はた 松羅八津次の孤独

 ひとりぼっちは嫌いだ。人との付き合いがどうとかじゃない、世界から仲間はずれにされる、という感覚こそ八津次はつじが何よりも避けたい事柄だ。

 だからいつも目いっぱい五感を活用した。口は感覚器官としてとても優れているから、何でも食べて、野山を駆けまわって、おしゃべりして。

 友人は最初、多くできた。しかし時間が経つと離れていく。


「気持ち悪い」

「頭がおかしい」

「何考えているか分からない」


 いつも笑っている八津次を、誰もがそんな風に評して縁を切る。はて、泣いたり怒ったりするのが、そんなに上等なことなのか? 自分には分からない。

 自転車をこいでいた時、「この前輪に足を入れたらどうなるんだろう」という好奇心から、スポークの間につま先を入れた瞬間、高く高く吹っ飛ばされた。


 おお、人間ってこんなに飛べるんだ! という驚きと興奮。一拍遅れて全身に走る衝撃。痛すぎて痛くなくて、腹の底から笑いに笑った。

 あれもダメだったらしい。たまたま目撃していた近所の人が親に説明して、しばらく頭の打ち所が悪かったのでは、と心配されたのだ。


 泣いたことがないわけではなかった。目にホコリが入ったとか、あくびをした時だとか、そういうヤツ。でも悲しいときや痛いときに涙が出ないのは「変」らしい。

 怒ったことがないわけではない。ただ笑顔でそれをやると、相手が酷く怖がった。そのへんが、どうも、八津次にはしっくり来ないのだ。


「おまえはものすごく器用か、不器用かのどっちかなんだろうなあ」


 自分の陶芸工房で、祖父は孫の頭をなでながら言った。工房がある山はまるごと祖父の持ち主で、彼が陶芸家を引退した後、八津次がすべて引き継いでいる。

 この世に好きな物はいくつもあるが、祖父が教えてくれた陶芸もその一つだ。自分の手で粘土が形を変え、さまざまに表情を変える。手応え、というものがあるのだ。

 世界に手を伸ばした時、確かな反応が返ってくること。張り合いがあるということは、何より大事だ。それがあってこそ、世界の手触りが肌で分かる。

 人は、一切の達成感を得られない徒労を続ければ、狂うしかないのだから。


「混沌、というのは分かるかな。人間の感情はもっと複雑で、ドロドロと形がないものだ。けれどそれでは不都合だから、社会を営む上で、これはこう、と色々な形に押しこめて、感情表現を定めた。別におかしくはない、世界に何百種類も言葉があるのと同じさ。お前の感情のことばは、人より少しズレているだけなんだ」


 祖父は自分の「笑顔」の意味を解してくれる、数少ない人だった。その言葉でようやく、人付き合いの上で己に足りないものを、八津次は理解した。

 世界からの無反応がもたらす虚無感と孤独感を、八津次は何よりも唾棄だきしている。それがなければ、たちまち自分はおかしくなるだろう、というほどに。

 だからこそ欲深い。ゲテモノ料理を進んで食べて、ジャンルを問わず音楽を聴き、ライブに行き、男とも女とも付き合った。


 小田島おだじま那智子なちこに出会ったのは、そんな十八歳の時だ。造形大学の美術学科で、一般からも参加できる陶芸教室のイベントをやった時、彼女は初心者参加していた。


「『月の沙漠』のお姫さまと王子さまを作りたいんです」


 彼女の要望を受け、つきっきりであれこれ指導して、それなりに満足に仕上がった時、那智子の笑顔はとても美しかった。

 自分の仕事に最大限の手応えを感じている、満ち足りた笑み。自分の中にある夢を、この世に形を与えて生み出した喜びの色が、充溢していた。

 それをもっともっと近くで見たくて、八津次はたまらなくなったのだ。


「小田島ちゃん」

「何?」

「せっかくだから、ボクたち付き合わない? 今ね、心臓射貫かれたから」

「うん」


 あっさりOKされたことにさほど驚きはない。ごく自然な流れに思えたし、今を逃したらいけない、と八津次の直感も強く訴えていた。

 ひとりぼっちは嫌いだ。世界に手を伸ばして、何の手応えレスポンスも返ってこない。だが、誰かがそれを得ることを手伝えると、喜びは何倍にも大きくなる。


 彼女の人生に、たくさんの手応えと張り合いを与えてあげたくなった。その気持ちは教室での指導中少しずつ積もっていて、今、トドメを刺されたのだと思う。

 自分は出だしを間違えていた。我が身だけが反応を得ようとしなくとも、誰かのために動けば、ひとりぼっちではないのだ。


 初めて祖父から陶芸を教えられた時のような高揚感。ああ、自分はここにいて生きている、という実感が今までになく全身のすみずみまでちた。

 あとは、その満ち足りた笑顔を見せてくれればいい。


「赤ちゃんができたの」


 付き合って一年未満、半年以上だっただろうか。那智子は自分をふくむ男三人を喫茶店に呼び出し、それぞれと「付き合っていたの」と紹介した後、そう言い放った。


「……妊娠何ヶ月ですか?」


 眼鏡の青年がまず訊ねる。せい直郎ちょくろうという変わった名字で、一見すると地味だが整った顔立ちをしている。隠れイケメンとでも言うべきか。

「彼の魅力に気づいているのはアタシだけ!」という女を周囲に量産し、ハマるタイプはズブズブに依存させそうな、しかし当人にはあまりその気がないんじゃないかという、悪人ではないがタチの悪そうなやつだ。嫌いじゃない。


