とをあまりひとつ 世界の正しい形は邪悪

 ないはずの手を、かつてあった時と同じ感覚で動かす。すると座卓の真上に浮いた古銭は、佐強さきょうが思い描いた通りひっくり返って裏面を見せた。

「手」を顔に近づければすーっと古銭も空中をすべる。四角い穴が真ん中に開き、その周りに「使」「鬼」「通」「寶」の字が浮き彫りになっていた。

 もう一度ひっくり返すと、穴の周りを龍が囲んでいる。これが龍神だというみすらさまなのだろうか。


「わっははは! すごっ、ハンドパワーじゃん」


 八津次はつじが膝を寄せて、佐強の肘と古銭の間に何度も手刀をくぐらせた。だがこちらは何も感じないし、八津次も障害物に引っかかることはない。

 なのに古銭が「自分の手の中にある」という感覚ははっきりとしていて、どうしてこれを無いはずの手で持てるのか、訳が分からなかった。

 唯一この状況を説明できるであろう人間、信多郎しんたろうが口を開く。眼球を失い、包帯で隠された眼には何が見えるのだろうか。


「君の両手を奪うたのはみすらさまやけど、その古銭にもまたみすらさまの御力が宿ってる。そやさかい持てるし、に触ることもできる」

「もしかして、蝋燭や鈴も持ったり?」

「できるやろうね」

「触れるってことは、オレが人魚をぶっ飛ばすことも?」

「そういうこと」


 佐強は思わず「おお!」とガッツポーズを取った。パーツが足りないので少し不格好なのは目をつぶる。胸の中にぱっとスポットライトが差したみたいだ。

 しかしそんな気分に水を差す、不機嫌さを凝縮した声がした。


「気に食わねえな。話がうますぎる」


 鴉紋あもんよろうように腕を組んで、三つの神具をそれぞれ見回す。


「祟っている側が貸し出した力で、なぜ祟りを鎮められるんだ。理屈が通らん」

「少し長なるけど」と信多郎は断りを入れた。「翡翠さまの血肉を食ろうて祟りを受けたものは、二種類の末路をたどりました。死ぬか、中途半端な不老不死を得た存在、です」

じゃなくて?」


 先日読んだ『翠良みすら尾瀬おぜ村民俗誌』の内容を思い出しながら、佐強は訝しんだ。あの本にはがそんな存在とは書いていなかった。

 信多郎がとつとつと語り始めるさまは、古書のページが一枚一枚めくれていくような風情がある。生者すべてが持つ熱が燃え尽きた後の、灰色の空気感のためだ。


は、になる前の段階なんや。本には肉の塊とあるけど、正確には肉の袋で、中に胎児が入ってる。その状態で、普段は土に埋まっとるんです」

「肉の袋?」


 直郎ちょくろうが聞き返す。おそらく、すずめを除く全員が思ったことだろう。胎児が入った肉の袋なんて、まるで――子宮のようではないかと。


は、本では肉の泥、または土と書かれるけど、実際はもっと違う字をあてます。身を喰う土、または人をきっするとこくべ食いどこ。それは土中で胎児をはらむが、袋から中身が出るには何百年もかかる。胎児を喰い、産み、喰い、産みをくり返して、ついに袋からいずるのが、なんです」


 それは人魚の肉を食べた者の、おぞましい末路だった。

 ずしんと、部屋の空気が一段と深く冷えこむようだ。蝉の合唱が急速に遠のいた気がして、佐強は不安からふと外を見やった。

 窓に見える山、そのどこかに、己の身を食い続けるが、いったいいくつ眠っているのだろう。豊かな自然と思えた風景の底に、肉の地獄が広がっている。


 肉泥にくべと身喰土にくべと人喫床にくべと。土に埋もれた桃色の袋の中、うっすらと胎児の影が透ける。いくつも、いくつも。

 それは触れると温かいのか冷たいのか、中の胎児の鼓動を感じられるだろうか。表面には血管が走って、生まれてこない赤子の目がこちらを見つめる。


 直郎が吐き気をもよおしたように、口を押さえるのが視界の端に映った。彼が赤い雨の中で見たという赤子、水子の群れも、もしやなのではないか。

 生まれてこなかった子供――昨日聞いた母の話が、脳裏によみがえった。


「で? ニクベトと神具とやらの関係はなんだ、裏巽うらたつみ


 何の動揺も見せない低い声が、高圧的な口調で先を促す。鴉紋が容疑者と対峙する時は、こんな話し方をするのではなかろうか、という刺々しさだ。

 その声でなんとか気を取り直せたが、佐強としては、いい加減信多郎へ警戒を解いてほしいと思う。催促された当人は「まあ待ってください」となだめた。


「神具が役に立つ理由はごく単純なことですけど、その前にお伝えしとくことがあるんや。佐強くんにすずめちゃん、そして僕は、遠からずに成り果てます」


 どくっ、と佐強の心臓が、恐怖を血に乗せて全身へ送り出す。今、この人はなんと言った? 地面の下で自分自身を食い続ける肉袋に、自分も、まだ八歳のすずめも、素性も知れぬ佐強を親切に招いてくれた信多郎も、皆そうなると?

