第二十一話 経験点
六月十一日 土曜日
「つまり、その……観察とか実験的な?」
「つーか実体験?風呂で?」
「ま、まぁ、そういうこと……」
時を同じくして、
「え、それ何、まさかイくまで?」
「ゆーな……」
がっくん、と頭を垂れて貴は相槌の代わりにした。
「マジか!なんだその地獄!」
「それはなんつーか、めったくそハズいな……」
「だろ……」
苦笑して貴は言った。涼子があの日、貴に渡したレポート用紙の内容は、つまりはそういうことだった。貴自身が、男が怖いものではないと涼子に教えるということ。涼子が興味を示したことを実体験させること。
そもそもの根源は恐怖という根深い感情だ。
だからこそ貴は、貴自身が、もっと初歩的なやり方で涼子に教えてあげなければいけなかった。それが貴にとってどれほど恥ずかしいことだとしても、それは貴が責任を持ってやらなければいけないこだったと気付かされた。
「死ぬほど恥ずかしいぜ……。そう、例えるなら昔、
「あれはおめー、あの後皆でリベンジしたじゃんよ」
「まぁな」
懐かしい話だ。中学時代はやんちゃばかりしていた貴と諒だったが、高校に上がる少し前からバンドに集中しはじめて、どこの中学やら高校の誰それが強いだのというくだらないことに目を向けなくなった。全く身に覚えが無い訳ではなかったが、貴と諒は札付きで有名だったらしく、バンドを始めてから喧嘩を売り歩かなくなった貴と諒に、かなりの人数が喧嘩を売りにきたものだった。貴と諒がバンドを組むきっかけになったライブイベントではライブ潰しにも遭った。一人の時に狙われることも多かったが、これも中学の頃にばかをしでかした報いだと、無抵抗で殴られたことも何度もあった。良くこんなばかどもに涼子や夕香は付き合ってくれていたものだ。
「じゃあ涼子ちゃんがちゃんと慣れたらお前もリベンジだな」
「そ、そうか……。その手が……」
涼子の中で、男という性に対して理解が深まり、抵抗も蟠りも無くなってくれば逆転も可能なのかと思いはしたが、この場は大輔にノリで返すだけに留めた。実際にはまだそんなことを考えられる段階ではない。
「まぁそれにしても大した進歩だな」
「離れてたのはもしかしたら間違いじゃなかったのかもな」
「まぁ本気で危なかったけどさ」
結果的にはそういうことなのかもしれない。何が正解かは判らないけれど、少しでも得たものがあったのならばそれはそれで良かったのだろうと思える。きっと辛かったのは貴だけではない。そして心境の変化があったのも貴だけではなかった。
「お前がな」
諒はどす、と貴の胸辺りを拳で叩いた。
「い!ってぇっつーんだよ!まだ完治してません!」
「ははは、ま、でも最近は涼子ちゃんもメシ食えてるみたいだし、何にしても良かったじゃねぇか」
食事を摂れるようになって、血色も良くなってきていた。それに最近は睡眠も以前よりは取れているらしく、確かに涼子の目の下にあった隈が薄れてきているのを見ると無理して嘘をついている訳ではないことは貴にも判った。
「お前らのおかげだわ、ほんと」
これほどにありがたいことはない。支えてくれる仲間たちがいることが、独りで生きている訳ではないということがこんなにも誇らしく思える。
「ま、困った時はお互い様、ってやつだ」
何の屈託もなく、諒は笑顔でそう言ってくれる。
「んで単車は?直ったのか?」
「あぁ、まだ上がって来てはないけど何だかんだで十万ぶっ飛んだ……」
幸いにもフレームは歪んでいなかったため、エンジンカバーの外装とマフラー、ラジエターの矯正程度で済むようだ。それでも手痛い出費には変わりない。隊長に見てもらったエレキベースは本当に格安で点検調整までしてくれたので助かったが、オートバイの修理は予想外の出費だった。
「うはぁきっつぅー」
「十万はきちーなぁ……。んでよ、気になってたんだけど、お前なんでベースなんか出してんの?」
部屋の奥のスタンドに立てかけてあるエレキベースを指差して諒は言った。
「あぁ、最近また弾いてんだ」
「え、マジか」
大輔が言ってエレキベースに手を伸ばす。奥といっても1Kの部屋だ。さして広い訳でもないこの部屋は態々立って歩かなくとも少し手を伸ばせば大抵の物に手が届く。
