第十五話 返答
五月二十四日 火曜日
先ほどまで降っていた雨は上がり、夕刻になって晴れ間が見えた。どこかで虹が出ているかもしれない。一ヵ月半、
「よ……」
雨と緑の臭いがする川沿いの土手で
「う、うん」
貴と会う時は、いつも下ろしている髪を、今日はアップにしていた。
「あの、久しぶり、だね」
五メートルほど間を空けて、涼子は返してきた。
「そうだな、電話もしてなかったし」
離れると決めてからも最初の頃は三日に一度くらいではあったが、電話はあった。だが、貴は一度も電話をしなかった。ある日を境に涼子からかかってくることもなくなった。電話をすることが怖かったこともあったし、一度関わりを持たない、と決めた涼子にとっては、自分は必要のない人間と同義だろうと思いこんでしまうこともあった。
だから、涼子が自分から関わりを持とうとするまでは、自分からも関わろうとは、いや、関わってはいけないと思ってしまった。
決して涼子への思いが薄れた訳ではない。涼子を思えばこその決断だった。そう、信じたかった。そして、心のどこかで、もう想い合うことができなくなったとしても、涼子の負担にはなりたくはない、と思っていた。
「ごめんね……」
少しぎこちないのも仕方がない。貴は涼子の隣に歩み寄った。抱きしめたい衝動に駆られる。だが、涼子がそれを望まない限り、強引に抱きしめることはできない。
「少し離れてみて、何か変わった?」
煙草を取り出して火を点けると、貴は既に乾燥し始めたコンクリートブロックが敷き並ぶ目の前の傾斜に腰を下ろした。涼子も隣にゆっくりと座る。
「ま、別に焦ることはないけどさ」
無言だった涼子に、貴は穏やかに言った。そして僅かに感じる違和感の原因を探る。何か結果が出て会いにきた訳ではないことくらいは判る。顔が見たくなって、という訳でもないはずだ。
その涼子の真意とは何なのか、貴には読み取れなかった。
「貴……」
小さな、微かな声で涼子は言った。
「ん?」
返事をしながら、貴はその違和感の原因をすぐに見つけた。
「少しね、
やはり小さな声で言う。貴は笑顔になって隣にある小さな肩を抱く。
「え?」
少し驚いたように貴の顔を見る。そして涼子は一瞬だけ戸惑いの表情を見せて、貴から顔を背けた。
「キスしてもいい?」
笑顔のまま貴は言う。どう出るか、反応を楽しみながら。
「あ、う、うん……」
少しの逡巡の後、俯きながら頷いた。戸惑いが顕著に現れる。それも当たり前だ。しかしそれでも目を伏せつつ、こちらに顔を向けてくるのは評価すべき行動なのかそれとも……。
「いくらワタクシでも流石に
くっくっく、と笑って貴は抱いていた肩を放すと、その手をぽん、と頭に乗せた。
「え?あれ?……判っちゃった?」
ぱっと頭を押さえて、涼子の振りをしていた晶子は驚いた。顔も背丈も同じ、一卵性双生児ならではのアイディアだとは思うが、傍に来ればやはりそれはすぐに判ってしまう。
「ま、判んないようじゃだめでしょ」
そう言いながらもすぐに気付けたことは誇らしいと思う。涼子と晶子では自分を呼ぶイントネーションが異なるのだ。
「そうだね、頼もしいよ。でもざぁんねん。あたし的にはカンペキだと思ったんだけどなぁ」
少し残念そうに言って晶子は笑った。
「遠目で見た時は流石に判りませんでしたけどね。並んでればすぐ判るんだけど」
「涼子の服も香水も拝借してきたのになぁ」
その気遣いは有難いことではあったものの、色々な意味であまり良い考えではないだろう。当人達にそのつもりがないことは貴にも充分判っているが、この行為は悪乗りしていると思われても仕方ない。貴には彼女達の、恐らく夕香や
「でもどのみちばれるって。さっきおれが本気だったらどうするつもりだったんですか」
「一応ね、それなりのカクゴはしてきたつもりなんだけど。でもこの状況で貴君はそういうことしないんじゃないかって思ってたし」
「アタリだね」
煙草を携帯灰皿に煙草を押し込んだ。涼子が今、どういう状況にあるのかは聞いていない。どう思っているのかは知りたいと思うが。
