終章 It has held hard so that it may not separate, and it may not change.

 あの後、Let it beを大きな音でかけながら、涼子りょうこは大声で泣いていたのだ、と母に聞かされた。

 そしてあの晩、晶子しょうこは自分から告白しようと思っていたのだが、響一きょういちの方から告白をしてくれた。

『俺は、晶子が好きだから、もっと晶子と一緒にいる時間でいっぱいにしたい』

 あの言葉は一生忘れないだろう。

 涼子に深い傷をつけてしまったことも、絶対に忘れないだろう。誰が悪い訳じゃない。

 そう何度も言い聞かせてきたけれど、あの時の涼子に抱いた気持ちは、浅ましいものだった。妬ましいものだった。

 それでも涼子はやはり自分に笑顔を向け続けてくれた。一言たりとも、自分が響一を好きだった、とは言わずに。

 それは晶子の中で疑問を大きくしたが、母親から涼子が泣いていたことを聞いた時に、納得できたような気がした。無理矢理にでも涼子は自分の気持ちにけりをつけたのだと。

 だから、こうして今涼子が幸せになってくれたことを、本当に嬉しく思う。

「でもこれからだね、私達は」

「ん?」

 涼子が唐突に言った。

「これからまだいっぱい、きっと喧嘩とかだってして、色々悩んで、それで今よりももっと幸せだったらいいな、って」

「そうだね。……困った時はちゃんとお姉ちゃん頼ってよね」

 それは無理かもしれない、と思いつつも。あれから晶子は自分から響一と過ごした時間のことを自分から涼子には話せないままだ。

 涼子から訊かれた時だけ、不自然に思われない程度に話すことしかできなかった。

 涼子が貴と付き合うようになってから、少しずつ、本当に少しずつ、話せるようになってはきたが、涼子が頼りにするのはおそらく晶子ではなく夕香だろう。

 それでも、姉思いのこの妹を思う気持ちは少しも変わらない。



 水曜日―

 桜が最後の花を精一杯見せていた、花曇の水曜日。

「ねぇねぇ聞いてお姉ちゃん!夕香ゆうかの友達のさ、バンドやってる男の子!」

 そう嬉しそうに、心から笑顔を見せる涼子。彼と同じクラスになれたことを喜んでいる涼子を見た時、どれほど救われる思いになっただろう。

 涼子がもう一度、きちんと自分の気持ちにケジメをつけて、新しい恋に出会えた時、晶子もどれほど嬉しかっただろうか。



 土曜日―

 凶悪な太陽光の熱気を孕んだ風が海辺を走った。風の強かった土曜日。

「中々いい写真になってよかったぁ」

 水沢貴之みずさわたかゆきのスクーターの後ろに乗って、照れ笑いを見せた涼子の写真。

 どんどんと近付いて行く二人の距離。

 もう響一の顔を見て、何を思うこともなくなった、晴れやかで、暖かで、柔らかい笑顔。



 日曜日―

 土砂降りの雨の後、ずぶ濡れになって帰ってきた。虹が顔を覗かせた日曜日。

「……」

 泣き腫らした酷い顔だったのに、幸せに満ちた笑顔。

 水沢貴之という男が、本気で涼子を支えてくれて、本気で気持ちを伝えてくれて、だからこそ見せてくれた涼子の一番幸せな笑顔。

 本の一時期は彼を恨んだことだってあった。

 だけれど、誰も、涼子本人もそれを望んではいなかった。

 何よりも、彼はいつか咎を受けなければならない、と望んでいるようにも思えてしまった。

 だからもう、彼を責める気持ちは欠片もない。

 もう何も心配することは、ない。



「響一さ、貴君って最初、どう思った?」

 ファミリーレストランで昼食を取りながら晶子は響一にそう訊いてみた。

「水沢かぁ。うちの中学にも噂とかあったじゃん。きた中の谷崎たにざきまえ中の水沢には手ぇ出すな、みたいなの。だから最初はおっかねぇ奴だと思ってたんだよな、俺も」

 響一はそう苦笑した。実際に、響一と水沢貴之が個人的に喧嘩になったことは一度もなかった。

 晶子と涼子、響一と貴。この四人で集まることも多かったのだが、実際二人は仲良くやってくれている。

「あたしはねー、なんか思ってたのと違うなぁって。思ってたのってりょう君のイメージのが近くて」

「はは、谷崎と比べたら水沢はちっちぇからな」

「あはは、そうだねぇ。……私はね、最初は凄くいい人なんだな、って思った。きっとそういう貴君が持ってる優しさって自然と出てくる、作ってないものだから」

 だからこそ、そういう優しさで人を傷つけてしまうことがある、と知らないまま、誰かが傷付くこともあるのだろう。

 涼子が傷付くこともあるのだろうと、どこかで危惧していたことがあったのは事実だ。

「そうだなぁ。でもあいつはぱっと見て判り易くばかなキャラやってっけどさ、裏で死ぬほど考えてる人間なんだよ」

 それはそうなのだろう。その考えに考え抜いた結果で、どうするべきかを判って振舞えるから、だからこそ涼子の支えにだってなってくれた。それは判っているのだ。

「ホントはね、ちょっと前まで、ほんのちょっとだけど、一時期は恨んだこともあったんだよ」

「涼子のことで、か」

「うん。貴君がもっと確りしてくれてれば、って思ったこともあったんだ。でも、そういうのは狡いな、って……」

 晶子や響一とのことで負った傷などとは比べ物にならないほど、もっと深くて大きな傷を涼子は負ってしまった。

 涼子が負ったその傷はきっとまだ癒えてはいない。

