ここのつ 家内安全一家団欒平穏平和
「オヤジ、刑事の勘なんてドラマの中だけにしてよ」
「裏付けも取れてねえ他人の話を、一方的に鵜呑みにすんなってことだ」
予想通り、ぐうの音も出ない正論だった。
「超自然的な現象が起きているのは確かだが、それに説明をつけてみせたのは、今のところ
「そりゃ……そうだけど。だったら誰に聞くのさ」
裏巽
親切すぎて怪しい、と言われればそうかもしれないが、佐強の心情としては疑いたくはない。姪のすずめと仲良くしてほしいという言葉も、本心からだと思う。
「まずは地理を把握しろ、それからこの家と関係者を洗う。オヤカタサマとやらにも、一度話を聞きに行かなきゃならん。他に郷土史や土地の伝承だ。佐強、お前は決して一人で行動するな、常に俺たちの中の誰かといろ」
鴉紋はてきぱきと
「裏巽はシロでもクロでもないグレーだ。てめえは両手がなくなったんだぞ、非常事態だと気を引き締めろ。家族以外は疑ってかかれ」
「父さんととーちゃんは、信多郎さんのことどう思ってんの」
せめてもの反抗に、佐強は他二人の父に話を振った。首の動きはちょうどそっぽを向いたように見えたかもしれない。
「裏巽さんは一見、悪い方のようには見えません。しかし、佐強くん。君がわたしを人殺しだとは思いもしなかったように、善良そうな悪党はいくらでもいるのですよ」
自虐混じりの直郎の答えに、佐強は眉根を寄せる。鴉紋に続いて反論しようのない実例が出され、面白くない。というか自分自身を引き合いにするのは卑怯だろう。
「とはいえ、裏巽さんも龍神の祟りを受けた被害者である、という点は事実です。彼はすずめちゃんのことを大切に扱っていますし、少なくともこの事態を引き起こした人間ではないでしょう。あとは、人魚狩りの話次第かと」
直郎は続けて「八津次さんはどうですか?」と水を向けた。
「シンタローちゃんかー。焼き物のセンスは抜群だね!」
すかさず言葉のキャッチボールが崩壊する。
「滋賀に行くなら本場の
「他には、何かありませんか」
「知らない。あ、すずめちゃんは可愛いねー」
「…………そうですか」
直郎は七〇時間連続勤務を終えた直後のような、疲れた声を出した。
八津次は興味のない対象には、徹底的に無関心になる。信多郎が話す内容ぐらいは頭に入れているだろうが、本人のことは使いさしの割り箸以下に思っていそうだ。
(こいつに聞いたのが間違いだった)という空気が三人分、室内に充満する。
鴉紋たちはひとまず、荷ほどきに部屋を出た。
◆
十八畳ほどある裏巽家の土間は、今は使っていない
「いけーっ! きかん車ハッチー!」
「しゅっぽっぽ――!」
「いつの間にかメチャクチャ仲良くなってる」
土間に張り出した六畳間で、佐強は全力で遊んでいる父に少しばかり呆れた。すずめは八津次の青く染めた髪色に興味津々で、そこから打ち解けたらしい。
足を奪われたすずめは、心から楽しんでいるようだった。祭りの日以来沈んでいた表情が、一段も二段も明るくなっている。
「八津次さんは、子供と遊ぶのが得意ですからね。正直わたしも
隣で直郎はニコニコと笑った。その手には、佐強のために開いた『
信多郎いわく赤い雨――おどはつの雨が降っている間はあまり出歩かない方がいい、と忠告されたが、鴉紋は「買い出しだ」と行って外出していた。
防災放送では「害はない」と言っていたが、やはりこの雨は良くないものらしい。
「わたしは妖怪に詳しくはないのですが、本当に知らないものばかり出てきますね、この本は。おどはつの説明も、裏巽さんによれば誤りらしいですし」
