第十四話 それぞれのレール
五月二十一日 木曜日
鬱陶しい雨を店内のカウンターの中から眺めて嘆息する。
穢れていると思っていた気持ちも、抱かれたいと望んだことも、会いたいと思うことさえも。
それが良いことなのか、悪いことなのかは判らない。
気持ちがするり、と抜け落ちてしまって、思い悩むことがなくなった。
そんな気がしていた。
そんな気がしているのに、溜息は止まることがなかった。
「ふー、鬱陶しいねぇ。入梅にはまだ早いよね」
「あ、お帰りなさい」
哲也もかなみも
「ちょっと寄り路してきたよ」
そう言って、哲也は駅前にある有名洋菓子店のケーキの箱を涼子に見せた。
「こう客足が遠くちゃ退屈で仕方ないからね、お茶にしようよ」
優しい笑顔で哲也は穏やかに言う。涼子は哲也の喋り方や仕草が気に入っていた。全ての動作が優しい。そんな気がしていた。貴の優しさとは違う。哲也の優しさは目に見えざるものが見えるような、そんな優しさだ。それに対し涼子は貴の優しさがどういったものだったのか、理解できないままでいる。
優しい、と思う。貴はいつも自分に優しくしてくれていた。それは判っているはずなのに。
「じゃ、今準備しますね。哲さん何にします?」
「あ、じゃあ僕アールグレイ」
「はぁい」
ティーカップと茶葉とお湯を用意しながら涼子は返事をする。かなみとも時々こうしてお茶を飲むが、こういった時間が格別に気に入っている。
「涼子ちゃんさ、少し、話してくれないかな、貴とのこと」
ケーキの箱を開け、皿を用意しながら哲也は言った。
「……」
少しだけ涼子は手を止めた。店内には
Let it beは雨音と良く合う曲だ。
貴の車の中でも何度も聴いたな、と涼子はぼんやり考える。雨の日のドライブ。薄暗い車内。天井やボンネットに当たる雫の音。
それらを思い出しながら心が静かになっていくのを、涼子は貴との思い出の中で感じていた。
「まぁ無理に、とは言わないけど」
思わず無言を返してしまった涼子に哲也は申し訳なさそうに言ってきた。ただ黙って支えてくれる。見守りながら、後ろから暖かく包んでくれる。そんな優しさを持っている人だ、と涼子は感じる。
「あ、いえ、嫌な訳じゃないですから……」
「無理が出てきたね。遅すぎるくらいだけど」
適当に選んだケーキを皿に乗せて徹夜は軽く笑った。
「無理、ですか?」
「うん。かなみにも聞いたけど、ここのところぼーっとしてることが多いって」
確かにそうかもしれない。忙しい時間は仕事をこなすだけで、暇な時間になれば何も考えずにただ呆けたようにしていることが最近増えた。しかしそれが何故無理になるのだろうか。
「確かにそうかもしれませんけど、でも余計なこと考えずにすむのは、楽です」
「余計なこと、か……」
静かに言って哲也は涼子が紅茶を淹れ終えるまで、ずっと涼子の手元を見ているようだった。涼子は二人分のアールグレイを淹れ終えると、一杯を哲也に渡した。
「ありがと。……ねぇ涼子ちゃん」
「はい?」
早速アールグレイに砂糖を入れ、哲也は続けた。
「僕がね、自分の仕事、いつも忙しくて、でもかなみの手伝いしたり、涼子ちゃんが体調崩したりして、今日みたいなこととかもあって、お店の心配をするのって余計なことかな」
「別に、貴のことが余計なことっていう訳じゃ、ないです、けど……」
哲也の言いたいことは良く判る。最近は貴のことを考える時間が少なくなったが、ふと思い出せば、それは夜を共にする前のことばかりだった。
「ごめんね、ちょっとストレート過ぎたね」
今涼子にとって貴が支えになっていることは確かだ。貴が信じてくれているから、だから今は好き勝手にさせてもらっている。
いつまでそれを続けて良いのか、続けられるのか、続くのか、まだ涼子にも判らない。
「んー、ストレートついでにもう一つ。まだ、貴のことちゃんと好きかな」
言葉に詰まる。