「三ヶ月」

「よし、結婚しよう、那智」


 大きな体をずいっとテーブルに乗り出し、宇生方うぶかた鴉紋あもんは那智子の手を握った。

 どこかの俳優かモデルと説明されても信じてしまいそうな、彫りが深く艶気のある顔立ちに、筋骨たくましい肉体。

 スーツもあつらえたものらしく、スタイリストでも付いているのかというほど着こなしに隙がない。逆に三股で安心した。普通の女なら、真っ先にこいつになびく。


「まだ平だが俺は公務員だ、経済的に安定している。仕事が忙しくて苦労をかけるかもしれないが、不自由はさせない。いや、その前に子供だ、俺が認知しよう」

「はぁー!? 何自分がナッちゃんの一番ってツラしてんですかあんた! そういうツラだけど! ちんこでかそう!」

「小学生かてめえは」


 鴉紋は那智子の手を離すと、うざったそうにこちらを見やった。刃物のような厳めしさもあるが、何度見ても男前だ。彼女は何でこいつ一人に絞らなかったのだろう。

 何より、子供を認知すると言い放った所が男らしい。

 三股は不問にしつつ、そこを受け容れるとは。那智子が他に男を作っていたこと自体は、八津次も気にはしていない。だって今もセフレの男と付き合っているし。


「ボクだってナッちゃんと別れる気はないよ。その子の父親が誰か分からないってんなら、三人全員父親の可能性があるわけだ。そっちのヨナオシくんはどう?」


 ヨナオシこと世直郎は、顔を覆ったまま今にもテーブルに突っ伏しそうだ。まあ、三股されていたと聞かされたら普通はそうだろう、というのは想像がつく。

 こいつが那智子と別れると言うなら、それを止める気はさらさらない。


「……わたしはこれでも、医者の卵なんです……」


 おっと、強めのカードを切ってきやがった。


「小児科を目指しているんですよ。自分の血を引いた子供が産まれるかもしれないというのに、四の五の言いません」


 そこで顔を上げた直郎は、がらりと面構えが変わっている。


「良かった、わたし、直郎クンに嫌われちゃったかと思っていたから。今日来てくれてありがとう、まだわたしのこと、好きでいてくれるのね?」

「あれは、まあ、悲しい事故ですが。那智子さんが悪いわけではないので……」

「え? 何々、何の話」


 那智子と直郎は二人で顔を見合わせた。お互いだけの秘密というわけか。直郎は八津次と鴉紋に顔を寄せるよう手招きし、蚊の鳴くような声でささやいた。


「…………EDになったんです………………」


 なんとも言えない空気が流れて、二人は元の席に腰を下ろす。そうかそうか、何があったか知らないが気の毒に。しかも那智子と別れる気はないときた。

 彼女はしばし虚空を見上げ、うーんと考えてみせて、ぱっと笑う。


「じゃあこのまま三人で付き合っちゃう?」

「いいね、ポリアモリーしちゃおっか!」

「なんだそいつは」鴉紋が怪訝な顔をした。

「同意の上で複数人と同時に付き合うってこと。日本は重婚が禁止されているけどさー、これから子供が産まれるんだし、三人でナッちゃんと結婚しちゃおうよ」

「分かりました」直郎が決然とうなずく。


 合意が定まり、後はトントン拍子だ。セフレとも別れた。指輪を作って、写真撮影をして、金を出し合い、家族七人で暮らすため家のローンを組んだ。

 那智子は「あと二人、男の子と女の子が欲しい」と夢を語っていた。


 そして、それは永遠にかなわなくなったのだ。



「プランBだな」


 鴉紋は自分と八津次、信多郎しんたろうで葬儀に参列するという最初の案を捨てた。温感痛覚、味覚、そして嗅覚と、感覚の剥奪が予想より早いためだ。

 今日中に、八津次はの祟りで視覚、聴覚、触覚を失うだろう。来足きたり葬場祭そうじょうさいの儀――仏教における告別式の神道版――は十八時だ。

 その時まで、八津次がどれだけ動けるか怪しい。だが、祟られている当の本人が、のとさま本体に最も近い鏡がある来足家に向かわない選択肢はなかった。

 すずめはの時と同様、香西ヘルパーと二人で留守番だ。


 今や、至るところでノックの音が聞こえる。


 本来、八津次は今日の料理当番だったが、佐強さきょうの介護ともども「それどころではない」と仕事から外された。異論はない。

 食事は台所で一人、すべてミキサーにかけて流しこんだ。何の味もしないドロドロの液体を飲みこむのは、この状態でも不味いと感じるのが可笑しい。

 ヘレン・ケラーは一歳の時に高熱で視覚と聴覚を失ったが、彼女は周りに支えられながら、それを補って人生を歩む時間が与えられた。

 自分にそんな猶予はない。しかし、出来ることと言えば。


