第九話 行く末と未来
三月十九日 土曜日 北前児童公園
「なんだ、どした?用ってなん?」
数日前に
半年前にも
そこに貴は忠を呼び出した。
忠は貴がついてから一本の煙草も吸い終わらないうちに公園に現れ、ベンチに腰掛けている貴に訊いてきた。
「んー、まぁ座って」
笑いながら貴は言って、煙草をくわえると火を点けようとして止めた。時間にして二一時半を過ぎた頃だ。
「んで、何?どした?」
という言い方は、未だに忠が何も行動を起こしていないということだ。最悪の結果は出ていなかったようで、一先ず貴は安心した。
「んーと、あのさ、香奈にはまだ謝ってない、よな?」
火のついていない煙草を指でとんとんと叩いて貴は言った。
「あ、あぁ……。まだだけどそれがどうかしたのか?」
「んー、あー、あのなぁ」
「なんだよ煮え切らねーな」
忠はそんな貴を見て笑いながら言った。言い難いことではあるが、自分がしでかしてしまったことだ。はっきりと言うしかない。
貴は腹を決める。
「おれ、香奈に言っちゃったんだよ……」
「は?」
「お前のこと。ごめん」
貴は素直に頭を下げた。例え殴られようとも当然それを受け入れるつもりでここにきた。
「え、な、何で」
言葉に詰まるように忠は言う。どう表現して良いのか判らない。そんな表情だ。
「香奈に直で相談持ちかけられてさ……」
とは言ったものの、香奈のせいにするつもりは毛頭もない。事の顛末は本人同士で決めなければならないというのに、余計な口出しをしてしまったのは貴だ。
「おまえんとこに?」
「あぁ、帰りっ際に偶然……。や、今考えると偶然じゃなかったのかもな……」
「……そっか」
貴の言葉を聴いて忠は俯いた。その声は酷くトーンが落ち、貴を責めるような雰囲気ではなかった。そんな忠の姿から、貴はもっとも可能性の低いことを想像してしまい、慌てた。
「ばか!勘違いすんなよ!別に相談しただけだ!おまえ、そんな、ばか、何考えてんだ!」
貴は取り繕うように忠に言う。
状況が状況だけに、忠が妙な勘違いをしてしまったらとんでもないことになってしまう。香奈と話した時に、香奈は忠と別れたくないという意思を示していたが、どうなるかはまだ判らないのだ。ここで忠に要らぬ誤解をさせる訳にはいかない。
「おまえがな」
どす、と額を指で突付かれた。
「なに?」
「なに?じゃねー。アホかお前」
そう言った忠の声に怒気はなかった。
「だっておまえ、今の言い方じゃ勘違いすんだろ!……驚かすなよ」
はぁ、と大きく溜息をついて、自分の考えが早とちりだったことに安心する。忠はそんな貴を見て自然といつもの調子に戻ったようだった。
「香奈がおまえに惚れる訳ねーだろ。貴だけは絶対私を女として見てない、っていつも言ってんだからな」
「うそ、ばれてたんか」
いや、よくよく考えてみれば、香奈の目の前でも堂々と言っていたかもしれない。忠の恋人でなければ随分と失礼だ。いや、誰の恋人であっても失礼かもしれない。
「ああ見えて案外鋭いんだぜ」
「そりゃそうか。お前の浮気も見抜いてた訳だしなー」
悪びれもせず、貴は言った。確かに女の感というのは香奈に限らず鋭いと思う。涼子も香奈も普段はテンポの遅いライフペースだが、中々どうして侮れないものだ。
「ごめん。冗談っぽくなっちゃったけどおれはさ、やっぱりお前らには別れて欲しくないんだ。多分みんなそう思ってる。知ってたか?連中もおれ達みたいに女だけで集まって話し合ってたって」
「いや、知らなかったな。そっか」
「うん。香奈もさ、はっきりと確信持ってた訳じゃなかったんだ、ほんとは。んで、色々と話したんだけどやっぱりお前とは別れたくないって、おれの前で泣き出しちゃってさ……」
