第三滴 にくべとが、蠢く。
やつ 笑いなさい人殺し、それが偽りだからこそ
最初に反応したのは
雷鳴と、犬の遠吠えと、粘着質な破裂音が重なった奇妙な音が、
目が見えない信多郎と、車椅子のすずめをそれぞれヘルパーが、両手のない
玄関を開けると、ぴしゃりと平手打ちされたような腐臭が漂った。ツンと目が痛くなるが、佐強は顔をこすることも鼻を覆うこともできない。
代わりに、直郎がハンカチで鼻を塞いでくれて楽になった。彼自身は手で顔の下半分を覆い、険しい視線を投げかけている。
「なんだ、コイツは……」皆を代表するように
真っ赤な雨が降り続く中、それはハッキリと血だまりの中に転がっている。牛の体ほどもある大きな首が三つ、白目を向いてだらりと舌を垂らしていた。
尖った耳や鼻先、口からのぞく牙からして、どうやら犬のようだ。だが、いくら何でも大きすぎる。こんな生物、日本どころかどの国に生息しているとも思えない。
「すずめちゃんだっけ? 戻って戻って、あれ見ちゃダーメ」
八津次は玄関の即席スロープに差しかかったヘルパーと、信多郎の姪を止めた。確かに、小学二年生の女児に見せて気分が良いものではない。佐強も吐きそうだ。
首から広がった血潮はちょっとした沼のようで、裏巽家の門柱や生け垣にまでネトネトと飛び散っていた。首より下に当たる部位は見当たらない。
目も鼻も口も胃も、ぐるぐるかき回されるような悪臭はどんどん強くなり、夏の暑気と雨の湿気が混ざり合って、肌に汚物を塗りつけられる気がした。
この臭いは、まさに今犬の首が腐っているからだ。元からなのか血のためか分からない赤い毛がぱさりぱさりと抜け、濁った目玉がとろけ、牙が抜ける。
雨水に流されるようにずるっと皮が剥け、耳が外れ、元の形を失うまで一分もかからなかった。そして、黄色い火花がチカッとはぜる。
首はたちまち燃え上がり、瞬く間に血溜まりごと焼き尽くした。路面に残った一面の煤も、地面に染みこむように、あるいは雨に消える。
「なんか、妖怪の死体やったんかな」
誰もが
「目がなくなってから、妙な物が見えるようになってなあ。何か、でっかい火の玉みたいな、犬の首みたいなのが三つあったんちゃうかな? それが突然消えた」
「そうです」
信多郎の眼球がなくなっていることは、この場の全員が確認していた。青ざめた顔で立ちすくんでいるヘルパーが、こっそり耳打ちしたとも考えずらい。
龍神みすらに奪われた体には、何か特別な力が宿るのだろうか。八津次はのへへんと笑いながら指を立て振り、自らの直感を語った。
「赤い犬の首が三つに、火。これさあ、もしかして八王子からあかかおんが追って来ちゃった? んで、龍神サマと縄張り争いして負けたんじゃない」
「おい直郎、聖書ではこういう時どう言うんだ」
オカルトは専門外と言外にふくんで、鴉紋はクリスチャンの義弟に投げる。直郎は腐臭がかき消えても口を押さえたまま、悩ましげに目を伏せた。
「『あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもさえ、信じておののいている。』……人は皆死後に裁きを受けることが決まっており、従って死者が我々の前に現れることはありません。しかし悪魔や悪霊は存在し、それは光の御遣いや死者を装うので、あれはそのたぐいでしょうね……」
「そうか」
長々と説明させたわりに鴉紋はそっけない。現実は受け容れているが、その正体や因果について頭を悩ませてもしょうがない、と割り切って横に置いているのだ。
「とりあえず、一旦解散しましょうか、皆さん」信多郎は中に戻るよう促した。「訳の分からないことは起きるし、積もる話もあるでしょうから、人魚狩りの話はまた明日ということで。空き部屋だらけやさかい、好きな所を使うてください」
当然のように、信多郎は父たちに宿泊を勧めた。怪奇現象続きの中、今から別の宿を探してもらうというのも落ち着かないし、屋敷が広いのは確かだ。
佐強に異論はないが、一つ聞いておきたいことがあった。
「信多郎さん、この間の『
「どうぞどうぞ。前と
「はい」
居間に置いた荷物を回収し、鴉紋らはひとまず佐強が使っていた二階の角部屋に集まる。『翠良尾瀬村民俗誌』は直郎が左棟の書斎から取ってきた。
