第二十二話 お互いの理解
六月十一日 土曜日
「え、あ、な、なにー?」
じぃ、と
『あんま貴ちゃんにプレッシャーかけすぎないようにね』
「そこは気を付けてると思うんだけど」
『まぁ貴ちゃんの声聞く限りではそんな感じするけどね』
「うん」
本当の本当にどう思っているか、などを考えていたらきりがない。それこそ疑心暗鬼になり、以前のように負の感情の渦に飲み込まれてしまう。しかしそんな裏が見つからないほどに、今の涼子と貴は上手くいっているように思える。すべて、という訳には行かないのかもしれないが、それでも涼子が提案した案件によって、涼子から貴にしてあげれることが増えたおかげか、お互いに以前のような無理な我慢はしていないと思うのだ。
『あとはあんたが焦んなきゃいいけどさ』
「そうだね」
それこそ涼子が一番気を付けているところだ。
あの時の涼子の焦りは、初めての夜を過ごしたあの日の貴と同じだったのだ。緊張のあまりに周りが見えなくなってしまっていた。
それでも自分の望みをとにかく叶えたかった。叶えられない望みとの葛藤で何も判らなくなってしまった。ただ、妄信的に貴の優しさにぶら下がっていただけだったのだ。
『でもま、ずっとこのままってワケにも行かないだろうからね、あんたらはお互いにさ』
「うん」
『あんたも大分血色良くなってきたし、前に比べたらマシになったからさ。逆戻りだけはしないように』
「うん、判ってる」
ずっと心配してくれているのだ。貴も夕香も
『でもまぁ、今の状態続けてても、別の意味で貴ちゃん、可哀想よ』
「え?」
一瞬夕香の言うことが理解できず、聞き返してしまった。
『いやあんたね、逆の立場だったらどうなのよって話』
「あ、う、うん、そう、そうだよね、うん。わ、判ってるんだよ!」
『おちつけ』
「はい……」
涼子が貴の部屋に通うようになってから、貴は本当に恥ずかしいのを我慢して、辛抱強く涼子に色々なことを教えてくれたし、体験もさせてくれた。貴だからこそ、涼子の中にずっとあった性的行為の恐怖心は少しずつ、けれど確実に薄れていった。今では時々好奇心とも呼べるような気持ちが沸き上がってきていることもまた、確かなのだ。
『まぁ焦るなとか言ったけど、さっきちょっと貴ちゃんのこと焚き付けたから、あんたも少しその気になってみるのもいいかもね』
「え!」
焦るなと言ってみたり、その気になれと言ってみたり、夕香の言葉には脈絡も節操もなさ過ぎる。昔からそういうところを持っている親友だけれど、流石に今回ばかりは驚いてしまった。どっちなのだ、と聞き返す間もなく。
『あんた一体どっちなのよ……。したいの?したくないの?男らしくないわよ!』
「女だが?」
さらに追い討ちをかけられたが、どっちなのよ、と問いたいのは涼子の方だ。心配をしてくれているのは痛いほど判るのだが、もう一つ判ったことがあった。
涼子だけではなく、夕香もまた、もう大丈夫だと思いたいのだ。
『うるさい。まったく二人でいちゃついてるときに電話なんかしてくんな!』
「た、たか。
「恐ろしい女だ。流石はヘビ女」
そんな夕香の気持ちに少しでも応えたくなって、涼子は努めて明るく笑った。貴もそれに合わせるように少し大きな声で追い討ちをかける。
『ちょっと、聴こえてるわよ!』
「ま、まぁまぁ」
こういったノリにさせるのは夕香の恋人である諒が上手なのだが、諒も貴も似ている部分がある。貴と諒は夕香を怒らせることが病的なほど上手いのだ。
『まーともかく、こないだ貴ちゃんにやった宮内塔子でも見て、乳繰り合いなさいよ』
そして夕香の切り替えの早さも相変わらずだ。本当に喧嘩をしたとしても、夕香はいつまでも以前のことを愚痴愚痴と言わない。竹を割ったような性格、というのはこの草薙夕香のことを言うのだ、と涼子は昔から思っている。
「ち……。じゃなくて!やっぱり夕香だったのねー」
『うん、まぁ見たいだろうと思ってさー。あんたが見ても大丈夫そうだから諒に渡したってのもあるし』
「でも宮内塔子は……」
『一緒に見てその気になっちゃえばいいじゃん。んじゃねーん』
「ちょ、ちょっと」
顔に熱を感じたまま涼子は貴を見た。
「切れた?」
「うん」
よいしょ、と立ち上がり、片手で受話器を電話機に置くと、貴がどうにも言いがたい口調で訊いてきた。
「涼子さんそれ、見たいんですか」
「え!あ?う、うん……で、でも」
件のビデオテープをずっと持ちっぱなしだったのだ。持っていた手が若干汗ばんでいる。
「じゃあ違う女優さんにしますか」
「ちがうのも持ってるんだ……」
女優が宮内塔子であることが引っ掛かっているのは貴も重々承知なのだろう。しかし、貴の言葉にまた別に引っ掛かるものを感じてしまった。
「ハイ……」
あ、と口を開けて、それでも貴は素直に認めて再び頭をかくん、と下げた。