 貴の涼子を想う気持ちが涼子を支えてくれたから、その傷も癒え始めている。けれどきっと消えることのない傷だ。

 その、涼子が負ってしまった傷が原因で、きっと二人にはまた大きな試練が訪れる。

 しかし貴はきっと、いつまでも涼子を支えてくれると信じているし、涼子もそんな貴に甘えっぱなしの弱い女ではない。

「でもさ、あいつはいい奴だから……」

「うん、判ってるの。判ってるからこそ、責めたくなっちゃってね」

 実際には責めるようなことはしなかった。できなかった。しかし、無言の圧力はかけてしまっていたかもしれない。

 もう子供ではいられない。泣いて忘れられる恋愛などではないのだから。優しくて、良い奴だからこそ、そこに甘えてしまったのは晶子の方なのかもしれない。

 そう気付いた時に目が覚めたというのか、目から鱗が落ちたとでもいうのか。ともかく、貴を責める気持ちは、涼子を、妹を思う気持ちではなく、ただ単に晶子の甘えだったと気付かされた。

「何だよ、今日は涼子と水沢の話ばっかりだな」

「あ、ゴメン。別に他意はないんだけどね、昨日少し涼子と二人で呑んでさ」

「へぇ、珍しいな」

 晶子も涼子も、普段から晩酌をしないことは響一も知っている。二人揃ってそれほど酒に強くないことも。

「でしょ。それで、二人でちゃんと幸せになろうね、って、約束したのよね」

「……お前さ、それ、脅迫って言わんか」

「そう取るんだったらどうぞご自由にぃ」 

 まともにたじろいだ響一を見て、晶子はひとまず満足する。

「双子の約束ですか……。ま、そこは水沢と一緒に努力はさせて頂きますとも……」



「でもね、きっと貴だって万能じゃないし、どこかで弱気になっちゃうと思うの。そういうことだって判ってる」

 そう一息ついて涼子は言った。僅かに空いている窓から、風に流れてきた未来のない桜の花びらを掬い取る。

「それは、そうよね。貴君だって人間なんだし」

「それも、勿論そうなんだけどね……。でも違うのお姉ちゃん。……相手が私だから」

 自分が傷を持った者だから。自分が汚れてしまったから。

 そう涼子は暗に告げている。そんな言葉など誰も喜びはしないのに。誰もそんなことなど思わないというのに。

「それも違うでしょ」

 少しだけ厳しさを含ませて晶子は言った。

「違くないと思うんだ。今のところはね……。だから貴にいっぱい迷惑かけちゃうかもしれないけれど、もっと私も強くならなくちゃ、って、ね」

「それはそうかもしれないね。でも、涼子は間違ってないし、何も後ろめたいことはないの。貴君に目一杯甘えさせてもらいなよ」

 きっと貴にはそれくらいの度量はある。

 買いかぶりすぎなのかもしれないけれど、絶対に貴なら涼子を笑顔にできる。間違っていないというのは詭弁だ。きっと誰もが間違えて、間違えて、時には同じ間違いを繰り返して、それでも、少しずつ前に足を踏み出して行く。だからきっと間違いを犯したことそのものは間違いではない。

「あたしはね、確信してるんだ。あたしが響一と付き合ったことと、涼子が貴君と出会って、付き合ったこと」

「うん……」

「絶対に大丈夫だよ。大丈夫だから。涼子と貴君だったら……」

 未来なく散る花びらの向こうに芽吹くものがあるから。

 また必ず花を咲かせるから。

「いつか、きっと、全部、なんにもなかったみたいに、昔みたいに笑える日はくるでしょ」

「そう、だね。……そうだよね」

 今は先のことを考えて不安になるよりも、幸せに笑っていて欲しい。

 晶子の内にも決して消せない傷があるように。涼子につけてしまった傷と一緒に、自分にもついた傷が消えなくても、癒すことはできるのだから。

「うわっ、ちょっと涼子、そんなシケた顔見たら、貴君びっくりしちゃうよ!」

「え、そんなやばい顔してる?」

 ぱ、っと頬を両手で押さえて涼子は晶子の部屋の鏡を見た。

「ヤバイ、ヤバイ。涼子どうせメイク薄いんだから、濃くしただけでも貴君に何か感付かれちゃうよ」

「それは勘ぐり、って言うんじゃ……」

 うぅ、と唸って涼子は自分の頬を軽く叩いた。

「とにかく何でもいいから、しゃきっとね!特に明日は!」

「う、うん。……そうだね、どうなるか判らない先のことで落ち込んでなんかいられないもんね!」

 涼子はそう元気良く言って、グラスに残った酒を一気に呷った。晶子もそれに続いて。

「さ、寝よっか!」

「うん」

 いつか涼子がしてくれたように、軽く拳を握って、晶子はそれを涼子に見せた。涼子は飛び切りの、それこそ貴が見たら骨抜きなってしまいそうなほどの笑顔で、拳を軽くぶつけてきてくれた。

 この先、涼子が自分を頼ってくれなくても良い、と思った。

 あとは涼子自身の問題だ。涼子が晶子を必要としない限り、晶子が涼子の心に踏み込むことはできないし、絶対にしてはいけないことだ。

(それでも、あたしは涼子に幸せになってもらいたいって、願い続けるから)

 この世界の誰よりも。

 自分などよりも、もっと、ずっと幸せに。

 そう思わずにはいられないのだった。


 終章 It has held hard so that it may not separate, and it may not change. 終り

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る