幕間 宇生方鴉紋の後悔
お前の兄は最低最悪の愚物だ
妹が一年半ぶりに帰宅したのは、骨壺になってからだった。
「愛夢は精いっぱい生きた。お前も兄として精いっぱいやった、今はあの子が最後まで生き抜いたことを褒めてやりなさい」
父は悔し涙にくれる鴉紋を、達観した物言いでいさめた。だが、彼が夜中に一人、遺影の前で号泣していたのを知っている。母はもっとおおっぴらに悲しんでいた。
何事も情を持てば辛くなる。家よりも病院で過ごした時間の方がずっと長い妹など、存在を忘れていれば楽だった。しかし情は、人間の証だ。
関係のない物事同士をつなぎ合わせて意味を見いだす、その普遍的な営みは占いであったり、物語であったりする。情は、その最も原始的な形だ。
だから理屈ではない。妹が生まれた時、鴉紋は物心がつくかどうかだったが、その巡り合わせが引き寄せたのは愛情だった。
「お兄ちゃん、毎日あたしの所に来るなんて、友だちいないの?」
来る日も来る日も見舞いに行くのは、たまたま病院が家から通いやすかったからだ。飽きるより先に、それが鴉紋の習慣、日常生活の一部になった。
朝起きて学校へ行くように、帰りには病院で妹の顔を見る。そのルーチンワークが崩れるのは、妹の退院や一時帰宅、修学旅行などの特別な時だけ。
しかし友だちがいないとは心外だ。
「愛夢、お前は世間で言うところの美少女ってヤツだと自覚しろ、むくつけき男どもの目には毒過ぎる。中学生なんざ性欲の塊、猿だぞ、猿」
「うわっ、シスコンだ、キモッ」
おどけて笑う妹の顔には、嫌悪の色は一切ない。シスコン大いに結構、愛夢より美人な女子など、小学校でも中学校でも見たことがない。
後は胸がすくすくと育ってくれれば言うことなしだ。
◆
妹が亡くなってしばらくは、鴉紋は日常の歩み方が分からなくなって、足を半分引きずるような心地だった。学校の帰り、病院の方へ向かおうとして「もう行かなくていいのだ」と気づくたび、新鮮な喪失感に打ちのめされる。
自分が築いたルーチンワークを崩すため、あえて放課後の学校に居残りを続けた。友人たちが見かねて、カラオケやゲームンセターに誘ってくれたが、どこか上の空で、心から楽しめないのがわずらわしく、申し訳ないばかりで。
最終的に鴉紋の精神を立て直したのは、剣道場での指導だった。愛夢の一件以来、長らく休んでいた道場から連絡が来て、はっとひらめいた。
なまった自分を徹底的に鍛え直してほしい、と。
鎧防具を身につけ、最初は師範代たちと打ち合った。格闘技というものは、動いて動いて、もうダメだと力尽きてからが本番だ。
「まだまだァ!!」
血反吐のように叫ぶ。
激しくも狙い澄ました一本を打ちこまれ、何度倒れても鴉紋は挑み続けた。日が完全に没し、足元がおぼつかなくなっても、もっと、もっとと竹刀をふるう。
師範代だけでなく、まだ残っていた門下生たちも止めたが、鴉紋は聞く耳を持たなかった。体の中で嵐が渦を巻いて、それをすべて出し切らなくては自分は壊れてしまう。何が荒れ狂っているのか、知ることさえ出来ぬまま翻弄されていた。
「では、私がお相手しよう」
厳粛なたたずまいの男が名乗りを上げると、熱気に満ちていた道場がすっと冷え、静寂を取り戻す。鴉紋が師とあおぐ、ここの道場主だ。
その立ち居振る舞いは、常在戦場を体現するように張りつめながらも
「よろしくご指導お願いいたします、先生」
この人に言われては一も二もない。
まさか初めての立ち会いがこんな形になるとは思わなかったが、鴉紋の中に荒れ狂うものを察してくれているのだと思うと、胸が熱くなった。
初めのうちはこちらが一方的に打ちこんだが、その実、すべて軽くいなされていた。完全に剣筋を読まれている。
やがてはこちらの心の起こりに打ちこんで、完全に機先を制される。疲労は感じないが、体力が限界に近づいているのが自分でも分かった。
これが最後だ。
腹を決めて一か八かの一撃を放った瞬間、鴉紋の意識が途切れる。気がついた時は道場に寝かされていて、頭に冷えたタオルが乗せられていた。
門下生たちや師範代は帰宅し、残っていたのは師と自分だけだ。
「もう充分かね」
鴉紋の心から嵐は去らず、むしろその直前の凪いだ気配がある。それが師の言葉で決壊し、再び始まる暴風雨の姿がやっと見えた。
