第二十三話 遠回りの先

 六月一二日 日曜日


 せっかくのドライブだというのに雨だった。しかし昼から雨は上がるという天気予報を信じて、あえてドライブは中止にはしなかった。正直なところ、たかにとっては雨だろうが、晴れだろうが、ドライブだろうが、部屋の中だろうが、涼子りょうこがすぐ隣にいてくれればどこでも構わなかったのだが、涼子はドライブ好きなので涼子が喜ぶなら、とドライブをすることにした。

 それに雨のドライブも悪くはない。二人の中ではもはや定番と言って良いほどの雨音に合う名曲、Let it beを堪能できるのは良いことだった。

「せっかくの休みだけど、ま、いっか」

 Let it beに耳を傾けながら、涼子はそう言った。貴はこの車の屋根に当る雨の音の中で聞くLet it Beが好きだった。目的地は植物園だ。一応都内に位置するが、都心を抜けてから更に小一時間ほどかかる。道中が長ければ音楽も会話も堪能できるので距離は大した問題ではない。

「でも鬱陶しいのは確かだろー。早く梅雨なんか明ければいいのになぁ」

 洗濯物も生乾きで臭ったりもするし、最近は涼子が夕食を作りにきてくれているので、食材の管理は心配いらないが、どちらにしてもさっさと暑くなれば良いのだと思う。

「そうだね。あっつくなったら海行こ、皆でわーって」

「いいねぇ。涼子さんの水着姿。高校ん時のスクール水着しか見たことないからなぁ」

 世の中にはスクール水着を好む男もいるようだが、あんな色気のカケラもない水着など見ていて何が面白いのか、貴には理解できない。趣向の世界とは広く深いものなのだろう。

「あれからさして成長はしてないけど、ね……」

「そら判ってます」

「……」

「いっ!」

 ばん、と涼子は貴の肩を叩いてきた。まだ怪我は完治していないので、その衝撃が肋骨に響く。

「あ、ご、ごめん」

「実はさー、高校ん時、おれらで金集めてインスタントカメラ買ってさ、隠し撮りしたことあんだよ」

「え!」

 高校二年生の頃だ。プールは平地よりも高い位置にあったため、よほど周囲を気にしていなければ、プールの外にいる人間はあまり気にされない。そのことを利用して、貴達男連中は涼子達の水着姿を撮影しようということになった。その作戦は見事なまでに巧く行き、貴、諒、忠は見事に意中の女子の水着写真を手に入れたのだった。

「だってさ、俺は涼子のこと好きだったし、りょう夕香ゆうか好きだったし、ただしはもう香奈かなと付き合ってたじゃん。だから皆で金出し合って一人当たりの枚数決めてさ」

「そ、その写真ってどうしたの?」

「まだ皆ちゃんと持ってんじゃねーかなー。おれも持ってるし」

 ネガも涼子、夕香、香奈の部分で切り分けた。貴はネガもきちんと保存してある。今まで一度としてそんな話題が上がってこなかったことを考えると、諒も忠も、自分の彼女にはその話をしていないのかもしれない。涼子にその話をしたことから、夕香や香奈にそれが伝わる可能性は大きいが、貴はあえて口止めをしなかった。それからもう五年以上は経っている上にみんな付き合っているのだ。今更判ったところでどうということもないだろう。

「えー!」

「だから、その頃から涼子さんが成長してるかどうかなど一目瞭然なのだ!」

 能天気に貴は言うと、涼子はぺたぺたと自分の胸に手を当てだした。やはり気にしているのだろう。貴が知る限りでは、涼子は童顔と言われるのを気にしている。胸のことは言ったことがなかったが、要するに子供っぽいと言われるのが嫌なのだろう。貴は昔から大人っぽい美人よりは、可愛らしい女の子の方がタイプなので、今のままの涼子で良いと思っている。

