幕間 宇生方鴉紋の後悔

お前の兄は最低最悪の愚物だ

 妹が一年半ぶりに帰宅したのは、骨壺になってからだった。

 宇生方うぶかた愛夢あいむ、享年十三歳。幼稚園の時に紫斑しはんびょうを発症したのを皮切りに、内臓を患って入退院をくり返した、その末だ。


「愛夢は精いっぱい生きた。お前も兄として精いっぱいやった、今はあの子が最後まで生き抜いたことを褒めてやりなさい」


 父は悔し涙にくれる鴉紋を、達観した物言いでいさめた。だが、彼が夜中に一人、遺影の前で号泣していたのを知っている。母はもっとおおっぴらに悲しんでいた。

 何事も情を持てば辛くなる。家よりも病院で過ごした時間の方がずっと長い妹など、存在を忘れていれば楽だった。しかし情は、人間の証だ。


 関係のない物事同士をつなぎ合わせて意味を見いだす、その普遍的な営みは占いであったり、物語であったりする。情は、その最も原始的な形だ。

 だから理屈ではない。妹が生まれた時、鴉紋は物心がつくかどうかだったが、その巡り合わせが引き寄せたのは愛情だった。



「お兄ちゃん、毎日あたしの所に来るなんて、友だちいないの?」


 来る日も来る日も見舞いに行くのは、たまたま病院が家から通いやすかったからだ。飽きるより先に、それが鴉紋の習慣、日常生活の一部になった。

 朝起きて学校へ行くように、帰りには病院で妹の顔を見る。そのルーチンワークが崩れるのは、妹の退院や一時帰宅、修学旅行などの特別な時だけ。

 しかし友だちがいないとは心外だ。


「愛夢、お前は世間で言うところの美少女ってヤツだと自覚しろ、むくつけき男どもの目には毒過ぎる。中学生なんざ性欲の塊、猿だぞ、猿」

「うわっ、シスコンだ、キモッ」


 おどけて笑う妹の顔には、嫌悪の色は一切ない。シスコン大いに結構、愛夢より美人な女子など、小学校でも中学校でも見たことがない。

 後は胸がすくすくと育ってくれれば言うことなしだ。



 妹が亡くなってしばらくは、鴉紋は日常の歩み方が分からなくなって、足を半分引きずるような心地だった。学校の帰り、病院の方へ向かおうとして「もう行かなくていいのだ」と気づくたび、新鮮な喪失感に打ちのめされる。

 自分が築いたルーチンワークを崩すため、あえて放課後の学校に居残りを続けた。友人たちが見かねて、カラオケやゲームンセターに誘ってくれたが、どこか上の空で、心から楽しめないのがわずらわしく、申し訳ないばかりで。


 最終的に鴉紋の精神を立て直したのは、剣道場での指導だった。愛夢の一件以来、長らく休んでいた道場から連絡が来て、はっとひらめいた。

 なまった自分を徹底的に鍛え直してほしい、と。

 鎧防具を身につけ、最初は師範代たちと打ち合った。格闘技というものは、動いて動いて、もうダメだと力尽きてからが本番だ。


「まだまだァ!!」


 血反吐のように叫ぶ。

 激しくも狙い澄ました一本を打ちこまれ、何度倒れても鴉紋は挑み続けた。日が完全に没し、足元がおぼつかなくなっても、もっと、もっとと竹刀をふるう。

 師範代だけでなく、まだ残っていた門下生たちも止めたが、鴉紋は聞く耳を持たなかった。体の中で嵐が渦を巻いて、それをすべて出し切らなくては自分は壊れてしまう。何が荒れ狂っているのか、知ることさえ出来ぬまま翻弄されていた。


「では、私がお相手しよう」


 厳粛なたたずまいの男が名乗りを上げると、熱気に満ちていた道場がすっと冷え、静寂を取り戻す。鴉紋が師とあおぐ、ここの道場主だ。

 その立ち居振る舞いは、常在戦場を体現するように張りつめながらも天衣てんい無縫むほう。白髪混じりの頭も、黒い道着も、水墨画のように閑寂かんじゃくとした風格があった。


