第十話 哀れむ者、哀れまれる者
三月二十一日 月曜日
先日
「……う、ん」
先日と同じように今日も貴の愛撫に涼子は応えられている。それが今は嬉しい。
そしてきっともう大丈夫だ、という気持ちが涼子の胸中を占めていた。
涼子は貴の手を止めた。
「もう、いいよ」
掠れた声で涼子は言った。目が慣れた暗がりの中でも貴の表情が微かに曇るのが判った。
「……え?」
「抱いて」
横になっている貴の脇から背に腕を回して涼子は懇願する。その懇願が、貴には逆らうことの出来ない呪いの言葉だと知りながら。
「涼子……」
「もう私だけなんて、嫌だよ」
好きな人から与えられるだけでは嫌だ。今まで貴はずっと我慢をしてくれた。だから怖くても、今度は自分が我慢する。自分が貴に与えられるものがあるのだから。
「だ、だけどお前」
貴の気持ちは痛いほどに良く判る。本当は涼子も同じ気持ちだ。また貴を拒絶してしまうのが怖い。また自分に拒絶されることをきっと貴も恐れている。
「このままじゃ同じだよ。私はたかに与えられるだけ。そこからずっと進めないよ」
日頃からセックスのことばかり考えてしまう自分にも嫌気が差してきている。それもこれも何もかもが膠着状態のままだからだ。
傷付くことを怖がっている、と晶子が言ったのは本当に当たっていた。
もうこの苦しみから開放されたい。
貴の女になりたい。
貴に与えてあげたい。
様々な思いが涼子を突き動かしている。
「今までずっと私はたかに我慢させてきたから……。少しくらい怖くたってそんなの我慢するから」
「我慢って……」
「たかは二人で一緒に、って思ってるかもしれないけど、だけど、最初は、そんなの無理だよ」
何も知らない訳ではないけれど、知らないも同然だ。
そんな自分が最初から巧くできる訳がないのは承知の上で、それは涼子だけのことでもない。最初は誰でも少なからず、不安や恐怖を感じるはずなのだから。
「たかが本当に怖くないって私に教えてくれなくちゃ、だめなんだよ。思わせるだけじゃ、伝えるだけじゃだめなんだよ」
「……」
「たか、私に甘えさせてくれるんだよね。私、我侭になるって言ったよね」
今、自分ができる精一杯のことだ。
だからどうしても貴に聞いて欲しかった。与えられるだけの関係も、泣けばそれで許される関係も、何もかもがままならない今も、もう嫌だ。
愛してくれる人がいて、普通に愛し合うことができない今のすべてが嫌で嫌で仕方がない。
すがる思いで、涼子は告げる。
貴がそんな涼子の言葉を受け入れるしかないだろうことも判っていながら。
「……判った」
逡巡の後、貴は頷いてくれた。そしてゆっくりと涼子の髪に手を入れる。
「少しくらい震えても、身体が逃げても、押さえ付けてでもお願いね」
「それは約束できないな。涼子の状態をちゃんと見てないと」
「……うん、解った」
身体の位置を入れ替えながら涼子は返事をする。
貴の身体が涼子の足の間に入った。それだけで心拍数が跳ね上がる。喜びか、恐怖か、今のままでは判らない。そっと貴の身体が覆い被さってくる。涼子は目を閉じた。
「ふっ……」
首筋に貴の唇が触れた。小さく身体が跳ねて、声が漏れる。
次に貴の唇がどこに触れるかが判らない。涼子は身を固くした。それに気付いたのか、貴の手が頬に触れる。貴の手はいつも暖かい。そう思ったら唇に貴の唇の感触が重なった。
長く濃密なキスの後、貴がかすかな声で囁いた。
涼子は返事の代わりに無言を返す。次の瞬間にくるものが何か判らない、という恐怖。貴の胸板に手が行く。
(……っ)
目の前の身体を押し退けたい衝動に駆られる。
目を見開いているのに貴の顔が見えない。身体の中に異物が入ってくる感覚だけに支配されそうになる。
貴の胸板に触れていた手がどかされて、抱きすくめられたのと同時に、ゆっくりと貫かれる感覚が痛覚を通して涼子の全身を包んだ。
「……っ!」
叫び出したいのに声が出ない。
貴の背に回した手が爪を立てる。
闇の記憶が蘇る。
何度も殴られ、押し倒され、身体の自由を奪われて、蹂躙された記憶。
喪失よりも、絶望よりも、大きなうねりを上げたのはどうしようもないほどの憎悪。
身体が自由であったのなら、動ける身体であったのなら、何をしてでも、どんなことをしてでもあの男を殺してやりたいと激しく憎悪した。
「……子、りょ……こ」
暖かい声が聞こえてくる。だけれどその声が遠い。涼子には届かない。
判っている。
今涼子を抱いているのは貴だ。
ずっとこうしたいと願って、望んで抱かれている。
繋がっている。
男を、受け入れている。
あの男ではない。
判っている。
