間章 対媾

はたそまりふたつ 血を泳ぐ人魚は一つじゃない

 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。


                     (ヨハネによる福音書 6章56節)


◆ ◆ ◆


 の正体について仮説を立て、問題となったのはおもてなしの方法だった。形のないものを、佐強さきょうが使鬼銭で殴って対処できるかは分からない。

 であれば、すべての感覚を剥奪された八津次が正しいおもてなしを実行し、祟りを鎮めるしかない。考えられる可能性は性交・妊娠・出産を再現した儀式だ。


 妊娠についてはまっさきに切り捨てた。祟られている八津次が男性である以上、どう考えても無理だ。まさか腹を裂いて、異物を詰めるわけにもいくまい。

 次に性交だが、女性役をどうするのか、真似事だけでいいのかという葛藤から、保留となった。もし正しい作法がそれならば、来足きたり家の手を借りて実行するしかない。

 そして、これまた八津次には不可能な出産。

 なんと直郎ちょくろうが「わたしに考えがあります」と言い出した。


「帝王切開を試しましょう」


 のノックが「ここから出して」という訴えの胎動ならば、そこから出してやればいい。単純明快な理屈だ。


「痛覚がなくとも、手術をするなら麻酔は必要となりますが……」

「いいよ、別に痛くないし、切る時はもうほとんどボクは感覚ないでしょ」


 当事者である八津次はへらへらと、風にはためく旗のように笑っていた。

 身体の中に詰まっていた骨や内臓が、奪われた感覚と共に抜け落ちて、急激に薄っぺらくなってしまったように。人間として生きているはずがない、一歩手前。


「切り方は縦と横がありますが、横の方が負担が少ないのでそちらですね。ちょうど陰毛の上あたりです。……しかし、正確に手術することは無理でしょう」

「父さん、小児科だもんね」と佐強さきょう

「そもそも男だ、体の造りが違うだろうが。手術道具もそろえられん」


 だから八津次の腹を切ることしかできない。鴉紋あもんは一つ懸念を口にした。


「そもそも大昔に生まれた化け物が、帝王切開を理解できるのか?」

「死亡した母胎から胎児を取るため、腹を切り開くという手段は古代からあります。日本での医療記録は幕末と近代のものですが、ギリシャ神話のアスクレピオスなどがこの方法で取り上げられました。おそらく……通用するのではないかと」


 直郎の言葉は歯切れが悪い。医療者として、無意味に家族の肉体を切り裂くことには葛藤があるのだろう。八王子で〝赤観音〟として、人を拷問したり殺したりしたのは、故あってのことなのでまた別の話だ。兄弟に余計な苦痛は与えたくない。


「どっちみち他の方法ないって。やろやろ!」


 後は来足に行ってぶっつけ本番、と空元気で腕を振り上げる八津次に、改めて鴉紋は「できるのか?」と訊ねた。


「お前は俺たちの誰よりも勘が鋭い、そこは信用しちゃいるが――作法がまったく違う場合、最後まで実行できるか怪しい。すべての感覚がなくなるんだからな」

「〝泡〟を見つけたんだよ」


 一瞬のよどみもない、さらりとした返答。


「ボクさ、自分の第六感、第七感を信じてんの。鏡に返事したのはミスったかなーって思うけど、どんどん感覚奪われているせいか、人魚の蝋燭食べたせいか、いつもより冴えてきてんの。ボクはボクの見つけた泡を追いかけるよ」



 不透明な水。それは色ではなく、半分は空で、すべては色彩。

 想像しがたい痛みの淵。ここから「わたし」を包みこみ、ここから「我」を連れ去り、ここから「我」が訪れる、居なくなることへのやわらかな入り口。

 そこを過ぎれば、内にあるすべてを、外にあるすべてから切り離してくれるだろう。「あなた」は消えてしまう。「彼」の姿は見えなくなる。

 視覚の絶え間ざる要求、聴覚のけたたましい卓越、味覚の純然たる欲望、嗅覚の無抵抗な受容、自殺者が惹かれ、子どもたちが恐れる触覚の不在。解放。

 もしかしたら迷宮だろうか。だとしたら抜けるのは命がけで、だが区別はない。「我」は何も見えなくなることに心が落ち着く。しかしまた、


 泡が。


(上だ)


