幕間 世直郎の罪業 後編
なぜそれは罪なのか(※グロ注意)
民法第七百三十条抜粋
直系血族及び同居の親族は、互いに
第二章:
(近親者間の婚姻の禁止)
第七百三十四条
直系血族
2 第八百十七条の九の規定により親族関係が終了した後も、前項と同様とする。
(直系
第七百三十五条
直系の姻族間では、婚姻をすることができない。第七百二十八条
(養親子等の間の婚姻の禁止)
第七百三十六条
養子
※(離縁による親族関係の終了)第七百二十九条
養子及びその配偶者並びに養子の直系卑属及びその配偶者と養親及びその血族との親族関係は、離縁によって終了する。
以上が、日本国憲法上の近親婚における法的規定のすべてだ。それは婚姻できる親族の範囲を定める、だけのものに過ぎない。
法と実際の運用は異なる。が、暴力や虐待と結びつかない限り、およそ、〝近親相姦の行為自体〟は法的な処罰の対象として扱われない――傾向にある。
無論、人類の歴史上、近親相姦は厳しく断罪された。
ある土地では袋に石と共に詰められて海へ投げこまれ、ある土地では公衆の面前で鞭打たれた上で、家財産を没収。ヨーロッパでは男は首吊りに、女は生き埋めに。
日本の場合も、平安中期員まとめられた
かつてオナニーやフェラチオは恥ずべき性行為だった。だが家族制度が変化を見せ、性の多様性が認められつつある現在、近親相姦もまた野放しとなっている。
そもそもの極論を述べれば――すべての人類は近親同士だ。人類はたった一人、アフリカにいたミトコンドリア・イヴから出発したのだから。
神のごとく長い視点で見れば、人間はそもそも人間同士で交わってはならない。猿は? 人類の近縁だ。猿以外の哺乳類は? 哺乳類同士もまた親類だ。
汝隣人を愛せよ。隣にいるものは、親しきものゆえに。
近親相姦への恐れを突き詰めれば、その人はどんな性的な交わりも持つべきではない。では自分自身とのセックス、自慰はどうかといえば、これは近親相姦の究極点だ。己と同質なるものを
「旧約聖書のロトは? ソドムとゴモラを脱出した後、ロトの娘が二人、父親との間に男の子を一人ずつ産んだじゃん。地上に人間を増やすためなら、仕方なかった?」
深夜二時。
「人間はみんな性衝動を抱えている。暗くて、大陸みたいにおっきくて、その端っこだか
近親相姦の禁忌は人類に普遍的なものだ。と同時に、それを
無論、直郎は是認にはうなずかない。
「八津次さんは、
「それはさすがに、ボクと
我が意を得たり、と直郎は首を縦に振った。座卓に左手を広げて乗せる。
「では始めてください」
「ギブアップする時は、右手を挙げてね」
「ええ」
工房の地下拷問室で同じことをした時、手を拘束するのみならず、指の一本一本を固定したものだ。だが直郎はタオルの上に手を置いただけ。
ごく初歩的で簡単な拷問だ。だからこそ、下ごしらえで犠牲者の抵抗をいかに封じるかが重要になる。しかし、直郎は不要だと言い切った。
「近親相姦には、必ず理性を棄てることへの恐怖と侮蔑が付きまといます」
「じゃあナオちゃんは、理性を不法投棄したんだねえ」
八津次は裁縫セットから赤いまち針を取り出した。こういう物は、精密ドライバーでも竹串でもヘアピンでも何でも良いが、わざわざ新しく買ってきた。
定番の責めとはいえ、実行するにはそれなりの冷酷さを要する。だが八津次は迷わず、直郎の爪と肉の間にまっすぐ針を突き刺した。まずは一本。
声を殺して直郎はうつむき、肩や背中をびくびくと跳ねさせた。適切なSMプレイが必要とは八津次の見立てだが、思ったより重症だ。
「すごいね、手を引いてくれたら良かったんだけど……ホントに刺して欲しかったんだ。まいったなあ、十七年付き合ってて、今ごろ気づくなんて」
八津次はやや苛立ったように、自分の青い髪をかき混ぜる。針は事前に消毒してあるし、救急箱も用意してある。「今夜は指三本まで」と約束し、実際は一本でギブアップしてくれればと思ったが、本当に三本責めることになりそうだ。