「役に立つのかなあ、これ」
「少々古いですが、地図は正確でしょう」
やはり直郎も役に立たないと思っているのではないか。苦笑しつつ、佐強はツッコミは控えた。信多郎の書斎には神道関係や郷土史の専門書が並んでいて、どこから手をつければいいのか皆目見当がつかない。これでもないよりはマシだった。
直郎がふと文字列を指さす。にくべとの項目だ。一頭身から手足を取り除いたような肉の塊に、目や口がでたらめに生えた物のイラストがついている。
にくべと【肉土、肉泥】
不死の肉塊。切っても刺しても血は流れず、たちどころに傷は癒える。『画図百鬼夜行』や『百怪図巻』に見られる〝ぬっぺほふ〟に似るが手足はない。
ナメクジのように這って移動し、土の中にもぐって眠るとされる。翠良尾瀬にはいくつか入らずの森という禁足地が存在し、にくべとは通常それらの森に隠れる。
出会った時は〝ねめしどな〟という呪術で退散させられるが、詳細は不明。
「父さん、にくべとが何か気になんの?」
「赤い雨の中、わたしが水子や赤子の群れに囲まれた話をしたでしょう」
直郎の顔は、一人だけ闇に取り残されたように暗くなっていた。指は白くなるほどにくべとの絵を押さえている。
「その中に、これとよく似たものがいました」
佐強は口を開き、何か言いかけ、適当な言葉が見つからずやめた。
母の身に起きたことを聞いた後だと、直郎が雨の中で出会ったものは彼の後悔や罪悪感、苦しみの反映のように思える。だが妖怪との関連は分からない。
「つまり……どういうこと?」
結局、佐強はバカみたいにそのまま訊くしかない。直郎は分からない、とばかりに首を振る。その目はどこか遠い暗がりを見つめていた。
「八津次さん、佐強くんをお願いできますか。……わたしは少し、部屋に戻ります」
「いいよー」
土間を往復マラソンしていた八津次は、急ブレーキをかけて軽く請け負う。Gがかかったすずめは「きゃー」と喜んでいた。
楽しげな子供の声なんて、直郎がこよなく愛するものの一つだろうに、今は耳に入らない様子でその場を立ち去る。おそらく、部屋で聖書を開くのだろう。
次から次へと、自分たち家族の闇が開かれていく気がした。
「さっちゃんもいっしょにあそぶ? おままごとしよ!」
八津次の背中から下ろされたすずめは、まだまだ遊び足りない様子だ。佐強は気持ちを切り替え、にぱっと明るく笑ってみせる。
「いいねえ。すずめちゃんがママかな?」
「さっちゃんはサイコンしたパパで、はっちゃんがみぼーじんのママね」
「あっボク逆がいい」
曲がりなりにも、息子にパパと呼ばれるポジションに八津次は食いついた。
「最近のおままごとって、そんな設定重いもんなの?」
「ほらすずめちゃん、新しいママだよ~」
佐強が困惑している間に、八津次はさっさと話を進める。
「おだじまのオバさん、よろしくおねがいしまーす」お辞儀。
「オホホホすずめちゃん、これからはオ……あたしをママと思ってね」
手がないので顔に甲を当てられないが、佐強は腕だけ上げて裏声を出した。
「ちょっとなによその女!」すずめは荒々しく頭を振った。「今のおくさんとわかれて、あたしといっしょになるんじゃなかったの!」
「何そのただれた設定!?」
「ゆっ許してくれすずめーっ! あれは一夜のあやまちだったんだ!」
「あんたもノリノリかよ!」
八津次は迫真の演技で頭を抱え、悲嘆に暮れた映画の主人公のように土間にうずくまる。すずめの一人二役を高速で理解しての対応に、佐強は一人ついて行けない。
そのおかげで、こちらの陰鬱な気分も晴れていく。
