気付いた。

涼子りょうこ……」

 ベッド脇の椅子に座った涼子がベッドに頭を預けていた。たかのすぐ横だったので気付けなかった。流石にこんなことになってしまっては涼子も駆けつけざるを得なかったのだろう。

 それでも手の届く位置に涼子がいるということが何だか意外だった。今度は見間違えてなどいない。間違いなく涼子だ。

「ん……」

 貴が動いたせいか呼んだせいかは判らないが、涼子は目を覚ましたようだった。焦点を貴に会わせてから、どうにも言い表せない表情になった涼子は呟くように言った。

「たか……」

「悪い。……心配、かけたよな」

 涼子の中で、今、貴がどういった状況に置かれているのか、今ひとつ判らないまま貴は言った。こうして起きられたということは大した怪我ではないのだろう。腕や足を動かしてみてもひどい痛みは感じなかったが、擦り傷であろう程度の痛みはあちこちで感じる。

「でも、もういいよ」

 涼子は一度頷いてからそう言った。一瞬、どういう意味かを掴み損ねて貴は聞き返した。

「え?」

「心配かけたことに謝ってくれたから」

「うん」

「だからお互いに謝るの、もうやめよう」

 そういうことか、と納得する。今までの、すべてのことも、どちらが悪い訳でもないことを自分が悪いからと謝るのは辞めよう、と涼子は言っているのかもしれない。

「今、どういう状況?」

 腑に落ちない点はいくつかあったが、それならば、と貴は話題を変えた。

「事故起こしたのは昨日の夕方。ヘルメットに結構大きな傷があるから一応頭、検査するんだって。今のところ怪我は肋骨にひびが入ってるのと、擦り傷、軽い打撲くらい。オートバイは諒君曰く、修理すれば全然乗れるレベルだって」

「そっか……」

 ひとまずは安心する。確かに倒れてからの記憶がない上に、ヘルメットにあった大きな傷というのが気を失うほどの衝撃の痕だったのならば、検査は必要なのだろう。とりあえずは自分の怪我と、オートバイの損傷具合、どちらもたいしたことがなくて良かった、などと言ったら怒られてしまうだろうけれど。

「怪我が大したことないって判ってからだけど、お姉ちゃんと香奈かな夕香ゆうかがものすんごく怒ってた」

「ま、まぁそらそうでしょうねぇ……。涼子も……?」

 香奈辺りはまた一人で無理ばっかりして、くらいで済みそうなものだが、夕香と晶子は少し違うような気が、猛烈にする。想像するだけでも恐ろしい。そしてずんずんと痛覚が目を覚まし始め、身体のあちこちが痛み始める。

「私は、頭が真っ白になっちゃって、倒れそうになった」

 怒っている訳ではなさそうだった。貴には暫く会わないという涼子の決断にも水を差してしまったようだが、貴が事故を起こしてしまっては正直それどころではないだろうことは貴にも理解できた。捉えように依っては貴が涼子に会いたくても会えないせいで反則技を使った、とも捉えられる。それが腑に落ちない。いや、腑に落ちないというよりも落ち着かない。

「う……」

 しかし貴はつとめて明るく反応した。久しぶりの再会がこんなことになってしまって申し訳ない気持ちで一杯なのだ。せめて暗く沈むようなことだけはしないようにと思ったのだが、そう簡単な問題でもないな、と貴は俯いた。

「私、せっかく、やっと、ちゃんと向き合えるかもって、向き合わなきゃって、決めた、矢先だったのに」

「あ、ちょ……」

 こんな事故などなくても、涼子は貴に会いにきてくれたのだろう。晶子のもう少し待ってほしいと言う言葉は真実だった。

 涼子の声がどんどんと涙に染まって行く。同部屋の病人や怪我人、それぞれの見舞い客が何ごとかとこちらを向く。

「貴が死んじゃったらどうしようって!」

「い、生きてます!この通り!」

 がば、と涼子が貴に抱きついてきた。その瞬間全身が、特に肋骨が悲鳴を上げ、息も言葉も詰まる。それでもその痛みに耐えて涼子の頭に手を乗せようとした瞬間。

「ばか!」

 ばちーん、と病室内に破裂音が響いた。

 肋骨の痛みも手足の擦り傷や打撲の痛みも吹き飛ばすほど勢いの良い平手打ちが貴の左頬に炸裂した。どんな怪我だろうと、心の傷だろうと、この痛み以上のものはないだろうな、と貴は嘆息した。病室内にいた、こちらを興味深げに見ていた誰もが目をまん丸くしてこちらを見ている。