貴が、入ってくる。
全て解っている。
視線を泳がせた。
目の前にいるのは貴だ。
判っている。
けれどこの束縛を解いて欲しい。
上手く空気を取り込めない。
息苦しい。
呼吸が、出来ていない。
吐き気がする。
頭が痛い。
身体の至る所が痛い。
身体に体重をかけるこの男をどかして欲しい。
判っている。
貴に抱かれている。
この身体を開放して欲しい。
解っている。
中に入ってきた異物を抜いて欲しい。
あれは違う。
憎い。
この男ではない。
憎くて気が狂いそうになる。
男が憎い。
自分を蹂躙する男を――
殺してやりたい。
「涼子!」
「!」
涼子の聴覚に飛び込んだ声が、混濁し、朦朧とした意識を一瞬だけ現実に引き戻した。
許されるのならば、殺してしまいたいほどに忌々しい男の顔も、体温も、この世のものとは思えないほどにおぞましく醜悪な息使いも、まだこんなにもはっきりと覚えていたなんて。
「大丈夫か?だめか?」
声のする方に顔を向ける。
すぐそこに貴の、愛する人の顔がある。急激に貴に縋りたい気持ちそのままに、その背に腕を回そうと力を入れた瞬間、抑えきれないものが込み上げてきた。
瞬間、顔を背けるのが精一杯だった。
上手く呼吸ができない。咽こんだ身体に無理やり吸い込ませた空気は酷い匂いがした。
「……ばか!」
貴の大声が届き、身体が離れた。その瞬間、引き抜かれる感覚にびくり、と身体が揺れる。
再び上がってきた嘔吐感に抗えず、吐く。
物凄い音を立てて呼吸を繰り返す。
何も考えられない。すぐに貴に抱きかかえられて、ソファーに寝かされた。
「……ご、めんなさ、い……。ごめんな、さい……」
涼子から離れようとした貴の腕を掴んで、涼子はそれだけを言った。それだけしか言えなかった。
もうだめだ。捨てられてしまうかもしれない。
終わってしまうかもしれない。それが怖くて、涼子は謝り続けた。知らぬ間に涙が溢れてくる。
泣いて許されるだけの関係はもう嫌だというのに。それでも貴は一度涼子の頭に手を乗せて、笑顔になった。
「大丈夫だから、な。……大丈夫だから」
そう言って涼子から離れ、すぐに下着とTシャツを着てタオルを持ってきた。そして涼子の口の周りと髪についてしまった胃液を拭った。
「シャワー浴びてきな。ちゃんと綺麗にして、落ち着こうな」
涼子の顔を拭うと、貴はキスをしてくれた。拭ったからといっても臭いは酷いし、口の中も苦いままだ。それなのに、安心させるように貴はキスをしてくれた。
「……どうして?そんなに、優しいの?なんで、私のこと、責めないの?」
しゃくりあげながら涼子は懸命に声を出した。
「いいから、先にシャワー」
貴はそう言って寝室に入って行った。
「……」
そうだ。自分がしてしまったことだった。涼子は今更ながらそれに気付き立ち上がった。すぐに寝室に入ると貴がベッド上の布団のシーツを取っているところだった。
「……ごめん、たか、私がやるから」
「言うこと聞きなさいって。先にシャワー。これはおれがやるから」
貴は苦笑しつつ優しい言葉を選んでいる。違う。独りにされたくない。
同じ屋根の下にいても離れていれば独りと同じだ。
「……一緒が、いい」
涼子の言葉を貴はすぐに察したように頷いた。
「ん。判ったから先に、寒いんだし風邪ひいちゃうだろ。とりあえずこれ、洗濯機にぶっ込むだけだからさ」
「うん……」
貴に言われるままに涼子はシャワーを浴びた。
ただかけてあるシャワーから流れ出る湯を被っているだけに過ぎないが、それ以上何もする気が起きなかった。何も考える気が起きなかった。どれくらいそうしていたか判らない。ただ呆けて湯を被っていると貴が入ってきた。先ほどと変わらないトランクスとTシャツ姿のままだ。
「髪、洗ったか?」
優しい声がする。涼子は首を横に振る。今は貴に全てを見られても何も感じなかった。
「しょーがねーなー」
そう苦笑しつつ言って貴は一旦しゃがむと、すぐに立ち上がって、手を涼子の頭に乗せた。そしてそれを軽く動かす。
「目ぇつむんなさい」
シャンプーの香りと共に泡が流れ落ちてきた。涼子は反射的に目を閉じる。
「うわ、濡らすと判るなー。すっげぇ髪細い」
穏やかに貴は言って、かけてあったシャワーを取ったようだった。何も考えられないまま、涼子はただ貴にされるがままだった。薄く目を開けると貴は濡れるのも構わずに、丁寧に涼子の髪を洗ってくれていた。
「ちゃーんとここにいるからなー」
「うん……」
微かな涼子の声は湯の流れ落ちる音で掻き消された。
シャワーを浴び終えると、涼子は貴に借りた服を着てソファーに腰掛けた。その隣に貴が座る。
