にくべとが、蠢く。

とを 水槽の中の深海は何が泳ぐ

 八月二日。

 赤い雨は夜半のうちに降り止み、打って変わって快晴の朝日が屋敷を照らした。

 壁も生け垣も立木も血みどろに見える地獄絵図から、ようやく正常な世界に戻ったように見える。だが、信多郎しんたろうは「雨は怪異と災厄の先触れ」と言っていた。

 人生で両手を奪われる以上のひどい目に遭うことは早々ないと思うが、この翠良みすら尾瀬おぜで常識は通用しない。佐強さきょうは不安な気持ちで、一階の大広間に顔を出した。


「オヤジ、またコーヒーミル持参してたの?」


 階段を降りる時から気づいていたが、裏巽うらたつみ家に香ばしいコーヒーの香りが満ちている。鮭の塩焼きに、昨日の残りの冷や汁と鯖の押し寿司、白ご飯に混ざって、熱々のマグカップが五人分用意されていた。


「春はあけぼの、朝は珈琲、いとをかし、だ」


 などと抜かしつつ、Yシャツとネクタイ姿の鴉紋あもんの手はコーヒーを牛乳で割っている。シロップと氷を追加してかき混ぜているので、すずめ用に違いない。

 台所には、手動の携帯式コーヒーミルが置いてあった。高さ二〇センチぐらいのステンレスの円筒で、一度に三〇グラム=三人分の豆が挽ける。

 六人分を挽いたということは、ハンドルを回す数はおよそ三〇〇回。八王子の家にはもっと本格的なコーヒーミルがあるが、よくやるものだ。


「いいか佐強、珈琲ってのは文化的な飲み物だ。日本で初めてこいつを飲んだ蜀山人しょくさんじんは『焦げ臭くて味わうに堪えず』と評したが、苦みってのはそもそも……」

「はいはい耳タコ耳タココーヒーハラスメント」


 性懲りもなくうんちくを始める父を無視して、佐強は席に着いた。今日の着替えと洗顔を担当してくれた直郎ちょくろうは左隣に、食事介護担当の鴉紋は右隣に座る。

 いただきますを終えて、すずめは真っ先にコップに口をつけた。


「あもさんのコーヒー、おいしー!」

「カフェオレだがな。そいつは良かった」


 佐強の焼き鮭を箸でほぐしつつ、鴉紋は満足げだ。ちなみに彼は自分の名前をダサいと思っているので、すずめにも信多郎にも呼ばないよう釘を刺していた。

 兄が鴉紋で妹が愛夢あいむ、完全に悪魔の名前だが両親――佐強にとっての祖父母は、どういうセンスをしていたのか。あまり会ったことがないのでよく分からない。

 鴉紋の実家はコーヒーにこだわる喫茶店で、美味しいコーヒーで育てられたそうだ。そのためか、味への執念がすさまじい。


「裏巽、あんたも俺の珈琲を飲んでみてくれ」

「では、ごちそうになります」


 信多郎はヘルパーの手を借りず、おそるおそるマグカップを持ち上げた。目元が隠れていると人相が判然としないが、口をつけた瞬間、表情が変わるのが分かる。


「これは……頭の中がキュッと締まる印象的な味ですね。確かに一発で目ぇ覚める。深煎りかな、すっきりした苦みで切れがあるなあ」

「そうか、そうか!」


 鴉紋は今にも笑い出しそうなのを押さえるように、ご機嫌で腕を組んだ。厳選した豆のオリジナルブレンドらしく、美味しいのは確かだが自分には少しわずらわしい。


「オヤジ、オレ腹減ったんだけど……」


 いいから早く飯を食わせてくれ、と佐強は嘆いた。



「さて、〝人魚狩り〟についてご説明しまひょ」


 朝食の後始末や洗濯物といった一通りの家事を終えて、ようやく本題が始まる。居間の上座に陣取った信多郎は、夜祭よまつりの時と同じ、厳粛な空気を放っていた。

 両眼を覆う包帯が、なおのこと彼を異質な存在に見せているのは間違いない。


「翠良尾瀬では妖怪や怪奇現象を、まとめて人魚として扱います。翡翠さまの呪いということですなぁ。ただ、そのまま人魚と呼ぶのを避けてなどと呼んでいますが。これらは正確には偽物の人魚、つまり翡翠さまを食べて中途半端な不老不死を得た、できそこない、という意味です」