「こんな言い方すると良くないかもしれないけど、貴君って涼子じゃなくてもね、結構判りやすいよ」
「影のある男にはなれませんなぁ」
苦笑して貴は言った。
「それってさ、貴君の良い所であって、悪い所でもあるよね」
「だからさ、涼子さんのこと追い詰めちゃってるんですよ、おれはね」
涼子はもう自分の腕の中には戻ってこないかもしれない。そんな思いがここのところ貴の胸中を占めている。涼子が自身を責めるのも、貴に責任がある。
全てを自分で背負い込んでしまうことはない、と学んだ。
しかしそれとこれとでは質が違う。確実に自分が涼子を追い詰めた。優しさが脅迫に変わってしまうことなど、嫌と言うほど知っていたはずなのに。
「それは、あるかもね……。無条件に優しくされちゃうのはプレッシャーだもん」
「判ってたはず、なんだけどね」
だからといって、無為に涼子を責める言葉も気持ちも貴の中では見つけられなかった。それが自虐の念からきているのかどうかも判らないまま。この言い方は卑怯だ、と貴は自分を戒めた。
「叱ってあげることだって必要なんだよ。……それも優しさだけど、甘やかす優しさじゃないと思うし。甘やかすことと、甘えさせることは違うもの」
「そうだね、おれにはそれしかできなかった。結局惚れた女一人、守ることも支えることもできなかったんだなぁって思うとね、いい加減幻滅するよね」
こうして弱音ばかりを吐いている貴の本質こそが
何が強いものか。何が信じているだ。自分自身も、涼子すらも信じきることができないこの脆弱な人間を、こうして見放さずにいてくれる仲間こそ、貴の甘えた根性の温床になっている可能性だってあるのだ。
(そういうことか)
涼子の気持ちが少しだけ判るような気がした。
(傷を持つ者。哀れまれる者ってことだ、おれも)
だから皆が優しい。その優しさに応えられずに甘えるばかりだ。
「やっぱり似てるんだね、貴君と涼子って」
「そう、かもね……」
まず何より自分を責めてしまう所は本当に良く似ている。
内罰的で、自虐的で。
思い詰めれば思い詰めただけ悪い方へと考えが及んでしまうことも、人に甘えるのが下手なことも。
「でもやっぱりね、顔が見られたってだけでもおれは、救われるよ」
「涼子みたいに女の子らしくないけどね」
冗談半分で言った貴の言葉に、晶子も笑顔を返した。
「そんなことないでしょー。おれ涼子と秋山がいなかったらこの場で襲ってるかもよ」
「あら!それは聞かなかったことにしてあげるわね」
「そいつぁどーも」
晶子の気遣いが嬉しかった。自分が涼子と同じ顔だということを良く知っている。双子なのだから当たり前なのかもしれないが、気休めでも何でも、少しでも、というその気遣いは、今の貴にとっては本当にありがたいものだった。それほどに、自虐すらままならないほどに参っていたのだ、と貴は自覚した。
「でもちょっと意地悪だったかな、良く考えたら。今度からは普通に涼子のおねーちゃんとして会いにくるよ」
晶子は何気なく言ったのだろうが、それは今、自分よりも涼子に近しい者からの情報に他ならない。
まだこの状況は続く、と晶子は暗に言っているのだ。
「はは、そうだね。次も変装してきたら騙された振りして暴走するかもしれないしねー」
「えぇー、怖いわそれ」
「ともあれ何か色々と気、遣わせちゃって悪いね」
こんなことまでさせてしまった。これは、貴の弱さが原因だ。
「別にさ、涼子の彼氏だから、とかそういう訳じゃないのよ。普通にね、男友達を心配してるだけ。あたしも夕香も香奈ちゃんもね」
「ありがたいことですわ」
諒や忠や大輔にも必要以上に気を遣わせてしまっている。今はまだその厚意に甘えられるのだろうが、いつまで自分がこの状況に甘んじられるのか、それは判らない。何日か前から自問するようになった。
(いつまで耐えられる……)
いつまでこんな状況が続くのか、いつまで独りきりで、何日をこのまま乗り越えて行かなければならないのか。
全ての判断を涼子に委ねてしまって本当に良かったのか。
