はたそまりひとつ それは産み落ちた
ここは分家のもので固まっている。十数件以上も連なる「来足家」の中、ひときわ大きな日本屋敷の前に、忌中札をかかげた白黒の花輪が立っていた。
パチンコやら飲食店やらの開店祝いに飾られる、生花や造花をリング上に配したあれの不祝儀版だ。ここが本家で間違いない。
時刻は十六時ごろ、葬儀の開始まで二時間あるが、のんきに待つ余裕はなかった。助手席の
相も変わらず異様な目隠し包帯に、紋付き黒袴姿だ。
「何で僕がわざわざ来足家に行くか、皆さん不思議やないですか?」
来足家は人を殺している――のとさまに祟られた来足
祟りを懸念して内々に殺害し、どういうコネを使ってか病死ということにした。それは来足家が祭る
「特に何も企んでいませんからね。裏巽家として呼ばれたのはもちろん、のとさまを退治するには、あちらに行くしかあらへんでしょう」
「……それだけか?」後部座席から、
「それ以上理由いります? 僕だって、可愛い姪の身がかかってるんよ」
人魚狩りの期限まで、残り二十八夜。
九月一日までに、祟りを起こした龍神みすらが満足するまで、人魚になりそこなった元人間いをを退治しなければ、信多郎と姪のすずめ、そして
佐強はまだ信多郎の肩を持つが、彼の父親である鴉紋、
彼が動けなくなっている間に、八津次がのとさまに祟られて、その話は保留になった。現状、信多郎とその姉・
そして今もまた、この男を信じるか否かは一旦置かねばならないのだ。
「もー、考えるのは後々!兵は拙速を
最初に八津次が車を降りた。下ろした青い髪に隠れた耳たぶは、のとさまの弱点である絆創膏に覆われ、祟りで奪われた聴覚を補っている。
喪服の長袖と長ズボンに隠された手足も、温感痛覚、これから奪われるであろう触感を守るため絆創膏だらけだ。彼にはもう味覚も嗅覚もない。
「空元気もそれだけ言えりゃ立派だ」
次に鴉紋が、後部座席真ん中に座っていた佐強が車を降りる。彼は借りた黒い上着でなくなった両手を隠し、暑さ対策でネッククーラーを首に巻いていた。
八津次がスケッチで書き連ねた内容は、既に全員が共有している。まず信多郎を除く四人で話し合った結果、のとさまの対処法と正体についての仮説が立てられた。
その後で信多郎にのとさまについて問いただしたが、彼は来足家が祀るのとさまの実態はよく知らないと言う。本にあったように、鏡かどうかも怪しいと。
翠良尾瀬に七つ存在するオヤカタサマの人魚實は秘中の秘で、数年おきに裏巽家が祭祀を行っていた。信多郎は「神主として半人前」とされ、その儀に参加を許されないまま、両親が早世してしまったのだ。どうしようもない。
であれば現地に直接赴き、来足家の人間を問い詰める。のとさまの正体、そしてその祟りを解くおもてなしの作法を。八津次は門扉を越えて、一歩敷地に踏み入った。
コン、コン。
コンコンコンコン。
コンコンコンコン、コンコンコン、コンコンコンコン!