「あぁ。まぁ別にバンドやろうとかそういう」
「え、やろうぜ!」
貴の言葉を遮って諒が声を高くした。よりにもよって、もしもバンドを再開するのならば一番参加できる可能性が低いであろう諒がそんなことを言ってくるとは思いも寄らなかった。
「え、まぁお前がいいなら練習入るくらいいいけどさ」
「大輔は」
興奮気味に諒は言う。音楽を辞めなかったばかりかプロにまでなった男が、とも思ったが、以前、やりたい音楽ができないと愚痴をこぼしていたこともあった。諒がドラムを叩くのはロックバンドだけではないのだ。むしろ諒のようなスタジオミュージシャンがロックバンドでドラムを叩けることは殆どと言って良いほどないらしかった。
「お前らがやんならやるわ。ギターはまだ俺も持ってるしな」
大輔もまんざらでもないようだ。大輔も諸々の事情をつけて音楽を辞めたことにしてしまってはいたが、きっとどこかで燻っているものがあるのかもしれない。楽器を手放していないのが何よりの証拠だろう。
「じゃああとは
「横暴な」
貴は苦笑する。貴の我侭に付き合わせるつもりはないが、皆がそれに賛同してくれるのであればそれに越したことはない。昔のようにライブまではできなくても、たまに集まって音を出すだけでも良い。
貴と涼子、そして忠と
だから、昔と同じようにはできなくとも、好きなことは辞めずに続けよう、と考えた。
「ま、貴と諒はいつでも横暴だったよ」
「や、諒はそうかもだけどさ、おれはそんなことないだろ」
考えてみればこんな風に冗談を言い合って笑い合うのも久しぶりのことだ。
「それお前、自覚無さすぎだわ」
もう二度と、壊さないようにしなければいけない。この仲間たちとの絆も、涼子と貴自身の気持ちも。
「まじかよ」
六月一五日 水曜日
仕事に復帰して数日経つが、まだ全快した訳ではない。仕事中にも肋骨は痛んだが働けない訳ではない。アルバイトの身である貴を気遣ってくれた社長の小庄司や社員やアルバイトの仲間達にもありがたい気持ちでいっぱいになった。一週間も休んでいたせいで体が慣れるまでには時間がかかりそうだ。今夜も部屋の明かりはついていた。いつもよりも若干疲れていたが、今日も涼子はきてくれているようだった。それだけでも疲れた身体も心も癒されるような気がした。
「ただいまー」
「お帰り」
いつもの涼子の声とは少し違う。いつもならば暖かみのある優しい声で出迎えてくれるはずなのだが、何かあったのだろうか。
貴の心配を他所に、良い匂いが貴の腹の虫を鳴かせる。
「……あれ?どした?」
「……」
靴を脱ぎながら訊ねた貴を見ようともせず、涼子は夕食の準備を続けている。貴は靴を脱ぎ、居間に入ると作業着を脱ぎながらテーブルに目をやった。
「!」
一瞬で血の気が引く。
ガラス板のテーブルの上には一本のビデオテープ。ご丁寧に油性マジックでタイトルを書いたラベルまで貼ってある代物だ。『押しかけ童顔幼な妻』そしてその下には『
「あ……。あの、りょ、涼子さん……」
「……」
狼狽を隠せず、上ずった声で涼子の名を呼ぶ。先日諒に貰ったまでは良かったが、ここのところ毎日涼子が来ているので見る暇がないまま、貴の記憶からすっかりと消え失せていた代物だ。
「涼子さん、こ、これは」
「別にしょうがない、とは思います」
貴の予想よりも遥かに明るい声で涼子は言った。それでもばつが悪いのは変わらない。いくら二人で前向きに色々と考えて行動していても、これは涼子にとってはデリケートな問題だ。もっとしっかりと配慮するべきだった。完全に貴の落ち度だ。
「え……」
「多分持ってるんだろうなぁって思ってたし」
そのくらいの許容量はある訳か、と貴は反省しつつも思った。恐らくは
「はい」
「でもよりにもよって宮内塔子だったなんて」
つまり、宮内塔子が舞川姉妹に似ているという情報を知った上での言葉だ。涼子にしてみればかなり複雑だろう。晶子の恋人である
「あ、いや、その、これには訳が……」
言い訳をする御手本のような言葉を口走る。しかし、そもそもこのビデオは諒が近い内に涼子と一緒に見ればと、寄越したものだったのだ。というのは、機会があれば独りで見ようと思っていた手前、非常に言い訳がましいのだが、涼子に見せる前にどんな内容なのか、涼子に見せても大丈夫なものなのか、貴は先に見ておく義務もあるのだ。