「俺たちが狩る人魚ってのは、そのできそこないどもか」


 鴉紋の確認に「ええ」と信多郎はうなずく。外では、雨の間声をひそめていた蝉が、シャワシャワと鳴き出していた。

 そういえばこの家は、やけに涼しい。八畳や六畳の和室を複数つなげて大広間にしているが、それを一台のエアコンが冷やしている。合わせて二十畳ほどあるはずだ。

 惜しみなく冷房を使っているのかもしれないが、佐強にはなぜか、その冷気があの地底湖があった洞窟と似ているように思えた。

 ふっ、と深海にいるような居心地の悪さを覚えてしまう。それも広大な海ではなく、水槽に切り取られ、狭いのに底なしに深い、そんな場所だ。


「人魚供養祭と、の儀についてはご説明しましたね。翡翠さまを口にした血筋から生まれる人魚を、翡翠さまの血肉の代わりとしてみすらさまに捧げ、贖罪とする。つまり人魚実にんぎょざねとして、を捧げて奪われた体を返してもらうんです」信多郎は膝に乗せていた『翠良尾瀬村民俗誌』をかかげて見せる。「いくつか間違いもあるんやけど、この本に載っている妖怪はほぼです」

「狩る、というのはお祓いをするとか、捕まえるということとは違うのですか?」


 目の見えない信多郎に対し、直郎は生真面目に手を挙げて質問した。佐強の感じている不安など知らぬ態度に、ほっと安心を感じる。ただの、馬鹿な想像だ。


「殺すとか退治する、と考えてください。村内やったら、どこでどう殺してしまっても大丈夫です。ここはみすらさまがろしめす地なので。そして、裏巽家にはに対処するための神具が伝わっています。庭へ移動しましょう」


 信多郎に案内されて、一同は場所を移した。

 佐強の介護は父たち三人が担当するため、一野ヘルパーは昨日でお役御免となっている。その代わり女手が一切ないので、すずめには香西かさいという女性ヘルパーがついていた。さすがに女の子のトイレや風呂を、成人男性が介助するのは問題だ。


 両目を奪われた信多郎が苦しいだろうことはもちろんだが、佐強は我が身をおいても、歩けなくなったすずめの姿が辛い。

 縁側から地面へ、車椅子ごと下ろされるすずめが楽しそうにしているのが救いだ。


 信多郎は香西ヘルパーから杖を受け取ると、迷いなく歩き出す。その先にあるのは、佐強が初日に挨拶した祠だ。みすらおがみを祀る神社の、その分社。

 八津次はつじが興味深そうに、横から顔を覗きこむ。今日は青い髪を下ろしていた。


「シンタローちゃん凄いね、もしかして何か見えてる?」

「ええ、祠のあたりが文字通り翡翠色に。ぼんやりとした光です」


 失明状態の信多郎だが、その代わりに霊的なものを見る力を得ている。杖で足元を確認しながら、目指す方向は一直線だ。


「そういえばオヤジたち、祠に挨拶した方がいいんじゃないの」


 佐強の提案に、父たちは首をかしげる。


「ここ来た時に、母さん……あー、いや、あれ神さまが化けた姿だっけ。に、祠に挨拶してねって言われたから……」

「その神とやらの祟りで、お前はこんなことになってんだろうが」


 言いながらあまり良くないなと気づいたが、鴉紋からも当然否定された。


「さすがに祠にイタズラしたら天罰てきめんだろうけど、挨拶してやる義理はないかなー」と八津次も同調する。


 直郎は、一人うつむいて難しい顔をしていた。信心深い彼としては挨拶した方が良いと考えているのだろうが、自分が信じる神ではないので、そう言えないでいる。

 いや、本来なら問答無用で「挨拶しません」と言っているのだろうが、佐強・すずめ・信多郎が身をもって、超常存在の証拠になっているので、悩んでいるらしい。


「まあ、祠を汚さない限りは、別に気にしてもらんでええですよ」


 目的地に到着し、信多郎は柔らかく言った。祠は大きな岩の上に設えられた朱塗りの鳥居と、神社の拝殿をミニチュアにしたものだ。扉に南京錠がかかっている。


「直郎さんはクリスチャンの方やったなぁ。しばらく離れた所で見ていてください。さすがにここを開けるのに、神さまが違う方を居合わせるのは申し訳ないんで」


 ここ、というのは祠の格子戸のことだろうか。

 佐強が見守る中、直郎はさっと顔を青ざめさせた。目の前を見ているようで見ていない、自身の影に呑まれた人間の表情。


「あなたはまだ、神がわたしを見ておられると……そう仰るんですか」

「僕に見えるのは、直郎さんの後ろに何か大きなものがいて、あなたがそれと繋がっている、ということだけですわ。たぶん、それが神さまと違うかな」


 直郎はか細く震える手で顔を覆った。信心と殺人の間で葛藤している中、まだ神は見捨てていないと伝えられた心境はいかばかりだろうか。

 よろけるように直郎は後ろへ下がった。掃き出し窓に背中がぶつかる物音で察したのか、信多郎は杖を置く。


「それじゃ、ちょっと祝詞を上げますね」


 二度お辞儀して二度柏手、朗々たる発声で信多郎は奏上した。


「かけまくもかしこ翠良龗みすらおがみの神社かみのやしろ大前おほまえに裏巽信多郎かしこみ恐みもまおさく、大神おほかみ見霽みはるかし咎人とがびとに、翠良尾瀬村饗庭あいばの裏巽信多郎・裏巽すずめ両名、八王子市楢葉ならはまち宇生方うぶかた鴉紋を始めとする四人よたりはしも、罪咎つみとがあがなひに、今度こたび入紐いれひもの同じ心に思ひ定めて、大神おほかみの高きたふと神徳みうつくしびいただまつたまひ、はらたまきよめ給へ、まつらくを、御心みこころおだひに聞こしせと恐み恐みも白さく」


 一礼し、ポケットから取り出した鍵で格子戸の錠を開けると、中には丸い鏡と、小さな木箱がある。信多郎は木箱だけ取り出して扉を閉めた。

 ツヤを失ってくすんだ、とても古い長方形の箱だ。年月を経て色あせたその風合いは、佐強の目にはどことなく信多郎自身と似ているように見えた。

 居間へ戻って蓋を開けると、中には大きさの違う紙包みが三つある。


「これが退治の秘密兵器です」


 彼が包みから取り出したのは、赤い蝋燭、翡翠色の鈴、穴の開いた古銭だった。箱の底にはぼろぼろの紙が折りたたまれている。

 信多郎は慎重な手つきでそれを開いたが、古文書らしいミミズがのたくったような崩し字で、とても読めそうになかった。


「えーと、説明書の現代語訳がうちのどっかにあったと思うんですけど。僕が覚えている限り、これはどれもを見つけ、対抗するための力をみすらさまから授かった神具です。まず、は生きた人間には見えません。僕が見えるかは知らんけど、蝋燭に火を灯せば、その姿を照らし出すことができると伝わっています」

「ほお?」


 鴉紋は「ほざけ」という言葉を疑い半分、興味半分、の声音に変換する。

 佐強は親子なので分かるが、言外のニュアンスが信多郎に伝わらなければいいが、と冷や汗をかいた。


「これ一本しかないので、点けっぱなしとはいきませんが。その代わりが鈴です」


 信多郎がかかげた鈴は、巧妙な細工物だ。

 蛇の卵を意識したような俵型に、これが鈴であると主張する切り口が入っている。全体に金色の模様が入っており、いかにも特別な何かという主張を感じた。


「近くにがいると鳴る、という話ですが、その時には近づかれすぎているそうで。自分から振り鳴らして、近くにがおらんか探す道具です」

「今は?」


 佐強が訊くと、信多郎は鈴を指ではじいて見せる。何の音もしないが、ちゃんと鳴るように出来ているのか、という不安が首をもたげた。


「見えないオバケを見つけるアイテムかー」退屈そうに八津次はコメントする。「最後の一個は期待していいのかな?」

「この古銭は、直接を打ち祓う道具です。佐強君、か」


 へ? と問い返す間もあらば、信多郎はいきなり古銭を投げた。こっちは両手がないのにどうしろと言うのか。二の腕で受け止めるのは厳しいが、身を伸ばす。

 に金属の冷たさを覚えた。

 すっぱりと切断された佐強の肘、その少し先、本来なら手のひらがあるあたりに、古銭が浮いている。地面に置かれたように、表を平たく向けて。


 何かの間違いではないかと思ったが、古銭は確かに畳から数十センチ上で止まっている。佐強が肩を動かすと、それに合わせて位置が上下した。

 死んだはずの母、赤い雨、突然落ちてきて消えた巨大な犬の首。信じられないものを翠良尾瀬でいくつも見てきたが、これは、とびっきりだ。

 全員の視線が佐強に集まる中、はは、と笑いがもれる。


「持てちゃった……」

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