「よろしくご指導お願いいたします、先生」


 この人に言われては一も二もない。

 まさか初めての立ち会いがこんな形になるとは思わなかったが、鴉紋の中に荒れ狂うものを察してくれているのだと思うと、胸が熱くなった。

 初めのうちはこちらが一方的に打ちこんだが、その実、すべて軽くいなされていた。完全に剣筋を読まれている。


 せんせんせん――打とうとして剣先や手元が上がった瞬間、小手や胴を抜かれるようになった。技を放った途端、その隙を打たれた。

 やがてはこちらの心の起こりに打ちこんで、完全に機先を制される。疲労は感じないが、体力が限界に近づいているのが自分でも分かった。


 これが最後だ。

 腹を決めて一か八かの一撃を放った瞬間、鴉紋の意識が途切れる。気がついた時は道場に寝かされていて、頭に冷えたタオルが乗せられていた。

 門下生たちや師範代は帰宅し、残っていたのは師と自分だけだ。


「もう充分かね」


 鴉紋の心から嵐は去らず、むしろその直前の凪いだ気配がある。それが師の言葉で決壊し、再び始まる暴風雨の姿がやっと見えた。

 妹が恋しい。あの子がこの世のどこにもいないのが信じられなくて、悔しくて、もう背中は壁に突き当たっているのに、まだ後ずさろうとして袋小路にいたことを、初めて鴉紋は認めた。ずっとそうやって己に蓋をしていた。