来足家の窓という窓が一斉に震え、ノック音を鳴らす。
八津次の姿が映っているかどうかも、もうお構いなしだ。家の中から悲鳴とけたたましい足音がして、玄関から黒い着物の老人が飛び出した。
血相を変えた、とはこんな顔だろう。怒りで顔を赤くするのではなく、ざっと血の気が潮のように引いて、精肉処理された生肉みたいに生気がない。
七、八十代と思われる老人はまだ二十代末の信多郎を「若先生!?」と呼んだ。
「こらどないなことですか! 急に家中窓やら鏡やら……絆創膏も剥がれて」
「ばあ」
八津次は髪を持ち上げて、塞がれた両耳を見せつけた。それですべてを理解した老人は、巨峰の実を皮から押し出すように、ぎょっと目玉を剥く。
「か、
「え~、ボクがこうなったの、そっちのせいでしょ」
ヘラヘラと、八津次は慌てふためく老人を意に介さず笑う。
「おたくの
「この方々は、うちで呼んだ拝み屋です。本来なら僕が何とかせなあかん所なんですが、このザマですし、神葬祭も分家の方に代理してもろてる状態で」
裏巽家の分家は、翠良尾瀬の外、
拝み屋、とは信多郎と相談した結果の方便だ。霊能力者であるとは言っていないが、実際に怪異を起こす人魚を狩っているので、嘘ではない。
今にも尻餅をつきそうだった来足老人は、ようやくしっかりと地面を踏みしめた。ノック音はいまだに続いているので、不安そうに一度屋敷を振り返る。
「そら、
「そうです。あちらは息子さんの代で廃業してしもたし、古車さんは相変わらず行方知れずやろう。この方々も腕は確かですよ」
翠良尾瀬は祟りが起きる以前から、稀に野良のいをが騒ぎを起こすことがあったらしい。その際に力を借りた霊能者は、現在どちらも頼れないとのことだ。
「しかし……ほんなら、そちらの方は」
「ええ、怪異の調査中、のとさまに出遭うてしまわれまわして」
ああああ! と言葉にならないうめきを上げて、来足老人は袴が汚れるのも構わず、膝から崩れ落ちた。
一人祟り伏せたのとさまは、次の標的を傍にいるもの、血縁的に近い者から選ぶ。が、誰かが鏡のノック音に応えれば、そちらを優先するのだ。
来足千乃が感覚を奪い尽くされ、次の標的が八津次に移ったということは、来足家の人々が再び祟りを受けるまで、間が空く。時間が稼げる。
そして、当の八津次はのとさまに対処するためここへ来た。つまり数日待っていれば、『来足千乃を殺す必要はなかった』のだ。
「悔やむ気持ちがあるなら、正直に自首するんだな」
鼻を鳴らして、ぶっきらぼうに鴉紋が声をかけるが、老人は反応しない。八津次はバシバシと無遠慮にその肩を叩いた。
「んじゃ、とりあえず話聞かせてもらっていいかな~。のとさまをどうにかしないと、おじいちゃんも申し訳立たないでしょ。ボクも終わりたくないし」
「お願いします。文献にあたっても、さほど収穫がありませんでした。のとさまの正体や、正しいおもてなしの作法について、ご存じではありませんか?」
直郎は比較的丁寧に聞きながら、その口調には焦りがある。
それからふと思い出して、「わたしは
そういえばお互い余裕がなく、きちんと名乗っていなかったことに気づいたのだ。
「それとあちらの少年は……」
「俺の息子の佐強だ。仕事の助手をさせている」
「ども」
さすがに三人とも父親と説明するのは面倒なため、鴉紋が真っ先にそのポジションに収まった。家中のノック音はまだ続いている。
しかし、異常な状況にあって、挨拶という日常的な手続きを経たことで、来足老人も気を取り直したらしい。彼は来足家の現当主であると名乗った。
「じゃー、来足さん。早速だけど、のとさまが依り代にしているっていう鏡、見せてもらっていーですか?」
「分かりました」
来足老人は袴の汚れを手で払い、ふーっふーっと深呼吸をくり返す。そして、五人を自宅に招き入れた。広がっていたのは、あまりに異様な光景だ。
ガラスや金属部など、光を反射する所すべてが、貼りたくられたテープの茶色で埋め尽くされていた。その様がどこか汚らしく、おぞましい物に見える。
大量出血している生物の
壁の所々にある不自然な空白は、かつて姿見や鏡が飾られていたのだろう。
板張りの廊下の所々には、剥がれた絆創膏が何枚も落ちていた。それが絶え間ないノック音に、死にかけた虫のように震えた。
絆創膏の下から、コンコン、コンコン、と明らかに鳴っている。ぬるりと、来足老人の額を大粒の汗が流れた。その背を小突いて、八津次は廊下の先へと促す。