ただ彼の荒い呼吸が、冷房の効いた空気をざわつかせる。
「近親相姦は、大雑把な擁護論が正しくないことと同じくらい、全面的な敵視もまた当を得ません。なぜそれが罪なのか、理由などないのが、悪が悪たるゆえんかも」
直郎はしばらく歯を食いしばって汗を流していたが、次に口を開いたときの語調は冷静そのものだった。思ったより兄弟は我慢強い。
いいや、自分が今まで思い違いをしていた。直郎は思い詰めるタイプだと知っていたのに、パンパンになるまでストレスを溜めこんでいたことを見逃していたなんて。
「なぜそれが悪なのか、罪なのか、それはいくら掘り下げても曖昧な所に行き着いてしまう。強いて言えば、この行為は人間から人間らしさを奪ってしまうからとしか」
「人間、人間で居続けるのけっこう難しいからね。はいもう一本」
最初は人差し指、次は中指。もう少し痛くしてやろうと、今度は斜めに、かつじわじわと針を打った。ミリ単位で針先が沈むごとに、ガクガクと直郎の全身が震える。
ぽつりと、最初に針を打った人差し指から血が滴り、白いタオルを汚した。必死に呼吸を整えようとする吐息だけが、悲鳴の代わりに
「……これだけは言えます。近親相姦はやはり、本来なされるべき行為ではない」
八津次が二本目を刺し終わってしばらく、直郎は変わらず言葉を紡いだ。彼の話を聞いてやろう、ゆっくり責め苦を味わわせてやろう。
これは結局、直郎自身の問題だ。罪悪感も、苦痛への飢えも。八津次は器用さには自信があるし、無駄に雑学も知っている。しかし兄弟を癒やす方法は、こんな手段しか思いつかない。可哀想に、ナオちゃん。ここまで放っておいてゴメンね。
「家族との性愛に身をゆだねることは、必ず危険を覚悟せねばなりません。単に心の傷という問題ではなく、負い目の意識がまず離れがたい」
「人間性の
八津次が三本目のまち針を手にしても、直郎はひるまなかった。むしろそれを待ち望むような視線を、電灯に光る鋭い針先に向けてさえいる。
苦痛にあえぐ息づかいさえ、
「もし近親相姦にメリットがあるなら、どうしてもリスクと表裏一体だろうね」
だがこの世に、何の
この場合の罪とは、対価の重さを知らず手を出したことではないか。
「ナオちゃんはたぶん知ってるだろうけど、ホモフォビアは潜在的な同性愛者って言われているよね。人間が何かを猛烈に拒絶する時は、たいていは心の底でそれを求めちゃってるから。だって本当に興味がなけりゃ、無視すればいいんだもん」
八津次は直郎の指を取り、先端に針をあてがう。
「ナオちゃんは、双子の姉弟って分かった上で、本当はナッちゃんにまだ欲情しちゃってるんでしょ。それを認められないんだ、この変態!」
これは八津次の本音ではない。ただの冗談で言えれば良かったのだが、彼は罵られることを望んでいる。しかし、思ったより自分には難しいようだ。
今度もまた斜めに、そして一息に突き刺すと、直郎はとうとうちゃぶ台に突っ伏した。身をのけぞらせて苦痛から逃げるのではなく、それを自分の内に留めるように。
肺をふいごのように忙しなく動かす背をなでようとして、八津次は手を引っこめた。今はまだ苦痛を与えてやらなければ。
「オットー・ランクって精神分析家は、同性愛者に変節することが、近親相姦願望への防御法だって言った。ボクからすりゃバカバカしいけどね。兄弟とでも、父親と息子とでも、起きる時は起きちゃうんだ。それより気になるんだけどさ、ナオちゃん」
ちゃぶ台に突っ伏した頭をおっくうそうに動かして、直郎は眼を上げる。汗と涙でしっとりと濡れた顔を見て、限界が近いかどうか測りながら、八津次は続けた。
「ナッちゃんと自分が双子だって白状した時、ボクにヤられるかもって思わなかったの? まったく、これっぽっちも……ああ、そういう顔だね」
へらりと笑いがもれる。予想はしていたが、自分の犯したことをこれだけ思い詰めながら、今の今までその可能性がよぎらなかっただなんて!