「……どうせ私はちびだし童顔だし幼児体系ですよー。あーあ、夕香くらいスタイル良かったらなぁ……」

「夕香はやっぱスタイルいいのかー」

 夏場、薄着になってくると判るのだが、夕香の胸は涼子とは比べ物にならないほど立派だ。と、貴個人的には思う。ただそれがスタイルの良し悪しとつながる訳ではないことくらいは貴にも判る。

「いいでしょ」

「へー」

「スタイルいい人は何着ても似合うんだよー。いいなぁ夕香は。背もあるしスタイルいいし美人だし……」

 確かに夕香は美人だと思う。貴の近しい女性友達の中でも一番大人びているし、背も高い。童顔で可愛らしい涼子とは正反対の魅力を持っていると思う。涼子は涼子で夕香にはない魅力があるのだから、それで良いのではないだろうかと思ったが、身長のこととなれば、やはり貴ももう少し身長は欲しい。

「まぁおれも諒くらい背ぇあったらいいとは思うけどさ」

 ないものねだりは他人の判断でするものではない。自分自身が欲するからそう思うのだろうし、他人に、それが好きな人であっても、そのままで良いと言われても欲してしまうものなのだろう。

「別に小さくないでしょ?私より大きいし」

「そら涼子さんより小さかったら男としては相当じゃないですか」

 正確な数字までは知らないが、涼子は貴の頭ひとつ分小さい。確か一五〇センチメートルには満たない、と記憶している。

「でも諒君と忠君は確かにバランスいいかも。大輔君も背はあるけどちょっと細すぎだしね」

「細いのはあんたもそうでしょうが」

「でもちょっとずつ戻ってきてるよ」

 ただでさえ華奢だった涼子はここ数ヶ月でさらに痩せてしまった。しかし最近は食事もしっかりと摂れるようになり、体調不良も訴えなくなった。貴が事故を起こしてから再会した涼子との付き合いは、本当に順調だった。もう二度と逆戻りはしたくない。

「それは何より」

「何で胸に行かないかなぁ……」

「ま、まぁいいじゃん」

 再び胸元をぺたぺたと叩く涼子に貴は苦笑を返した。

「でも男の人ってみんな大きい胸がいいんでしょ?」

「人それぞれじゃないですかね、そんなもん」

 テレビの悪影響だろうか。確かに女性としての理想は胸がある程度大きくて、腰が細くて、尻も大きすぎない程度が良いのだろうが、貴はそんなことは全く気にしていない。

「たかは?」

「おれは別に何でもいいけど、強いて言うなら小さい方が好き」

 むしろ涼子の胸の大きさが理想だと言っても良いほどに。それに涼子が自分で言うほどない訳ではないと思うのだ。実感として。ただそんなことに拘ったところで涼子への気持ちが変わる訳ではない。体重のように後から増やすことも減らすこともできる訳ではないのだ。胸が大きかろうが小さかろうが、涼子が涼子であればそれで良い。

「……ホントは?」

 むっとして涼子が聞き返してくる。

「いやいやホントに。昔からそうなんだって。何ならあいつらに訊いてみ?」

 貴の周りは確かに違う。涼子と似たような体型の香奈を彼女に持つ忠でさえ、香奈にもっと胸があれば、などと言っている。そういう訳でいつも諒が羨ましがられるということは、男の目から見ても夕香はスタイルが良いということなのだろう。涼子の顔で夕香のスタイルだったら、と想像すると少々ぞっとしないでもないが、顔だけ挿げ替えた想像しかできないからそういうことになるのだ。単純にアンバランスなだけで。

「え、そうなんだ……。じゃあフクザツだな……」

「つってがんばって大きくなるもんじゃないだろうに」

 貴の身長と同じように。

「そうなんだけど、理想ってあるじゃない。スタイル良かったら着てみたい洋服とかいっぱいあるし」

「なるほどねー」

「理想は高く持つけど、たかが小さい方が好きならそれでいっか」

 一般的な基準などは判らないが、何と言うか小さい胸の方がすらりとしていて綺麗に見えると思うのだが、それは貴の私見なのだろう。

「んだ」

「でもせめて香奈以上は……」

 確か身長でも香奈の方がほんの少し高い、と言っていたことがある。履いている靴によっては変わってしまうほどの差しかないらしいのだが、本人同士にとっては切実な問題なのだろう。