彼が歩くと、通り過ぎた端からはらはらと絆創膏が剥がれ落ちた。ノックの音が大きくなる。それはドンドン、ドンドンドン、と重く激しいものに変わっていた。
「あっ」
がくりと、八津次が転倒する。
起き上がろうと手を伸ばすが、なぜかそれは床ではなく天井に向けられた。ごろっとひっくり返り、壊れたおもちゃのようにでたらめにもがき始める。
「とーちゃん!」
「バランス感覚を奪われたようですね」
直郎は八津次に肩を貸して立たせた。鴉紋では背が高すぎる。
「
「ありがと、ナオちゃん。あと、ちょっと周りが暗くなってきたわ、わはははは」
「おい、あんた」
鴉紋が脅しつけるような低い声で来足老人を呼んだ。
「おもてなしの作法は分かっているのか?」
老人はこわごわと首を振る。
「そんなもん分かっていたら、五十年前に祟りは起きとりません。……来足の本家は、一回のとさまに滅ぼされとんです。その後釜に納まったのが、分家筆頭だったうちでして、それが百から百数十年ぐらい昔。だから古いことは分からんのです」
どれだけ調べても出てこないわけだ。鴉紋は大きく舌打ちした。屋敷の奥へと案内されながら、彼は次の質問に移る。
「のとさまの依り代の鏡というやつは?」
「鏡は鏡でも、〝水鏡〟ですわ。奥の座敷に白砂を敷いて、井戸の形にしとります」
絆創膏に覆われた耳でかろうじて聞き取り、八津次は「当たった」と笑った。
足取りはフラフラしているが、この状態でも笑みを絶やさない。目を皿のように見開いて、耳元まで口が裂けるような、凄絶な肉食獣の笑顔だった。
「あいつは水子のいをなんだよ」
正気を保とうとするように、八津次は皆でまとめた仮説を口にする。
「いをは転生をくり返したにくべとから生まれる、それはおじいちゃんも知ってるよねえ? のとさまは、死産したにくべとが、なぜかいをの力を持ったやつなんだ。生まれなかった胎児が羊水の中で腐って溶けて、形をなくした。だから五感も何もない。それで自分の羊水を鏡にして、反射を利用して訴えてきた。生まれたい、生まれたいって! これはノックじゃなくて胎動なんだよ」
その鬼気迫る様子に、来足老人も思うところがあったのか、徐々に態度から怯えや不安が消え、背筋をしゃんと伸ばした。
「……どうか、のとさまをお鎮めください」
来足家奥の奥の座敷。老人がふすまを開けた先は大広間で、真ん中の畳は取り払われ、言葉通り白砂が敷かれた中心に井戸があった。
井戸の周囲は、例によって錫杖と注連縄が張り巡らされている。
「みへなぁい」
八津次の発音が急に怪しくなった。絆創膏の下で、とうとう聴覚と視覚が完全に奪い取られたらしい。不明瞭ながら、「見えない」と言っているのは明らかだ。
佐強たち三人は、手分けして白砂の所へ八津次を連れて行き、両眼を絆創膏で覆い尽くした。彼のポケットからナイフを取り出し、刃を立てて握らせる。
「何しようとしてるんです?」
「古代、神とは一方的に命ずるものであり、その手段は祟りでした」
困惑する来足老人に、信多郎が説明を始めた。八津次たちは準備で忙しい。
「松羅さんの仮説では、のとさまはそれ自身が胎内に閉じこめられた存在で、感覚もなく、死ねない地獄にあった。ノック音が胎動ならば、その要求は〝私を産んで〟――つまりおもてなしとは、妊娠あるいは出産の
「出産?」
来足老人は改めて八津次たちを見やった。佐強については息子と説明されているし、どう見ても四人とも男性だ。信多郎は構わず続けた。
「かつて行われていたおもてなしの儀で、のとさまは一時的に無感覚の苦しみから解き放たれたのでしょう。その超常的な喜悦が、結果的に福をもたらした」
八津次の触感はもう残っていない。
鴉紋たちは慎重に彼の体を支えて、井戸を覗きこむ恰好にさせた。片手は井戸の淵を、ナイフを握った手は、刃先を腹に向けて。
その手に紐で組んだ使鬼銭が巻きつけられた。
「ここから先は賭けです。男の身で妊娠、または出産を擬似的に再現し、正式なおもてなしとする。それが成功すれば、祟りは収まる」
直郎は八津次の服をめくると、むき出しになった腹に刃先を突き立て、下腹に弧を描いて切った。白砂に赤い滴が落ちるより早く、鴉紋がその体を井戸に投げ入れる。
あ、と来足老人が言うまでもない。
これが答えだった。
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