「……」

「ばか……」

 じんじんと傷む左頬は涼子の愛情の証だ。涼子は貴の胸に頭を預けて、泣き出した。やっと涼子の肩に手を回し、貴も涼子を抱きしめた。

「ごめんな……。ありがとな……」

「ひょーひょー!大事にしてやれよ兄ちゃん!」

 隣に寝ている初老の男がやけにうれしそうに言ってきた。貴の腕をつかんでいた涼子の手に力が入る。涼子も恥ずかしいのだろう。

「あははは、そ、そりゃもう……」

 病室内に笑い声がこだました。若いカップルの喧嘩から仲直りを暖かく見守るような珍妙な雰囲気の中、涼子は中々貴の胸から顔を上げようとはしなかった。



 一日だけの入院でことは済んだ。検査結果はまだ出ていないが、恐らくは何ともないだろうとのことで、貴は晴れて退院。早速アルバイト先の職場に謝罪の連絡を入れて、すぐにでも仕事に復帰する旨を伝えたが、しっかり治すまで出てくるな、と叱られてしまった。全治三週間ほどだと言われたが、三週間も休んでいては生活に関わる。せいぜい一週間だけ休んであとは復帰しようと貴は考えていた。

 これも良い機会なのだろう。正直なところで、貴は性も根も尽き果てていたのかもしれない。今はほんの少しだけ、ゆっくりと休んでも許されるだろう。貴が病院から出ると、ちょうどそこに涼子が訪れた。

「大丈夫?」

「うん、まぁ大怪我とかじゃなくて良かったわ」

 貴から少し離れる、という期間は終わりなのだろうか。はっきりとそう聞いた訳ではないので、いつまたあの辛い時間が訪れるのかと思うと不安になった。事故などを起こしてしまったから今だけが特別なのだろうか。しかし何故だか今の涼子にはあまり切羽詰ったものを感じないし、涼子の顔を見ると安心までしてしまう。

「ほんとだよ……」

 少し戸惑っていた貴の手を涼子が掴んだ。久しぶりに感じる涼子の手の温もりは変わらず少しだけひんやりとしていた。そして、涼子から負の感情とでも言えば良いのか、今まで幾度か感じてきた嫌な感じを一切受けなかった。迷いなく、この手が収まる場所なのだ、と言って憚らないような、ある種の自信のようなものまで感じ取れる。それは思い過ごしなのだろうか。

「店は?」

「かなみ姉に行ってこい、て言われたから大丈夫」

「そっか」

 十四時も過ぎた頃で店も一通りの忙しさを脱したのだろう。かなみの気遣いにも痛み入る思いだ。

「今日はもうおしまい」

「え、そうなのか」

「うん。ちゃんと話したいこともあるから、たかの部屋、行っていい?」

「あ、あぁ」

 また焦っているのだろうか、とも思ったがどうもそういう訳ではないようだった。やはり今の涼子は無理をしているようにも見えない。

「じゃあ続きはその時で。久しぶりに何か作ってあげるから、買い物行こ」

「了ぉ解っ」

 なんだか付き合い始めたばかりの頃の感覚が少しだけ蘇った。



 夕食までは時間もあったので、軽く商店街をぶらぶらとしながらスーパーマーケットに向かった。

 商店街をうろうろしている間も買い物をしている間も涼子は本当に楽しそうだった。貴と会わなかった間、何が涼子を強くさせたのかは判らない。けれど、元々涼子は芯の強い女だ。暴行を受けた後、たった独りで戦い続けて、そして再び男を、貴を好きだと言えるようになった涼子の強さは、誰が与えたものでも、支えたものでもなく、涼子本人の強さだ。貴はそのことを失念していた。


