あかかおんは、落ちた。
なな さあ、泳ぎなさい
「うわっははははは、ダメだー。田舎の道ナメてたわ!」
狂ったように赤い雨脚の中、折りたたみ傘を差して林道を歩きながら、男はやけくそ気味に、あるいは白々しく笑った。
丸いサングラスに隠れた瞳も、大きな口も確かに笑いの形を取っている。なのに、精巧な食品サンプルのように、嘘くさい気配が漂っていた。
ニッと上がった口角をつつけば、人の柔らかさではなく、プラスチックか陶器の硬さが返りそうなほどだ。深く付き合おうとしなければ、気にするほどでもないが。
端正であるとか、眉目秀麗と言うのとは違う。かといって、整形された人工的なそれでもない。天然なのに作り物じみている、という相反した違和。
全体的にうまく出来過ぎていて、どこか裏がありそうな
(ううーん、
八津次はまた一人で空笑いした。酒はもう半分以上減っている。
降りる停留所を間違え、時刻表を確認したら次のバスまで何と三時間。たまには歩くかと思ったが、想像以上に道は長く、民家もない。
「あ、いいモンめっけ」
八津次が拾ったのは、道路脇の草むらに転がる青いガラス瓶だ。
陶芸窯の
色違いの破片をまとめて使えば、きらきらした独特の表情を作って面白い。いくつか制約はあるが、八津次はそのために常日ごろガラス類を集めていた。
「
ひどく懐かしい女の声だ。
振り向いて、傘と着物の姿を認めるなり、八津次は瓶を全力
ガラスは女の手前で壁に当たったように砕け散る。
その間に八津次は女の懐に飛びこんでいた。後ろに放り投げた傘と鞄が落ち、手にはポケットから出した折りたたみナイフ。
青く透ける破片が赤い雨を跳ね、世界がギラギラと
「誰、アンタ」皿のように白く平坦に、目を見開いた笑顔。
八津次はそのまま喉を刺すつもりだったが、刃先はビタリと止められた。女は静かにたたずんだまま、何もしていない。八津次が迷ったわけでもない。
肌の一枚上で、不可視の力が殺意を阻んでいる。
「誰って……わたしよ?」
女は心底不思議そうに、目をぱちりと瞬かせた。なるほど、確かに八津次はその顔と姿を知っている、
「ナッちゃんは死んだんだよ」
三日月のように口を曲げ、粘つくような笑みで八津次は再びナイフで切りつけた。二度、三度、五度、六度。甲高い金属音が響くが、髪の毛一筋も傷つけられない。
八津次は距離を取り、刃先を指で挟んで投げたが、今度は空中でばきりとナイフがひしゃげられた。
「あっ、コレお祓いとかいるやつ? わはっ、めんどー」
やれやれと肩をすくめ、へらりと笑いながら八津次はまだ臨戦態勢だった。武器の備えは充分だが、実力行使がこうも無意味な相手は初めてだ。
こういう時は、クリスチャンの
(
女ははぁ、とため息をついた。わざとかは知らないが色っぽい。
「せっかく会いに来たのに、ひどいのね。少しは昔話でもしましょうよ」
「しないよ、殺すから」
ただちょっと今はその手立てがないだけで。
那智子は死んだ、もういない。昔、ジビエの調理にハマっていたことがあったが、彼女の遺体を解体する時にそれが役立つとは思わなかった。
あのなめらかな肌に刃を入れたことも、肉を裂き、骨を外していったことも、工程の一つ一つをよく覚えている。兄弟三人で色々調べて、無駄なく全身食べきった。
七宝焼きのロケットペンダントは、遺灰を釉薬にした八津次の宝物だ。
だからこれは彼女ではない。人間の仕業でもなさそうだが、妖怪でも幽霊でもどうでも良かった。兄弟たちなら
「もう、仕方ないのね。さっちゃんに会いに行くんでしょ? 連れて行ってあげるから、また今度ゆっくりお話しましょ」
「え、マジで? テレポートとかできんの?」
「そんなところね」
それは助かる、と八津次は殺意と捕縛の意志を一旦取り下げた。
常識的に考えればありえない話なのだが、彼は気にしない。コイツならそんなことも出来るだろう、ぐらいの感覚だ。同時に
「もしかしてさあ、サッちゃんがあの日あんな場所に居たのも、アンタのせい?」
何がいつどこにどうして、というあらゆる説明をすっ飛ばして八津次は訊ねた。深い洞察などではない、自分でも言葉に出すまで分からない直感に従っている。
