第四話 咎
――三年前 九月二日
高校生活最後の夏休みの終わりと共に、夏そのものが終わろうとしていた季節。
自らが最後の夏に別れを告げていたことに気付かないでいた。
いや、気付いていたのかもしれない。ただそれを認めてしまうのが怖くて、誰もが気付かない振りをしていただけなのかもしれない。
夕暮れの帰り道、遠回りをして河川敷を歩きながら、色々なことを話しては笑い合った。
また来年の夏、という言葉を口に出してしまってから、みんな妙に無口になったりもした。
――このまま、時間なんて止まっちゃえばいいのに――
そう
忘れるはずがない。みんなが同じ気持ちだった。
終わってしまう、という事実を、誰もが心のどこかで否定したがっていた。
ずっと涼子と二人でいられたのだから。
もちろん気の利いた言葉ひとつも言えない状況ではあったものの、みんなが騒いでいるところを二人で抜け出して、一緒にいることにどこか錯覚めいた、特別なものを感じていた。
その後、宴は二次会、三次会まで続き、その間貴は一切アルコールを口にせずに酔いを醒ましていた。
帰り道、酔いが醒め切っていた貴は、涼子を家まで送るために二人で歩いた。
「
「え、別に……」
「何だかとってもみっとも良くなかったような気がしてならないんですが。ワタクシ」
かっくん、と頭を垂れて貴は少しおどけた風に言ったが、その実かなり自己嫌悪の念に駆られていた。好きな人の前で、ということも勿論あるのだが、高校生活最後のライブでとんでもない醜態を晒してしまった。この醜態は仲間たち全員の生涯の思い出に残ってしまう。大人になって振り返れば語り草になってしまうかもしれない、由々しき事態だ。
「そ、そんなことないよ、ライブの時すっごくカッコ良かったもん。気合入ってて、あ、いつもの
ぴん、と指を立てて笑顔になった涼子を見て、貴はライブの真っ最中の時の自分を思い出してみる。下手は下手なりに三年間突っ走ってきた集大成のライブとしては、確かに出来は及第点だったかもしれない。数日後にはライブハウスから送られてくるであろうライブ音源が録音されたカセットテープと、固定カメラではあるが、ステージを録画したビデオテープがかなり楽しみだ。
「そうだった?……ってことは、いつもの水沢君はすっごくカッコ悪いってことになるんですね。いーですよ、いーですよ」
「え?あ、違う違う、そういう意味で言ったんじゃないってば」
あうぅ、とわざとらしくしゃがんだ貴のオーバーなリアクションに慌てたのか、涼子はフォローを入れてくれた。もちろん互いに諧謔の域を出ていないことは判った上でやっていることだ。
「ホントウに?」
「うん、ホントッ。あ、ここまででいいよ」
少し済まなそうに涼子は言ってきた。先ほどまで具合の悪かった貴を、ここまで付き合わせてしまったことを気にしているのかもしれない。貴が送ると言った時も随分と抵抗したものだった。
「いやいや、最後まで送らせて頂きますよ。お世話になってしまいましたからね」
「え?いいよいいよ。これ以上は水沢君だって遠回りだし、悪いもん」
(違う。本当はまだ一緒に……)
白いサマーセーターにブルーのロングスカート姿の涼子は貴の目に、とても奇麗に映った。いつにも増して。
そんなロングスカートの裾を翻してくるり、と振り返った涼子の腕を、貴はいつの間にか掴んでしまっていた。
「え、ホントにいいよ。……悪いから」
そう、笑顔で涼子は言ったが、貴の表情はひどく真剣なものだった。
「あ、じゃ、じゃあ送ってもらおうかな……。ね、水沢君」
「あ、ご、ごめん……」
貴は涼子の腕を放して言った。何も考えずに身体だけが、勝手に動いてしまっていた。
このまま別れたくない思いがそうさせたのか、それとも何か、何か不安があったのか。何にせよ、言い訳すら出できない状況を作ってしまったことだけは確かだった。
二人は、そのまま歩き続けた。無言のままで。
妙な空気だった。
一言でも発してしまったら、そこで全てが壊れてしまいそうで、それが恐かったのかもしれない。
だから無言で、何も言えなくて。
涼子の家まで、小さな橋を渡って後一つ角を曲がったら、という所だった。
橋を渡りきってしまえばもう涼子と分かれなくてはならない。
突然、何か言い知れぬ不安のようなものが貴を襲った。
少し前を歩く涼子の姿を目に焼き付けながら、胸の動悸がひどくなってくるのを貴は自覚する。
視界に涼子の姿しか認められなくなる。スローモーションの映像を見ているかのように、いやにゆっくりと、涼子の髪が跳ねる。
一体何が何なのか、訳が判らなくなってくる。
ただ、少し先を歩く涼子の後ろ髪を視界に焼き付けながら、歩くことしかできなかった。
(舞川……)
そう、声に出そうとした。
しかし声は出なかった。その代わりに、貴は涼子の肩に手をかけてしまっていた。
「……!」
掴んだ肩に力を込め、突然、乱暴に涼子を振り向かせた。真っ白な頭の中で、我に返ったような錯覚にとらわれたその瞬間、貴の眼前に、近すぎる涼子の顔があった。ふわりと唇に柔らかいものが振れた、と思う間もなく顔と顔がぶつかって弾けるように離れた。
どれだけ短かったのか、永かったのかさえ判らない。
―― 一瞬だけの永遠 ――
顔が離れ、涼子の肩を強く抱き締めた貴に残ったのは、甘い髪の香りと。
……押さえ切れないほどの、後悔。
「……み、水沢、君」
どんな気持ちで涼子は自分の名を呼んだのだろう。
怒りか、絶望か。
貴は涼子から半歩離れると、そのまま崩れ落ちて、膝を付いた。
「ごめん……。どうしておれは!」
息が詰まって、それ以上言葉を続けることができなかった。それ以前に、もう何を言っても言い逃れにしかならない。
詰まった呼吸から吐き出された吐息が全て自分を呪う言葉に変わりそうだった。
(今、何をした?いきなり、力任せに!……何をした!)