愛おしさと
「ご存じの通り、ボクは両方行けるクチでしょ。で、改めて見ればナオちゃんは実際、ナッちゃんと似てるよ。そういうの抜きにしても、家族として、兄弟として大好き。鴉紋ちゃんのことだってそう、愛してる。でも手は出さない」
「家族だから、ですよね」
直郎はようやく顔を上げ、姿勢を正した。爪に三本も針を打たれて、まだそんな風に余裕を持てるのか。額には汗で髪が貼りついているというのに。
「そう。ボクはサッちゃんだってそういう眼で見たりしない。んでボクらは、わざわざそれを言うまでもなく、当然だと思っているんだ」
「ええ」
直郎の相づちには少し疲れが見えた。もう少しすれば、満足させてやれそうだ。
「でもさ、それは家族とか家庭っていう社会のお行儀を守ろうとしたからじゃない。だってそもそも、父親が三人もいるような家なんだよ?」
普通じゃない家なんて、おかしい家に決まっている。
だが、これが自分たちの家だ、家族だ。外からとやかく言われることではない。そもそもが近親相姦なぞ「房中事」と片付ければいいのに――直郎が忌み嫌うような児童性虐待はともかく――親子たわけだの、畜生道だの、血の冒涜だのやかましい。
「ボクたち兄弟とナッちゃんの四人で、暗黙の内に了解ができていた。互いにセックスするのはナッちゃんとボクらの間だけで、ボクら同士やサッちゃんはふくまない、ってね。だからナオちゃんのしたことは、我が家のルール外だ」
ゆえに罪には問わない。そもそも結婚前の話だ。明文化されたルールではないが、鴉紋だって異議を唱えまい。
人間に行えることで、それぞれの行為を思いとどまらせるような究極的な論拠など、この世にありはしない。だからこそ、人にはルールのより所が必要だろう。
「ナオちゃんとナッちゃんはつまり、愛が足りなかったんだよ」
ぴん、と。八津次は直郎の人差し指に食い入った、針のまちを弾いた。
彼はびくっと身を震わせるが、それだけだ。眉をしかめ、歯を食いしばり、痛みに耐えていることは明らかだが、大きく苦痛に歪みはしない。
「お互いが姉弟だって知っていたら運命は違っていた。ボクや鴉紋ちゃんは出会わなくて、サッちゃんも生まれなくて」いや、そんな仮定に意味はない。「ナオちゃんが苦しんでいるのはさ、自分たちのしたことについてナッちゃんときちんと話し合うこと、その上でお互いの愛情に結論をつけなかったからだよ!」
八津次は三本の針を一息に抜いた。
ごつ、と直郎はちゃぶ台に額をぶつけて声を押し殺す。悲鳴によって苦痛を逃すことなど許さないとばかりに。息すら石のように止めて。
「覚悟を持たず事故で関係を持って、それを突っぱねるでもなく、〝三人の父親〟に収まって。……まいったね、ナオちゃんがもっと早く告白してくれれば、ボクも鴉紋ちゃんも何か出来たかもしれない。ああ、後悔なんてボクらしくないや」
血まみれになった直郎の指先を、八津次はそっとタオルで拭った。だが後から後から、赤い滴がにじみ出してくる。彼の罪悪感と痛みへの渇望と共に。
八津次は、ナイフの刃先を直郎の指先にあてがった。自分のコレクションのうち最も小さく、細身のもので、つまり爪に突き入れるにはちょうどいい。
「お話はおしまい。後はナオちゃんが自分で考えてね。今夜は指の爪を三本剥がして、それで終わり。がんかじに眼をつけられてるってのに、こんなことしてんのも不毛だけど、香を聞かれても困るし。痛いの痛いの、よく味わってね」
もう一度言おう、可哀想なナオちゃん。
でも、近親相姦の罪よりも、自分が人を愛せない人間だと思い悩んだことよりも、愛する人と互いのハートを確かめ合うことから逃げたのが、君の最大の罪だ。
そのことを断罪するつもりは八津次にはない、鴉紋も同じだろう。だが直郎は罰を求めている。苦痛の先に、彼が彼なりの決着を見つけられるなら何よりだ。
八津次は爪の間に刃先をすべり込ませ、テコの原理で一息に生爪を剥がした。
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