「すずめちゃん、色鉛筆とかクレヨンない?」

「りょうほうあるよー。どっちがいーい?」

「んー、鉛筆!」


 気を紛らわせるため、八津次は絵を描くことにした。焼き物に絵付けをするのは、陶芸における楽しみの一つだ。だから心得はある。

 モチーフは特にないので、乞われるまますずめの似顔絵を描いた。勝手に少女漫画っぽくデフォルメしたが、大層お気に召したらしい。

 目が見える内に、好きな物を描いておこう。笑う那智子の似顔絵を記憶から掘り出し掘り出し筆を走らせていると、直郎がやってきた。


「あまり慰めにならないでしょうが、一つ思い出した話があります」

「なに?」

「海軍で潜水士をしていた方のお話です。彼が潜った海の底深くは、暗くて暗くて、五感をすべて見失ってしまうような場所だったと。自分の指先も、上も下も分からなくなる世界で、それでも彼はきちんと海面に浮かび上がれました」

「へえ、どうやって?」


 のとさまに祟られ、感覚を剥奪された状態と、深海とは根本的に異なる。だが現実的な範囲で近い状態を表すなら、そういう話になるのは理解できた。


「〝泡を感じる〟のだそうです。海の底で方向感覚をなくした時は、指先で泡を感じてそれを追っていく。泡は海面を目指すから、それについていけばいいと」

「泡、ねえ」


 そんなものが、祟り伏せられた人間の元に現れるだろうか。スケッチブックから顔を上げると、ちょうどこちらを案じたように覗きこむ直郎と目が合った。


「……八津次さんは、独特の勘をお持ちです。もし五感のすべてが奪われたとしたら、あなたの第六感が泡になるかもしれない」

「第六感もなくなって、第七感が目覚めたらいけるかも」


 直郎はこちらの冗談を理解できなかったようで、真面目に問い返す。


「そんなのあるんですか?」

「聖闘士星矢。知んない?」

「名前だけは……」


 漫画喫茶で一回読んでみなよ、と言いながら八津次は那智子の似顔絵を完成させた。悪くない出来だ。あの偽物野郎より、よっぽどいい。


「八津次さんは、あの蝋燭を食べましたよね」

「ん、ちょっとだけね」


 人魚の死体から脂肪を集め、辰砂で赤く染めた蝋燭。火を灯せば目に見えないものを照らし出すというそれに、八津次は対抗の鍵を求めた。

 十円玉一枚程度でも役に立てばいいのだが。持ち主である信多郎を激怒させたので、これ以上は無理であろうし、何より佐強のためにあれは残さなくてはならない。


「蝋燭の力と、八津次さんの直感が合わされば、もしかして……と思うんです」

「へへ、ご心配ありがと、ナオちゃん。無事助かったら、また近江牛食べようよ」


 直郎はくしゃりと、罪悪感に押しつぶされそうに笑みに顔を歪めた。彼が去った後、八津次はつらつらと思いつくまま絵を描き続ける。

 人魚姫。いつか家族全員で旅行に行った鳥取砂丘。『月の沙漠』のイメージイラスト。幼いころの佐強。鴉紋の似顔絵、直郎の似顔絵。


(そういや、ってどんな姿してんだろうね)


 鏡の中にいる正体不明の。あの化け物には、これといった形の特徴がない。少なくともには、肉の塊であるとか、袋の中に胎児がいるとか情報があった。

 も以前はだったなら、それはなにがしかの形を持っていなければ理屈に合わない気がする。いいや、いいや。考えた端から八津次は否定した。


(もしかして、形がないから、あいつは五感もないんじゃない?)


 廼閉様のとざま。このなんじは、本来、祟られている者ではなく、のとさまそれ自体を指しているのではないか。こぽりと、思考から何かが沸き立つ。

――〝泡〟を指先に感じた。

 口の中に脂の味が、その記憶がよみがえる。高級和牛の透き通ったそれではなく、もっと古くて臭い、蝋燭の脂。人魚の力が、見えない物を照らし出す。


 八津次は赤い鉛筆を取って思いつくままイメージを書き連ねた。


「あれはノック音じゃない」「生まれてきたけど死んでいる」「死んだのに生まれている」「どっちつかず」「とけた」「あいつはとけている」「だからかたちがない」


 分かる、分かる、解る。


「やつはずっと閉じこめられていた」「手応えのない命」「そこに悪意はない」「おもてなしの方法はおそらく」「ふたつのうちのどちらか」「の喜悦が福をもたらした」「ボクは男だ」「やるしかない」「ぜんぶ逆だ」「かわいそうに」


 ぐっと肩をつかまれて、鴉紋にスケッチブックから引き剥がされた。何かしゃべっているが、口が動くだけで何も聞こえない。

 とうとう、聴覚を奪われたらしい。

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