第十三話 静けき決断

 三月三十一日 土曜日


 部屋の時計を見る。

 二一時十一分。微妙な時間だ。この時間だと風呂から上がったばかりかもしれない。あと十分待ってからたか涼子りょうこに電話をしようと思い、煙草に火を点けた。

 もうだいぶ古くなったワードプロセッサのディスプレイを見つめ、嘆息する。同人誌を作成しているというアルバイト先の後輩に、短編小説を一本書いて欲しいと頼まれたのだが、涼子との関係が傾き始めてから一向に手が付かない。自分の恋愛が躓いている中で、絵空事の恋愛でも書けなくなってしまっているようだった。

 灰皿に煙草の灰を落としたと同時に電話が鳴った。そのまま煙草を灰皿に乗せて、三コール目で受話器を取る。

「もしもぉし」

『私』

 電話の相手は涼子だった。涼子の声が清涼剤のように貴の全身に染み渡っていくような思いがした。

「あ、なんだ、こっちから電話しようと思ってたのに」

『え?そうなの?』

「うん、風呂から出たかどうかって時間だったろうしさ。後少ししたらかけようと思ってた」

『ふふ、そっか、じゃあもう少し待ってれば良かったかな』

 最近私とお姉ちゃんで電話乱用してて怒られてるから、と涼子は笑った。

「じゃあおれからかけ直すよ」

 灰皿の煙草に手を伸ばし、貴も笑う。確かに娘二人で毎晩のように長電話をされては舞川まいかわ家も堪らないだろう。貴もかなみと暮らしている頃はよく怒られたものだった。

『いいよいいよ、一人暮らしの方が大変なんだから』

 涼子がそう言ったのは聞こえていたが、貴は受話器を置いてすぐに涼子の家の番号をプッシュする。すぐに涼子が出た。

『もぉ、いいって言ったのに』

「これで気兼ねなく長電話できるだろ」

『気兼ねするよぉ、私もお姉ちゃんもちょっとだけどお母さんに電話代払ってるんだから』

「でも足りないんじゃないの?」

『う、うん、多分ね』

 涼子の表情が可愛らしい苦笑に変わって行くのが目に浮かぶ。

「でもさ、おれの方から電話して長電話って少ないし、たまにはいいじゃないですか」

 貴から電話をする時は、涼子が気遣ってくれているので、いつも長電話にはならないし、今日のように貴からかけようと思っていても、涼子からかかってきてしまうことが多い。

『じゃあ今日はご厚意に甘えるね』

「そうしなさい」

『それでー、あぁ、今度、火曜日ってたか、お休みだよね』

「うん。どっか行くか?」

『うんっ、ドライブ!ドライブがいい!』

 もうそろそろ桜も満開を迎える。桜を見るのならばもう最後の機会だろうな、と貴は奥多摩の桜を思い出した。アシスタントディレクターの仕事をしていた頃に、景色の良い所は多く回った。いつか恋人ができたらならば、いや、正直に言えば涼子と上手くいったのならば、二人で行ってみたいと思っていた場所の一つだ。

「ドライブね。了解了解っと。じゃあ月曜は早く寝ないとなぁ」

『寝坊したら夕飯おごりだからねー』

「えー、そ、そりゃキツイ……お、起こして……」

『いいけど二度寝したら知らないからね』

 楽しそうに涼子が笑う。それから受話器に当てている耳が痛くなるまで貴は涼子と話し続けた。内容という内容はない、本当に些細なことばかり話していたが、こういったやりとりをするのは随分と久しぶりのことだった。

『それじゃおやすみなさい。明日も仕事、頑張ろうね』

 涼子の穏やかな声はずっと聞いていても飽きない。いつまでも聞いていたかったが、明日も仕事がある。

「あぁ、それじゃね」

『うん……』

 涼子が受話器を置くまで貴は待とうと思ったのだが、一向に受話器が置かれない。恐らく涼子も同じことを考えているのだろう。

『……貴から切って』

「涼子から切れよ、たまには」

 まだ涼子も話したいと思ってくれているのが嬉しかった。少し笑いながら貴は言った。

『だって切れてないうちは耳から受話器、離れないもん』

「……判ったよ。じゃ、ホントにおやすみ、涼子」

『うん』

 そう言って貴はそっと受話器を置いた。そして燃え尽きてしまったまま忘れていた煙草を灰皿の中央へ捨てると、新しい煙草を一本取り出して、火を点ける。深く吸い込んで、溜息とともに煙を吐き出す。