佐強が間借りしているのは、右棟の八畳洋間だ。ベランダがあって日当たりも風通しも良く、ベッドと折りたたみのテーブル、フローリング用クッションがある。
八津次は一階の台所から麦茶のポットと、四人分のコップを持ってきた。「みんな何飲む?」と言いつつ、自分の鞄から鬼ころしや大関ワンカップ酒を出す。
鴉紋は自前のタンブラーを取って「いらん」と不機嫌そうに断った。
「わたしも麦茶で結構です」
「いいの? ナオちゃん。これから重い話するのにしらふで」
「そもそも八津次さんは素面じゃないでしょう。……何でもう飲んでいたんですか」
「長い道歩くのヒマだったから。あー、でも半分飲めなかったんだよねー」
「とーちゃん、雨っつっても猛暑で酒は死ぬよ」
早速鬼ころしをストローで飲み始める八津次を、佐強は呆れた目で見つめた。いや、他の父たちも同じ目をしている。
直郎は二人分の麦茶を注ぎ、ストローを入れて佐強に差し出した。そういえばハンカチの礼をしていなかったな、と思い出す。
「父さん、さっきも今も、ありがと」
黙って微笑み返す直郎は、
「父さんはさ」
「はい」
「なんで人殺しておいて、そんな綺麗な顔で笑ってんの」
佐強はストローに口をつけて、わざと直郎の表情を見ないようにした。気がつけば喉がカラカラだ。粘っこく固まった唾液がほどけ、水分が体に満ちていく。
「人殺しだから、わたしは笑わないといけないんです」
きっぱりした声で直郎は答えた。
佐強が顔を上げて父たちを見回すと、鴉紋は何か思い悩むように目を閉じ、直郎は顔を陰鬱に沈みこませている。八津次だけは薄笑いを浮かべていた。
ああ、自分の葬式があるなら、この人たちはこんな顔をするのかな。そして母の時のように、我が子を解体して食べてしまうのだ。愛しているから。
食べるために人間を殺していたなんて、とんでもない思い違いだ。
「子供たちの診察に来るご家族の方を見ていると、単純な怪我が虐待の兆候に見えて、『目の前に殺さないといけない人間がいるのでは』という妄想に駆られるようになってしまいました。哲学的なことはさておいて、人間の精神は肉体に引っ張られます。だから笑顔を作って、医師としての使命を言い聞かせて、正気を保つんですよ」
そう語る直郎の目鼻は、割れガラスのように歪んで見えた。唐突に、佐強は彼の笑みが透き通っているのは、無心で無私の、己を殺すものだったからだと理解する。
別に人殺しには人殺しらしく、醜く卑屈な顔をして欲しかったわけではない。
直郎がこんなに壊れそうな、脆い存在だとは思わなかった。そんなことは知りたくなかった。けれど、いつか自分は向き合わなければならなかったのだろう。
「……父さん、さ」
「はい」
「人殺しぜんぜん向いてないよ」
「そうですね」
今にも砂になって崩れ落ちそうな笑みに、この人は次の瞬間にも死んでしまうのではないかと胸が騒いだ。佐強は見ていられなくて、鴉紋の方に顔を向ける。
「父さんをこんなんにしてまで、何で人を殺したのさ、オヤジ」
「聞く覚悟があるか?」
「隠されている方が嫌だ」
「分かった。気分が悪くなったら言え」
鴉紋はタンブラーの中身をあおった。おそらく、ご自慢の自家製コーヒーが入れてあるのだろう。低く、深く、場の注目を自分の手元に集める声で、彼は語り始めた。
「事の始まりは、お前が五歳の時だ。那智は同窓会に出かけた帰りに、集団強姦に遭った。輪姦と言った方が分かるか?」
「……どっちでもいいよ」
なるほど、息子には聞かせたくない話だと納得せざるを得ない。腹をくくったつもりだが、いざ説明されるとなるとずしんと胃が重くなった。
「犯人は五人。ヤツらはボールペンを持っていて、那智の体のあちこちに侮辱する言葉を書いた。その上あいつは、子供を産めない体にされちまってな」
「え……」
「那智も俺たちも、お前の弟と妹が欲しかった。しかも襲われた時、あいつは妊娠二ヶ月……性別も決まっていなかった子供は、そのまま生まれてこなかったよ」
酸っぱいものがこみ上げるのを感じる。息子の様子を見て鴉紋は話を中断したが、実際ありがたい。佐強はテーブルに突っ伏し、呼吸を整えた。
受け止めるにはあまりにも凄惨な事実だ。思い出の中の母は、いつも笑っていて、でも時々寂しげで、ぼうっとしたり……そういえば伏せっていることも多かった。