「なんでか知らないけど、ボクらとサッちゃんを
案の定、那智子の姿をしたものは、「そうよ」と質問の意図を汲んで答えた。
「でも、ここで帰ったりはしないでしょ、八クン」
「まあね。じゃ、ちゃっちゃとルーラして」
八津次は差し出された手を握る。そんなに不用心でいいの、と女は言ったが、今は自分をどうこうするつもりはないことが、彼には分かっていた。
世界が暗転する。
※
「
佐強は気まずそうな顔で、
あの、と直郎が
「
それはどういう意味かと聞きたかったが、詳しい話は中でらしい。
「八津次の野郎はどうだ?」と鴉紋。
佐強のGPSが復活したのは、家出から十一日目だ。その時点で二人に連絡があり、後から
直郎は名古屋で鴉紋と別行動をしていたが、八王子市にいた八津次がここまで来ようとすれば、電車でざっと四時間半だ。
「まだ後片付けが残っているそうですから、着くのは夕方ごろだと……」
バンッとすぐ頭の上で、大きなものが落ちた音と衝撃が走る。
「ぎょへ――ッ!!」
佐強、信多郎、鴉紋、直郎らが見守る中で、何かが屋根から転げ落ち、濡れた庭先で悶絶した。人間だ。一拍遅れて鞄と傘も。最初に名前を呼んだのは直郎だった。
「八津次さん!? どうしてここに」
びっくりして近づくと、有機酸類のツンとした匂いが鼻を刺す。また酒か。嫌な想像がありありと思い浮かび、直郎は眉間に深いシワを刻んだ。
「……まさかサプライズで早めにこちらへ来て、驚かすためだけに屋根に登って、足を滑らせたんじゃないでしょうね」
八津次は時々、よく分からない理由でよく分からないことをしでかす。
エキセントリックなのかなんなのか理解に苦しむが、一家の非常事態にまでふざけられては堪らない。が、本人からは「ちっがーう!」と強い否定が返ってきた。
バァ~とおどけた、脅すような怖い笑顔で。種類は様々だが、八津次はいつも笑っている。それしか表情の作り方を知らないかのように。
「停留所間違えてトボトボ歩いてたら、送ってくれるって言うから頼んだの。そしたらコレだよ、うははは。切りかかっちゃったけど、怪我してないくせにぃ」
「え?」直郎、「あ?」鴉紋、「へ?」佐強は異口異音にうなる。
誰も状況がよく理解できなかったが、ひとまず信多郎は泥だらけの八津次に風呂を勧めたので、仕切り直しとなった。
居間に集まり、まず話題になったのは佐強の体だ。小児科医の直郎が、まず息子の手を見て息を呑んだ。驚いたのは鴉紋も同じだが、彼が注目したのはその形だ。
「異常に平たい、ですね」
「だよねえ」佐強は他に言うこともない。
「手足の切断痕ってのは、もっと丸くなるだろ。こんな風にできるモンか?」
鴉紋の質問に直郎はいいえ、と首を振る。
「……見たことがありません。もしも整形外科で形を整えたなら可能かもしれませんが、マネキンか断面図のような、綺麗な形にする意味が分からない」
直郎は切断後の筋肉の処理について説明した。
筋肉同士を縫合して骨を覆う筋肉縫合法、骨の端にドリルで穴を開け、その中に肉を固定する筋肉固定法、筋肉縫合固定法などなど。
しかし、どのやり方でも佐強のような真っ平らには決してならない。
「しかも、佐強くんがこうなったのは昨日でしょう?」
「うん」
「全身麻酔の手術でも、両手切断は人体に大きなダメージを与える……けれど血色、肌つやから見ても、佐強くんはまるで健康体です。本当に手だけが消えているなんて……。これが超常現象だと言われたら、さすがに信じますよ」
普段ならそんなバカな、と真っ先に言う鴉紋が黙っていることが、直郎の確信をさらに後押しした。ここはもう、自分たちの理屈が通じない世界だ。
直郎は許可を得てすずめの足も確認したが、同じく清々しいほどの平面だった。
場が静まり返る中、アロハシャツに着替えた八津次がやって来る。さすがの彼も佐強の状態にはビックリしていたが、それよりも直郎らは先ほどの説明を促した。
「てめえ、那智子に切りかかりやがったのか……!」
みしりと軋み音が聞こえそうなほど、鴉紋は怒りで面相を歪める。
「え、鴉紋ちゃんはやらないの?」一方こちらはヘラヘラ顔だ。「あんなん偽物に決まってんじゃん。ナオちゃんはどうよ、顔合わせたらお祈りの一つでもした?」