それは今の涼子の正直な気持ちの現れだ。今でも貴のことは好きだ。それは間違いない。しかし言葉で言い繕うことは簡単なことだ。
真意としてそれが言葉に出せるのだろうか。
本当に貴が好きならば、今すぐにでも会いに行きたい、と思うのが自然なのではないのだろうか。しかしそれに相反し、貴を想うからこそ、今は自分の気持ちが落ち着くまで、貴の優しさに甘えていられるのだという気持ちもある。
「好きです。……でも」
「でもその気持ちが、今の本当なのかは、判らない?」
「はい」
最近の涼子を見ていて判ってしまったことなのだろうか。何もかも見透かされているような気さえして、何も繕えなくなった涼子は素直に頷いた。
「まだ会っちゃ駄目かな」
会いたくはないのか、と訊かれているのと同義だ。言い方は柔らかいが、その内容は厳しい現実そのものだ。
「……まだ判らないんです。今貴に会ったら、私、どうなっちゃうのか想像もつかないんです」
男に触れられるだけで嘔吐するようなことはなくなった。貴と離れる、と決めた前後が一番酷い状態だった。あの思い出したくもない忌まわしいできごとの直後と同じ症状にまで戻りかけていた。
辛うじて相手が自分の一番大切な人であったからこそ保てていたが、貴に離れることを告げた日、涼子は貴の手すら拒んだのだ。
そして恐らくそれは貴に気付かれていた。
「そっか、ごめんね、無理に変なこと訊いちゃって」
「あ、あの、哲さん……」
涼子は哲に全てを話してみようと決心した。
「ん?あ、食べようよ」
「あ、はい」
ケーキを食べながら、涼子はこれまでの経緯を哲也に話した。
「……なるほど」
貴からも多少の事情は聞いていたらしく、哲也の理解は早かった。
「僕はね、これでも男だから貴の気持ちって判るような気がするんだ。もちろん想像の域を出ないけどね。涼子ちゃんは僕から何を聞きたい?」
穏やかに言って哲也は残っていたアールグレイを飲み干した。
「私、どうしたらいいんだろう、って」
貴は、男の立場からは、どうして欲しいのか、今はそれが一番知りたかった。
「僕が仮想貴として、もちろん性格なんてまったく違うけど、考えたら、そうだな、今はやっぱり涼子ちゃんに会いたいって思うだろうね。例え涼子ちゃんの気持ちが離れちゃってるとしても、一目でいいから」
「気持ちが離れて?」
どういうことなのだろう。
自分が貴を想っていなくても、という額面通りの意味なのだろうか。このまま離れて行くのは涼子も望んではいない。今でも貴が好きなことには変わりはないのだから。そう、変わりはないのだ。だからいけないのだろうか。もうすでに、涼子の気持ちは貴から離れてしまっているのだろうか。そしてその涼子に、貴はそれでも良いから会いたい、と思うのだろうか。
「多分、涼子ちゃんは貴と別れたい訳じゃないのは判るんだ。本当に推測の域は出ないけど、貴は涼子ちゃんを必死に支えようとしてたと思う。そして、今は今できるたった一つのやり方で、涼子ちゃんを護ろうとしてると思うんだ」
「……」
涼子と同じ気持ちを、哲也のフィルタを通してだが、持っているのかもしれない。会って、寄り添い合って、傷つけ合ってしまうのなら、離れてでも、いや、離れることで貴を守れるのなら。
「あぁ、だけど涼子ちゃんが考える必要はないんだけど」
自嘲しながら、とも取れる感じで哲也は言った。
「考える必要はない?」
どきり、とする。
「だってそんなの男の側が勝手にやってることだからさ。もちろん涼子ちゃんの方からああしてほしい、こうしてほしい、って言ったんなら話は別だけど」
貴も以前同じことを言っていた。貴と哲也は性格はまるで違う。だけれど、全く性格の異なる二人がそうした考えを根底として持っているということは、男とはそうした生き物なのかもしれない。
「哲さん」
「ん?」
「恋人って、彼氏とか彼女とかって、どういうことだと思います?」