「香奈の方がでかいのか」

「うん二センチくらいだけど」

「あははは。大して変わんねぇって。……いっ!たいんですけど……」

「あ、ご、ごめん」

 ばん、とまた貴の肩を叩き、涼子は慌てて謝った。

「まぁほら、揉まれると大きくなるっていう噂だから、貴ちゃんがんばっちゃいますよ!」

 にひひ、と笑って貴は左手をわきわきと動かした。

「う、うん……」

「え、そこは納得でなくツッコミじゃないんですか」

 にぎにぎとしていた左手をシフトレバーの上にすとんと落として貴は苦笑した。

「え、あ、そ、そうだね。んな、なんでやね~ん」

「違くないですか」

「う、うん……」

 赤面して俯く涼子の頭に貴は手を乗せた。



「おー、晴れた晴れた」

「あ、虹!」

「おーほんとだ」

 天気予報は的中し、昼過ぎから雨は止んだ。日が差してきたところで涼子が空を指差した。強烈な日の光でできた七色の光は大きく空にアーチを描いている。

「綺麗ー」

「うん」

 運転中あまり虹ばかりに気を取られていてはいけないが、貴も久しぶりに虹を見た。涼子と付き合い始めるきっかけになったあの日も確か虹が出ていた。

「お祝い、かな」

「……そうかもな」

 昨晩、初めて貴と涼子は結ばれた。涼子は怯えることなく貴を受け入れてくれた。貴は自分の持てる愛情全てを涼子に注ぎ、涼子もそれを返してくれたと思う。

 お互いに切望し続けていた願いがやっと叶えられたのだ。そして貴は今まで以上に、狂おしいほどに涼子を愛しく感じるようになった。

「……えへへ」

「な、なんですか」

 涼子が突然照れたような笑い声を出したので、若干回想モードに入っていた貴は我に返った。

「だって嬉しいんだもん」

 満面の、ずっと貴が欲していた笑顔で涼子は答えた。懐かしい感覚にまで捕らわれた。それほどまでに涼子の笑顔を貴は失い、そして貴自身が失わせていた。

 しかし、この笑顔を見せられれば、今までの辛かったことなど吹き飛んでしまいそうになる。この笑顔のために、きっと貴は進んできたのだろうと思えたし、夕香の言葉を借りるのならば、世界中の男は全てそうして努力するのだ、と思えた。

「そっか、そうだよな。……おれも嬉しいのは同じだよ」

「うん」

 セックス自体はきっとただのプロセスだ。

 ただ、絶対に無視はできない、大切なプロセスだった。人間にとっても、男と女にとっても、貴と涼子にとっても、欠かすことのできない、重要なプロセスだった。ただそれだけのことなのだろう。そしてそのプロセスをやっとのことで踏襲し始めたところだ。

「でもこれで気を抜いちゃだめなんだよね」

「ま、そうだな」

 きっと永遠に絶対の安心、絶対の安寧など訪れない。男と女が、人間が個である以上は。だからこそ自分の愛した者を大切に守り抜かなくてはならない。それこそ一生をかけてでも。そういった覚悟がきっと貴には足りなかった。恐らく涼子にも。

「忠君みたいなこともあるんだし」

 そう涼子が言った。そういったファクターも充分に含まれる。この先、いくらでも様々なファクターが存在し、問題を起こす可能性も充分にありえるのだ。人の気持ちに絶対、などと言う言葉はありえない。今は絶対にないと言い切れても、この先どうなるかなど判ったものではない。それは貴だけではなく涼子にも言えることだ。