「はー、久しぶりに上手いもん食ったー。ごちそうさまでした!」

「お粗末様でした」

 少量ではあるが、涼子も一緒に食事を取った。以前よりもしっかりと食べられるようになったようだ。何だかんだと悩み続けてきたがそういう結果が一つ見えただけでも、少しの間時間を置いて正解だったのかもしれない。

「食えるようになったな」

「うん。ちょっと胃が小さくなっちゃったみたいだから量は入らなくなっちゃったけど、最近はもう大丈夫」

 以前と比べれば血色も良い。まだ本調子ではないのだろうけれど。

「たかもちゃんと食べたね」

「まぁおれは一時的なもんだったからさ」

 仕事がそれなりに忙しかったせいもある。もちろん涼子とのことで精神的に弱っていたせいもある。貴の場合は体力的な消耗の方が恐らくは大きかったのだろう。今回の事故に関してもギア抜けと、雨が降ったのと、寝不足がそもそもの原因だ。

「これからは毎晩ちゃんと食べるまで見てるから」

「は?」

「……毎晩、ごはん、作りにくるから」

 涼子の言葉の意味を理解し損ねて、貴はそのまま疑問を口にした。

「それはつまり?」

「もう会わない期間はおしまい。会わなかった分、取り戻すんだ」

「……なるほど」

 良かった、と心から思う。それは元々涼子が決めていたことなのか、それとも事故のせいでこうなったのかは判らない。それでも涼子の言葉に迷いがないように感じたせいか、貴は素直に良かった、と心の底から安堵した。

「でもね、無理に前に進もうと思うのはもうやめたの」

「うん」

「抱かれることでたかの女になれるって、そればっかり考えてて、でも、いっぱい心配かけて、いっぱい迷惑かけて、私もたかも倒れるまで考えこんで。それなのに私は本当の意味でたかの女になれてないなんて、そんなの、酷いよね」

「……」

 気付くのが遅いくらいだ、と言ってやりたかったが、それは涼子だけに言えることではなかったのだ、きっと。

「こんなに私のこと想ってくれるのに。焦ることない、人は人、おれたちはおれたち。何度も何度も言ってくれてたのに」

 涼子に伝え続けてきたのは、無価値でも無駄でもなかった。時間はかかってしまったのかもしれないけれど、涼子の口からその言葉が出たことに、貴は安心を覚える。

「おれもさ、言うだけなら簡単なんだって思ったよ。でも傷ついてるのは涼子なんだって。そんな簡単に、言われただけではいそうですか、なんて聞ける訳ないって、決め付けてた」

 人一人の気持ちを動かすことがどれほど大変なことなのか、身をもって知っているはずだったのに。いや、知っているつもりになっていただけなのかもしれなかった。会わなかった間、涼子は貴を必要としないで、独りで強くなった訳ではないのだ。そう今ならば思える。涼子の中の貴を想ってくれる気持ちがあればこそ、生まれてくる強さがあったのだ。それは直接貴が与えたものではないけれど、それでも貴の気持ちがあればこそ、涼子の中で生まれた想いや気持ちなのだろう。

「一緒に、考えてなかったよね」

「そうだな」

 同じことを考えていても、一緒に考えていることにはならない。それは貴自身も先日痛烈に感じたことだった。そんな簡単な意思の疎通ですら避けてしまっていた自分達は、なるほど哲也の言う通り、おかしなことになっていたのだろう。

「結局おれ自身も涼子が傷を負ってるから、って変に特別扱い、してたってことなんだよな……」

 それだけはしないように、と思えば思うほど空回って行くように、貴の気持ちもまた、空回りをし続けて、解けないほどに絡まってしまったのだ。

「それはしょうがないよ。私も多分どこかでそれに甘えてたし」

「甘えてたのはお互い様、か」

「そうかもしれないね」

 甘えることと頼ることは同義ではない。きっとそれも判ってはいたはずだった。そのつもりになっていたことは時間とともに薄れてしまう。本当は半年前も、四年前ですら、その時は判っていた。けれど、時間は全ての事象を薄めて行く。その時の喜びも悲しみも戒めすらも。