 本で読んだ時は、架空の妖怪として受け止めていた「にくべと」が、今は生々しく自分の終着点として存在感を持った。


「どういうことだ裏巽ィ!」


 だんっと天板を叩いて、鴉紋は鋭い声を飛ばす。


「それはさ~、ちょっとシャレになんないよね~」


 八津次が丸く目を見開いて笑う。


というのは、手足を一つずつ奪い取られて成るものなのですか?」


 しばらく黙っていた直郎は、抑えた声で問うた。


「人がになる因果は、みすらさまの祟りだけやのうて、翡翠さまの呪いでもあります。僕らはの儀に失敗して、みすらさまに体を奪われた。その祟りで翡翠さまが目ぇ覚まして、佐強くんを中心に呪いをかけたというわけです」

「そんな母子ツープラトンいらないのよ!」


 佐強が軽口を叩くのは、余裕を見せれば余裕ができる気がするから。つまり自己防衛だが、そのクッションは大して役に立たないように思えた。

 儀式に失敗して佐強が手を失ったのが一昨日の夜、一夜明けて赤い雨が降り、父たちが翠良尾瀬にやってきて、巨大な犬の首が落ちてきた。

 まさか祟りだけではなく、呪いをかけられているとは思わなかったが、信多郎も説明するタイミングがなかったのだろう。


「神具にみすらさまの御力が宿るのは、村の血に広がった翡翠さまを取り戻すため、ご先祖さまに授けたものやからなんよ。を退治して、みすらさまと翡翠さまに許しを乞う。そやさかい、僕は〝人魚狩り〟を提案したんです」

「OKOK、まあとにかく、化け物退治していけばサッちゃんは助かるわけね?」


 ようやく話が見えてきて、八津次はまとめに入った。なるものの存在は恐ろしいが、やるべきことが明確になるのはありがたい。

 そこに「待て」と鴉紋が疑義を差し挟んだ。


「この村の連中は、をそんなしょっちゅう狩っていたのか? 祠の様子だと、長い間使われていねえように見えるがな」

「はい」信多郎は首を振る。「一度土に入ったは探すのが困難ですし……見つけたとしても、危険が大きい。もそれぞれにタチが悪いから、誰もやりたがりませんでした。だから、の儀だけ執り行っとったんです」

「なら、狩る人魚に不足はなさそうだな」鴉紋は不敵に笑う。


 直郎はなるほど、と深刻そうに息を吐いた。普段は柔らかく透き通る面持ちが、今はにらみつけるように眼光が鋭い。こんな表情は佐強も滅多に見たことがなかった。


「民俗誌はわたしも目を通しました。記述の正確さは置いておいても、あのような妖怪が現実に襲いかかってくるのは、堪りませんね」


 人に首を吊させる妖怪、ドッペルゲンガーの妖怪、目玉を取る妖怪……さまざまな記述が佐強の脳裏によみがえる。あんな化け物と、本当に対峙するのか。

 すずめが「トイレー!」と声を上げ、場の緊張感を破った。

 彼女も当事者だからこの場に居合わせてもらっているが、表情は「退屈すぎて死んじゃいそう!」と言わんばかりだ。香西ヘルパーが車椅子を押して退出した。


「……まあ、しかし。大丈夫ちゃうかなあ」


 すずめが出て少し間を置き、信多郎が含みのある声を出す。色あせた雰囲気は変わらないが、灰の中に埋まった炭火のような、佐強の知らない熱がこもっていた。


「あんたらみたいに、人殺しを計画的かつ継続的にくり返してるような方々やったら、化け物を相手にするときも頼もしいことです」


 火傷というものは、重度になれば熱さではなく冷たさを感じると言う。信多郎の冷ややかな口調は、致命的な拒絶をともなっていた。

 佐強は口を開こうとしたが、何も言えないことに気づく。喉の奥へ空気の塊が転がり落ちて、咳きこみそうだ。


 確かに鴉紋も、直郎も、八津次も、何人も殺してきた。殺人の事実を伝えられながら、何でもないように振る舞っていた、信多郎の態度こそおかしかったのだ。

 姪が席を外したから、ついに彼は本音を口にしたのだろう。佐強は黙って父たちの顔を見回した。皆それぞれに、信多郎を値踏みするようなまなざしをしている。


「眼ぇこうなったせいで、見えるんよ。いや、あんたらの姿は見えんけど、ズタズタになった元人間みたいなものが、雲霞のごとく群がってる。まあ、たかるばっかりで何するでもあらへんようですけど」