※
そんなこんなで、夕食の時刻になった。
村内の商店がどこもかしこも臨時休業になっているので、
右棟一階はふすまを取り払って部屋をつなげ、大広間に変えられた。叔父と姪が二人暮らししていた所に、今や六人の大所帯だ。
二つくっつけた座卓には、棒々鶏に冷や奴、このあたりの名物だという鯖の押し寿司、アジの冷や汁などが並ぶ。調理と配膳は鴉紋と直郎が担当した。
なにせ家主は失明して、両眼に包帯を巻いているのだ。
「すみませんね、食事まで用意してもろうて」
「いきなり押しかけたのはこっちだ、食料品と消耗品ぐらいこっちで持つ」
恐縮する信多郎に対し、鴉紋はぶっきらぼうに言う。オヤジが容疑者を見るときってこんな目つきなのかな、と佐強があらぬ想像をするほど、その瞳は鋭い。
それはそれとして、佐強には直面すべき重大事があった。
「佐強くん、ほら、あーんしてください」
「あーんは言わなくて良くない?」
昼間の落ちこんだ様子はどこへやら。直郎は箸(鴉紋が新しく買ってきた)でつまんだ棒々鶏を、こちらに差し出している。青くみずみずしいキュウリと細く裂かれた鶏肉が、ガッツリ系の赤いタレにまみれて非常に美味しそうだ。
父親に手ずから食べさせられるという恥辱を別にすれば、だが。
「そんなに恥ずかしがらないでください、君が小さいころは、みんなこうやって代わる代わるお世話したものですよ? なんだか懐かしい気持ちになりますね」
「だから余計嫌なんだけれど?」
「ワガママを言ってんじゃねえぞ佐強ォ!」
まごまごと抵抗していると、ビシッと鴉紋の大声が飛んだ。
「公正なくじ引きで決めたことだ、お前の世話は俺たち父親がやる。赤の他人のヘルパーよりはずっと気分が楽だろうが。何が不満だってんだ?」
「
「だからワガママ抜かしてんじゃねえ!!」
「アモさん、こえおっきーねー」
すずめはおびえた風もなく、冷や汁を飲んでいた。わりと肝が太い。ちなみに失明中の信多郎は、ヘルパーに誘導されながら自分で食事を口に運んでいた。
ああ、オレにも手さえあれば。観念して佐強は口を開いた。
しっとりした鶏肉に、シャキシャキと小気味よい歯ごたえのキュウリ。味噌を混ぜたピリ辛のタレがその二つをまとめあげて、猛烈に空腹を感じる。
直郎の食事介護は完璧なリズムを刻んだ。
佐強が口の中を空っぽにした絶妙な間で料理を差し出すので、ナチュラルに食いついてしまう。うっかり、介護されているのを忘れそうなほどだ。
これが父親力か? 医者だからか? 鳥の給餌か? 快適すぎて、人間として何かを失いそうな不安が拭えない。十七歳の男子にこんな辱めがあろうか。
逃げ場を麦茶に求め、ストローで飲みながら見れば、直郎はそれはそれはうれしそうな満面の笑顔になっていた。
気がついたら息を引き取りそうな、淡く儚く透き通った笑みはなんだったのだろうかと思う。そんなに息子の世話がしたいのか。したいんだろう。
この後もまだ地獄が続くことを思って、佐強は天板に突っ伏した。
※
「はいサッちゃん、歯を食いしばらない。口開けて。歯医者さんじゃないんだから、怖がらなくていいんだよー?」
洗面所。日々重たい粘土を取り扱う陶芸家の八津次は、見た目の印象以上に腕っ節が強い。彼は歯ブラシ片手に、佐強の口をこじ開けにかかっていた。
「さっきだって、ナオちゃんに大人しくご飯食べさせてもらってたじゃん。明日はまたくじ引きで当番変わるんだからさ、早く諦めた方が楽だよ? いい子いい子」
小さい子にするように頭をよしよしとなでられ、佐強の中でふつっと気力が切れた。そうだ、食事介護に比べれば歯磨きぐらいどうってことない。