 判らない。判らないけれど、不安だった。明らかに涼子は無理をしていた。いや、あれは無理という無理ではない。何か不自然だった。何かを隠している。いや、隠しているというよりも何かを胸に秘めている。そんな感じがした。

 どんなことかは判らない。ただ、今の涼子の明るさは作られたものだろうということからも、きっと何か涼子なりに決心したことがあるのだろう。そんな気がした。そしてその涼子の決心が推測の域を出ないことは充分に判っているはずなのに不安だった。

 次に会う時に、何を言われても良いように覚悟を決めよう。

 貴はそう決意した。



 四月五日 火曜日


 ここのところ毎日涼子は電話をかけてきた。少しでも時間が合えば夜に会ったりもした。ただ、以前のように涼子から抱いて欲しいと言い出すことは一度もなく、そして当然のように貴の方からも涼子を欲しがりはしなかった。

 涼子は焦りすぎていた節があったし、この間の嘔吐のことで、貴もそのことには触れる勇気がなかったのだ。遠巻きに敬遠していることはお互いに判っていたことだが、口に出して答えの見つからないことを話し合っても、今は意味をなさないように思えた。何より明るく振舞っている涼子の気持ちを無駄にはしたくなかった。

 ただ、会ってみても涼子の本心を見透かすことはできなかった。そして涼子から何かを言い出すこともなかった。いつもの寝不足もあるのだろう。今涼子は助手席で静かに寝息を立てている。万年渋滞の首都高速を抜けたところで眠り始めた涼子を他所に、中央高速道路を降り、国道を走り始めた今まで、ずっとそんなことを考えていた。

「何が足りてないのかね……」

 ぽつり、とそんな言葉を口にしてみた。

「……ん」

 首の位置を変えて、涼子は微かに声を上げた。

「!」

 聞かれてしまったかと思い、貴は一瞬だけ涼子の顔を見る。

「んー」

 うっすらと目を開けた涼子と目が合った。

「わっ、寝ちゃった」

 口元に手を当てて、涼子が頭を起こす。

「寝てていいですよ。寝不足なんだから」

「嫌だよ。眠ってたら話せないもん」

 目を擦って涼子は言った。仕草が子供のように可愛らしい。

「そんなの、いつだってできるじゃないですか」

 笑顔になって貴も返す。

「あー、判ってないなたかは。今日は今日の分しか話せないんだよ」

「せっかく二人でいるのにもったいないって?」

「そ。ごめんね」

 に、と笑って涼子は先ほど貴が下げたカーステレオのボリュームを上げた。

「それより体調の方が心配なんですがね、ワタクシは」

「自然に目が覚めたんだから今日の分はもう大丈夫なのっ。あ、この曲好きー」

 ぱん、と貴の腕を叩いて涼子はカーステレオから流れるMore than wordsに耳を傾ける。今日も同じだ。本心を窺い知ることはできないし、まるで涼子が一人暮らしを辞め、再会した頃のように、勤めて明るく振舞っているような気さえしている。

「……わぁかりましたよ。ちょっとコンビニ寄るけどトイレ、大丈夫か?」

「うん。あ、でもコーヒー飲みたいな」

「あいあいさ」

 数百メートル先に見えたコンビニエンスストアの看板を目に留めながら、貴は車を走らせた。



「わぁー、すごーいー」

 峠道の途中にある駐車スペースに車を停め、車を降りてすぐに涼子は感嘆の言葉を口にした。谷底を流れ行く川と桜とが一望できる場所だ。

(未来ねぇなー)

 最後の散り様を見せつけるような桜の木々を見て貴は思った。

 散って行く桜の花びらは色褪せて何も残さない。ただ散って行く様を見せているだけでその先には未来はない。桜の花を見てこんなことを思ったのは初めてのことだった。

「綺麗……」

 静かに涼子が口を開いた。

「ADやってる時にさ、好きな女と絶対来ようって、思ってた」

 来てしまってから未来がないことに気付くなどとは思いもしないで。

「私で、良かったのかな」

 そう言った涼子の頬に手を伸ばした。

「――っ」

 触れた瞬間に、涼子が小さく震えた。

「!」

 今の震え方を見て、貴はあの夜のできごとを思い出す。

(今の……)