妹が恋しい。あの子がこの世のどこにもいないのが信じられなくて、悔しくて、もう背中は壁に突き当たっているのに、まだ後ずさろうとして袋小路にいたことを、初めて鴉紋は認めた。ずっとそうやって己に蓋をしていた。
自分は、愛夢を連れて色んな場所に行きたかったのだ。桜並木や、海辺や、町中や、映画館。図書館でも公園でもいい。ここではない場所なら、どこだって。
ほとんど病院と家にしか足を運べなかったあの子が、生まれて初めて自分の眼で見る景色にどんな反応をするのか。いつかそんな日が来ると信じていて。
それはもう二度と来ない。二度と来ないのだ。
葬式の時に流した機械的な水分ではなく、臓腑から絞り上げる涙を、鴉紋は喉が
◆
「宇生方くんって、ギラファノコギリクワガタみたいだよね」
剣道場に増えた新顔のうち、ポニーテールの女子が鴉紋にかけた第一声がこれだ。なかなか結構な
「前髪が似てるって言いてえのか?」
「それもあるけど」
「あるのかよ」舌打ち。
「こう、全体的に男の子が好きそうな男の子、みたいな?」
「やめろやめろ、寒気がする」
甲高く笑う彼女の声は、不思議と不快ではない。
思えば妹がいたころは、男女交際には一切興味がわかなかったものだ。自分は愛夢に恋していたのかと自問すると、鴉紋はどうしても迷ってしまう。
兄として愛していたことは間違いない。
愛夢との何気ないやりとりも、持ちこんだ菓子を喜ぶ姿も、好きそうな本や花を常に探していたのも、すべてかけ替えのない時間だ。
強いて言えば、それは性欲をともなわないプラトニックな恋だったのだろう。
渚とは色んな場所へ出かけた。学生らしく金を節約して、二人乗りの自転車をこいだり、適当に降りた駅でぶらぶら町を散策したり。
それは自分が妹とやりたかったことの埋め合わせのように思えて、渚に申し訳なく感じたこともある。それを正直に話すと、彼女は黙って抱きしめてくれた。
そんなある日だ。渚が妙に暗い顔で、相談を持ちかけてきたのは。
「宇生方さ、道場通って長いんだよね?」
「ああ、十歳のころからだから、もう七年だな」
そんなに……と渚は息を呑み、気まずそうにうつむく。人に聞かれたくないからと、訪れた校舎裏の壁に彼女は背をあずけた。
道場の門下生も、鴉紋が入門したころからずいぶんと増えている。
もしや女子同士のいさかいか何かだろうか。だとしたら、自分が口を出して上手く解決するとは思えない。鴉紋がやきもきと考えを巡らしていると、渚が口を開いた。
「あのね、最近……師匠に、セクハラ……されてるの」
セクハラ。セクシャルハラスメント。確か去年、「就職氷河期の新卒女子へのセクハラ面接」だとかでニュースになっていた。
それと道場とが、鴉紋の中でまったく結びつかない。あそこの門下生が師匠と呼ぶのは、およそ道場主その人を指す。
「師匠が、そのセクハラ? をお前にしてるだと?」
「セクハラっていうか……チカン……みたいな」
そんなまさか、と声を上げたくなるのを堪えた。頭ごなしに否定するのは良くない、が、鴉紋は人生において師匠以上に尊敬できる人間を知らない。
自分を育てながらカフェを経営する両親も尊敬しているが、師匠は、何というか崇高な存在だ。妹が亡くなった後の指導にも、心から感謝している。
そんな人が痴漢だのセクハラだの、卑劣な真似をするはずがない。
「ごめんね、宇生方だって信じられないよね。みんな師匠のこと立派な人だって思ってる、でも、マジなの。だから……しばらく、道場であたしから眼を離さないで」
「師匠が何かやらかすまで見張れってことか」
そんなことは絶対に起きないだろう、と言葉を飲みこむと、ひどく不機嫌な声になってしまった。高潔な人物を疑われたのが、よほど頭にきたらしい。
「出来るだけでいいの。もししばらくして何も起きなかったら、あたしの勘違いってことで。ね、いい?」
「分かった分かった」
半ば投げやりに答えると、渚は大層な胸で鴉紋の頭を包みこんだ。報酬をもらったからには、働かないわけには行くまい。
「やったー! モンモン大好き!」
「モンモンやめろ」
面倒なことになったと思ったが、数日の間は何も起きなかった。
最初の一週間、渚はいつ「やっぱり何も起きなかったじゃねえか」と鴉紋に言われるのか恐れているようだった。実際、こちらはいつだってやめてもいい。
だが何か、引っかかる。師匠に不審な点はないが、渚と似たような相談を、前に受けたことがあったはずだ。あの時は何事もなかったが、今度は違ったら?