あの日、涼子の決断に水をさせなかった自分に、貴は間違いなく後悔している。涼子のことを思えばこそ、とその時は思っていたはずなのに。
それならば、自分の気持ちはどこへ向ければ良いのか、いや、良かったのか。自分の気持ち一つ整理できないまま涼子を独りにさせてしまったことは、本当に正しかったのだろうか。
「涼子のこと、頼むね、お姉ちゃん」
「かしこまりっ」
貴は立ち上がりながら言い、二本目の煙草をくわえた。
五月二十七日 金曜日
「お疲れっしたー」
一日の仕事を終え、アルバイト先の整備工場を出た。流石に二〇時を回ると陽は完全に落ち切っている。
「お疲れ、
思いもかけない声に振り返る。
「おろ、
恐らくは貴を待っていたのだろう。夕香は普段忙しい身だと聞いている。何やら大手楽器販売店に勤めているらしいが、職場が慢性的な人手不足なのだ、と以前嘆いていたことがあった。その夕香がこの時間に貴の職場の前を通りかかることなど有り得ない。
「たまにはこんな美人さんとゴハンでもどうかなーって思ってね」
「話、あるんだろ?何だか判んないけど涼子とのことで」
夕香の冗談をさらりと流し、そう言ってから貴は美人さんて、などと苦笑した。
「ま、そういうことね。正確に言えば涼子とのことでの貴ちゃんのこと、なんだけど」
貴に余裕がないことを今の一瞬で読み取った勘の良い女は、ストレートに言い放った。
「おれ?」
意外だった。涼子とのことについてだとか、涼子の現状だとか、そういうことではなく、貴自身のことだ。
涼子に今の自分の現状を報告でもするためだろうか。いや、それは考え難い。涼子から連絡が来なくなった時に、涼子には自分のことは伝えないようにと、夕香には頼んであるのだ。そういうことを簡単に破るような女ではない。
「そ。言っとくけど、貴がどうだったかこうだった、なんて涼子に教えるほどお節介じゃないわよ」
良く言うよ、と思いながら夕香の言葉に貴は無関心を装った。
「へーへー」
こうして様子を見にくること自体がお節介だと思うのだが、口には決して出さない。口喧しい夕香のことだ、言ってしまえばえらいことになるのは目に見えているし、事実、今はそのお節介が本当にありがたいのだから。
「で、どうなのよ」
何がだよ、と心の中で密かに突っ込みを入れて、貴は口を開く。
「金欠なんですが……」
もちろん冗談だが。
「あんた給料日前の女に奢らせる気?」
「……判りましたよ」
奢らせるなどとは一言も言っていない。苦笑して貴は返した。
要するに「話を聞きにきてやったんだから、食事くらい奢りなさい」ということだ。付き合いの長さだけで言えば夕香との付き合いは涼子よりもほんの少し長い。
その上涼子の親友でもあり、貴の親友の恋人でもある夕香の言いたいことはいい加減判ってしまう。
「やーん、だから貴ちゃんって大好きよ」
語尾にハートマークでも付きそうな口調で夕香は言う。
「ハンバーガーでいいんだろ?」
冗談半分で逆襲してやると、夕香の目が据わった。
「あのねぇ、美人さんは何食べても絵になるけどね、ムードが大切なのよ、ムードが」
「安くて旨いものにも弱かろーがよー」
「そりゃそうよ。安かろう、旨かろうが一番よ。なにごともね」
「んじゃファミリーレストランでいいよな」
けろりと態度を変えて言う夕香に貴は言った。
貴には良く判らないが、恐らくはブランド物のスーツで身を固め、貴の目から見ても美人だと思える夕香が整備工場から出てきた薄汚い作業着の男とムードのある店に行くことほど不釣合いなものはない。
かと言って立っているだけでも男どもの視線を引く夕香がファミリーレストランで食事をするというのも何だか場違いな気がした。しかしその実、草薙夕香という女はかなりの庶民派で、仲間内で食事や酒を呑みに行く際には、進んで安くて旨い店を探してくるのだ。
「仕方ないからそこで手を打ってあげるわ」
夕香はそう言って、通りの向かいにあるファミリーレストランの看板を指差した。
「で、どうなのよ」
何がだよ。
再び心の中で突っ込みを入れて、貴は煙草に火を点ける。
「最近になって思ったんだけどさ。ちょっとおれ、自分を殺しすぎてたかなって」
