終章

 九月一日 火曜日


 あのクラス会から三年弱が過ぎた。

 たかはあれから半年と経たずにアシスタントディレクターを辞めた。自分の時間と、涼子との時間。お互いがお互いでいられるための時間をより大切にできるよう、職を変えた。

 三年前、涼子りょうことまとまったと仲間達に報告した時、大いに冷やかされたが、それ以上にみんな喜んでくれた。泣きたくなるほど嬉しかったのは久しぶりだった。

 もちろん三年の間には順当とは言い難い紆余曲折もあった。何事も簡単にことは運ばない。お互いに傷つけ、傷付き、本当に別れの危機が訪れたこともあった。それでもこうして、二人でいることができる。


「あれ?貴、お前今日早アガリだったろ?」

「あ、コショさん。そ、そうなんすけど、こ、うぐっ、こいつやっつけないと……」

 勤め始めてから既に二年以上、アルバイトから社員になって一年になる小さな整備工場の中で、社長に声をかけられた貴は、オートバイのブレーキキャリパーと格闘しながらそう呟くように言った。

「なんだ、デートけ?」

 社長と呼ばれることを極端に嫌い、小庄司こしょうじという苗字から、略してコショさんという愛称で呼ばれるこの社長は貴よりも十五歳ほど年上だが、とてもフランクな性格で、家が近いこともあり、よく呑みに連れて行ってもらったりもしている。そして、私用で早く上がったり、会社を休む時には『女が理由なら良し、そうでなければ認めん』と豪語する変わり者でもある。

「え、ま、まぁ、今日、彼女の、誕生日なんで……!」

 ネジの頭を舐めないようにがっちりとインパクトドライバーを差し込み、ずれないように、慎重に、力強く、ネジに対して垂直に力を込め、ゆっくりとトリガーを引く。

 こんな理由であるから、きっちり一か月前から有給届は出していた。だが、夏の行楽シーズンが終わり、車やオートバイの整備の仕事が増えたせいで、今もって貴はネジが外れないブレーキキャリパーと格闘中という訳なのだ。

「なんだかなー!俺がやってやっから早く行け!」

 なんだかなー、は小庄司の口癖だ。その口癖と共に貴の手からインパクトドライバーを奪うように手にした。

「や、でも」

 早退も有給休暇も、女なら良し、というこの社長は元々がフランクな性格で付き合いやすい上に良くしてもらっているので、涼子との近況もある程度は話してある。ちゃらちゃらと女遊びをする訳ではないと判っているからこそ、こういう言葉をかけてくれる。

 それにしてもいち作業員の仕事を社長に代わってもらうというのは流石にフランクな付き合いをさせてもらっている貴でも気が引ける。

「梅干しハイ三杯で代わってやるっつってんの。それならいんだろ」

 社長という立場上、今は殆ど現場作業はしない人だが、いざ作業にかかると小庄司の作業スピードは貴など足元に及ばないほどに早い。そんな堅実な仕事ぶりが実ってこの工場も充実しているのだろう。

「う、うす、恩に着ます!」

「ごちー」

 くい、とサムズアップをして人好きのする笑みを浮かべると、小庄司は貴を見送ってくれた。



 十六時三〇分、小庄司のおかげで早く待ち合わせ場所に到着できた。心の整理も含め、時間よりも三〇分早く待ち合わせ場所についた貴は、様々なことを考えていた。

 待ち合わせ場所に涼子が指定したのは、貴が無理矢理涼子にキスをしてしまった橋だ。涼子はあの時のことを、何でもないことなのだ、と貴に思わせたいらしい。

 それは良く判ってはいたが、はいそうですか、と簡単に納得する訳にもいかないのだ。あの日から六年という月日が経った今でも。

 涼子と付き合い始めての三年でも様々なことがあった。大きな喧嘩などはなかったが、別れることになってしまうのではないか、という際どい状況にも陥った。それでも、涼子はその決断を下さなかった。