沈黙の後、直郎は「いいえ」と答える。
自分も彼女に会ったが、本人だと思ったこと、水子の雨に囲まれたことを話す。その流れで、鴉紋も自身の経験を共有した。信多郎はふむ、と顎をなでる。
「まとめましょ。小田島那智子という女性が十年前にこの地で亡くなり、あなたたち三人はその遺体を食べて、また佐強くんにも食べさせた。そして今になって、彼女の姿をした何者かは佐強くんを操って、あなたがたの秘密を見せ、全員が翠良尾瀬に集まるよう誘導した。そして今に至る、と」
そこで信多郎は言葉を切って、ヘルパーの一野にメモを取ってもらい、書斎から何か取ってくるように頼んだ。それを待つ間、信多郎は人魚供養祭のこと、〝ついぐなの儀〟が失敗し、神の怒りが自分たちの体を奪ったことを説明する。
「一野さん、ありがとう。さて、どのページやったかな」
彼がヘルパーから受け取ったのは、古びたアルバムだった。背に1970年代とあるのが見て取れる。信多郎はそれを座卓に広げ、一枚一枚ページをめくった。
「裏巽
しばらくして、八津次が「この人かな」と一つのページを指した。十代の少女だ。これがどうしたのか、直郎をはじめ全員が次の言葉を待つ。
「市子さんは僕の伯母にあたる人でね。結論から言うと、おそらく那智子さんは市子伯母さんの娘で、佐強くんはその孫や。年齢の計算もピッタリ合う」
信多郎は以下のような事実を語った。
〝
最もその血が濃い家系が、七つのオヤカタサマと裏巽家であること。
裏巽市子は翠良尾瀬で最後に生まれた人魚だったが、二十歳を前に出奔し、どこか遠い土地で出産した後亡くなったらしいこと。
事実、那智子は養護施設の出身で、天涯孤独の身の上だ。信多郎はどこかの時点で、佐強からその事情を聞いていたのだろう。
「確実な証拠はないけれど、そう考えたら辻褄が合うんよ。孫の佐強くんが、市子さんの娘である那智子さんを食べてしまったから、君は今一番、人魚に近い。それが儀式の場にいたから、みすらさまが欲しがって体を奪ったんやろう」
語り終えてから、信多郎は「ごめんな、佐強くん」と謝った。
「……何がですか。結局オレが祟りの原因だったってことにですか? それより、それが本当なら二人とも、オレの巻きぞえなんでしょ!? 謝るのは……っ」
激した佐強だが、途中で歯切れが悪くなる。
突き詰めれば、父たちを責めることになると思い至ったのだ。すずめは「さっちゃんは悪くないよ」と、何も分かっていなさそうな口ぶりでなぐさめる。
室内は彼女を除き、静電気が極限まで高まったような緊張で静まり返っていた。
「なあ、裏巽」
地を這うような声で、鴉紋が口を開く。
「市子が那智子の母親だと仮定して。そのついぐなってのは本来、那智を食べた俺たちがやるべきで、祟りを受けるのも俺たちのはずだったんじゃねえか」
「そういうことになりますね」
淡々とした信多郎の答えに、鴉紋の目に稲妻のような怒りがひらめいた。直郎が見る限り、それは他人に向けるのではなく、自身への憤怒だ。
八津次がほおづえを突きつつ訊ねる。
「一応聞いとくけどさー、それ、今からボクらが食べた分返すんじゃダメ?」
「神さまはあんまり融通が利かないんですよ。いや頭が硬いとかではなくて、人間の都合なんて知ったことはないので」
そっかー、と軽く言って八津次は天を仰いだ。佐強はこりゃダメだ、と言うように眉を八の字にして身を乗り出す。目には青い希望が光っていた。
「でも、祟りの原因はこれで分かったんですよね。だったらそれを解いて、オレたちの体を取り戻す方法もある、ってことじゃないですか? 信多郎さん!」
「その通りや。僕らだけでは荷がかちぃけど、佐強くんのお父さんたちが手伝ってくれるなら捗る。お願いできますか?」
信多郎は一同を見回したが、直郎たちに否があろうはずがない。「何をやればいい」と、鴉紋が同意の代わりに問うた。信多郎の答えは簡潔だ。
「人魚狩りですよ」
次の瞬間、三つ一組の犬の首が、裏巽家に落ちてきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます