あかかおんは、落ちた。

なな さあ、泳ぎなさい

「うわっははははは、ダメだー。田舎の道ナメてたわ!」


 狂ったように赤い雨脚の中、折りたたみ傘を差して林道を歩きながら、男はやけくそ気味に、あるいは白々しく笑った。

 丸いサングラスに隠れた瞳も、大きな口も確かに笑いの形を取っている。なのに、精巧な食品サンプルのように、嘘くさい気配が漂っていた。


 かばんから鬼ころし (ACアルコール13~14%)の180mlパックを取り出して一服。

 ニッと上がった口角をつつけば、人の柔らかさではなく、プラスチックか陶器の硬さが返りそうなほどだ。深く付き合おうとしなければ、気にするほどでもないが。


 松羅まつら八津次はつじ、三十五歳。肩口まで伸ばした青い髪を後ろでくくり、チャイナシャツを着ている。ホストクラブで働けば、異性の関心を引く「よく出来た」目鼻立ちだ。

 端正であるとか、眉目秀麗と言うのとは違う。かといって、整形された人工的なそれでもない。天然なのに作り物じみている、という相反した違和。

 全体的にうまく出来過ぎていて、どこか裏がありそうな胡散うさんくさい気配がした。だが人によっては、そんな危険さに魅力を感じてしまうのかもしれない。


(ううーん、鴉紋あもんちゃんに迎えに来てもらおっかなー。でもここ電波悪いし、嘘だろ現代日本だよ? さっきの停留所の名前も忘れたしなー。いや失敗失敗)


 八津次はまた一人で空笑いした。酒はもう半分以上減っている。

 降りる停留所を間違え、時刻表を確認したら次のバスまで何と三時間。たまには歩くかと思ったが、想像以上に道は長く、民家もない。 


「あ、いいモンめっけ」


 八津次が拾ったのは、道路脇の草むらに転がる青いガラス瓶だ。

 陶芸窯の焼成しょうせい温度1250℃に対し、ガラスの融解点は1000℃程度。窯の中で水飴のように流れるのを利用して、陶芸品の釉薬うわぐすりに使うことが出来る。

 色違いの破片をまとめて使えば、きらきらした独特の表情を作って面白い。いくつか制約はあるが、八津次はそのために常日ごろガラス類を集めていた。


はちクン。またこんな時間からお酒飲んでるのね」


 ひどく懐かしい女の声だ。

 振り向いて、傘と着物の姿を認めるなり、八津次は瓶を全力投擲とうてきした。

 ガラスは女の手前で壁に当たったように砕け散る。

 その間に八津次は女の懐に飛びこんでいた。後ろに放り投げた傘と鞄が落ち、手にはポケットから出した折りたたみナイフ。

 青く透ける破片が赤い雨を跳ね、世界がギラギラと極彩色ごくさいしきにきらめく。


「誰、アンタ」皿のように白く平坦に、目を見開いた笑顔。


 八津次はそのまま喉を刺すつもりだったが、刃先はビタリと止められた。女は静かにたたずんだまま、何もしていない。八津次が迷ったわけでもない。

 肌の一枚上で、不可視の力が殺意を阻んでいる。


「誰って……わたしよ?」


 女は心底不思議そうに、目をぱちりと瞬かせた。なるほど、確かに八津次はその顔と姿を知っている、小田島おだじま那智子なちこ、三股かけた男たちを集めて、妊娠しましたと堂々言い放っためちゃくちゃ面白い女。今だって最高に愛している。


「ナッちゃんは死んだんだよ」


 三日月のように口を曲げ、粘つくような笑みで八津次は再びナイフで切りつけた。二度、三度、五度、六度。甲高い金属音が響くが、髪の毛一筋も傷つけられない。

 八津次は距離を取り、刃先を指で挟んで投げたが、今度は空中でばきりとナイフがひしゃげられた。


「あっ、コレお祓いとかいるやつ? わはっ、めんどー」


 やれやれと肩をすくめ、へらりと笑いながら八津次はまだ臨戦態勢だった。武器の備えは充分だが、実力行使がこうも無意味な相手は初めてだ。

 こういう時は、クリスチャンの直郎ちょくろうに聞けばいいのだろうか。十字架をかかげて退散する手合いには見えないが、信仰心が確かなら……いや、直郎ではダメだ。


ナオ直郎ちゃん自己卑下しがちだもんなー。鴉紋ちゃんが銀の銃弾でも撃った方がマシそう。うーん、とりあえずひっ捕まえてみようか?)