「充分すぎるほどにね。あのばかもそのくらい自制が効いてくれればありがたいんだけど」
ま、それは置いといて、と夕香は食後のコーヒーを一口飲んだ。涼子が淹れてくれたやつのが断然美味しいわ。などといつかの香奈と全く同じことを言って夕香は続けた。
「で、貴ちゃんはね、涼子、涼子って考えすぎちゃってるのよね。ま、そこが貴ちゃんらしいっちゃ貴ちゃんらしいんだけど」
「裏目に出すぎ?」
それも自分らしいな、とも思う。
「まぁ、きっとそもそもの原因はさ、女同士で話してた時に離れてみるのも手かもー、なんて話が出ちゃったあたしらにもあるんだろうけどさ、それにしたって付き合って半年で距離置こうなんてホントなら十年早いわよ」
「まぁ、でしょうねぇ」
自分達だって十年も付き合ってないよな、という言葉をすんでのところで飲み込んで貴は言う。
「で、どうするつもりなのよ」
夕香の言葉を聴いてから、煙草の灰を灰皿に落とし、貴は視線を上げた。
「待つしかないでしょ。涼子が答えを出さなきゃどうにもね」
「二回もぶっ倒れてる人間の言う台詞じゃないわね」
正確には三回だ。夕香達にはこれ以上の心配をかけたくなかったから言わなかった。それでも貴は夕香の言葉に納得し頷いた。会いたいと思うのに会えないということがどれほど辛いことなのか、貴は身を持って知った。
付き合う前とは違う。付き合う前は確かに涼子を想ってはいたが、完全に諦めていた。それに自分に非があることを判っていた。しかし涼子の気持ちを知った時から、付き合うようになってからは、付き合う前とは比べ物にならないほど、涼子への想いが大きく育っていった。
その気持ちを抱えたまま、涼子と会えない日々を過ごすのは、もう限界に近かった。どれほど自分に非があろうと。
「もうさ、涼子のこと考えるのやめたら?」
「でもさ、それで涼子のこと泣かしちゃってるんですよ、おれは」
いつか香奈に吹っかけたように、今度は夕香がそれを口にする。逆説から導き出す、貴の答えを夕香は待っている。
「それは違うんじゃない?」
「違かないよ」
「違うじゃないの。結局それでも貴ちゃんは涼子を一番に考えてきたんじゃない」
夕香は言って、冷め始めたコーヒーをまた口にする。
「まぁ考えない訳にはいかないしさ。あいつを襲った奴と同じことだけは、もう二度としちゃいけないんだ」
「そこに捕らわれ過ぎちゃってるのね……」
それは確かに認めるところではある。
しかし涼子の気持ちを蔑ろにすることだけは、どうしたってできない。捕らわれ過ぎてはいけないことではないはずだった。貴がどれほどまでに意地汚く、醜悪なまでに涼子を想っているのか、夕香は知らないだけだ。
そしてその想いは涼子をゆっくりと締め上げて行く。
人を愛することと憎むことが紙一重に位置することもありえるのだ、と今の貴ならば理解できてしまう。
「そんなんじゃ、このままずっと平行線じゃないの」
それは、涼子の気持ちがこのままでは変わらない、ということなのだろうか。いや、そうなのだろう。晶子もそう暗に告げていた。
「おれが引っ張んなくちゃいけないってこともあるって訳か」
「涼子のため、涼子のため、それもいいけどね」
「涼子のせいにしてるってことだよな……。涼子が離れたんじゃなくて、おれが突き放したのかもしれないな」
煙草をもみ消して、貴は苦笑した。そうせざるを得ない状況に、貴が追い込んでしまったのかもしれない。
「ちょっと、何もそこまで……」
「ん、でも今思うと確かに涼子のこと一番に考えてきたって思ってたけど……。おれ、一緒にあいつと考えてなかったな、って思ってさ」
「涼子もあの性格だからね。貴ちゃんの言うことはそのまま飲み込んじゃうし」
夕香の言う通りだ。涼子の意思のみで涼子が決めたのは、恐らく離れてみよう、ということだけだったのだろう。貴が極限まで涼子を追い込んでしまった結果だとしても。
「難しいな……」
「まぁね、そうそう上手いことだけじゃないわよ。だからね、そんなもんで別れんじゃないわよ」
「そうだな、もうちょっと踏ん張ってみるよ」