あの時の香奈の涙を思い出しながら貴は言った。あんなにも一人の人間を想っている女の涙はただ悲しいだけだ。
そしてその涙の悲しさを貴は痛いほど良く知っている。
「……謝んなくちゃな」
「ほんと、ごめんな。おれ、お前らの間に踏み込みすぎた。本当ならやっちゃいけないことだったのに。だから、今日はぶん殴られるのも覚悟で来た」
貴はもう一度忠に向き直り、頭を下げた。
「はは。そもそもは俺が自分ではっきりできないのが悪いんだ。殴れねぇよ。それにお前らのがほんとなら大変なのに、悪かったな。俺、ちゃんと香奈に謝るからさ。……見ててくれよ」
忠は俯き、そして顔を、視線を上げた。どういう訳なのか、その表情は清々しいものになっていた。
「そんな安心しきった顔して許してくんなくても知らないぜ」
「そうじゃないって。踏み込んだんだから、最後まで責任持ってもらうってことだよ」
結果がどうあれ、ということだろう。最悪の展開すらも予測してのことなのかもしれない。
「……なるほどね」
忠の笑顔に貴も笑顔を返して頷いた。口には出さないが、これで半年前の恩を返すことができそうだった。
「じゃ、そん時になったら声かけるわ。できれば涼子ちゃんも一緒にな」
「ん、判った。さてー、一杯引っ掛けに行くか?」
「そうだな」
忠の尻をパンと叩いて貴は歩き出した。
貴も忠も明日は仕事だ。酒は呑んだが量は抑えた。貴が部屋に戻る頃には酔いは醒めていた。部屋について一息つくと電話が鳴った。零時を回ったばかりだ。この時間だと涼子ではないだろう。男友達の可能性が高い。
「もしもぉし」
独特の電話の出方だといつも言われるが、特に気にして電話に出たことがないので直しようもない。
『あ、私』
電話の相手は貴の予想に反して涼子だった。
「ん、どした?」
『あ、なんか明るいね。いいことでもあった?』
「へっへー、よく判るなー」
『だって忠君に会ってたんでしょ?喧嘩はしなかったんだね』
聞こえてくる涼子の声も心なしか弾んで聞こえる。
「あぁ、大丈夫だったよ。ちゃんと謝ったし、忠も許してくれた。でも一回踏み込んでんだから、最後まで責任持てってさ、言われちゃったよ」
『最後まで?』
「ちゃんと香奈に謝るから見ててくれってさ」
『責任重大だね』
笑いながら涼子は言う。これで香奈と忠も大丈夫だ、と思っているのかもしれない。その気持ちには貴も同感だった。貴と涼子だけではない。誰もが香奈と忠の仲を心配している。そしてきっと、貴と涼子のことも同じようにみんなが心配してくれている。
「涼子にも見てて欲しいって。だから近いうちに呼び出されるかも」
『私も?』
うん、と答えて貴は煙草をくわえた。
『あんまり吸い過ぎないようにね』
「おぉ?判る?」
驚いて口元から煙草を落としてしまった。女の観察眼、いやこの場合は視聴耳とでも言うのか、時に鋭いものがある。先ほどの忠との話題にも上がったが、本当に凄いものだ、と貴は笑顔になった。
『雰囲気でね。たかが一服したくなる時とか何となく判るよ』
「そっかー」
それほどに貴を気にかけてくれている涼子の気持ちに嬉しくなる。
『だからね、たかがえっちくなる時も、判るんだ』
「えぁ?な、なに言ってんですか……」
『うそ』
オイルライターの火を消し損ねて貴は言う。からかっていただけとはいえ、涼子の方からそういった類の話が出ることは珍しい。先日ベッドを共にした時にほんの少しだけ二人は前に進めたような気がしていたが、それは貴だけの思い込みではなかったのかもしれない。それにしても今日の涼子は少し雰囲気が違う。
『へへっ、私もね今日はいいことがあったんだ』
「へぇーそっか。話せること?」
なるほど、どうりで、と貴は再び笑顔になる。
『うん。お姉ちゃんとね、仲直りしたの』
「仲直り?