母は病気で寝ている、とたびたび説明された記憶がよみがえる。てっきり風邪か何かだと思っていたが、おそらくそれは心の傷だったのだ。
三人は本来なら、一生こんな話を教えなかっただろう。自分には弟か妹がいたはずで、母は身も心もズタズタに蹂躙された。その果てが工房で作られた死体だ。
三十分ほど経って、佐強は顔を上げた。
「続けて」
「察しがつくだろうが、俺たちは犯人どもに復讐した。もちろん逮捕するのが筋だが、どうしても仇が討ってやりたくてな。何より、那智自身もそれを望んでいた。……捜査ってのは、身内が被害者や被疑者の場合は担当を外されるんだが、戸籍上俺はあいつとは他人だ。おかげでヤツらの尻尾をつかめたよ」
抜け抜けと警察官当人から法律違反を聞かされているが、佐強はもうそれを咎めようという気持ちがまったく起きなかった。何なら、自分だって復讐したいぐらいだ。
「見ての通り、俺たちは八津次の陶芸工房でヤツらをなぶり殺しにしたわけだ。だが那智は心を病んで、失踪や自殺未遂をくり返すようになっちまった」
そういえば、小さいころはよく母と旅行した。
父たちは仕事が忙しいからと言われていつも二人きりだったが、思えば観光地らしからぬ、へんぴな土地ばかりではなかったか。
八津次が新しい鬼ころしを開けながら言う。
「ナッちゃんって失踪する時、よくサッちゃん連れてってさあ。遺書が置いてあったりして、ああ無理心中する気だ、ってボクら必死で探したもんだよ」
「自分から帰って来た時もあれば、わたしたちで止めた時もありましたね」
「そのあげく、最後にはこの翠良尾瀬で、死んじまった」
鴉紋はタバコの箱を取り出し、しばらく握りしめていたが、ポケットに戻した。そういえば家主の信多郎に許可を得ていない。代わりに彼はワンカップ酒を開けた。
そんな経緯を踏まえれば、息子の家出に父たちはさぞや肝を冷やしただろう。やるせなさに加えて、今更のような申し訳なさが募り、佐強はやけっぱちになってきた。
「オレもお酒、もらっていいかなあ」
「ダメです」直郎は一刀両断だ。「アルコールは神経毒の一種ですよ。気が塞ぐのも分かりますが、絶対にやめなさい。少なくとも二十歳までは」
「はあい」
まあさすがに許可が出るとは思っていなかったが。
「事情は分かったよ。仇討ちしたくなる気持ちも分かる。でもさ、でもさ、本当に殺す必要あったの? しかも犯人はもう死んでいるのに、何で他の人まで?」
「話は変わるがな、俺には妹がいたんだ。
急に鴉紋の口ぶりが柔らかなものになった。過去の大切な思い出をどこか深くから取り出して、大事そうに眺めているみたいだ。
だがその愛おしそうな感情には、影が差している。
「愛夢は病弱だった。人生の大半を病院で過ごしたあげく、中学を卒業することもできずに亡くなってな。それだけならまだよかったんだが。死後、愛夢は病院で性被害を受けていたのが分かった……俺の周りの女は、いつも傷つけられちまう。この世はそんなケダモノだらけで、とうとう見過ごせなくなったんだよ」
だから二度と起きないよう獲物を狩るのだ。初めて知る鴉紋の過去に驚きながら、それでも佐強は「でも」という疑問を抱えていた。
「この話はさ、もっとひどい事があるんだよ、サッちゃん」
まだ何も言っていないのに、八津次はニィーッと口の両端をつり上げる。
目を満月のように見開いて、人と言うより言葉の通じない別の生物みたいに。面白がっているのではなく、これ以上はやめた方がいいよ、と威嚇しているのだ。
「鴉紋ちゃんは胸くそ悪い部分省略したからね。できればボクらも話したくないんだけどな~」
もうたくさんだ。
父たちが人殺しで、しかも大勢を殺しているらしいこと。母は無惨な出来事から死を選び、父たちはその仇討ちの続きをやり続けていことは分かった。
しかし佐強は自分が失った両手のことも、まだ飲みこめていないのだ。そこに家族の闇を語られて、
「……今日はもう、いいよ」
それでお開きの空気になった。父たちが飲み物や荷物を片付けて撤収準備をする中、鴉紋は一つ忠告する。
「佐強、あまり裏巽を信じるなよ」と。
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