 信多郎は一人一人を正確に指さした。


「死人がおらん、人型にぽっかり開いた穴があんたらや。そこの大きいのが宇生方うぶかたさん、中肉中背なのが八津次さん、一番小柄なのが直郎さん。ね?」

「……合ってます」


 誰も答えようとしないので、佐強が代わりに応じる。すずめがいつ戻ってくるか、気が気ではない。信多郎は口角を持ち上げた。


との戦いは命がけになります。お互い余計な腹芸はやめまひょ」

「あなたはそれが分かっていて、わたしたちを招き入れたのですか?」信じられないという風に直郎は訊ねる。「すずめちゃんに何かあるかもしれないのに」

「あんたらの後ろに、女性と子供の霊は見えへんかった。こっちも背に腹はかえらへんし、人殺しの件はどうでもええんですよ。どうせ僕には証拠が出せない」


 確かに、殺人の物証はすべて八王子市に置いてきている。やった当人たちが認めているとはいえ、根拠は信多郎の霊視だけだ。


「すずめちゃんと遊んでくれたり、食事を用意してくれたり、あんな美味しいコーヒーをれる人が人殺しなんて、世の中難しいもんやねえ……」


 鴉紋と直郎それぞれが苦々しい表情を浮かべる。片方は信多郎を責めるように、片方は自嘲するように、という差はあったが。八津次は無表情に近い薄笑いだった。


「僕は何より、すずめちゃんを助けたい。あなたたちも息子さんを助けたい。そやさかい、お互い協力しまひょ。こんなものが見えている、ということはお伝えしとかんとあかんと思ったんで」

「それでいい」鴉紋はぶっきらぼうに鼻を鳴らした。「馴れ合う気がないのは好都合だ、てめえの話は逐一疑ってやる。まずは人魚狩りを試してみるがな」


 ふうむ、と信多郎は面白がるような声を出す。これまで穏やかに見えていた男の変わりように、佐強は呆然としていた。

 おそらく、切羽詰まれば信多郎は佐強を切り捨てるだろう。そして父たちも、いざとなれば彼を同じく切り捨てる。そういう腹づもりが双方から伝わってきた。


「じゃ、人魚狩りに納得してもろうたら、改めて大人だけの一席を設けさせてもらいまひょか。今日の所はの当てがあるさかい、そこへ案内します」


 気がつくとひどく喉が渇いていて、声が奥の方に貼りついている。それを引き剥がすように、佐強は「あの」と声を上げた。


「化け物を一匹一匹退治したら、オレの手って少しずつ戻ってきます?」

「うーん、それはさすがに僕も分からんなあ」


 信多郎はコツコツと自身の額を指でつつく。佐強に対する態度には、父たちに見せた冷淡さは欠片もない。子供に罪はない、ということか。


の儀をし損じた時、やり直せるのは三十三夜まで、と言い伝えられとってね。翡翠さまの呪いもそれより早う進まないやろ。祭りから二晩経って、残り三十一夜。問題はをどれだけ狩ればええかやけど、こればっかりは分からへん」


 だが、今のところ他の道はないのだろう。

 すずめが戻ってきて、話は終わりになった。午前中には屋根瓦の修理に業者が来るので、休憩がてらそれを待ち、信多郎が知るにくべとの元へ行く。

 二階へ上がる時、八津次はくつくつと笑いながら言った。


「何だったかな。昔聞いたことあんだよね、〝祟りは報い、呪いは業〟ってさ」


 とんとんとん、と嫌に軽快な足取りで、八津次は一足先に階段を上り終えると、くるりとこちらを振り向く。ピストルの形をした手が、下の三人を指した。


「サッちゃんは、ボクらの業で呪われて、ボクらの報いで祟られちゃったんだ」

「そんなことはさせねえ」


 自身の声音を臓腑に押しつけるように低く、威圧的に鴉紋はうなる。


「俺たちがどういう末路をたどろうが、それは俺たちの問題だ。佐強だけは五体満足で取り返す。いいな」


 そのためには、命を捨てても良い。言外の覚悟が耳の奥でこだまするようだったが、佐強はそれに対する言葉を持てなかった。

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