 天も地もわからない、前も後ろもない、自分の体があることが信じられない。それでも、浮かび上がる小さな何かを、無意識と非論理の領域で八津次は知覚した。

 の正体が正しければ、今自分と一体化しているものは、腐った羊水なのだろう。その中に外の空気が紛れて、閉塞された胎内を小さく押し広げている。


 存在しない手を泡へ伸ばした時、脳が情報の奔流に揺らされた。五感が、痛みが、息苦しさが、冷たさが、肉骨の重さが、津波になって襲いかかる。

 一つ一つが自分の感覚がもたらす物であること、それが何の意味をなすか理解するまで、八津次は数秒を要した。に奪われた感覚が、戻ってきたのだ。


 暗く、しかし薄赤い水に包まれている。以前と対峙した時と同じ、舌に感じる味はやはり羊水だ。大きく切り開かれた下腹から、血が流れている。

 血潮の中に、不明瞭な何かが動いていた。腐った死体ではなく、はっきりと意思を持って動く小さな命。妊娠も経ず、男の腹を借りて仮の生誕を果たした


――お前がのとさま、廼閉様のとざまか。

 さびしかったよな。ずっとずっとひとりぼっちで、死ぬことも消えることもできず、何百年過ごしたんだ? ボクだったら発狂しそうだけど、お前に正気って残ってんのかね。ま、どっちもでいいや。

 ボクの体を使ってこの世に生まれて、嬉しいか。いやいや、さぞかし満足しただろう。実際こうやって感覚も返してくれたし。おめでとう! 水子卒業おめでとう!


 だからもう思い残すことねえよなあ!