ふ、と沸いてきた疑問を口にしてみた。とてつもなく稚拙な疑問かもしれなかったが、こんなことは哲也やかなみ以外には訊けない気もした。
「ムツカシイこと訊くねぇ……。うーん、やっぱりお互いがお互いを想い合って、とか……」
僅かに眉間に皺を寄せて哲也は言う。確かに難しいことだとは涼子も思う。そしてその質問を返されたとしたら、涼子の中に答えはない。
「私と貴ってぜんぜん恋人らしくないですよね」
そう思い切って涼子は言ってみた。その瞬間、哲也の顔付きが変わったような気がした。
「多分、まぁ雰囲気でしか判らないけれど、一度夜を過ごしてからの二人は不自然だったんだろうね。今の二人は、はっきり言わせてもらうけど、おかしいし、もっと不自然だよ」
「不自然」
鸚鵡返しに呟いた涼子を見て、哲也は言葉を続ける。
「好きなのに離れているのは不自然だよ」
「でも」
「確かに、一度距離を置いてみるっていうのは方法の一つだけどね。付き合い始めて一年も経ってない二人がそういうことするのって、まだまだ早いと思うけれどね」
しかし、それでもあの時は他にどうしようもなかった。
どうすることもできなかった。想えば想うほど傷付け、傷付くことしかできなかった二人には、いや、涼子には選択肢はなかったのだ。
「お互いに、貴と涼子ちゃんはさ、一緒に寝る前みたいにお互いのことを理解しようとしてたのかな。涼子ちゃんは貴に抱かれたい、ってばっかり思ってて、貴は心配ばっかりしてて……。二人はどれだけお互いのこと判ってる?」
「!」
まともに言葉に詰まった。
涼子はどれだけ貴のことを知っているのだろう。趣味だとか、好き嫌いだとか、癖だとか、そんなことなど知っているうちに入らない。そんなことくらいならば付き合い始めるずっと前から知っている。
「あ、ごめん。ちょっと酷い言い方しちゃったね」
頭を掻いて哲也は言う。
「あ、わ、私、もう少し考えてみます……。私、貴のこと何も判ってなったのかも……」
「うん、それがいいよ」
優しい笑顔に戻って哲也は言った。うん、という言葉が涼子の中にゆっくりと染み入るようだった。
「ありがと、哲さん……」
「僕のレクチャーは高いよー。ま、急がないけどまた二人揃った笑顔を見るまでずっと貸しとくからね」
冗談めかして哲也は言うと、マグカップを片付け始めた。
家の前に着くと、晶子と出くわした。見覚えのある洋服に、一瞬涼子は首をかしげる。あんな洋服を晶子も持っていたのだろうか。
「お姉ちゃん、その服……」
「え!あ、あぁ」
近くで見れば晶子の着ている上着が自分のものだとすぐに判った。晶子と涼子では服の趣味は違う。
「ち、ちょっと借りちゃった。ゴメンゴメン」
驚いて振り返った晶子はそう言ってさっさと玄関へと入って行く。何かおかしい。
涼子はすぐに後を追った。
「お姉ちゃん」
玄関先に入って靴を脱いだ晶子の肩を掴む。軽く香った香水に眉を顰める。
(私のだ……)
「なっ……あ、ご、ごめん、この服お気に入りだった?」
アップしていた髪を下ろして晶子は涼子の手から逃れるように階段を上がろうとする。あからさまに涼子を避けている。
その真意は――
「……私の香水つけて、私の服着て、何してきたの?」
最悪の答えを導き出して、涼子は晶子に詰め寄る。
涼子の厳しい声に晶子も足を止め、ゆっくりと振り返った。その顔は涼子の声よりも、もっと厳しい表情だった。
「……貴君に会ってきたんだよ」
低い声で晶子は言う。
「ど、うして……」
「別に涼子だって忠君とか諒ちゃんとかとゴハン食べに行ったりするでしょ」
冷たい視線だ。今、晶子は涼子を見降ろして、関係ない、と言い放っている。
「それならどうして私の服着て、香水まで使って!」
そういった瞬間にすぐ横にある電話が鳴り出した。取り合う様子も見せない晶子を横目で見て、仕方なく涼子は受話器を取る。
「はい、
『あ、晶子?