最近は涼子と晶子が一緒にいるところを見ていない。先日涼子の家へ行った時、自室から晶子が顔を出したが、それも随分と久しぶりのことだった。
『ううん、喧嘩って訳じゃなかったんだけど、何て言うのかな……。ずっと、ずーっとね、高校生になったくらいからお互いに何とも言えない蟠りみたいなのがあって、何かそういうもやもやした感じがずっとあったんだけど……』
「そんな前からぁ?」
貴が涼子と初めて会ったのは中学三年生の時だ。高校生になり貴達と一緒に行動するとこが多くなってから、晶子と晶子の恋人である
『うん。それがね、今日、なくなったの』
「今までも別にそんな仲悪そうに見えなかったけど、そりゃ良かったじゃん」
『うん。きっと
久しぶりに涼子の嬉しそうな声を聞いた気がする。その嬉しさが貴がもたらしたものではないことに無力感を覚えるが、こうして貴にわざわざ話してくれる涼子の気持ちは貴にとっても嬉しかった。
「涼子の双子のお姉ちゃんだもんな」
半年前、涼子の家に電話をした時に、晶子は言外に涼子を探してくれ、と貴に言っていたように感じた。それは恐らく貴の気のせいではなかったのだろう。ずっと妹の身を案じていた、心優しい姉としての強い気持ちだったのかもしれない。
『うん……私は、不甲斐ないことばかり言ってるけどね』
少し声のトーンが落ちた。
「夕香とか晶子ちゃんだけじゃなくて、おれも頼りにして欲しいもんだ」
涼子の言葉を否定も肯定もせずに、貴は笑いながら言った。
『頼りにしてるよ。……私ね、今度からもっといっぱい貴に甘えることにしたから』
「え?」
『もっと我侭になることにしたから』
「あ、あぁ……」
何を言っているのか理解できないまま貴は頷いた。もっと、いっぱい、というほど涼子は貴に甘えてはいない。もっと貴が甘えさせていたら、涼子が甘えていてくれたのなら、涼子が独りで泣くことはもっと少なかったような気もする。
『だから、覚悟してね』
くす、と笑って涼子は言う。本気なのか冗談なのか判らないが、それは次に会った時に判るだろう。だから、貴も冗談で返しつつも、腹を決めた。
「へへっでもわっかんねーぞーっ」
『えーっ!』
「冗談だって」
三月二十一日 月曜日 北前児童公園
件の公園に貴は忠と訪れていた。
「香奈には涼子についてもらうけど、いいだろ?」
「あ、あぁ……」
心なしか緊張している忠の肩を叩いて貴は笑った。それもそうだろう。貴が思う限りでは可能性は限りなく低いが、最悪の場合、別れることになるかもしれないのだ。
「緊張すんなって!大丈夫だから」
ぱん、と忠の尻をはたき、貴は頷く。約束の時間までにはまだ少しある。忠と二人でいる時に無言になることはそう多くはない。やりきれない時間を貴は煙草を吸ってやり過ごした。アシスタントディレクターを辞めてから時計を持たなくなった貴にはどのくらいの時間が過ぎたのかは判らなかったが、暫く経ってから香奈と涼子が公園にやってきた。
「よ、香奈」
貴は香奈に近付いて、香奈の頭の上に手を置いた。
「うん……」
その手を跳ね除けようともせず、香奈は小さく頷いた。貴は忠の方を見ると小さく溜息をついた。香奈を見ようともせずに、忠は所在無さげにただ立っているだけだった。
「んにゃろー……」
貴は忠に文句を言おうと振り返った。その瞬間に手を掴まれた。
「貴……」
手を掴んだのは涼子だった。
「え?」
「私達は、ここまでだよ」
涼子の目には冗談も嘘も含まれてはいない。貴はそのまま頷くと涼子を促した。
「ひょっとして香奈さん、怒ってますかね?」
自動販売機で缶コーヒーを買って、公園からさほど離れていない川にかかっている橋の上で貴と涼子は少し話すことにした。
「うん。忠君が貴に見ててくれ、って言ったのがいけなかたみたい。多分ね、忠君は二人のことを気にかけてくれた貴に、最後まで見届けてもらいたかったんだと思うけど、それが香奈にとっては違かったんだと思う」
「一人じゃ不安だからおれを味方につけた、って思っちゃったのか……。やっぱりおれ、お節介すぎちゃったなぁ」
「そんなことはないと思うけど、香奈はちょっと勘違いしちゃったみたいだね。フォローはしておいたけど……」
「悪いな、気遣わせちゃって」
「ううん。香奈ってみんなの妹みたいな存在だけど、やっぱり忠君の前では一人の女だもん。それにあの二人は私達よりもずっと長く一緒にいるし、二人だけできちんと話し合った方がいいって、私も思う」
「そうか。そうだよな。じゃ、帰ろっか」
確かに涼子の言う通りだった。貴は忠の都合で一緒についてきたが、本当ならば貴の役目はもうとっくに終わっていて良い筈だった。
「え?」
「これ以上おれ達がいたって意味ないよ。あいつらはあいつらで、おれ達はおれ達だろ」
当初はここで二人を待つつもりだったが、それならば、と言った貴に同じことを思っていただろう涼子は驚いたようだったが、すぐに貴の言葉に頷いた。
「……そうだね。貴の部屋、行ってもいい?」
「今からか?」
「うん」
涼子の表情を見るまでもなく、それが何を意味するのか貴には判った。ここ最近の涼子は急ぎ過ぎではないだろうか。そう思いつつも、貴は涼子の手を取った。
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