「経験値になれぇ――――ッ!!」


 言葉が水泡になるのも構わず、八津次は手に巻きつけた使鬼銭を不定形の赤子に叩きつけた。おもてなしされて勝手に気持ちよくなってんじゃねえぞクソが。

 お前が無感覚の地獄で何百年苦しんでいようが知るか死ね。散々な目に遭わせやがって、この上ただの祟られ損になってたまるか。

 貴様はここでぶっ殺して、人魚狩りポイントにしてやる。お作法が正しかったおかげで、「生まれてきた」お前はちょうど殴れるボディがあるじゃん。やったね。


 使鬼銭に焼かれながら拳に殺意を満載し、ぶよぶよとした何かを叩き潰す。

 二度、三度、産声とも絶叫ともつかない音が羊水を震わせる中、八津次は徹底的に憂さを晴らし、やがて井戸の底から来足家の座敷へと噴き上げられた。



「鴉紋ちゃん鴉紋ちゃん、退院したらまた近江牛食べさせてくれるよね?」


 腹の傷を縫合された八津次は、神島かみしま市市民病院のベッドでカップラーメン近江ちゃんぽん(日清)をすすりながら、期待のこもった目を向ける。

 病室には鴉紋、直郎、佐強がそろっていた。

 来足家の井戸――の本体――からは大量の鮮血がほとばしり、大惨事だ。葬儀がどうなったのか、来足千乃殺害犯は出頭したかは分からない。

 ともかく八津次は救急車に乗せられ、鴉紋たちは血だらけの喪服を、来足家から借りた服に着替えた。来足老人から、返さなくていいと言われている。


「……まあ、そのうちな」

「ボク、絆創膏ごと高級和牛食べちゃったんだよ。可愛い弟を慰めると思ってさあ」

「こういう時だけ義弟ぶりやがって」

「兄さん♡」

「分かったから静かにしろ」


 自らを家長、そして年下の直郎・八津次を弟分としている鴉紋は、兄扱いに対していちじるしい脆弱性を抱えていた。退院祝いはやはり近江牛になるだろう。


「喉元過ぎたらって言うけどさー」病室の壁にもたれながら、佐強はあきれた。「とーちゃん、立ち直り早すぎない? よくトラウマなんないね」

「だって完全復活したし。シンちゃんだって、は消えたって言ったでしょ」


 腹の傷や、使鬼銭を使った代償による手の火傷、体力の低下。その関係で数日は病院暮らしだが、八津次は憂いのなくなった顔でピカピカしていた。


「確かにそうですが、八津次さんは復活が早すぎるんですよ」


 わたしがどんな思いで腹を切ったと思っているのか、と直郎は少し愚痴をこぼす。あんな絶体絶命の状況でなければ、家族を傷つける真似などしたくない。


「こういうヤツだってのは分かっていたが、心配していたのが馬鹿らしくなるな」


 そう言って腕を組みつつ、鴉紋の表情は柔らかなものだった。



「いやはや、皆さま見事なお手前でした」


 夜、信多郎は改めて皆をねぎらった。目隠し包帯の下で、ニコニコと人の良さそうな笑顔を浮かべている。

 結局、来足千乃の葬儀は後日になったらしい。救急車と警察が押し寄せて、座敷が血まみれになっていてはそれも仕方がないだろう。

 夕食後の居間。すずめは既に寝つかされ、佐強は起きているが「大人だけの話」なので来ないよう鴉紋が重々言い聞かせている。


「で? あんたから聞かせたい話ってのはなんだ、裏巽うらたつみ


 低く、嘘や誤魔化しは許さないと脅しつけるように鴉紋は問うた。

 立て続けの事件で延ばし延ばしになっていた会談が、ようやく実現しようとしている。八津次の入院というトラブルはあるが、後で共有すれば良い。

 鴉紋も直郎も、できる限り情報が欲しかった。今は質より量、真偽を問うのはその後だ。歯がゆい状態だが、話をしようという申し出を断る理由はない。


「ええ、はい。のとさまが消えたことで、来足は大きゅう変わるでしょう。あなた方は拝み屋として村に知られ、今後の人魚狩りもより有利になるかと。ですけど、がどれだけ厄介か、皆さんようお分かりになったでしょう」

「まあな」


 本に載っている通りの妖怪が襲ってくると思っていたら、も、もっとずっとタチの悪いものだった。鴉紋と直郎も、正直うんざりしている。

 明日で人魚狩りの期限は残り二十七夜。

 鴉紋たちが翠良みすら尾瀬おぜに来てわずか四日、狩った人魚は二柱だが、これで九月一日に間に合うかどうか。そもそも達成ノルマが明確ではない。


「オヤカタサマと呼ばれる七つの家々と裏巽は、特別に人魚の血を引き、人魚が生まれやすい人魚実にんぎょざね、という話はしましたね」

「ああ」


 鴉紋はポケットに入れた片手でも隠れてメモを取ることができるが、基本的に聞いた内容は常に書き留め、記憶にも刻みこむ。刑事のサガだ。


「狩る人魚は、何も化け物やのうて、人間でもええと思いませんか?」


 こいつがしたがっていた「大人の話」はそれか。


 自分と愛する姪のため、躊躇なく他人の命を天秤にかけられる精神。鴉紋がずっと信多郎に感じ続けていた不審の答えが、すんなりとに落ちた。

 直郎は押し黙っている。陶芸工房で三人集まって、ターゲットの情報を話し合い、品定めをしていた時と同じまなざしだ。殺すべき悪人かどうか、測っている。


「てめえ、その獲物に、自分も入るってことは分かってんのか。祟られている真っ最中の人間は、生け贄として意味がねえとか抜かすなら、先に言えよ」

「いやもちろん僕も入りますよ。そしてすずめちゃんもね。でも、あんたらはあの子にも、僕にも、手出しなんてできへんでしょう?」


 何の罪もない、しかも足を奪われて苦しんでいる八歳の少女を、殺せるわけがない。そして父親のいないすずめにとって、叔父である信多郎を奪うことも。


「逆に、人魚の娘を食った俺たちもターゲットだな」

「まさか。あんたらじゃぃ薄すぎますし、人魚を狩れるなら狩った方がええでしょ。僕には何の益もない、というかこの眼じゃ勝てませんって」


 ぬけぬけと言いやがって。それがどれほど後ろにあるとしても、裏巽信多郎の中には自分たちを殺す選択肢が存在する。鴉紋はそう確信した。


「俺たちは無差別に人を殺していたわけじゃねえ。基準がある。少なくとも、何の罪もねえ人間は決して殺さねえよ。来足千乃殺しの犯人が、警察に出頭せず逃げおおせる、ってならまだ心が痛まんが……どっちみち気は進まねえ」

