第五話 傷跡の真実

 九月一八日 土曜日


 クラス会から二週間が過ぎた。

 たかの仕事も来週末辺りから忙しくなりそうな気配がしていたのだが、何故だかそれに僅かな安堵感があると気付いた時には愕然とした。

 今のもやもやとした気持ちを引きずらなければならないのならば、喩え人間扱いされないとしても現場に出ていた方がまだましだ、と。そんな気持ちを持て余したまま、二三時、貴は自分の部屋でごろごろとしていた。

 この二週間、クラス会の日に涼子りょうこの目の前であんなことを思い出してしまったせいか、いつにも増してやる気をなくしてしまった。何もする気が起きない。仕事でもつまらないミスを繰り返して散々小言や皮肉を言われ、更に疲れが増したように感じていた。


 ――プルルルルル

 不意に自室にある電話の子機が鳴った。貴は二コール目で手を伸ばし、受話器を手にする。

「もしもぉし」

『あぁ、俺』

「おぉ、どした?」

 相手はただしだった。貴は勢いを付けて起き上がるとベッドに座り直す。時間にして二十三時過ぎ。この時間からだと食事の誘いでも呑みの誘いでもないが、こうして親友の声を聴けば安堵してしまう。

『……あのさ、覚悟して聞いとけ。俺も昨日、初めて香奈かなに聞いたんだけどさ』

「え、何だいきなり」

 良い話ではない。それも急を要する話だ。それは忠の口ぶりからもすぐに判る。

『涼子ちゃんのこと』

 心臓が跳ね上がるかのように動悸が激しく鳴った。今、このタイミングで自分にもたらされる涼子の話題が良い話題のはずはない。それを自分が聞かなければならない真意は何か。

 すぐに思いつく。

 今まで、何度も何度も断ち切ろうと考え、思い悩んでてきたが、結局断ち切れなかった報いだ。

(いや……)

 受けるべき咎だ。

「聞きたくない」

(ほっといてくれればいいんだよ、おれのことなんて……。お前達に何も打ち明けていない、卑怯なおれなんて)

 受けるべき咎を受けないための逃げ道でしかないと、本当は判っている。

『な、何言ってんだよ、だってお前』

 電話越しにでも、忠の動揺が伝わってくる。それはつまり、今の貴の中に残っていてはいけない想いがある、と感付かれているということだ。

「聞きたくねぇんだよ。それだけの話なら……」

 切るぞ、とは言えなかった。

 この、どうしようもなく中途半端な思いが、鈍く、重く、貴の心の中に横たわっていることに気付いているのは、きっと忠だけではない。自分がまだ涼子のことを想い続けて、引きずり続けていることなど、きっともうみんなが気付いている。

「……これから会えねぇか?会ってなら聞いてやる」

 何を言っているのだ、自分は。

(ざっけんじゃねぇよ!)

 数年前、涼子がまさにこの街を去るという日に、りょうに手加減なしで殴られた記憶がフラッシュバックする。忠も同じようにしてくれれば余程気が楽になるというのに。

『判った。人に聞かれるとまずい話だからな。昔よく集まった公園な』

 少しだけ、声を押さえて忠は言った。

「あぁ、今すぐ行く。じゃあな」

 貴は言って受話器を置くと、すぐに部屋を出た。忠には悪いことをしてしまった。激昂されて殴られれば気が楽になると考えて、更に貴は自責の念に駆られる。ほんの僅かに、少しだって気が楽になるような思いを、して良いはずがなかった、と。

「ちょっと、貴。どこ行くの?」

 かなみがちょうど階段を降りてきた貴を見つけて言った。

「……ちょいと、お煙草を買いに、ね」

 心中とは裏腹に少しおどけてみせる。参っている時ほどこれが出やすい。きっとかなみにも気付かれた。

「……早く帰ってきなさいよ」

「へいぃへい」

 かなみも三年前、貴が学校に行かなくなった時のことはもちろん知っている。当然本当の理由はかなみにも伝えていない。だからなのか、かなみはいつまでも貴をワルガキ扱いして、その実、誰よりも気遣ってくれている。そんな姉に短く言葉を返し、貴は靴を履く。

 玄関の外は貴の内面とは裏腹に満点の星空だった。



 忠が公園に姿を現したのは、貴が三本目の煙草を踏み付けた時だった。

 ポータブルカセットプレイヤーを止め、イヤフォンを外す。

「……悪ぃ。呼び付けたりして」

 ベンチに腰掛けていた貴は立ち上がって忠に言った。忠に対する甘え以外の何物でもなかった。使い走りの様に人を動かすなど、参っている、の一言では片付けられないほどあるまじき行為だったと、貴は深く反省した。