 女ははぁ、とため息をついた。わざとかは知らないが色っぽい。


「せっかく会いに来たのに、ひどいのね。少しは昔話でもしましょうよ」

「しないよ、殺すから」


 ただちょっと今はその手立てがないだけで。

 那智子は死んだ、もういない。昔、ジビエの調理にハマっていたことがあったが、彼女の遺体を解体する時にそれが役立つとは思わなかった。

 あのなめらかな肌に刃を入れたことも、肉を裂き、骨を外していったことも、工程の一つ一つをよく覚えている。兄弟三人で色々調べて、無駄なく全身食べきった。

 七宝焼きのロケットペンダントは、遺灰を釉薬にした八津次の宝物だ。


 だからこれは彼女ではない。人間の仕業でもなさそうだが、妖怪でも幽霊でもどうでも良かった。兄弟たちなら躊躇ちゅうちょしそうだが、那智子の姿をしていても、八津次にはそれが那智子には見えない。ただ目障りだった。


「もう、仕方ないのね。さっちゃんに会いに行くんでしょ? 連れて行ってあげるから、また今度ゆっくりお話しましょ」

「え、マジで? テレポートとかできんの?」

「そんなところね」


 それは助かる、と八津次は殺意と捕縛の意志を一旦取り下げた。

 常識的に考えればありえない話なのだが、彼は気にしない。コイツならそんなことも出来るだろう、ぐらいの感覚だ。同時にに落ちるものがある。


「もしかしてさあ、サッちゃんがあの日あんな場所に居たのも、アンタのせい?」


 何がいつどこにどうして、というあらゆる説明をすっ飛ばして八津次は訊ねた。深い洞察などではない、自分でも言葉に出すまで分からない直感に従っている。


「なんでか知らないけど、ボクらとサッちゃんを翠良みすら尾瀬おぜに集めたかったんでしょ」


 案の定、那智子の姿をしたものは、「そうよ」と質問の意図を汲んで答えた。


「でも、ここで帰ったりはしないでしょ、八クン」

「まあね。じゃ、ちゃっちゃとルーラして」


 八津次は差し出された手を握る。そんなに不用心でいいの、と女は言ったが、今は自分をどうこうするつもりはないことが、彼には分かっていた。

 世界が暗転する。



佐強さきょうくんがお世話になっています」


 裏巽うらたつみ家の玄関内、鴉紋に追いついた直郎は深々とお辞儀した。

 佐強は気まずそうな顔で、信多郎しんたろうの後ろに身を隠している。盲目の家主はしばらく何も言わず、正確に顔を向けて直郎を見つめた。包帯越しが奇妙な感じだ。

 あの、と直郎がいぶかしむと、「あんたは少し変わってるなぁ」と信多郎は独り言のようにこぼした。素、という感じの口調だ。


せい直郎さん、でしたか。あなた、何か神さまを信じてらっしゃるでしょ。うちは神職の家系やけど、まあ神さまは気にせんと思うさかい、とりあえず上がってや」


 それはどういう意味かと聞きたかったが、詳しい話は中でらしい。


「八津次の野郎はどうだ?」と鴉紋。


 佐強のGPSが復活したのは、家出から十一日目だ。その時点で二人に連絡があり、後から饗庭あいば地区の裏巽家と詳細を伝えてられていた。

 直郎は名古屋で鴉紋と別行動をしていたが、八王子市にいた八津次がここまで来ようとすれば、電車でざっと四時間半だ。


「まだ後片付けが残っているそうですから、着くのは夕方ごろだと……」


 バンッとすぐ頭の上で、大きなものが落ちた音と衝撃が走る。


「ぎょへ――ッ!!」


 佐強、信多郎、鴉紋、直郎らが見守る中で、何かが屋根から転げ落ち、濡れた庭先で悶絶した。人間だ。一拍遅れて鞄と傘も。最初に名前を呼んだのは直郎だった。


