とをあまりふたつ 永遠の生命、永劫の胎内
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終わりの日によみがえらせるであろう。
(ヨハネによる福音書 6章54節)
◆ ◆ ◆
あたりは若葉と
人どころか獣も踏み入った形跡のない草むらを、
すずめと、くじ引きで居残りになった
「多摩の森と、こんなに違うんだなあ……」
鈴、蝋燭、古銭の三つを持たされながら、手持ち無沙汰につぶやく。見上げれば木漏れ日が青々とこぼれ、水面から見上げるような心地がした。
葉ずれの音も、鳥の声も、虫の羽音も、皆の息づかいさえも繁茂する植物に吸いこまれて、妙に静かだ。密集した木々が外界の空気を遮るのか、不自然なほど涼しい。
ここは
人が住む集落は村域の一割程度で、残りはすべて森林か渓谷。
伐採用に育てられた木々は枝を落とされて高く、まっすぐ天に伸びる。にくべとが眠る禁足地である蔦ヶ野森は、太くぐねぐねとうねる原生林だった。
心なしか、森の中では物音がどれも奇妙な響き方をする。自分の足音がまったく別の方向から聞こえたり、後ろの方でかさっと小さな音がしたり。
ここに棲む獣や虫、得体の知れない何かが、息を殺して侵入者を観察しているみたいだ。あるいは襲うためか、立ち去るのを待っているのか。
静かで、涼しくて、本当なら気持ちの良い森林浴になりそうな森。それなのに、可聴域外に激しいノイズが隠れているような、つかみ所のない気配に満ちている。
禁足地、という不吉な三文字が、佐強の胸に重く沈んだ。
「皆さん、目の前に岩がありませんか。結界の起点になる〝しるべ岩〟です」
腰の高さまで伸びる草むらが急に途切れ、一行は砂利が敷かれた小さな広場に出た。両眼に包帯を巻いた信多郎が訊ねた通り、その中央に岩がある。
一個の大岩ではなく、一抱えもある岩石がごろごろと積み上げられ、その上から色つきの布で飾った縄を何本も巻いた物だ。明らかに宗教的な意図を感じる。
布は三角形に切られたり、短冊状だったりが連なっているが、かつて五色だっただろうそれらは長年の風雨にさらされ、布にこぼした絵の具跡のようにあせていた。
「あるけど、それがどしたの?」と八津次。
「にくべとが出んように、あるいは迷いこんだ者が出会わんように、道に迷う仕掛けがあるんです。このしるべ岩を目印に、決まった道筋を通らなにくべとの元へはたどり着けません。邪魔くさい手順ですが、間違えたらやり直しです」
教えられた手順は複雑で、佐強はとても覚えられそうにない。
まずはしるべ岩周りを何度か回ってから広場を抜け、大木の所で引き返し、また広場を別の方角へ……と、行ったり来たりのくり返しだ。
やがて木立の間から古井戸が現れた。裏巽家にも今は使われていない井戸があったが、こちらは御前ヶ滝と同じように数本の錫杖と注連縄が囲んでいる。
※
出発前、信多郎は居間でにくべとについて改めて説明した。
オヤカタサマの祖先は、最初に人魚の肉を食べ、生き残った者たちだ。彼らはにくべとがやがていをになるのを見て、〝
いをには人食い共食いとの性質があることを利用して、互いに争い合わせ、自分たちの身を守ろうとしたのだ。
それに失敗して断絶した家もあれば、いをや祟りとは無関係に衰退した家もある。かつてオヤカタサマは七家系ではなく、村のほとんどがそういう家だった。
「今から向かうのは、断絶した家の人魚實と、封印だけ残されたもんや」
「シンちゃんシンちゃん、共食い済みのいをって結構いんの?」
語り終えた信多郎に、八津次は馴れ馴れしく呼びかける。
挑発、あるいは好意などではなく「お互い腹芸はやめよう」と言われたから、程度の理由ではないかとは佐強の想像だ。
「ええ。食うたら食うほど強く危険になり、記録に残りやすい」信多郎はこくりとうなづいた。「それだけ翡翠さまの血肉を色濃く受け継いでいる、ということになります。祟りと呪いを解くには、そうしたものと戦うことが肝要になるでしょう」
「へー、
八津次は気楽そうに、頭の後ろで腕を組んだ。命がけになる、という信多郎の言に緊張している佐強からすれば、よく余裕があるものだと感心してしまう。