「いや」

 軽く手を挙げた忠が貴の隣に座ると、貴もそれに倣う。

「懐かしいな、ここ。よくダベったっけな。すぐ近くなのに意外とこないもんだよな」

 夜空を仰いで忠は言った。

 確かに昼は子供たちのための場所だ。夜になれば当時の貴たちのように中高生の場所にもなる。それすらも卒業してしまえばもうここには立ち寄らなくなってしまう。そんな寂寥を少し、覚えるのは確かだ。

「そうだな。あの頃は、よかった、な」

 貴も忠に倣うと目を閉じた。そしてゆっくり、静かに、先ほどまで聞いていた曲の続きを口笛で吹き始める。

「懐かしいな、その曲も……。どこにしまったっけな、そのテープ。久しく聴いてねぇや」

 夏霞。

 学生バンドが創ったにしては上等すぎた出来だったと自他ともに言われた曲だ。基本的な作曲は大体いつも貴の役目だった。夏霞は貴が創った曲の中でも会心の出来で、それが以心伝心、忠にも諒にも大輔にも伝わったかのような各パートのアレンジが素晴らしく決まっていた。

 忠はしばらく貴の口笛に聴き入っていた。

「そう言えば涼子ちゃん、この曲えらく気に入ってくれたっけな」

 貴の口笛がワンコーラスを終えると、忠は口を開いた。

「貴重なファンだったよな。涼子ちゃんも香奈も夕香ゆうかも皆さ」

「そうだな……」

 貴は口笛を止めると、静かに言った。

「聴くか?話」

 忠が慎重に訊いてくるのが判る。あえて涼子の名を出して、機会を伺ってから。

 貴の精神面のこと、涼子との再会のこと、過去を掘り起こすようなクラス会での話題。そんなことがあってか、忠も貴の心中を察しているのが伝わってくるようだった。

「恐いけど。いいかげん甘ったれてらんないし」

 お前にも甘えた態度を取った、と頭を下げるべきだったのかもしれない。しかしそれを口に出す前に忠が頷いて言った。

「そっか……」

 沈黙が流れた。忠の中でもどう切り出して良いのか、迷っているのかも知れない。貴はただ、忠の言葉を待つ。

 どのくらい長かったのか判らないが、貴が四本めの煙草に火を付けた時、不意に忠が口を開いた。

「涼子ちゃんさ、独り暮らししてた時、強姦、されたんだって。……その時の会社の警備員かなんかに」

(!)

 身体全体に衝撃が走った。

 全身を一度に鈍器で殴られたのかと思うほどの大きなショックで、一瞬ぐらり、と視界が揺れた。本気で倒れるかと思うほどのショックだった。

「……え?」

 聞こえていた。聞こえていたけれど、自分の耳を疑えば良いのか、忠の言葉を疑えば良いのかが判らない。

「レイプされたんだよ。涼子ちゃん」

「な、何言ってんだ、お前」

 出てくる言葉といえばその程度だ。

 突然の、あまりにも事実として受け止めがたい現実を突きつけられて、何もかもが訳の判らないものになってくるように思えた。

「本当は、もっと全然前に会社辞めてて、半年以上男不信のノイローゼだったって、そう言ってたらしいんだ」

 霧散しそうな貴の自意識に歯止めをかけるように、忠は追い討ちとも言うべき言葉を続けた。そのおかげかどうかは釈然としないが貴は何とか自分を持ち続けることができたように思えた。

(そんなことが、あっていいのか?)

 再会をした時も良く喋って、笑っていた。

(だって舞川まいかわが……?クラス会の時だってあんなに明るかったのに)

 クラス会の時も仲間達と、親友達とあんなに楽しそうに笑っていたのに。

(あれが強姦された女の 見せる笑顔なのか?)

 言葉にはならなかった。そして再会してからの涼子の姿が次々と貴の脳裏を掠めていった。

 夜道で再会した涼子。

 喫茶店で取るに足りない話をただ続けた涼子。

 クラス会で夕香や香奈と楽しそうに笑い合っていた涼子。

 そしてどの場面にも刹那に感じた、横顔から伝わる淋しさと悲しさ。

「……!」

 その直後、全てが判ってしまった。

 一瞬だけ垣間見た、あのひどく悲し気な瞳。やはりあれは気のせいなどではなかったのだ。送って行く車の中でも、喫茶店でも、クラス会の居酒屋でも、涼子から伝わる違和感は拭い去れずにいた。大人しくて嫋やかだった昔の涼子とは、人が変わったかの様に明るかったここ最近の涼子。突然の帰省に、何か只事ではない理由があったことくらい、勘付いていたはずなのに。

(また、か……)

 貴が作った沈黙は、ひどく長い時間続いた。

 忠はあえて何も言わず、貴の言葉を待ってくれている。

 長くなった煙草の灰が地面に落ちた時、貴は口を開いた。

「おれと、同じなんだ……」

 恐らく、忠には何を言っているかは正確には伝わらない。それでも貴は言葉を紡ぐ。

「言うべきこと、言わなきゃならなかったこと、言いたかったこと、全部、言えなくて、背中を向けた」

 高校時代、お互いに感じていたシンパシーは、貴の思い違いでも涼子の勘違いでもなかった。だから、少しだけ、判る。

 貴も、涼子も、向き合うべき時に背を向け合ってしまった。

「何か、思い当たることでもあるのか?」

 貴の表情を見てなのか、忠は安堵したような顔になり、貴に言った。

 この事実を聞いても、まだ貴が大丈夫だったという安心感からきた表情だったのか。

 それほどまでに忠には脆弱に映っていたのだろうか。

「あぁ」

 貴は結局一口も吸わなかった煙草を足元に落として答えた。

「そっか……。高一から六年間もずっと想い続けてきたんだからなぁ。バシッと決めろよな、今度こそさ」

「……」

 忠の言葉に貴は驚いた。が、それも一瞬のことだった。気付かない方がどうかしている。それほどの空気感を、誰もが感じていたはずだから。

「……ばぁか。一回しか言わねぇからな。ちゃんと聴いとけよ」

 そう言って忠はやおらスッ、と息を吸い込んだ。

「何年お前の親友やってっと思ってんだばか!八年だぞ八年っ!八年つったらモーターショウ四回だぞっ!オリンピックは二回な!涼子ちゃんのこと引きずって、かなりやばかったことだってホントはずっと判ってたよ!すっげぇ心配したよ!でもお前、何も言いたがんねぇし!男が男のこと心配すんのなんてすっげぇ気味悪ぃけどお前見てたらそうも言ってらんねーし!諒だって大輔だいすけだってみんな知ってたよ!あー恥ずかしい、もー言わねぇかんな!」

 貴はしばし絶句して忠を見た。耳まで真っ赤にして両手で顔を覆い、まじで、言わせんじゃねぇよ、こんなこと、と呟くように言う。

 何もかも全て自分が素直ではなかったからだ。

 こんなにも心配してもらえる仲間がいて、やはり彼等はこんな自分のことを親友だと思ってくれていたのだ。

「……悪い。おれ、本当にばかだわ」

 今の自分にはそれが精一杯の言葉。信じていたのに照れ臭くて、だから言いたいことも言えないままでいた。

 ホントだよ、とまだ赤面している忠がぼやく。

「明日にでも、電話入れてみる」

 貴はちらり、と忠を見て笑った。

「おれも、恥ずかしいの我慢して言うよ。……ありがとな、忠」

 簡単なこと。真意などというものは、使い古された当たり前の言葉でしか伝わらない。今の貴はそんな一言を告げることもできないほど狡い知恵をつけてしまった。

 初めから抗えない、と決め付けていた流れの中で、抗うことを放棄した結果か。抗えないことなどなかったのだ、初めから。

 何に対して抗わなければならなかったのかを理解していなかった。

 自分自身の弱い、脆弱な心。

 抗うべきは自分自身だと、やっと理解することができたのかもしれない。

「さて、んじゃ帰りますかね」

「久々に友情を深めたことだしな」

 二人はおどけながら言うと、ベンチから立ち上がった。

「行くかっ」

「行かれますかっ」

 お互いに、んじゃっ!と敬礼の真似をして、貴と忠は帰路についた。



 貴は一つの決意を胸に、星空を見上げて力強い足取りで歩く。

(そしたらもっと人生変わってたかもね。なんちゃって)

 涼子の言葉を思い浮かべながら、考えてみる。

(おれが、あんなことさえしなければ良かったんだ)

 今更言っても詮無きことだと言うことくらい百も承知だ。しかし自分がしでかしてしまったことをなかったことにはできない。また背を向けてはならないことに背を向けて、逃げ出して、何かのせいになど、できるはずもない。勿論今更しようとも思わない。

(だったら、だったらおれが……)

 涼子に言えばいい。

 卑怯な、汚いやり方ではなく、正面から。

 ――伝えられなかった思いを――

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