そして決定的なことが起こった。
渚が道場に居残りをした日、鴉紋は「帰った振りをして、女子更衣室に隠れて」と指示されたのだ。「これが最後だから」という念押しまで添えて。
事の真実よりも、女子更衣室に潜むのが居心地が悪くてかなわない。何も起きなかったら、渚に色々と要求してやろうと思いながら、鴉紋はロッカーに隠れた。
……そして。
その時の師は、鴉紋が敬い慕った男ではなく、けだものだった。誰もいなくなった道場の片隅、更衣室に堂々と踏み入り、やおら渚の道着に手を突っこんで。
下卑た笑みで何事かささやきながら、豊かな乳房の感触を楽しんでいるのだろう。頭が真っ白になって動けないでいる鴉紋は、渚の涙目を見て覚醒した。
後のことは曖昧だ。
ロッカーに置いてあった竹刀をつかんで、師に殴りかかった。あんなに堂々とした所作で剣をいなしていた男は、なすすべなく打ち倒され、情けない悲鳴を上げる。
「やめてくれ」「許してくれ」「誰にも言わないでくれ」そんな言い訳をしていたが、それは鴉紋の怒りにますます火をつけるだけだった。
猛然と師匠だった男を殴りながら、記憶がよみがえる。ある日、「相談したいことがある」と愛夢は切り出した。
「新しく入った内科の先生が、なんか、変なの」
「そりゃどういう具合にだ?」
「なんか……やけに、ジロジロ見られるっていうか」
ベッドの上から身を起こし、妹は周りをはばかるようにヒソヒソ声で、あるいは説明の困難さに思い悩むように、言葉を濁し濁し話す。
「やたら……さわってくる気がする」
長年見舞いに来ているおかげで、鴉紋は病院の医師や看護師、通院患者の顔はだいたい知っている。新しい内科医といえば、若いイケメンで評判だったはずだ。
車椅子の入院患者に話しかけたり、ナースに声をかけられている所を見かけた覚えがある。医療ドラマなら、善良で熱心な主人公に違いない。
とてもではないが、女に飢えていかがわしい真似をするタイプに思えなかった。
「愛夢……もしかして、だな」
一つ得心が言って、鴉紋は抜け抜けとこう言ったのだ。
「それは、恋ってやつじゃないか?」
後日、両親が家で「愛夢が病院を変えたいと言っている」と話していたのを聞いたことも、すっかり忘れていた。結局妹は、最後までそこに入院して死んだのだ。
関係がないと思っていた物事同士がつながって、思いもよらぬ物語を浮かび上がらせる。渚の信じがたい言葉と同じように、愛夢は本当のことを言っていた。
思い切って告白した恥辱を兄に理解されず、あまつさえ「恋」などと解釈されて、「そうかも」と小首を傾げて微笑んだ。その表情はひび割れていなかったか。
たった一人の妹を、なぜもっと信じてやれなかったのか。
真実はどうだったのか、もはや確かめることもできない。
死者に謝罪することも、その苦しみを慰めることもできない。
愛夢、愛夢、許さなくていいから聞いてくれ。
お前の兄は最低最悪の愚物だ!!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます