のとさまを、開く。

とおあまりここのつ 絆創膏だらけの晩餐を

「蝋燭を食って裏巽うらたつみに怒られた?」


 鴉紋あもんは深みのあるバスボイスで、八津次はつじの報告をオウム返しにあきれた。クッ、と皮肉そうに口元をほころばせる、その一連の動作がドラマのように絵になる男だ。


「人魚の娘だった那智子なちこの次は、本物の人魚を食っちまったか」

「そもそも翠良みすら尾瀬おぜは、人魚の翡翠姫を食べて祟られているので、状況が悪化しそうなのですが。信多郎しんたろうさんもあんなに怒らせてしまって、大丈夫でしょうか……」


 直郎ちょくろうは物憂げに嘆いていた。慎ましやかなこの小児科医にしてみれば、八津次の行動は信じがたい暴挙だろう。横で佐強さきょうも、神妙な顔で首振り同意している。

 今回は八津次が間借りしている和室に、一家四人集まっての会議だ。なんと部屋の北と東に、旅館のような広縁ひろえんがある。佐強が使っている洋間と対角線上の位置だ。

 早い者勝ちでここがいい! と宣言したら、あっさり他の二人は譲ってくれた。

 広縁の窓ガラスから、カーテン越しに真夏のビカビカした日光が透けてくる。


「いやいや大丈夫だって! シンちゃんには悪いことしたなーって思っているけど、これだ! ってピーンって来たんだって。みんなもっと、ボクの勘を信じてよ」

「てめえの勘で鏡に返事をしたせいで、に祟られてんだろうが」

「鴉紋ちゃんそれ禁句」

「良薬口に苦し、忠告耳に痛しだ、逃げるな」

「物理的にはもう痛くないんだよねえ」


 佐強が「うんざりしすぎてゲロ吐きそう」という顔でこちらを見た。


「とーちゃん、それ笑えなさすぎてゲロ吐きそう」

「当たった」

「何が?」


 佐強は原材料を知った後も、赤い蝋燭を肩から紐で吊している。人魚――そう呼ばれる人間――の脂肪から作られた物とはいえ、大事な対抗手段の一つだ。

 直郎は「八津次さんの言うことを、何でも真に受けてはいけません」と息子に失礼なアドバイスをしていた。鴉紋が「まあいい」と話を戻す。


「ともかく、来足きたり家の葬儀だ。参列するのは俺と八津次、それに呼ばれている裏巽。直郎と佐強は嬢ちゃんといっしょにここで待機だ、いいな?」

と対決になりそうなら、オレも居た方がいいと思うんだけど」


 包帯を巻いた鴉紋の手に目を向けながら、佐強は不満を口にした。使鬼銭を生身の人間が握りしめてを殴ると、文字通り大火傷する。面倒なことだ。

 コン、と広縁の方から音がする。きっと窓ガラスだ。


「それだけどさ、そもそも握って使わなきゃいいでしょ」


 八津次は昨日、みすらおがみ神社で買い占めた使鬼銭の箱を開けた。昨日のうちに十枚ほど、紐で数珠つなぎにした古銭を指に引っかけ、くるっと回す。


「悪くねえな、器用なお前らしい。明日の葬儀だが、八津次の祟りが進行した場合を考えて、二つプランを立てるぞ。プランBは佐強、お前の出番だ」


 やった、とつぶやいて佐強は二の腕を持ち上げた。両手がないせいで分かりづらいが、ガッツポーズだ。コンコン、というノック音を無視して鴉紋が続ける。


「前提として、来足家の人間は殺人犯だ。いざとなれば暴力もいとうな」


 一般に、死亡当日を一日目とカウントすると、二日目が通夜で三日目に告別式と火葬というのが葬儀のスケジュールだ。来足千乃の葬儀はあまりに早すぎる。

 今朝亡くなって、明日の夕方には葬儀というのは、普通ではない。死亡後二十四時間は火葬できないという条件自体はクリアしているが、不自然すぎた。


 コンコン、コンコン、と広縁のあちこちから音が響く。


 何より、来足千乃はに祟られていた人間だ。八津次が新たに祟られたということは、その時点で彼女はすべての感覚を剥奪されている。

 あらゆる知覚能力と死を奪われた人間が死んだ――つまり、来足家の誰かが累が及ぶのを恐れて、来足千乃を殺したのは明白だ。


「それさあ、オレたちだけじゃなく信多郎さんも分かってることだよね?」


 先の蝋燭の件で聞き損ねた疑問を、佐強が代弁した。


「来足の人がうちのやつ祟られたって言って、それからすぐ死んだなんて、殺しましたって言ってるようなものじゃん。面の皮厚すぎだよね」

「裏巽家はここの名家で、神職ですからね。葬儀も仏教ではなく神道式だそうなので、本来の神主である彼を呼ばないわけにはいかなかったのかと」


 直郎の説明に同意しながら、鴉紋が後を引き継ぐ。


「それ自体は呼ぶ側の理屈だ。だが、裏巽にはこの状況で、来足にわざわざ出向く何かがあるんだろうよ。直接問いただしてやってもいいが、答えてもそれに信憑性があるかは怪しい。明日の葬儀で俺たちは、来足と裏巽両方を探る」

「忙しいな~。まあ、今働かなきゃ人生終わるしね、がんばりますよ」


 その後打ち合わせを済ませ、四人は家事に、すずめの相手に、調べ物に解散した。何回ノック音がしたかは、覚えていない。



 日本三大和牛といえば、三重県の松阪牛、兵庫県の神戸牛、そして滋賀県名産の高級ブランド和牛・近江牛である。

 滋賀県草津市JR草津駅では「お手軽近江牛すき焼き弁当」の名でなんと520円。また近江八幡市では、ふるさと納税返礼品でA4等級500gをもらうことも可能だ。

 値段だけ見れば松阪牛や神戸牛よりリーズナブルだが、単に知名度で負けているだけで、その品質はまったく劣るものではない。

 近江牛を白味噌に漬け込み、数日寝かせてから焼いて食べる「近江牛の味噌漬け」は滋賀県の郷土料理でもある。

 出荷は年間わずか6000頭、きめ細かく柔らかな肉質に、甘くて粘りのある良質な脂肪。コストパフォーマンスの良さから、プロの料理人にも好まれている。


 などというグルメ情報を、八津次はWeb検索でざっと調べ上げた。食事は情報、こうして気分を高めておくことでより味が楽しめる。何より気晴らしになる。

 鴉紋は葬儀に参列するための喪服と、コーヒー豆を買いに出かけた。

 往復四時間の距離なので、夕食には間に合うだろう。残念ながら市内のレンタルショップに、鴉紋の体格と盛り上がった筋肉に合うサイズがなかったのだ。


 について、おもてなしの作法について、調べはしたが大した収穫はなかった。直郎は郷土資料館に出かけたが、収蔵品の量では裏巽家が上回っていたという。この家がすごいのか、資料館がショボいのか、微妙な所だ。

 広縁はカーテンを閉めると、あっさりノック音が消えた。反射さえしなければ問題ない。ただ、家の中を歩いて姿が映る所に来ると、すかさず音が鳴る。


 窓ガラスはもちろん、ドアのノブ、蛇口、食器棚のガラス、スマホの画面、飲み物の水面、本当にどこからででもだ。これが何日も続けばノイローゼになるだろう。

 だから今は直郎と佐強に勧められて、休んでいた。イヤフォンで音楽を聴き、少しでも気が楽になる情報を求めて。ちなみに回線は裏巽家のWi-Fiだ。


(あ、ちくしょう)


 イヤフォンから流れるエド・シーランの『Shape of You』にノック音が割りこむ。そろそろ夕食の時間だからと階下に降りた途端、これだ。

 無視して居間に入ると、ホットプレートが二台座卓に並んでいた。ヘルパーの手で座椅子に座らされたすずめが、ぱっとヒマワリのような笑顔で出迎える。


「はっちゃん、バーベキューだよ、バーベキュー!」

「すずめちゃん、これは焼き肉だよ~」

「どうちがうの?」

「人生が辛い時によりそってくれるのが焼き肉、人生をみんなで楽しんだり、幸せをおすそ分けするのがバーベキュー。どっちも違って、どっちも良いんだよ~」


 すずめは「おおー」と感嘆の声を上げた。


「はっちゃんは大人だから、じんせいがつらいんだね」

「そーゆーことー」


 配膳を手伝いながらすずめと話していると、心が安らぐのを感じる。耳が聞こえなくなったら、こうして言葉を交わすこともできなくなるのか。


「八津次、お前がリクエストした近江牛だぞ」


 少し前に帰ってきた鴉紋は、肉屋にも寄ってきたらしい。緑の包み紙から芸術品が現れた。きめ細かい霜降りの白と、赤身の上品なコントラスト。

 カボチャ、ピーマン、タマネギ、にんじん、エリンギ、キャベツなど定番の野菜ともども、早速焼いていく。じゅうっ、と鉄板の上で脂が心地よくはぜた。

 この香ばしい煙に食欲をそそられなければ、大至急病院に駆けこむべきだ。


「えー、『まずはそのままで、そのあとに塩やわさびなどを振って』と」


 肉屋がつけた説明書に目を通し、八津次は待ちに待ったメインディッシュを箸でつまみ上げた。ホットプレートに引いた油は、同じ近江牛の牛脂。完璧だ。

 真っ白な白米に一度バウンドさせ、ほどよい焦げ目をまとった芳醇なオレイン酸の塊を口へ放りこむ。ずっしりと心地よい弾力の後、ジューシーな肉汁が吹きだした。


「うっま――い!」佐強が歓声をあげる。

「素材の味ってやつか、値段以上だな」鴉紋はいくら出したのやら。

「やきにく、おいしいね、はっちゃん!」すずめが笑顔を振りまく。

「あはっ」


 つられたように、八津次も笑った。野菜を切った直郎がニコニコと見やる。


「どうですか、八津次さん」

「ごめん、味分かんないや。わははははははは」


 ああ、嫌だ嫌だ、空気が凍りつくこの瞬間は。世界がふわふわして温かい空気から、急に氷水へドボンして、心臓が痛いほど縮み上がる不愉快さ。

 けれど無理だろう、美味しいなんて嘘は、八津次にはつけなかった。


「嗅覚はまだあるんだけどねー、おかげで騙されちゃった。いや~、匂いだけでも相当美味しいのは分かるけど、生殺しでしょ、これ。はははははははは」


 笑えば笑うほど、家族たちの表情が暗くなる。そんな顔をせずに、みんな笑えよ。そうするしかないじゃん、ボクは嘘や虚勢で笑っているんじゃないんだし。

 笑ってくれよ。

 ずっと笑っていてくれよ。


「ナオちゃん、舌に絆創膏貼るの手伝って」


 八津次は箸を置いた。

 かつて裏巽市子が絆創膏で封じたは、それが弱点だ。


「今回だけだよ。せめてこれぐらいは、ちゃんと味わいたいからさ」


 鴉紋が絆創膏の大箱を持ってくると、直郎は無言でそれを貼る。大きく開けた口に指を突っこまれ、舌を固定されて、ペタペタと。たまに唾を飲みこんで。

 絆創膏を舐めたらまず薬の味で苦いはずだが、そんなものは感じなかった。手伝ってと言ったのに、直郎はほぼ一人で作業を終えてしまう。


「今朝の噛み傷は、あまり炎症していないようですね」

「ラッキー」


 不思議そうにしているすずめと、気味悪そうにしているヘルパーに鴉紋が何やら説明していた。おそらくのことは伏せているだろう。

 八津次は再び、焼きたての近江牛を舌に乗せた。


「うっっまぁっ!!」


 絆創膏を貼った舌で、こんなごちそうを味わうなんて笑える。いや本当、なんだろうねこの状況は――人生、何が起こるか分からないとはよく言ったものだ。


「うん、やわらか~、でも重厚感があって、脂がしつくこくない。旨味がすごいよコレ! 絆創膏貼っているから、今度は舌も噛まないし。あははははははははは」

「はっちゃん、よかったね! ピーマンあげるー」

「それは自分で食べるのよ、すずめちゃん。ほらみんな! お通夜みたいな顔してないで、食べた食べた。焼き肉はタイミングが重要でしょうが」


 信多郎は小さくため息をつき、鴉紋は佐強の食事介助に戻った。自分を気遣ってくれるのは嬉しいが、家族が沈んだ様子なのはどうにも気に食わない。


「あ、そうだ。鴉紋ちゃん」

「なんだ」

「明日のコーヒー、ボクの分はいいからね」


 鴉紋の顔を優美に構成する曲線が、ごりっとすべて強ばる。八津次が求める笑顔とはほど遠い、怒りや拒絶、しかも頑固という面構えだ。

 飲まないのではなく、飲めないという事実が、義兄の背に重くのしかかっているのが分かる。今日一日で温感痛覚と味覚を失った。きっと明日は視覚や聴覚の番だ。


 蝋燭は役に立つだろうか。最後のチャンスを逃さず、のとさまを討ち果たすにはどうするべきか。八津次が動けるのは明日が限界だろう。

 夕食を終えて風呂場に行くと、またガラスや水面から音がした。それを無視して入浴を済ませ、洗面所に立つ。鏡からドンドン、と強めのノックが響く。


 ついそちらの方を見て、自分の鏡像に体の芯がねじ切れるかと思った。

 目の前の現実に対する否定、疑念、じわりと染みこむ実感と理解、それを受けてこれは一体何なのか、どうすればいいのかと精神がグラデーションの衝撃を描く。

 鏡の中の八津次は、顔の下半分がドロドロに溶けていた。唇は散り散りになって肉の波に面影をとどめ、悪趣味な福笑いのようだ。

 来足千乃はこうして、のっぺらぼうになったのか。手で触れば鏡の中の八津次も同じようにし、触った感じは何の変哲もない。溶けているのは鏡の中だけだ。


 やはり、となったも、本質的にはと同じなのだ。より格の高い人魚に生まれ変わるため、生きた人間から記憶や感覚を食らう害獣。

 どこの田舎にも、いや、町にも、こういう厄介な怪異は棲まうのだろうか。できれば出会いたくなかったが、遭ってしまったなら運命だ。



 八津次は夜中に目が覚めた時、こわごわとまぶたを開いた。幸い、暗闇と思えた景色はちゃんと見えている。

 朝が来て、まぶたを持ち上げるとまだ光が見えた。

 歩くたびに、あちこちからノックの音がする。

 居間に入り、いつもかぐわしく漂うコーヒーの匂いがしなくて、八津次は己の嗅覚が奪われたのを悟った。


 八月六日。人魚狩りの期限まで、残り二十八夜。

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