「でもね、たかに抱かれたいっていう気持ちは変わらないよ。たかの女になるとか、浄化されたいとかそういうことじゃなくて……」

「?」

 一瞬の逡巡。直後に赤面。それ以外に涼子が貴に望むことがあるのだろうか。

「その、た、単純に……」

「あ、ハイ。オーケィ、理解しました」

 ただ単純に、想い合っている二人で身体を合わせる大切さを感じたい、ということだろう。恐らく照れて最後まで言えないだろう涼子の旨を理解して、貴はそれに同意する。涼子は耳まで真っ赤にしながら貴の言葉に頷いた。

「前にね、女同士で集まって色々話したりしたんだけどね」

「うん」

「その、やっぱり、そういう話聞いてると、自分の置かれてる立場は充分判ってるつもりでも、その、羨ましい、って思っちゃうの。お姉ちゃんも香奈も夕香も」

「そっか」

 それは貴も同じだ。いくら自分たちが一筋縄では行かない関係性であっても、強烈に羨望する。特殊な関係であったからこそ、普通に愛し合える仲間達が羨ましく思えた。

「でもやっぱり焦らないで、そこだけはたかにたくさん甘えさせてもらって、二人で考えて行きたいって思うの」

「ん、望むところです」

「うん」

 ぽん、と涼子の頭に手を乗せて貴は笑顔を返した。今までとは少し違う。以前のように焦りすぎていた涼子に不安を感じることはない。今の涼子には焦りなどないように思えるのだ。その涼子の姿に貴は安心すら覚えている。

「えへへっ」

 がば、と涼子が抱きついてきた。シャツの下にはギプスと包帯が巻かれているが、シャツの上からではそれは当然見える訳もなく。

「へぅ!」

 胸郭に激痛が走った。それでも涼子を離したくなかった貴は涼子の背に腕を回した。

「あ、ご、ごめんね!」

「ヘ、ヘーィチャラですよこんなの!昨日のビンタに比べたら!」

「あ、あれも、ごめんね」

 涼子は言いながらそっと左頬に手を当ててきた。手加減なしというのは本当にああいうことを言うのだろう。

「中坊の頃諒とやり合って殴られた時より効いたぜ……」

 あの馬鹿はいつだって力加減を知らない。涼子がこの街を去ったあの日、諒に殴られた痛みは二番目になってしまったな、と貴は自嘲する。

「うそ!」

 目を見開いて涼子は心底驚いているようだった。流石にそこまでの威力はなかったが、色々と、心にも痛い平手打ちだったのは間違いない。

「いやマジマジ。色んな意味でね」

「たかが私のこと叱ってくれないからいけなかったんだよ……」

 恐らくは涼子の本音だろう。以前夕香にも言われた。時には叱ることも必要なのだ、と。自分のことを棚に上げてでも叱らなければいけない時がきっとあったに違いない。貴はそういったタイミングをすべて逸してきたように思うのだ。

「……判ってる」

「ホントに?」

 ぐ、と体重を乗せて涼子は貴に詰め寄る。みし、と貴の身体の中で音がする。ひびの入った肋骨ではいくら軽い涼子の体重でも耐え切れないようだ。正直、痛い。

「うん」

 貴は涼子の両脇腹を指先で掴んだ。肋骨の感触がすぐに判る。ただでさえ華奢なくせに、ここ数ヶ月更に痩せてしまった。

「あひゃっ!ちょ、ちょっとやめて!」

「あ、ごめん単なる仕返しだこれ」

 身をくねらせて貴から離れた涼子に貴は笑顔で言った。久しくこんなやり取りをしていなかった。

「もう!」

 ばん、と貴の肩を叩いて涼子も笑った。

「だっ、から、怪我人です!」

「あ、ごめん……」

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