「基準、ですか」


 どう言いつくろっても、人殺しは人殺し。信多郎がはっきりと侮蔑しているのを感じたが、鴉紋はその点を譲るわけにはいかない。

 性犯罪者は殺す。すべて殺す。生まれてきたことを後悔するほどの苦痛をもって。


「じゃ、ちょいと話を変えましょう。翠良尾瀬では人魚供養で生け贄に捧げるため、人魚実の家々はその血をできるだけことに努めました。自分たちの血の中を泳ぐ人魚を捕まえて、みすらさまの手から逃れるために」


 す、と直郎の顔色が白く変わった。嫌な想像をしたのだろう。


「だから、ここでは近親者同士の結婚が盛んだったんです。いとこ同士は当たり前、父親が娘を二番目三番目の妻に迎え、姉と弟、兄と妹もよくつがったものです」

「なんだと……」

の儀は本来、兄弟姉妹同士の結婚を指す言葉なんよ。対のものがまぐわい、それをあやつる――ゆえに。まじなうとか、縄をなうとかとおんなじです」


 村ぐるみでの強制ならば、それはあまりに残酷な風習だ。怒りと共に胃液の酸っぱさがこみ上げるのを感じながら、鴉紋の脳裏に妹の顔がよぎった。愛夢あいむ


――自分は愛夢に恋していたのか。


 かつて何度も、今でもごくたまに浮かび上がる自問。そのたびに「性欲をともなわないプラトニックな恋」と結論づけたあの感情。

 勘違いするな、それは今関係ない。自分を叱咤して我に返ると、直郎の動揺が酷いことに気がついた。畳に突っ伏し、青ざめた顔が汗にまみれている。

 普段穏やかで、知的な眼は、どこか遠い場所を食い入るように見つめていた。

 直郎は児童虐待者を主なターゲットに選ぶ。村の風習の犠牲になった少女たちに胸を痛めているのだろう。だが彼の口から出た言葉は、鴉紋が予想したものと違った。


インセスト近親相姦――愛し合うきょうだいに発生する『完璧な了解』は同時に『取り返しのつかないこと』です。近親相姦は、神の高みか、けだものに堕すか、死の衰弱をたどるか、いずれにせよ人間ではいられなくなってしまう。それが……ここに……?」


 まるでそれをやってしまえば、来世は悪魔か虫けらにでも生まれ変わると言うような、激しい嫌悪感だ。そんな物を信じたくない、消えて欲しい、だがそうはならないことに業を煮やす、八方塞がりの憤懣ふんまんと憎悪。


「インセストにふける人々は、しばしば自身に最も近い近親者に、自己の一体化を求めます。その欲望は、通常の人間のレベルから外れてしまう……」

「講釈は後にしろ、直郎」


 肩をつかんで起き上がらせると、鴉紋の顔を見て数秒、直郎はやや落ち着いた。


「気味の悪ぃ話だが、俺たちがオヤカタサマを殺すという選択肢はねえ。単にお前にとって、不都合な相手を殺すために利用される可能性だってあるしな。何より」


 鴉紋は膝を寄せ、目と鼻の先まで信多郎と顔をつきあわせる。


「その理屈だと、〝人魚の孫〟の佐強も充分生け贄の素質があるってわけだ。万が一あいつに何かあってみろ、どこまでも追い詰めて、楽には死なせねえからな」

「心外ですねえ。僕は眼がこうなので休職中ですが、教育者の端くれです。未来ある若者の命を絶つなんてできません。それに、選択肢を示さないのは、フェアじゃないでしょう? これは僕なりの誠意です」


 クソ食らえ。そんなものは、示さない方がマシというものだ。


「裏巽。誠意なら聞かせろ、あんたの姪っ子の父親は誰だ?」


 信太郎は答えない、「それはもう分かっているはずだ」と言うように、穏やかな笑みを広げている。なるほど、なるほど。

 この日、鴉紋たちと信多郎の間に、決定的な溝ができた。

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