どうせこの後、もっと恐ろしい目に遭うことが決まっているのだ。
「はい水入れてー。はい出してー」
佐強が気を変えて口を閉じるのを警戒しているのか、八津次は口の端に指をかけたまま歯ブラシを突っこんだ。もう抵抗しないからやめてほしいが、しゃべれる状態ではない。歯磨き粉のミント味が舌に広がり、ブラシの毛先が歯列をなぞる。
直郎の食事介護は「他人にされている」という違和感がないのが恐ろしかったが、人の手で口の中をいじり回されるのも異様な感覚だ。
自分も幼い時分にはこうやって父たちに歯を磨いてもらったのだろう。母にやってもらったこともあったかもしれない。
人間、歯科医以外で歯や歯肉を触られる機会なんてそうそうないだろう。前歯も奥歯も平等にこすられ、口にかけられた指と舌が触れあう。何だこれ。
べっと溜まった歯磨き粉の泡を吐き出し、佐強は死人のような顔でまた歯ブラシを突っこまれた。
※
鴉紋は心底上機嫌な時は、鼻歌を歌う。湯煙けぶる浴室で、佐強は絶望的な気持ちでそれを聞きながら、背中をこする泡とボディブラシの感触に耐えた。
何の曲かは知らない。たぶん、佐強が生まれる前のお気に入りか何かなのだろう。
いつもなら聞き流しているが、あえて歌詞を推測しようと耳を傾けることで、現況からの逃避を試みる。昨日はヘルパーさんが服を着たままシャワーで洗ってくれたのだが、鴉紋も佐強もタオル一枚巻いていない。
「最後にこうやって風呂に入ったのは、小学五年だったな」
「ヘーソウナンダー」
髪の毛、顔面、上半身、そして下半身。余すところなく父親に洗われるこの気持ちを一切汲むことなく、やたら満足げな顔をされているのがイライラする。
一枚一枚服を脱がされた時は、この体験は思い出したくないと思ったが。そんな無念はあっさりと、もっと惨たらしい記憶で上書きされた。
二人向かい合う形で浴槽に浸かると、佐強の隠しもしない不満の表情に鴉紋はすぐ目を留める。機嫌の右肩上がりを維持したまま、面白そうに。
「なんだ、気に食わなさそうだな、佐強」
「なんでこの歳になって、オヤジたちから赤ん坊みたいに、何から! なにまで! 世話されなきゃならねーんだよぉ……」
「そいつは龍神とやらを恨め」
むしろアンタは龍神に感謝してるんじゃないだろうな、と佐強は疑いと恨みつらみのこもったまなざしを向ける。
レスラーは筋肉の上に脂肪が乗っているが、父の体型は逆三角形で、体脂肪率の低い引き締まり方をしている。練り上げられた鋼だ。
「……オヤジさあ」
「なんだ」
「オレがガキのころから、ずっとデカいよね」
小学校や幼稚園を何かの機会で訪れることがあると、通っていた当時との見え方が違っていて驚く。同じ家に住んでいたから分かりづらいが、直郎と八津次もなんやかんや、小さいときの記憶より背の高さが変わっていた。
しかし鴉紋だけは、なぜかサイズ感の印象がほとんど変わっていない。まさか年々筋肉でふくらんでいるのか、この大男は。
「当たり前だろ。俺は一家を背負っている大黒柱だぞ」
「あっそ」
サイズ感が狂うのは、もしかしたら自分のメンタルが気圧されているだけかもしれない。そんな可能性から目をそらして、佐強は顔を半分湯に沈めた。
背が高すぎて、鴉紋は屋敷内では鴨居にぶつからないよう、しょっちゅう身を屈めねばならない。たまには油断して、思い切り頭を打ってしまえ、と佐強は念じた。
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