「四〇〇字詰め原稿用紙五枚以内で提出」
「あ……う……」
いつだったか貴が涼子に言った台詞を今度は涼子がそのまま返してきた。が、当然貴には返す言葉もない。基本的には何を言っても言い訳になってしまうし、事実言い訳であることには変わりないのだから。
「う、そ」
べ、と舌を出しながらやっと涼子が振り向いてくれた。その声に怒気が含まれていないことに貴は心底安堵した。
「え?」
「あからさまに安心した声出さないのー」
「あ、すんません」
涼子の雰囲気に合わせて、貴も少し砕けた口調で謝った。
「どうせ夕香か諒君からもらったんでしょ」
そこまで判っているとは、中々理解のある彼女で助かる、とは口が裂けても言えない。
「……面目ない」
かくん、と頭を下げた貴に涼子は想像を絶する言葉を続けた。
「あの、わ、私も、見ていい?」
「はぃー?」
貴はまともに言葉に詰まった。何と言うか、貴もこういった経験は今までになかったので一概には言えないのだが、女性はこういったものを嫌悪する生き物だと思い込んでいた。勿論そういう女性もいるだろう。実際に本人に訊いたことはないが、香奈などはそういう女性だと思える。そして香奈と少々性格も似ている涼子からそんな言葉が出てくるとは思いもしなかった。
「えと、なんかこう、今後の?後学のため、とか?」
「う、うぅん」
貴は首を捻る。
ここ数日、涼子の提案に応えることによって、涼子の知識や情報がどの程度のレベルなのかということは把握できたと思うが、問題はビデオの内容だ。所詮こういったビデオは一つの例外もなく、必ず男が見て楽しむことを前提に作られている。いわゆる、普通の恋人同士では絶対にしないであろう行為や内容が含まれていることも往々にしてあるのだ。このビデオにそんな内容が含まれているとしたら、それは涼子には見せられないのではないだろうかと貴は真剣に考えた。
「こういうの、見たこある?」
「あ、あるけど」
あるけれど、そんなに見たことはない、という言い方だ。恐らく夕香や香奈や晶子が各々の恋人から取り上げたり借りたりしたものを興味本位でみんなで見てみた、といったところだろう。
「あるのかー」
「ついこないだ夕香んちで、諒くんから没収したってやつ、みんなで見た……」
「それは、まさしくコレなんじゃなかろうか」
ビデオテープを手にとって貴は苦笑した。
「宮内塔子も見たけど、宮内塔子じゃないやつも見た」
ということは、舞川姉妹と宮内塔子が似ているというのは確実に涼子も知っているということだ。見つかるならばせめて他のAV女優のものだったら良かったのに、と思わずにはいられない。
「そうかぁー。……どんなだった?」
「何かすごかった」
赤面して涼子は言う。夕食の準備は滞ってしまったが、先送りにもできない話題だ。そもそもの原因は貴自身の配慮のなさにあるのだから、いくら空腹だろうと文句など言えようはずもない。
「まぁそうだろうなぁ。つーかどんなの見たんだよ。つーか夕香に電話するわ」
立て続けに言うと、貴はビデオテープをテーブルの上に置き、電話の受話器を手に取ると、夕香の部屋の番号をプッシュする。
「う、うん」
「おー、貴」
貴は夕香が出るなり名乗る。家族や涼子ならば、おれ、と言うところだ。
『おー貴ちゃん、どしたのよ?』
「何かこないだ諒から没収したエロビ見たんだって?」
ちら、と横目で涼子を見ると、涼子はビデオテープを手に取っていた。顔は赤いままだ。やはり興味はあるのだろう。大した進歩だとは思うのだが。
『あー、あれかー』
「どんなの見せたんだよ」
『え、超ドノーマルな感じの。なんか最近安っぽいドラマ仕立てになってるのとかあんじゃない。ああいうの』
貴はアダルトビデオには全く詳しくないのだが、確かにそういうものもあったな、と一応納得はしてみる。貴のアダルトビデオの情報源は諒しかいない。他にも数本、それも一本のビデオテープに、何作も入っているものを諒にもらっているが、それしかないのだ。レンタルビデオショップに行っても、恥ずかしくてアダルトコーナーには近寄れない。