「八津次さん!? どうしてここに」


 びっくりして近づくと、有機酸類のツンとした匂いが鼻を刺す。また酒か。嫌な想像がありありと思い浮かび、直郎は眉間に深いシワを刻んだ。


「……まさかサプライズで早めにこちらへ来て、驚かすためだけに屋根に登って、足を滑らせたんじゃないでしょうね」


 八津次は時々、よく分からない理由でよく分からないことをしでかす。

 エキセントリックなのかなんなのか理解に苦しむが、一家の非常事態にまでふざけられては堪らない。が、本人からは「ちっがーう!」と強い否定が返ってきた。

 バァ~とおどけた、脅すような怖い笑顔で。種類は様々だが、八津次はいつも笑っている。それしか表情の作り方を知らないかのように。


「停留所間違えてトボトボ歩いてたら、送ってくれるって言うから頼んだの。そしたらコレだよ、うははは。切りかかっちゃったけど、怪我してないくせにぃ」

「え?」直郎、「あ?」鴉紋、「へ?」佐強は異口異音にうなる。


 誰も状況がよく理解できなかったが、ひとまず信多郎は泥だらけの八津次に風呂を勧めたので、仕切り直しとなった。

 居間に集まり、まず話題になったのは佐強の体だ。小児科医の直郎が、まず息子の手を見て息を呑んだ。驚いたのは鴉紋も同じだが、彼が注目したのはその形だ。


「異常に平たい、ですね」

「だよねえ」佐強は他に言うこともない。

「手足の切断痕ってのは、もっと丸くなるだろ。こんな風にできるモンか?」


 鴉紋の質問に直郎はいいえ、と首を振る。


「……見たことがありません。もしも整形外科で形を整えたなら可能かもしれませんが、マネキンか断面図のような、綺麗な形にする意味が分からない」


 直郎は切断後の筋肉の処理について説明した。

 筋肉同士を縫合して骨を覆う筋肉縫合法、骨の端にドリルで穴を開け、その中に肉を固定する筋肉固定法、筋肉縫合固定法などなど。

 しかし、どのやり方でも佐強のような真っ平らには決してならない。


「しかも、佐強くんがこうなったのは昨日でしょう?」

「うん」

「全身麻酔の手術でも、両手切断は人体に大きなダメージを与える……けれど血色、肌つやから見ても、佐強くんはまるで健康体です。本当に手だけが消えているなんて……。これが超常現象だと言われたら、さすがに信じますよ」


 普段ならそんなバカな、と真っ先に言う鴉紋が黙っていることが、直郎の確信をさらに後押しした。ここはもう、自分たちの理屈が通じない世界だ。

 直郎は許可を得てすずめの足も確認したが、同じく清々しいほどの平面だった。

 場が静まり返る中、アロハシャツに着替えた八津次がやって来る。さすがの彼も佐強の状態にはビックリしていたが、それよりも直郎らは先ほどの説明を促した。


「てめえ、那智子に切りかかりやがったのか……!」


 みしりと軋み音が聞こえそうなほど、鴉紋は怒りで面相を歪める。


「え、鴉紋ちゃんはやらないの?」一方こちらはヘラヘラ顔だ。「あんなん偽物に決まってんじゃん。ナオちゃんはどうよ、顔合わせたらお祈りの一つでもした?」


 沈黙の後、直郎は「いいえ」と答える。

 自分も彼女に会ったが、本人だと思ったこと、水子の雨に囲まれたことを話す。その流れで、鴉紋も自身の経験を共有した。信多郎はふむ、と顎をなでる。


「まとめましょ。小田島那智子という女性が十年前にこの地で亡くなり、あなたたち三人はその遺体を食べて、また佐強くんにも食べさせた。そして今になって、彼女の姿をした何者かは佐強くんを操って、あなたがたの秘密を見せ、全員が翠良尾瀬に集まるよう誘導した。そして今に至る、と」