「夕香……」
『あれ?涼子?ちょっと晶子お願い』
夕香は晶子に用がある。このタイミングは何だ。何か、晶子の行動と関係があることの裏付けだ。
「いや」
『え?な、何よ』
「夕香、裏でお姉ちゃんと何してるの?」
涼子が階段で足を止めていた晶子を見上げて言う。晶子は相変わらず冷たい視線でもって、溜息を吐くだけだ。
『ウラ?裏って何?』
「とぼけないで!何でお姉ちゃんが私のふりして貴に会いに行ってるの!」
瞬間的に激昂して涼子は声を高くした。
『悪いけど、裏でもなければ誤魔化してる訳でもないわ。だって今のあんたには関係ないでしょ』
夕香の声の温度までもが急激に下がる。
「何で?……どうして私が関係ないの?」
『涼子がそれを選んだから。あたし達はね、別に涼子の彼の心配をしてるんじゃないの。ただ単に昔馴染みの男友達の貴を心配してるだけ。それのどこが裏な訳?』
晶子と同じように、低く、厳しい声音で夕香もまた言った。しかし、一度嘆息して夕香は改めたようだった。
『……や、ごめん、言い過ぎた。でも別に、だからって涼子を責めてる訳でもないのよ』
「だけど……」
「ちょっと、涼子変わって」
階段を下りてきた晶子が言う。表情は変わらぬままだ。
「いや!」
「涼子」
「何で!どうして私は関係ないの!あの時、私はこうすることしかできなかった!いっぱい、一生懸命考えても、これしかできなかったのに!」
へたり、と座り込んで涼子は半ば涙声で言う。
『涼子』
夕香と晶子が涼子の名を呼ぶ。晶子は涼子の肩を乱暴に掴んで自分の方へと向かせる。その力に驚いて、涼子は晶子の目を見る。
「いくら離れてみるっていったって、それで貴君を見ようとしなくなったのは誰?連絡の一つもしなくなって!自分からこういう立場を取ったのはあんたでしょう!」
大きな声で言われる。一瞬だけ母親がキッチンから顔を出したが、直ぐに戻ってしまった。そして一瞬の逡巡の後、晶子は再び口を開く。
「……言うつもりなかったけど、あんたと離れてる間、貴君倒れてるのよ」
『二回もね』
晶子の声が聞こえたのだろう。夕香が付け足すように言った。
「え?」
「涼子が帰ってきてから、涼子を支えようって、ずっと苦しんでた時だって倒れなかった貴君が二回も倒れてるの。一回は仕事中に、一回は大輔君といる時にね。もしかしたらあたしたちが知らないだけで、もっと倒れてるかもしれない」
声を沈めて晶子は言う。
(倒れた……?)
想像もしていなかった。言われたことを涼子が理解するほんの一瞬の合間に、晶子から受話器を奪われた。
「夕香、明日の夜、涼子に全部聞かせてあげよう……。うん、うん、じゃ、ごめんね」
それだけ言って晶子は受話器を置いた。そして涼子の肩を軽く叩く。
「ほら涼子、ちゃんと聞かせるから……。酷い言い方してごめんね」
「お姉ちゃん、私、駄目だね……。あはは、全然、駄目だ」
力なく涼子は笑った。本当に自分のことだけしか考えていなかった。貴のことを、貴の言うことを、伝わっていたはずの貴の想いを、何一つ理解していなかった。いや、理解しようとしていなかった。
想像もしていなかったなど嘘だ。
自分や晶子たちの過剰な期待を一身に受けて、それでも、壊れそうな心だけを頼りに立っていた貴は、涼子という存在を失って立っていられなくなってしまった。
そんなことなど本当は判りきっていたはずなのに。
晶子や夕香の声や態度がそれを示している。晶子の言う通り、貴を見ようとしなくなってしまったのは他でもない涼子自身だ。
「涼子……」
「……私、もううまくやれないよ……。貴に会ったってまた傷付けちゃうだけだよ」
「ばか!」
驚くほどの力で涼子は晶子に抱き竦められた。
「別れるなんて言ってみなさい、承知しないから!」
耳元で怒鳴られた。しかし先ほどとは打って変わって、温度のある、温かい言葉だった。
「お姉ちゃん」
涙が溢れ出てきた。どうして出てきた涙なのかは判らない。ただ情けなくて、悲しくて、痛かった。
「とりあえず私の部屋、おいで」
「……」
晶子は涼子の頭に手を乗せて立ち上がる。涼子もゆっくりと立ち上がると、晶子に肩を抱かれたまま、階段を上がった。
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