少し、何をすべきか、ということが見えたのかもしれない。
「当たり前よ。男はね、惚れた女を守るために存在するのよ」
「流石は夕香大明神」
「そう簡単に惚れた女の笑顔が自分のものになると思ったら大間違いなのよね」
「それはおれでなく、
我が親友も大変な女の心を射止めたものだ、と苦笑せずにはいられない。しかし夕香の言っていることもまた、一つの心理なのだろうと理解はできた。
「ちょっと私情が入ったわ」
不覚だわ、と言いながら夕香はカップに残ったコーヒーを飲み干した。
「これは受け売りだけど、動物だってね、雄は他の雄と戦って雌を勝ち取るのよ。その戦いがどんなに無様だって、泥にまみれてたってね、女は最後に勝ち残った、強い男に惹かれるもんなの。だから、死に物狂いで戦って、女を手に入れて、その女を守り抜いた時、初めて女は男に笑顔を見せてやるのよ。そのくらい覚えときなさいよね」
受け売りだ、と最初に言っておきながら随分と偉そうに言う夕香に貴は苦笑を返した。本当に大した女だ。しかし夕香の言葉はありがたかった。
夕香の言葉を借りるのならば、戦うべき相手は見えた。
(そういうことか……)
絶対に素直に礼を受けない長い付き合いの女友達に、貴は心の中でだけ礼を述べることにした。
「それにしても……」
「何よ」
もう一本、煙草に火をつけると貴は神妙に言った。
この女友達の奇妙なところは、自分が煙草を吸う訳でもないくせに喫煙席を選ぶところだ。相手を立てると言えば聞こえは良いが、煙草を吸いたいのを我慢している相手を見ているのが単にストレスになる。
「いやー、男どもの視線が痛い気がするのは気のせいなんだろうか」
思ったこととは違うことを口走って貴は苦笑した。嘘ではない。席を立つ客の男達が必ず夕香を見て通るのだ。
「なんだっていいじゃないのよ、そんなもん」
流石に子供の頃からそういった視線を浴びてきている女は感覚も違うのだろう。涼子と一緒にいる時に、涼子を振り返る男を見ると自分が誇らしく思えたが、夕香の場合、何故か後ろめたく感じてしまう。自分の彼女ではないということがまずあるのだろうが、それを差し引いても夕香はできすぎているのだ。
「通勤にブランド物ってのはどうなんですか」
最初に思ったことを貴は言った。例え通勤とはいえ外出するのに気合を入れるのは判らないでもないし夕香らしいと思うのだが、それにしても人の目を惹き過ぎだ、と思う。
「貴ちゃんまったく解ってないわねぇ。ブランド物なんてこの指輪だけよ」
「え、そういうもんですか」
ブランド物のブの字も判らない貴の考えはどうやら見当違いだったようだ。
「あたしのことそんな高慢ちきな女だと思ってた訳ぇ?」
テーブルをぱしんと叩いて夕香が凄む。
「い、いや思ってない!思ってませんとも!夕香大明神にいたってはこう、何ですか、例え通勤であろうともビシッと決めてですね……」
ブランド物を身につけている女を高慢ちきだと決め付けている夕香の方がどうかと思うのだが、そんなことなど勿論言うこともできず、貴は必死に食い下がった。
「ブランド物なんかに頼んなくったってね、そんくらいやってのけるのがイイ女なのよ」
流石に『気取らない、飾らない、気にしない、の三ない主義』の持ち主だ。長年の付き合いでも夕香を誤解することもあるのだ、と貴は付き合いの長さでは推し量れない何かを実感する。
「御見それしました」
(つまりはさ、涼子だって、いや、涼子こそがそうなんだよな)
何年想い続けていても、何ヶ月付き合ったとしても、その程度で見えてくるものなどごく僅かでしかない。
「あの馬鹿もあたしが安く済む女で安堵してるわよ、きっと」
にこ、と笑顔になって夕香は言うのだ。
諒はこの笑顔を勝ち取った男なのだろう。この大したイイ女を勝ち取ったのだ。それがどれほど大変なことなのかは、二人を見ていれば良く判る。
(つまりは)
それだけのことをまだまだ、貴はしていないのだ。
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