 考える間もなく、涼子は貴の胸に飛び込んできた。

「私は、たかに選んでもらったんだよね」

 胸に顔をうずめたまま涼子は小さく言う。自信の欠片もなさそうにしている涼子のうなじに入れようとした手を、少し躊躇ってから頭の上に軽く乗せる。

「涼子がおれを選んでくれたんだろ」

 安心させるように、笑顔になって貴は言った。涼子も顔を上げて笑顔になる。そして視線を落とし、もう一度貴の胸に顔をうずめると、静かに涼子は続けた。

「うん……。最初から、初めてたかに出会ったときから、だよ……」

 ――来る。

 嫌だ。この先を聞きたくない。

 涼子の頬に触れて、唇を重ねようとした瞬間。

「会うの、やめよ……」

 その言葉を塞ぐことができなかった。覚悟はしていたつもりだった。何を言われても、涼子がしたいようにさせてあげたいと思っていた。

 目の前が真っ白になり、ぐらり、と身体か、地面か、そのどちらかが、いや両方が揺れたような気がした。

 背に回された涼子の腕に力がこもる。どのくらいそのままだったのかは判らない。不意に涼子が離れた。

「ちょっとだけ……。ほんの少しの間だけだよ」

 言ってくるり、と涼子は背を向けた。その顔に涙はなかった。

(――そうか)

 寸でのところで踏み止まれた。

 涼子は涼子で強くなろうとしている。半年前と同じように。涼子は涼子で自身が一人でも強くなれる力を持っている女だ。もしも涼子が泣きながら今の言葉を言っていたのならば、きっと本当に終わりが訪れていただろう。苦しくても傷付いても、涼子は再び前進しようとしている。

 その足で。今、こんな時こそ、貴がしっかり立っていなくてはいけない時だ。

「信じるからな」

 未練がましい言葉が心の中にいくつも渦巻いている。疑念の言葉が喉元まで上がってくる。今、涼子を認めても良いのか。今食い下がらないで良いのか。決断した後で様々な思いや言葉が貴の中で乱舞している。

 この自分の決断が正しいのかどうか、全く判らない。離れるということは本当に危ういことだ、と貴の心のどこかで警鐘が鳴っている。そのまま、簡単に終わってしまうことも充分に考えられる。

「本当に、本当に信じてね。私もたかを信じて決めたんだから」

 その一言は貴の心を安堵させるには至らなかった。

 しかしもう決めてしまったことだ。口に出した以上、もう涼子を信じることしか貴にはできない。

 そう言った涼子の表情が、貴の感情を呼び戻したようだった。

(ホントは泣きたいくせに……)

「判った」

 貴のゆっくりとした言葉を確認したかのように涼子は小さく頷くと、目を閉じて顔を上げた。涼子の唇に自分の唇を重ねる。それでも、涼子の背を抱くことができない自分に不安を感じながら。

「ごめんね、私、我侭で……」

 唇が離れ、涼子が言う。どうして抱きしめてくれなかったのか、と問われているような気さえした。

「ホントだよ。こんな我侭娘と付き合えるのはおれしかいないんだからな」

「うん。判ってる。だから、だよ」

 下を向きながら涼子は言った。

「私、ちゃんとたかのものになるから……」

 貴の肩に預けてきた頭の上に手を乗せてたかは口を開いた。

「これだけは、忘れないでほしい。おれは、涼子のためにいるって」

「うん」



 市内に戻ってきてから手近なファミリーレストランで夕食を取ることにした。口数は当然のように減ってしまったが、それほど陰鬱な雰囲気ではなかった。むしろこれからの時間のために、二人の気持ちを近付けさせようと、お互いが同じ気持ちになっていることが、希望とも感じ取れていた。

「食えるか?」

「……やっぱり、たかだったんだ」

 少量の食べ物を頼み終えてから、貴は涼子に訊いたのだが、その流れとは別のことを涼子は口にした。

「何が?」

「私が夕飯食べてないの、知ってたんでしょ?」

 自嘲しているのか、涼子は苦笑に似た笑顔になる。店の明かりでイヤリングが小さく光った。いつだったか、二人で出かけたときに貴がプレゼントをした安物のイヤリングだ。

「ん、まぁ、な」

「お姉ちゃんと香奈が知ってた。怒られちゃったよ」

「嘘つくからです。食えないもんは仕方ないじゃん」

 言ってから一つ気が付いた。涼子の食欲がなくなったり、眠れなくなったりするのは全て自分との関係でのことだ。

 今まで貴は涼子を支えているつもりでいたが、それはただ悪戯に涼子を消耗させていただけなもかもしれない。もしもそれにいち早く気付いたのが貴だったとしたら、涼子と同じ行動を取っていたかもしれない。

 涼子が大切な存在だからこそ。

 寄り添い合って、お互いが想い合っていても傷付け、傷付いてしまうのならば。

「うん……。ごめんね」

 涼子の決断は間違っていなかったのかもしれない。一度だけ、少しの間だけでも離れてみて、判ることがあるのかもしれない。例えそれでも涼子が最悪の答えを出してしまったとしても、それはもうどうしようもないことだ。