 そこで信多郎は言葉を切って、ヘルパーの一野にメモを取ってもらい、書斎から何か取ってくるように頼んだ。それを待つ間、信多郎は人魚供養祭のこと、〝の儀〟が失敗し、神の怒りが自分たちの体を奪ったことを説明する。


「一野さん、ありがとう。さて、どのページやったかな」


 彼がヘルパーから受け取ったのは、古びたアルバムだった。背に1970年代とあるのが見て取れる。信多郎はそれを座卓に広げ、一枚一枚ページをめくった。


「裏巽市子いちこ、って人がいたら教えてください」


 しばらくして、八津次が「この人かな」と一つのページを指した。十代の少女だ。これがどうしたのか、直郎をはじめ全員が次の言葉を待つ。


「市子さんは僕の伯母にあたる人でね。結論から言うと、おそらく那智子さんは市子伯母さんの娘で、佐強くんはその孫や。年齢の計算もピッタリ合う」


 信多郎は以下のような事実を語った。

人魚実にんぎょざね〟という言葉には、祖先が翡翠姫を食べたため、定期的に人魚が生まれるようになった血筋という意味があること。

 最もその血が濃い家系が、七つのオヤカタサマと裏巽家であること。

 裏巽市子は翠良尾瀬で最後に生まれた人魚だったが、二十歳を前に出奔し、どこか遠い土地で出産した後亡くなったらしいこと。


 事実、那智子は養護施設の出身で、天涯孤独の身の上だ。信多郎はどこかの時点で、佐強からその事情を聞いていたのだろう。


「確実な証拠はないけれど、そう考えたら辻褄が合うんよ。孫の佐強くんが、市子さんの娘である那智子さんを食べてしまったから、君は今一番、人魚に近い。それが儀式の場にいたから、みすらさまが欲しがって体を奪ったんやろう」


 語り終えてから、信多郎は「ごめんな、佐強くん」と謝った。


「……何がですか。結局オレが祟りの原因だったってことにですか? それより、それが本当なら二人とも、オレの巻きぞえなんでしょ!? 謝るのは……っ」


 激した佐強だが、途中で歯切れが悪くなる。

 突き詰めれば、父たちを責めることになると思い至ったのだ。すずめは「さっちゃんは悪くないよ」と、何も分かっていなさそうな口ぶりでなぐさめる。

 室内は彼女を除き、静電気が極限まで高まったような緊張で静まり返っていた。


「なあ、裏巽」


 地を這うような声で、鴉紋が口を開く。


「市子が那智子の母親だと仮定して。そのってのは本来、那智を食べた俺たちがやるべきで、祟りを受けるのも俺たちのはずだったんじゃねえか」

「そういうことになりますね」


 淡々とした信多郎の答えに、鴉紋の目に稲妻のような怒りがひらめいた。直郎が見る限り、それは他人に向けるのではなく、自身への憤怒だ。

 八津次がほおづえを突きつつ訊ねる。


「一応聞いとくけどさー、それ、今からボクらが食べた分返すんじゃダメ?」

「神さまはあんまり融通が利かないんですよ。いや頭が硬いとかではなくて、人間の都合なんて知ったことはないので」


 そっかー、と軽く言って八津次は天を仰いだ。佐強はこりゃダメだ、と言うように眉を八の字にして身を乗り出す。目には青い希望が光っていた。


「でも、祟りの原因はこれで分かったんですよね。だったらそれを解いて、オレたちの体を取り戻す方法もある、ってことじゃないですか? 信多郎さん!」

「その通りや。僕らだけでは荷がかちぃけど、佐強くんのお父さんたちが手伝ってくれるなら捗る。お願いできますか?」


 信多郎は一同を見回したが、直郎たちに否があろうはずがない。「何をやればいい」と、鴉紋が同意の代わりに問うた。信多郎の答えは簡潔だ。


ですよ」



 次の瞬間、三つ一組の犬の首が、裏巽家に落ちてきた。

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