「あ、待ってたの?もしかして」

 思考の途中で涼子の声が飛び込んできた。あまりにいきなりだったのでびくり、と体が揺れた。

 涼子は貴の隣まできて、トンッ、と両足で止まる。

 待ち合わせは十七時ということになっていたはずなのだが、思えば待ち合わせで貴が先に待ち合わせ場所に来たことはほとんどなかったな、と内心で苦笑した。

「あぁ、うん。別に何てことはないんだけどさ……」

 少し緊張気味に貴は答えた。

「じゃ、三〇分お喋りしよう」

 涼子はクルリ、と振り返って欄干に背を預けた。貴も涼子に倣う。

「えへっ、ここで初めてキスしたんだよね、私達。ね、たか」

 貴は少しうつむき加減で小さく頷いた。が、それは涼子には見えなかったらしい。

「ねぇ、聴いてる?私の話」

 涼子は少しだけむっとして貴に言った。

「ん?あぁ、聴いてるよ」

 貴は持っていたセカンドバッグの中に左手を忍ばせて答えた。

 中には涼子への誕生日プレゼントが入っている。「いつか、笑って言える時がくればいいね」貴の好きな小説の中にそんなセンテンスがあった。今がもうそんな時期なのか、それとも違うのか。貴は漠然と思う。

 確かに涼子と付き合い始めてから、あのキスの件は正当化されているような節がある。三年もの間、涼子のそばにいたことで、罪の意識は確かに薄れてしまっている。

 それでも、と貴は自分を戒める。

 いつか、咎は受けなければならない。それだけのことを貴は、最愛の女性にしてしまったのだから。

 涼子が貴に対して謝罪や懺悔を求めている訳ではないことくらいは、判っている。

 もしも涼子がそれを求めるのならば、貴にはそれに応える覚悟はある。しかし涼子はそれをしない。きっと涼子は貴を断罪することはないのだろう。

 何故なら、涼子が貴に望むのはただ一つだけだからだ。

 少し息を吸い込んで、気持ちを切り替える。震えるな、と自分に言い聞かせて。

 今こそ、涼子のたった一つの望みを叶える時だ。

「どしたの?たか」

 涼子は、先ほどから貴の様子が少しおかしいことに気付いていたのか、貴の顔を覗き込むように言った。

 そんな涼子を認め、貴は思い切って涼子の名を呼んだ。

「涼子」

 涼子は貴の方にきちんと向き直り、小首をかしげた。

 そんな涼子を見ていると、涼子は改めて可愛いと思う。

 二四歳にもなって、と思われるかもしれないが、やはり涼子は美人というよりは可愛い方に入る。童顔、と言うとむっとするけれど。

 貴はもう一度深呼吸をすると、意を決してセカンドバッグの中の左手を出した。

「あ、あのさ、これ……」

 包装して、リボンが掛けてある小さな箱がその手にはあった。

「わぁ!ありがと、開けてもいい?」

「あ、あぁ」

 空を振り仰いで、貴は答えた。

 どうしようもなく恥ずかしい。

 耳まで熱くなってくるのが自分でも判る。

 涼子はいつものゆっくりとした動きからは想像もつかないほど手際良くパッパッとリボンをほどき箱を開けた。

 中には紺色の小箱が入っていて、更にその中には……。

「え、これって……?」

 リングが一つ。

 プラチナリング。

 誕生日プレゼントのはずのリングの、もう一つの意味を悟り、涼子は半ば唖然として貴の顔を見た。

 その視線を受け止めて、貴は言う。

「お前とずっと一緒にいたい。……涼子」

 本当に二人でいることが、幸せだと信じさせてくれるのなら。

 本当に貴のことを想ってくれているのなら。

 本当に、この自分が、涼子を幸せにできる力を持っているのなら。

 ずっと一緒にいてあげたい。

 ずっと一緒にいて欲しい。

「……はい」

 涼子は、はにかみながら貴にそっと答えた。

 大きな瞳に少しだけ涙を浮かべて。

 貴はそっと涼子を抱き締めた。包み込むように。その細い肩を、そっと。


 二度と寂しい思いをさせないように。

 二度と遠くへ行ってしまわないように。

 二度と夏霞のようなぼやけた過去にしないように。


 貴と涼子は抱き合っていた。

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