 自分は、愛夢を連れて色んな場所に行きたかったのだ。桜並木や、海辺や、町中や、映画館。図書館でも公園でもいい。ここではない場所なら、どこだって。

 ほとんど病院と家にしか足を運べなかったあの子が、生まれて初めて自分の眼で見る景色にどんな反応をするのか。いつかそんな日が来ると信じていて。

 それはもう二度と来ない。二度と来ないのだ。


 葬式の時に流した機械的な水分ではなく、臓腑から絞り上げる涙を、鴉紋は喉がれるまで流し尽くした。



「宇生方くんって、ギラファノコギリクワガタみたいだよね」


 剣道場に増えた新顔のうち、ポニーテールの女子が鴉紋にかけた第一声がこれだ。なかなか結構なむねをお持ちで、道着からはち切れそうだった。


「前髪が似てるって言いてえのか?」

「それもあるけど」

「あるのかよ」舌打ち。

「こう、全体的に男の子が好きそうな男の子、みたいな?」

「やめろやめろ、寒気がする」


 甲高く笑う彼女の声は、不思議と不快ではない。なぎさというその女子は鴉紋とちょうど同じ高校で、二人が付き合うようになるまで、半年もかからなかった。

 思えば妹がいたころは、男女交際には一切興味がわかなかったものだ。自分は愛夢に恋していたのかと自問すると、鴉紋はどうしても迷ってしまう。


 兄として愛していたことは間違いない。

 愛夢との何気ないやりとりも、持ちこんだ菓子を喜ぶ姿も、好きそうな本や花を常に探していたのも、すべてかけ替えのない時間だ。

 強いて言えば、それは性欲をともなわないプラトニックな恋だったのだろう。


 渚とは色んな場所へ出かけた。学生らしく金を節約して、二人乗りの自転車をこいだり、適当に降りた駅でぶらぶら町を散策したり。

 それは自分が妹とやりたかったことの埋め合わせのように思えて、渚に申し訳なく感じたこともある。それを正直に話すと、彼女は黙って抱きしめてくれた。

 そんなある日だ。渚が妙に暗い顔で、相談を持ちかけてきたのは。


「宇生方さ、道場通って長いんだよね?」

「ああ、十歳のころからだから、もう七年だな」


 そんなに……と渚は息を呑み、気まずそうにうつむく。人に聞かれたくないからと、訪れた校舎裏の壁に彼女は背をあずけた。

 道場の門下生も、鴉紋が入門したころからずいぶんと増えている。

 もしや女子同士のいさかいか何かだろうか。だとしたら、自分が口を出して上手く解決するとは思えない。鴉紋がやきもきと考えを巡らしていると、渚が口を開いた。


「あのね、最近……師匠に、セクハラ……されてるの」


 セクハラ。セクシャルハラスメント。確か去年、「就職氷河期の新卒女子へのセクハラ面接」だとかでニュースになっていた。

 それと道場とが、鴉紋の中でまったく結びつかない。あそこの門下生が師匠と呼ぶのは、およそ道場主その人を指す。


「師匠が、そのセクハラ? をお前にしてるだと?」

「セクハラっていうか……チカン……みたいな」


 そんなまさか、と声を上げたくなるのを堪えた。頭ごなしに否定するのは良くない、が、鴉紋は人生において師匠以上に尊敬できる人間を知らない。

 自分を育てながらカフェを経営する両親も尊敬しているが、師匠は、何というか崇高な存在だ。妹が亡くなった後の指導にも、心から感謝している。

 そんな人が痴漢だのセクハラだの、卑劣な真似をするはずがない。


「ごめんね、宇生方だって信じられないよね。みんな師匠のこと立派な人だって思ってる、でも、マジなの。だから……しばらく、道場であたしから眼を離さないで」

「師匠が何かやらかすまで見張れってことか」


 そんなことは絶対に起きないだろう、と言葉を飲みこむと、ひどく不機嫌な声になってしまった。高潔な人物を疑われたのが、よほど頭にきたらしい。


「出来るだけでいいの。もししばらくして何も起きなかったら、あたしの勘違いってことで。ね、いい?」

「分かった分かった」


 半ば投げやりに答えると、渚は大層な胸で鴉紋の頭を包みこんだ。報酬をもらったからには、働かないわけには行くまい。


「やったー! モンモン大好き!」

「モンモンやめろ」


 面倒なことになったと思ったが、数日の間は何も起きなかった。

 最初の一週間、渚はいつ「やっぱり何も起きなかったじゃねえか」と鴉紋に言われるのか恐れているようだった。実際、こちらはいつだってやめてもいい。

 だが何か、引っかかる。師匠に不審な点はないが、渚と似たような相談を、前に受けたことがあったはずだ。あの時は何事もなかったが、今度は違ったら?


 そして決定的なことが起こった。

 渚が道場に居残りをした日、鴉紋は「帰った振りをして、女子更衣室に隠れて」と指示されたのだ。「これが最後だから」という念押しまで添えて。

 事の真実よりも、女子更衣室に潜むのが居心地が悪くてかなわない。何も起きなかったら、渚に色々と要求してやろうと思いながら、鴉紋はロッカーに隠れた。

……そして。


 その時の師は、鴉紋が敬い慕った男ではなく、けだものだった。誰もいなくなった道場の片隅、更衣室に堂々と踏み入り、やおら渚の道着に手を突っこんで。

 下卑た笑みで何事かささやきながら、豊かな乳房の感触を楽しんでいるのだろう。頭が真っ白になって動けないでいる鴉紋は、渚の涙目を見て覚醒した。

 後のことは曖昧だ。

 ロッカーに置いてあった竹刀をつかんで、師に殴りかかった。あんなに堂々とした所作で剣をいなしていた男は、なすすべなく打ち倒され、情けない悲鳴を上げる。

「やめてくれ」「許してくれ」「誰にも言わないでくれ」そんな言い訳をしていたが、それは鴉紋の怒りにますます火をつけるだけだった。


 猛然と師匠だった男を殴りながら、記憶がよみがえる。ある日、「相談したいことがある」と愛夢は切り出した。


「新しく入った内科の先生が、なんか、変なの」

「そりゃどういう具合にだ?」

「なんか……やけに、ジロジロ見られるっていうか」


 ベッドの上から身を起こし、妹は周りをはばかるようにヒソヒソ声で、あるいは説明の困難さに思い悩むように、言葉を濁し濁し話す。


「やたら……さわってくる気がする」


 長年見舞いに来ているおかげで、鴉紋は病院の医師や看護師、通院患者の顔はだいたい知っている。新しい内科医といえば、若いイケメンで評判だったはずだ。

 車椅子の入院患者に話しかけたり、ナースに声をかけられている所を見かけた覚えがある。医療ドラマなら、善良で熱心な主人公に違いない。

 とてもではないが、女に飢えていかがわしい真似をするタイプに思えなかった。


「愛夢……もしかして、だな」


 一つ得心が言って、鴉紋は抜け抜けとこう言ったのだ。


「それは、恋ってやつじゃないか?」


 後日、両親が家で「愛夢が病院を変えたいと言っている」と話していたのを聞いたことも、すっかり忘れていた。結局妹は、最後までそこに入院して死んだのだ。

 関係がないと思っていた物事同士がつながって、思いもよらぬ物語を浮かび上がらせる。渚の信じがたい言葉と同じように、愛夢は本当のことを言っていた。


 思い切って告白した恥辱を兄に理解されず、あまつさえ「恋」などと解釈されて、「そうかも」と小首を傾げて微笑んだ。その表情はひび割れていなかったか。

 たった一人の妹を、なぜもっと信じてやれなかったのか。

 真実はどうだったのか、もはや確かめることもできない。

 死者に謝罪することも、その苦しみを慰めることもできない。


 愛夢、愛夢、許さなくていいから聞いてくれ。


 お前の兄は最低最悪の愚物だ!!

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