涼子は二歩、貴から遠ざかった。その足元しか見ることはできない。俯いた貴の視界に入り込んだもの、視界の上から地面にぱた、と落ちたのは、涙……。
瞬間、がつっ、と貴は思いきりアスファルトを殴りつけた。
何度も何度も、痛みも出血も感じないまま、貴はアスファルトを殴りつけた。
自分自身を殴りつけるかのように。
(――!)
涼子は見ていられなくなったのか、貴に近付いて、出血したその拳をそっと両手で包んだ。
貴は驚愕の眼差しを涼子に向けた。ぼろぼろに泣きながら、一度だけ首を横に振り、涼子は微笑んだ。
悲しさしか、感じられない微笑みだった。
それでも、こんなことをしてしまった自分を気遣ってくれている涼子を見て泣きたくなった。
決して許されることではないはずなのに。
貴は立ち上がってもう一度掠れる声でごめん、と言った。そして涼子に背を向ける。もう、その悲しい顔を見ることすらできない。
涼子も振り返り、走り去って行く。
その足音だけを、貴はずっと聴いていた。
聞こえなくなるまで、ずっと。
それから貴は一ヶ月近く、学校にも行かずに家に籠っていた。自己嫌悪の上、自暴自棄になり、涼子に合わせる顔をなくした貴にはそうすることしかできなかったのだ。
そんな日々が続いたある日、貴の家に涼子から電話があった。
「舞川……」
覇気も張りもない掠れた声で、辛うじてそれだけを言う。
『気にしてないって言ったら嘘になるけど、怒ってはいないから、別に水沢君のこと、嫌いにもなってないし軽蔑も何もしてないよ。本当だから、これだけは』
「……」
貴は何も言えずに、ただ涼子の言葉を聴いていた。
『だから、学校きて。どんな顔すればいいかなんて会ってからでいいよ。話したいこともあるし、もちろんみんなには言ってないから』
そんな内容だった。涼子が怒っていようが、いなかろうが、関係なかった。
相手の気持ちも考えずに、ただ、自分の欲望のために。
襲った、という事実に変わりはない。
男としてだけではなく、人間として、最低のことをしてしまったのだ。力任せに。
いつも感じていた後悔。
けれどもう一つ。
時が流れる程に胸を占めるのは、自分自身への怒り。それでも、優しすぎる涼子はあんなことをしてしまった自分を許してくれている。
それは、きっと都合の良い解釈でも何でもなく、何よりも事実。
事実であるが故、尚更辛かった。
判らなかった。
何故許せるのか、こんな自分を。
想っている女性に許されないのは辛いことだ。けれど、何一つ反駁もせず、償わせもせずに、怒っていない、許せるなどという涼子の行為は、逆に自分が責められているようで、貴にはその方がよほど辛く感じられた。
――何を言っても無駄でしょう――
そう切り捨てられているようで。
それでも仕方なく、貴は次の日から学校に出た。そして、涼子の『話したいこと』は結局聴くことができなかった。
話す必要がない、と思われたのか、話しても無駄だと思われたのかは判らない。いざ顔を合わせてみれば、お互いに何も言えずにいたという至極自然な流れに流されてしまったのかもしれない。
真相は判らなかった。
それから表面上だけでも話せるまでにかなりの月日を要し、そのまま卒業してしまった。結局何一つ釈然としないままに。
表向き、貴と涼子の間には何ごともなかったかのような時間と空気はあった。それでも親友達は何か感じていたかもしれない。
最低だ。
仕方のないことだ。こんな自分がどの面下げて涼子に好きだと言えるのか。
貴には、その答えは出せなかった。
そして、そうやって周りの大切な友達にも何も言えずに、頼って、甘えてばかりのくせに、肝心なことを何も話さずにいた。
恐らくその頃からだろう『前向きな水沢君』を演じるようになってしまったのは。
――ふと、貴が我に返ると、話はまだ続いていた。
「こないだ忠から聞いたんだけどさ、やっぱり言っとくんだったって、言ってたんだろ?貴。もったいねぇよな、三年間もさ」
「あ、あぁ……」
違う。
本当に言いたかったこと。
言っておけば良かった、ということとは。
「今からでも付き合っちゃえば?」
能天気な
そうじゃない、違う。
そんなことじゃない。
「何言ってるの夕香は。もう三年前とは違うんですからね。私も、水沢君も」
涼子が笑いながら言った。今の涼子は、あの日のことをどう思っているのだろうか。
「でもさぁ、もし三年前に付き合ってたら涼子ちゃん、東京行ってた?」
「うーん、行かなかったかも。そしたらもっと人生変わってたかもね。なんちゃって。えへへ」
「ひょー、涼子ちゃんってばおっとなぁ!」
夕香が横目で涼子を見ながら肘で突ついた。
それは、有り得なかったことだ。
『もし』などという言葉はそこには成立しない。『変わってたかも』などということは絶対に有り得ないことだ。
貴は、今でもあの頃から二つの思いを胸にしまい込んでいたから。
答えを見つけられずにいたから。
貴は視界の隅の涼子を見る。
ついこの間垣間見た見た、ひどく悲し気な瞳を一瞬だけ見たような気がした。
「そうじゃないんだ……」
貴は誰にも聞こえないような声で、一言呟いた。
その後、クラス会は二次会、三次会と続き、そして――
貴はまた、何も言えないままでいた。
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