「どのくらいあるの?」
「それと、あといっぱい入ってるのが二本」
思ったよりは少ないな、と思ったけれど、いっぱい入っているビデオテープ一本には何編のアダルトビデオが録画されているのだろうか。それにこういった、いわゆる『媒体』はビデオテープだけではないはずだ。
「本とかは?」
「本はないなぁ」
止まっている写真よりもやはり動いているビデオの方が良いのだろうことは何となく判った。しかし男のそういう意味での真理など本当の意味では判るはずもなく、涼子は一応は納得してみる。
「そっか……。なんか、こ、これでいい」
考えように依っては、貴が見ているものが涼子に似ている宮内塔子である方が、ある意味では納得もできるのではないだろうか、とも思うのだ。それこそ逆立ちしても、AV女優や、モデルのような仕事などできないスタイルの涼子とは似ても似つかぬ、夢のようなスタイルを持つ女優を貴が見ている、と思うとどことなくそれはそれで寂しくもある。それならばせめて自分に似ている女優を見てくれていた方が良いのかもしれない。複雑な気持ちなのは変わらないのだが。
「あ、やっぱ見るのね」
「あ、でもおフロ入ってから」
「え、あ、そう、ですか」
貴の意外そうな声に、涼子は戸惑った。
「あれ、逆?だってそれ見ちゃったら、えと、あ、あ、えーとっ」
まだ今日は風呂には入っていない。つまり仮に、このビデオを見て夕香の言う通り、その気になってしまったとしたら、やはり風呂に入って綺麗になってからの方が良い、と涼子は判断したのだが、貴は違うのだろうか。
それともこれを見てその気になってしまってから、ここ数日貴が風呂でしてくれているレクチャーをした方が良いと思っているのだろうか。
「落ち着け」
「う、うん」
ぽす、と軽く涼子の額に貴はチョップをしてきた。
「その前に」
「うん?」
貴が台所を指差す。
「激烈に腹が減っています」
「あ……」
食事を終えて、何となくアダルトビデオを見てからことに及ぶというのが倫理観に反するような気がして、どちらともなく気恥ずかしくなり、そのまま涼子を送っていくことになった。
セックスにまでことが及ぼうが及ぶまいがアダルトビデオを見るという時点で倫理観もなにもあったものではないのだが。
「な、なんか、あれだよね……」
「あれって何ですか」
先を歩く涼子が振り返りながら言うと、貴は笑顔でそう言った。心なしかその笑顔が意地悪に見えるのは涼子の気のせいではないだろう。
「え?」
「アレってナンデスカ?」
確実に意地悪だ。先ほど見たアダルトビデオは、ついこの間夕香の部屋で見たものと内容自体は大差ないものだった。『涼子に見せても大丈夫』な内容なのだろう。それでも、ただお互いに愛撫し合って身体を重ねるという行為だけではなかった。それは見ている最中に貴が男が見て楽しむものだからだと説明してくれたのだが、それはとどのつまり、言うなれば、いや、結局のところ、男の願望が映像化されているということなのではないのだろうか。
「……え、や、やっぱり、たかもああいうこと、色々して欲しいのかな、って……」
「とりあえずそういう段階じゃないでしょうに」
「そうなんだけど、でも行く行くは、ってあるでしょ?」
焦っている訳ではない。ただ、初めて貴と二人でアダルトビデオを見た後なので気持ちが昂っているのは事実だった。
「まぁそうだけどさ……」
「そうだけどってことは、して欲しいってことでしょ?」
(や、やっぱりそうなんだ……)
「い、いや」
「え?別にして欲しくないってこと?」
「いやだから……」
実際にする、しないの話ではないのだから、希望くらいは言っても良いはずだ。勿論できる範囲であれば涼子も貴の要望には応えてあげたいと思っている。今まで様々なことを教えてくれた貴に対してのお礼もあるし、今まで我慢させてしまった分、貴がして欲しいと思うことは何だってしてあげたい。貴を想えばこその涼子の気持ちだというのに煮え切らない貴の態度に涼子は少し声を高くした。
「どっち!」
「何故キレる」
ぽす、と額に軽くチョップをしてきて、貴はあえて軽いノリで返してきた。話が重苦しくならないようにするためだろう。涼子ももちろん重苦しくするつもりはない。
「たかがハッキリしないからですー」
「ひぃえぇ!最近の涼子さんはどんどんエロくなって行きます!」
「え!」
あまりの貴の言葉に涼子はびた、と歩みを止めた。アダルトビデオを見ただけでも身体が反応してしまって尋常ではいられないというのに、顔色一つ変えずにいられる訳がないのだ。そういった知識に関しては皆無とまでは言わないが、ほぼ知らないに等しい。興味を持てるようになっただけでも飛躍的な進歩だと思っていたのに、随分な言い様だと涼子は少々憤った。
「エロい!」
「ち、ちが!」
「ちがくねー!エロエロだ!」
「ちぃーがぁーうぅー!」