「ゲームみたいに言うのはやめてください、八津次さん。佐強くんの身がかかっているのもそうですが……そのにくべとだって、元をたどれば人間でしょう」
「関係ねえ。元だろうが何だろうが、何百年も生きてりゃ充分だろ。今さら余計なこと考えるんじゃねえぞ。あと八津次は真面目にやれ」
「へいよー」
鴉紋に言い切られ、直郎は「はい」と返事する。あんなおぞましい物、むしろ成仏させてやった方が良いだろう、というのが佐強の意見だ。
※
あたりは若葉と古葉がなす、滴り落ちそうに濃い黒緑色の波濤だった。蔦ヶ野森に分け入る時、とぷんと水に沈むような心地がしたのは間違っていないと佐強は思う。
草は腰のあたりまで高く伸びていたが、すでに切り払われ、信多郎に先導された直郎、八津次がそれぞれ用意した山刀や鉈は出番がない。
すずめと、くじ引きで居残りになった鴉紋は裏巽家で留守番をしている。草の青臭さと樹皮の匂いで、佐強はむせ返りそうだった。
「多摩の森と、こんなに違うんだなあ……」
鈴、蝋燭、古銭の三つを持たされながら、手持ち無沙汰につぶやく。見上げれば木漏れ日が青々とこぼれ、水面から見上げるような心地がした。
葉ずれの音も、鳥の声も、虫の羽音も、皆の息づかいさえも繁茂する植物に吸いこまれて、妙に静かだ。密集した木々が外界の空気を遮るのか、不自然なほど涼しい。
心なしか、森の中では物音がどれも奇妙な響き方をする。自分の足音がまったく別の方向から聞こえたり、後ろの方でかさっと小さな音がしたり。
ここに棲む獣や虫、得体の知れない何かが、息を殺して侵入者を観察しているみたいだ。あるいは襲うためか、立ち去るのを待っているのか。
静かで、涼しくて、本当なら気持ちの良い森林浴になりそうな森。それなのに、可聴域外に激しいノイズが隠れているような、つかみ所のない気配に満ちている。
禁足地、という不吉な三文字が、佐強の胸に重く沈んだ。
「なんか変じゃない?」
青い髪を後ろにひっつめた八津次が、まず疑問を呈した。
「ここ、禁足地で誰も来ないはずなんだよね、シンちゃん」
「ええ」
「なのに、つい最近人が通った後があるし、ボーボーに伸びた草も刈り立て。誰かボクらより先に、にくべと探してるんじゃないの」
彼が言う通りだ。さっきまで、その不自然さに佐強も、皆もまったく思い至らなかった。何か大事なことを、忘れている気がする。だが、何を?
すっと切りつけるような不安が、佐強の胸に冷たく入った。
「あれがこの先に封じられとることも、道順を知っとるのも、裏巽家だけです。オヤカタサマ各位には、それぞれの人魚實をお祀りするように伝えていますさかい、他のにくべとやいをを探す理由もあらへん……」
目元を包帯に覆われていても、信多郎の強い困惑が伝わってくる。青ざめたような木漏れ日の下、くすんだ灰色の雰囲気にぼたり、と
直郎が眼鏡のズレを直しながら「それはつまり」と指摘する。
「我々は既に、にくべとの術中にある、ということではないですか?」
「……しるべ岩へ急ぎましょう」
信多郎は杖で足元を確かめながら急いだ。何者かが拓いた道があるからか、その動きにさほど迷いはない。移動しながら、彼はしるべ岩と結界について説明した。
心なしか、森の中では物音がどれも奇妙な響き方をする。自分の足音がまったく別の方向から聞こえたり、後ろの方でかさっと小さな音がしたり。
ここに棲む獣や虫、得体の知れない何かが、息を殺して侵入者を観察しているみたいだ。あるいは襲うためか、立ち去るのを待っているのか。
静かで、涼しくて、本当なら気持ちの良い森林浴になりそうな森。それなのに、可聴域外に激しいノイズが隠れているような、つかみ所のない気配に満ちている。
禁足地、という不吉な三文字が、佐強の胸に重く沈んだ。
「サッちゃん、その手、誰にやられたの?」
不意に足を止めた八津次が、初めて見たように佐強の両手――がなくなった、肘の端を手に取った。何度も眼をしばたかせ、信じられないという風だ。
「とーちゃん、オレ一昨日からこうだよ。てか説明したじゃん」
「説明ぃ?」