 きっと貴は、涼子と付き合い始めてから、初めて試される。

「いや、いいんだ。こうなったのは多分おれにも原因があるはずだから」

 先ほどよりも落ち着いて涼子の決断を受け入れられそうだった。これから先、自分に涼子を想う資格があるのかどうか。決めるのは涼子だ。

「うん……。私もう、私だけのせい、とか私が悪い、とかできるだけ考えないようにするつもり。今まで何度も何度も貴が言ってくれたこと、やっと少しだけ判った気がするから」

「おれの?」

「うん。おまえだけが悪いんじゃない、って。私が悪いのって確かにあって、だけどそれで塞いじゃうんじゃなくて、せっかく一番大好きな人が傍にいてくれるんだから、ほんのちょっとだけ、少しだけでも分かち合ってもらおうって思って……。でも、ずるいよね」

 コップに注がれている水を一口飲んで涼子は息をついた。

「遅ぇよ……」

 少し照れくさくなって貴は窓の外に視線を向けた。涼子が小さく頷くのが視界の隅で見えた。

 そしてふと考え込む。言っていることは間違ってはいない。涼子は自分の心の負担を少しでも軽くしようとしている。それは貴も望むところだったが。

 だが――

 先ほどの涼子の頬に触れた時のことを思い出した。一瞬だけ震えたあの涼子は、男に怯えたあの時の涼子と同じだった。

 あれは拒絶だった。間違いなく。それも涼子の変化に気付けなかった、自分のせいなのかもしれない。


 無理をして食べて、戻してしまうよりは、と貴は涼子が頼んだものを残したことに対して何も言わなかった。食後のコーヒーを飲んでから少しして、涼子は席を立つ。

「ちょっとお手洗い。すぐ戻るから」

 まさか食べたものを戻すのか、と危惧した貴を安心させるような言い方だった。貴の心配を他所に、言葉通り涼子はすぐに戻ってきた。

 そして――

「あ、申し訳ありませんっ」

 ウェイターが涼子とぶつかったようだった。何の気もなく貴は声のした方へと振り返る。倒れそうになった涼子を支えようと、涼子の肩にウェイターが手を伸ばす。

「いやっ!」

 突然大きな声を上げて涼子はそのまま尻餅をつくように床に座り込んだ。瞬間、視界に飛び込んできた涼子の表情は、その顔は、恐怖に歪んでいた。

「あ、すみませ……!」

 貴がウェイターに謝罪をしようと席を立ったその瞬間だった。

「――!」

 涼子は嘔吐した。

 貴は咄嗟に椅子にかけてあった自分の上着を引っ掴み、吐瀉物の上に覆い被せた。

「あ、しょ、少々お待ち、ください」

 ウェイターは状況を理解したのか、速足でその場を離れた。

「涼子、大丈夫か?」

 その背に手を置くことができない。涼子の自意識が貴を認識していれば触れることはできそうだったが、今涼子が自意識を保っている保証はどこにもない。

 一番大切な人に、振れることすらもできない自分に心底から苛立つ。

「うぅわ、きったねぇなっ」

 背後から浴びせられた。

 瞬時に声のした方へと顔を向けたが、誰が言ったかは定かではない。瞬間的に激昂したが、自分の苛立ちを便乗させたに過ぎない。そんなことよりも今は涼子のことだと自身に言い聞かせ、貴は涼子に向き直った。

「え……?貴ちゃん?」

 頭上から馴染みのある声が聞こえてきた。すぐに顔を上げる。

夕香ゆうか!」

「ちょ、これ!あ、待って、事情はこの際どうでもいいわ、涼子、涼子」

 偶然にも同じ店に夕香が居合わせていた。これほどの幸運があるだろうか。夕香は屈みこんで涼子の背に手を置いた。涼子がゆっくりと夕香の顔を見たが、夕香がそこにいる、ということしか判っていないようだった。

「トイレ連れてくわね。諒もいるから」

 夕香は涼子の方を支えて立たせると、貴にそう言った。涼子が戻してしまったものを処理するために、ウェイターが三人で近付いてきた。貴はウェイターと四方の客に頭を下げると、トイレへ足を向けた。