「ごめんなさい……」
全身の力が抜けてしまった。涼子は閉まりの悪い口で謝る。
「いいって」
「……ごめんなさい」
「あのな、涼子、おまえは悪くないだろ」
ぽん、と頭に手を乗せられて涼子は黙る。無条件に優しくされている。自分が傷を持つ者だから。哀れまれる対象になっているから。
それは同情よりも惨い優しさだ。相手を慮るばかりに、無意識に発生する残酷な優しさだ。それを向けられた相手がどう思っているかなど知るはずもない、一方的な優しさ。だけれどそれは罪ではない。人間なのだから。
だから責は自分にある。
「何で責めないの?……責めたってどうしようもないから?何を言ってももう駄目だから?責める価値もないから?」
「……」
酷く投げやりな態度で涼子は言った。もう今度こそ本当に駄目なのかもしれない。
「どう、責めりゃいいんだ?」
ぐり、と頭の上に乗っている貴の手に力が入り、貴の方へ顔の向きを変えられた。
「なんでやらせねぇんだ、だとか、言われたいのかよ。おれの口から、そんなこと言わせたいのかよ」
怒らせた。
今の言葉で貴を怒らせてしまった。言い方は厳しい訳ではなかったが、その目は本気で怒っている目だった。しかし、それも仕方がないことだ。
「……あぁ、でも一つだけ、あるか。責めること」
涼子の頭から手を放して、貴は手を軽く打った。
「?」
「涼子さん、焦りすぎ。今すぐしなくちゃおれたちってもうおしまいなのか?もうだめなのか?」
「だって……」
口の中に残る苦味を気にして涼子は貴から顔を背けた。
「ん?」
「だって……男を満足させられない女なんて」
「それ、雑誌か何かで読んだんだろ」
こんな時にでも言い訳を口走ってしまう。そういう気持ちがない訳ではない。思わない訳ではない。
しかし何のことはない。ただ単に貴との確たる関係が欲しかっただけだ。確かに焦りはある。現状が嫌で嫌でどうしようもないなら前に進むしか涼子には道は残されていないのだから。
「……」
「鵜呑みにする奴がいるかよ……。それならおれだって涼子さんのこと満足させたためしがないんですが」
小さなテーブルの上に乗っている煙草に手を伸ばして貴は言った。煙草に火が点くまで待ってから涼子は口を開く。恐らく貴もそんなものは些細な言い訳の一つだとしか感じていないだろう。
「でも、そんなこと気にしなくてもね、私は早くたかのものになりたかった。言い方は悪いかもしれないけれど、私の全部をたかに奪って欲しかった。それに、たかを感じたかったし、たかにも私を感じて欲しかったの」
少し落ち着いたのか、涼子は自分でもすらすらと言葉が出てくることに驚いた。貴の言葉の中に、まだまだ自分たちは終わりなどではない、という意志がはっきりと見えていたからなのかもしれない。
何も与えてあげられないまま、愛しているまま、終わりになどできない。終わりになどしたくはない。
抱いて、抱かれて、愛し合うことを考える。その何がいけなかったのか、今の涼子には判らなくなっていた。好きな人にただ抱かれたいと思う気持ちの何が悪いのか。何が嫌なのか。どこで何を間違えてしまったのだろうか。
「んー」
突然貴が抱きついてきた。
「たまらん」
「……たか?」
ぎゅうっと背中に回された腕に力が入る。貴の抱擁はいつも苦しいけれど、涼子に安心を与えてくれる。もっとこの人の身体に触れていたい。もっとこの人を心の底から、全身全霊で感じたい。
涼子も貴の背に腕を回した。
「ほんのちょっとだったけどさ、感じたよ、涼子のこと」
んふー、っと嬉しそうに貴は言った。本当にほんの一瞬だったかもしれない。それでも貴と繋がることはできた。それはやはり少しだけれど前に進めたという証なのだろうと涼子は無理やりにでも思うことにした。
「すっげぇ気持ちよかった」
身体を放して、貴は涼子の目の前で言った。本当に嬉しそうな、本心からの笑顔に見える。
顔が熱くなってくる。貴に気持ち良かった、と言われることがこんなにも恥ずかしいことだとは思いも寄らなかった。
「だからさ、まだ大丈夫だろ?おれたちは」
「……うん」
「諦めきれないって。だっておれは涼子のことが好きなまんまだもん。好きなのに諦める訳ないじゃないですか」
それに涼子の中、あんなに気持ちいいんだし、とわざと言って、貴はまた笑った。そんな貴の表情を見て、やっと涼子も笑顔を作ることができた。笑顔のまま涼子は頷くと、もう一度だけ、心の中で貴に謝った。
(ごめんね……)
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