「でもなんか凄かった、つってるけど」
『そりゃ涼子にとっちゃそうでしょうよ。でもアブノーマルなもんなんて見せないわよあたしだって。つーか今一緒なんじゃないの?』
「うん、今聞いたからさ」
夕香の声までは聞こえていないだろうが話している内容は想像がつくだろう。ダビングしてもらったビデオテープなので、タイトルと女優名以外は何も表記されていないビデオテープを涼子はあらゆる角度から眺めている。まるで使い方の判らないおもちゃでも見ているかのようで、貴は思わず苦笑する。
『まぁでもほら、アブノーマルじゃなくたって男がしてほしいこととか、さ』
「え、ま、まぁそうね」
そういう意味では未知の世界というか、初めて知ったこともあるのだろう。それが所謂普通なことなのかどうかは、実際には貴も良く知らないことではあるのだが。
『どーせあんたのことだから何にも言えやしないでしょうよ』
「う、うるさいな、そんな段階でも問題でもねーです」
からかうように言う夕香に貴はしどろもどろに反論した。確かにそういった類のことは言えないが、言ったところで再び涼子が否定的な気持ちを持ってしまったら元の木阿弥だ。そんなに簡単にはことは運べない。
『あたしはそうは思わないけどね』
「え、まじか」
確かに以前と比べれば進歩はしている。涼子が男を、というよりもまず貴を怖がらないように、貴にできることはしているつもりだし、涼子ももう充分それを判ってくれているはずだった。
『うん。前にみたいに焦ってるんじゃなくて、今はフツーに待ってるっぽい』
「でもなぁ」
んー、などと言いながらビデオテープを眺め続けている涼子を見ると、確かに興味津々なのだろうことは判る。
『まぁ判るけどね。でもいいじゃん、一緒にお風呂、入ってんでしょ』
イヒ、とでも語尾につきそうな口調で夕香は言った。
「え!あ、ま、まぁそうね、知ってるよね」
諒と忠にそのことは話したのだ。当然夕香や香奈が知っていてもおかしくはない。それにアダルトビデオを女性陣みんなで見たというのならば、その時に涼子が彼女らに話した可能性も充分に考えられる。
『その流れでそろそろいってもいいんじゃないの?』
そのビデオも安心の内容よ、などと付け加えて。
「判っちゃいるんですけれどもね」
本当はもうそろそろ、というタイミングにまで来ているのかもしれないことは薄々感付いてはいた。しかし貴自身の欲望が募れば募るほど、貴の心にブレーキがかかってしまう。
二度と、死んでも涼子を蹂躙するような真似はしたくない。
『二の舞踏んだらぶっ殺すどこじゃないわよー。もうロストよロスト』
「な、なんか薮蛇だったか……」
以前と変わらず、夕香は夕香なりに見守ってくれているということなのだろう。男友達だけではなく女友達もまた、涼子の心配だけではなく、二人の心配をしてくれているのだ。
『ま、そんな訳で焦るこたないけど、時間かけすぎてもダメよ。女だって欲しい時は欲しいんだから』
「大胆ですなー、夕香さんは」
貴も免疫がある訳ではない。女性の口からそんな言葉を聴いてしまえばやはり赤面もするというものだろう、と心のどこかで言い訳をしておく。以前涼子が貴に抱かれたいと言っていたのも、本当はそんな純粋な気持ちから出た言葉だったのかもしれない。
『あたしだって涼子だって女なのよ。男だけがもてあます訳じゃないの。人間なんだから』
「……そう、かもな」
男は物理的に欲求不満が発生するが、物理的なだけに、処理さえしてしまえばそれで済んでしまう場合が殆どだ。しかし夕香が言うように女は女で欲求不満は当然にしてある。むしろ心からくる気持ちだからこそ、男のそれよりも時には強い思いになるのかもしれない、と貴は今更ながらに気付いた。
『ちょっと涼子に代わって』
「いいけど、変なこと吹き込まんでくださいや」
一応釘は刺しておく。ここで夕香が涼子をそそのかしでもしたら大変だ。
『判ってまんがなー』
「誰だよ……。夕香、変わってくれって」
一抹の不安がよぎったが、貴は受話器を涼子に手渡そうと手を伸ばした。
第二十一話 経験点 終り
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