「僕をあんな下賎な輩と一緒にして欲しくはないな」

 ふ、と笑って貴は気取ったが、そこに突っ込みはなかった。

「下賎て……。でも私たちって忠君のおかげで付き合えた、みたいなところもあるじゃない」

 冗談めかして言う貴に涼子は苦笑を返してきた。

「まーそうですが、それとこれとは話が違う!」

「う、うん」

「でも女性陣は忠君のこと軽蔑したでしょ」

 そうだ。忠本人に聞いても耳を疑った。あの時、付き合い始めたばかりだった貴を除けば、忠だけは絶対に浮気などしない、と誰もがそう思っていたのだから。そんなケースも絶対にない訳ではない。こうして自分達はその事実を、現実を突きつけられたのだから。

「軽蔑まではいかないけど、忠君て凄く真面目だし、浮気したなんて信じられなかった分、裏切られたっていうのは大きかったよ。ほんの一時期はやっぱりショックだったもん。お互いの付き合い方とか、考え方とか、そういうことまでは判らないけれど、やっぱり私たちは香奈の親友だから、香奈を裏切ったらいくら友達でも許せない、って思った」

 そういうことなのだろう。信頼に足る人物が心変わりをすれば、その相手を急激に許せなくなってしまうことだってある。きっと珍しくもなんともないことだ。

「おれもヤツとはそういう仲だしさ、香奈も勿論心配だったけど」

 忠が香奈から離れたくなって犯した過ちではない。そもそも忠の行動を過ちだと決めつけてしまう心こそが傲慢なのだとも貴は考える。

「……たかは板挟みにされちゃったね」

「おれで良かったんじゃないか、と今は思うけどね」

 だからこそ、忠と香奈を別れさせたくはなかった。出すぎた真似をしてでも、自分と涼子のことを差し置いても。きっと自分の正義感に酔いしれて満足したかっただけなのかもしれない。ただそれでも忠と香奈が今笑顔でいてくれるということは、貴が過ちを犯した訳ではないのだ、と信じさせてくれているのだと思う。

「それは本当にそうかも」

「ま、何にしても良かったよ、元通りになって」

「そうだね」

「おれ達も皆に気ぃ遣わせちゃったな……」

 今こうして涼子と二人きりで幸せだと思える時間を作るために、支えてくれた友人達。申し訳ない気持ちもありがたい気持ちも山の様にある。きっと感謝も謝罪も要らないと思っているかもしれない。貴と同じように。

「でも、それでいいんだと思う。たかが香奈と忠君の間に入ったみたいに、きっと皆が皆支え合ってていいんだって思えるようになったよ」

「そうだな。もちつもたれつ、ってのも変だけど、それがきっと自然なんだろうな」

「そうだよ。そうじゃなきゃきっと、私たちだってこんなふうになれなかったもん」

 だからこそ、胸を張って、涼子と二人で幸せになってやろうと貴は思うのだ。連中に恥じることのない、誇れるほどの幸せを涼子と二人で手に入れてやろうと思うのだ。

「ちょっと、遠回りしたな」

「これからいっぱい、取り戻せばいいんだよ。これからだってきっと色んなことがあるけど、皆に甘えて、いっぱい迷惑も心配もかけて、誰かがそうなっちゃったら、今度は私たちが色々考えて心配してあげればいいんだよ」

「だ、な……」

 かっちりと噛み合う会話。貴と涼子の精神的な成長もきっと同じようなところなのだろう。それが貴にはとても心地良かった。どちらが焦ることも護りに徹することも、探り合うこともなく、自然に笑顔で話せる。それがどれほどに大切で、そして難しかったかを、きっと二人はやっと判ったのだろう。

「えらそうなこと言っちゃったけど、遅すぎたね、私たちも」

「だからさ、これから挽回すればいいんだろ?」

「そっか」

 涼子に一番似合う表情。満面の笑顔。この笑顔はそう簡単には手に入らない。そう貴は自分に言い聞かせる。

「さぁて、あと十分くらいでつくぞー」

「おー、でも安全運転ね!」

「おー」


 第二十三話 遠回りの先 終り

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