八津次は耳元まで口が裂けるような笑い方をした。丸く見開いた眼は爛々と輝き、獲物を見定めるネコ科の形だ。ふくれ上がる殺意を隠そうともしていない。
「てか、この状況何?」
何を考えているか判然としない薄笑いで、八津次は周囲を見回す。手には腰から抜いたサバイバルナイフ。
そういえばこんな森と藪に入るのに、誰も山刀や鉈のたぐいを持っていない。道が切り拓かれているから、問題はないのだろうが、佐強は何かが引っかかった。
「ボク窯の番してなきゃいけないんだよ。家出したはずのサッちゃんが見つかったのはいいけれど、そっちの目ホータイのやつ、誰?」
どうやら彼の記憶は、翠良尾瀬に来る以前まで戻っているらしい。よく見ると八津次の青い髪は、染髪料が落ちてきたのか、根元が黒くなり始めている。
まずい兆候だと、八津次以外の全員が察した。
※
「手も足もない肉袋とはいえ、にくべとは非常に危険です」
裏巽家の広間で、信多郎は念を押すように言う。
「あれは触れた人間の『時間』を食べます。少しでも早う、いをに生まれ変わるためにね。最初は記憶や知識が欠けて、次に体が縮んで、最後は胎児まで戻される」
にくべとが物理的に食べる食べないを置いても、子宮の外で
「だから古銭を使える佐強くん以外、絶対に近づかんとってください」
自分が生まれる前のことなんて覚えていないが、時間を食われて赤子に戻されたら、どんな心地がするものだろう。佐強の脳裏でぶわっと想像がふくらむ。
小さいころは、父たちの会話は難しくて何を言っているかよく分からなかった。そういえば、人間は最初から喜怒哀楽すべてが備わっていない、と聞いた覚えがある。
言ったのは確か、小児科医の直郎だ。
「父さん、赤ん坊って、どの順番で感情を覚えていくんだっけ」
「人間が出生時に持っている感情は、シンプルな〝興奮〟だけだと言われています。一般には生後六ヶ月で基本的感情、喜び・悲しみ・嫌悪・怒り・恐れ・驚きが。二歳前後までで共感や恥じらい、三歳にかけて善悪の判断に対する感覚を持ちますね」
児童心理学やら発達やらがどこまで直郎の専門かは知らないが、佐強はありがたく拝聴した。怖いのに、頭は好奇心でディテールを埋めようとする。
「ってことは、にくべとにやられたら、何が善いか悪いかも分かんなくなっちゃっていくんだ。まあその頃には、体が動かなさそうだけど」
「嬉しい、悲しいという感情も、自分の気持ちを意識できるようになる発達次第です。それも食われて消えるとなると、凶悪な妖怪ですね……」
「まあ、オレが戦えるっぽいから、大丈夫でしょ!」
形のない手で、佐強はポケットの中の古銭を握りしめた。
翠良尾瀬の人々が、積極的に人魚狩りをしなかったわけだ。佐強だって両手を奪われていなければ、神具を渡されたってわざわざ挑もうとは思わなかっただろう。
そんな危険なことに、父たちは息子のため、信多郎は姪のため臨んだ。自分はそれに応えられるだろうか、すずめを恐ろしい運命から守れるだろうか。
※
自分たちは、おそらくにくべとに出会って
このまま、信多郎が説明した知識まで奪われたら、佐強たちになすすべはなくなる。なぜ一度――本当に一度かはともかく――も失敗したのかは分からないが、次こそ確実に仕留めねばならない。
「八津次さん、ライターをお持ちですか」
直郎は不安そうに訊ねた。十日以上時間を食われた「この」八津次がそれを持ち歩いていたか、もはや怪しいからだ。しかしそれは杞憂だった。
「あるよ」とオイルライターがポケットから出され、直郎はほっと息を吐く。
「佐強くん、神具を出してください。我々は既に何度か失敗している。今の内に準備を整えましょう」
「なーんか状況ぜんっぜん分かんないだけど、ヤバそう?」
ヘラヘラと笑いながら、八津次は不満そうだ。
「ごめん、とーちゃん。おいおい説明すっから」
時間を食べたにくべとを祓えば、記憶も元に戻るのだろうか。
空中浮遊する鈴を直郎に渡すと、当然八津次に驚かれたが、話は後回しだ。佐強が存在しない手で握りしめた蝋燭に、直郎がオイルライターで火を灯す。
瞬間、森は夜闇に叩きこまれた。
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