貴も恐らくは本気で言っている訳ではないことは判る。しかし、それでも反論しない訳にはいかない。
「エロビデオ見たがったり、その内容を自分の男に求めようとしたり!」
「そ、それはだから、その、女として、い、色々社会勉強でしょ!」
「風俗行きたがる男の言い訳かー!」
確か一度、皆で呑んでいる時に諒が酷く酔っ払って「社会勉強のために一度くらいは風俗に行ってみたい」というようなことを口走り、皆の目の前で、文字通り夕香にぶっ飛ばされたことがあった。今のところ貴にはそういったものには興味がないらしいが、いつどうなるかなど判ったものではない。
「風俗!行ったことあ……」
「ない!」
涼子が言い終えないうちに貴はきっぱりと断言した。正直なところ、貴がそういった場所へ行ったことがあるのか、ないのかは判らない。貴を信じない訳ではないが、確たる証拠というものが得られないのもまた事実だ。
「断言するところが怪しい!」
「……!」
そのまま悪乗りを続けて涼子は言ったが、さすがにこれには貴も堪えたようだった。その場でがっくりと崩れ落ち、膝を着く。演劇ならば真っ暗闇の中にスポットライトを浴びているようなシーンだ。
「あ……」
「貴ちゃん、涼子さんにこんなに尽くしてるというのに……」
「う、うそだってば、ゴメン……」
うう、と泣き真似をする貴の背に覆いかぶさるように貴を抱きしめた。数秒もしないうちに貴は慌てて立ち上がろうとして失敗した。ずでん、と一度路面に転がってゆっくりと立ち上がる。
「いいですか、涼子さん!外で無闇にそんなことしてはいけません!」
貴の方からは何度も涼子を抱きしめてくれたのに、何故いけないのだろうか。
「歩けなくなっちゃうでしょうが!」
「?」
貴の言っている言葉の意味を理解し損ねて涼子は首をかしげた。
「その、つまり、服の上からではあまり判らない控えめだけれどとてもとても柔らかい……」
「!」
つ、と貴が涼子の胸の辺りを指差して、やっと判った。涼子は別段はだけている訳でもない胸元を慌てて両腕で隠した。
「どっちがやらしいのよー!」
「や、まぁおれがエロいのは認めるところだし」
「そ、それはそうかもだけど……」
か、と顔に血液が集中する。なんと言ったら良いのか、貴に様々なことを教えられる内に、貴も涼子に対してあれこれと要望を言ってくる時がある。それはあくまでも深刻なことではないのだが、それでもやはり涼子にとってはかなり恥ずかしい思いをしたことがあった。
「まぁでも涼子がエロいのも嘘じゃないけどな!」
「う、嘘だもん!」
「えー、だって最近の涼子さんってば好奇心旺盛すぎ」
それは確かに否めない。涼子がそう言ったことに興味を持つようになってきたのは、お互いにとって良い傾向であることは間違いないし、前に進めているという実感もあった。
「だからそれは、色々大丈夫に、たかが教えてくれたからだよ」
そう言い直して涼子は俯いた。平気になったという訳ではない。貴が自らの身を持って様々なことを自分でも学び、それを教えてくれたからだ。
「元を正せばおれがエロいみたいな言い方はやめてください!」
「ち、ちがうってば!」
「ま、冗談」
急に態度を変えて、貴は言う。そこまで涼子を茶化す気はないようだったけれど、明らかに楽しんでいた。
「もう……」
わざと気分を害したように装って涼子はくるり、と振り向いた。そしてそのまま来た道を戻る。
「え、ちょっと」
涼子の演技に貴が焦ったような声を出す。
「戻る」
「は?」
一瞬涼子の言葉の意味を理解し損ねたのか、貴は問い返してきた。
「たかの部屋、戻る」
それはつまり、今日、夜を共にするということに他ならない。本当に今がその時期なのか、涼子には判らない。恐らく貴にも。
確かに夕香の言う通り、このままで良い訳ではない。この状況を続けていけば、また、いつかどちらかが爆発してしまうかもしれないのだ。貴も人間だし男だ。以前にもあったように、理性が吹き飛んでしまうことだってあるかもしれない。それが怖いし、涼子自身、また貴を拒絶してしまうかもしれないという思いは、簡単には拭い去れない。
「……いいのか?」
しかし、お互いの気持ちが向き合えている今ならば、間違いではないのかもしれない。そしていつまでも同じ過ちを繰り返すことを恐れてばかりでは、何一つ解決しない。
涼子も貴も今は焦っている訳ではない。むしろその反動で、お互いに自分達の欲望をずっと押さえつけてきているのは判っているのだ。あからさまに求め合うことをしなかっただけで、きっとお互いに求め合う気持ちは持っている。
「……うん」
一瞬の逡巡の後、涼子は頷いて貴の手を握った。
第二十二話 お互いの理解 終り
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