 同日 北前児童公園


 ことが片付くと、貴は涼子を送り、馴染みの公園へ向かった。そこで諒と夕香が待っていてくれた。

「晶子ちゃんに事情話してきた」

 ベンチから立った諒と夕香にそう言って、小さく嘆息する。

「ありがとな……。ほんっとに、助かった」

 あれから諒は貴と一緒に謝罪をしてくれて、夕香は涼子の面倒を見てくれた。自分一人だったらどうなっていたか判らない。

「たまたまだったけどな、良かったぜ、オレらがいて」

 座れよ、と続けて言って、諒は貴の肩に手をかけた。それに促されるまま、貴はベンチに腰掛けた。

「お疲れ様」

 夕香が缶コーヒーを手渡してくれた。

「今回ばっかりは、ほんと、堪えたな」

 横に座った諒が差し出した煙草を一本取ってから貴は呟くように言った。

「でも涼子、落ち着いたみたいだし、大丈夫よ、きっと」

 言葉を探しながら言っているのが判る。そんな夕香の言葉を聞きながら諒が点けたライターの火に煙草を近付ける。

「うん……。夕香さん、頼みますわ、涼子のこと」

「ちょっと何言ってんのよ!」

 夕香ならば当然の反応だ。だからこそ夕香に頼みたい。そう思う。

「でもおれ、もう何もできねぇから……。今までだってそうだろ。おれさ、できるだけ涼子が思い込まないようにって気遣ってきたつもりだったんだ。だけど、なんにもなんなかった。それどころかどんどん悪くなってってさ……」

 地面に視線を落とす。会えば会うほど、涼子を消耗させて行く。傷つけて行く。その証拠に、見る間に涼子は痩せ細ってしまった。

「だけどお前……。お前が支えてやんなくちゃよ……」

「会うのやめようって言われたよ」

 諒の言いかけの言葉を覆すために、顔を上げて貴は言った。案の定諒は絶句した。諒の絶句に乗じて貴は言葉を続ける。

「だからさ、おれ、もう何もしてやれないし、返って会わねぇ方が涼子の負担になんないかな、って思うし」

 意思の疎通ができなくなってしまう状態は本当に危険だとは思う。お互いの勝手な言い分をぶつけ合うだけの喧嘩よりも始末が悪い。喧嘩ならまだマシだ。少なくとも相手の言葉が耳に入ってくる。

「でもさ、おれ、信じてるって涼子に言ったんだ。だから、待ってるしかないんだ。涼子が答え出すまで」

「……それしかできねぇ、か」

 缶コーヒーのプルタブを引きながら諒は言った。

「最悪の結果になたらどうすんのよ……」

 口を尖らせて、小さく夕香は言う。貴も考えたことだったが、それならばそれでもうどうにもならないのだ、貴一人の力では。

「夕香」

「だってっ……」

 夕香を制するように諒が言う。それにも夕香は反論しようとしていたが、そのまま言葉を濁してしまう。

「違うよ、だから、もうお前らしかいねぇだろ」

 諒は夕香に言う。煙草の灰が落ちたと同時に言葉を繋げる。

「どんな流れでこんなんなっちまったかは判んねぇし、考えたって始まんねぇよ。オレぁ難しいこと判んねぇしな。だからお互いに好きなくせにこうなってんの、納得できねんだよ。だから、こうなっちまったら貴だってもうお前らに頼むしかねぇだろ」

 どんな気持ちで諒は言っているのだろうか。香奈と忠を別れさせたくない。そう思ったあの時の貴の気持ちと同じなのだろうか。

「だけど、だからって、口に出せる訳ないじゃないの、そんなこと……」

「いや、おれとのことじゃなくてさ。精神面とかさ、色々。あいつ、飯だってちゃんと食ってないし」

 もう自分のことなど忘れてしまっても構わないとさえ思ってしまう。まだ夜を共にする前の時のように、触れることに気など遣わないで、笑顔でいてくれるのなら、もうそれで良いのかもしれない。今度こそもう駄目だと思っても、まだ思い続けることだけはできる。それ以上を望むのは強欲を通り過ぎてただの傲慢だ。

「……判った。できるだけのことはしてみる。みんなにも話して涼子の気持ち、一番にってことでいいわね、貴ちゃん」

「うん、ありがと、夕香」

「その代わり、貴ちゃんが弱気になったらぶっ飛ばすから。あー、いや、ぶっ殺すから」

 冗談めかして夕香はそう言った。流石は親友が選んだ女だ、と貴は少しだけ気持ちが軽くなった。

「おぉ怖ぇ。ま、こっちはオレ達が何とかすっから。な、貴」

「あったり前でしょ!」

 夕香の気遣いになんとか笑顔を返して、貴は諒の言葉に頷いた。それしかできなかった。

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