はたそまりむつ 痛みごと愛して

「痛覚限定のテレパシーか、相変わらずってのはろくでもねえな」


 病院へ迎えに来た鴉紋あもんは説明を聞きながら、渋い顔で車を運転した。

 彼が取り押さえた願施崎がぜざき誠次せいじに対する殺人容疑は、目撃者が多数だったことで「一応」晴れた、ということになったらしい。追加でまた調べられるそうだ。


「父さん、今は大丈夫?」


 佐強さきょうは後部座席で隣り合う直郎ちょくろうに声をかけた。にやられたとおぼしき彼は、こうして移動しているだけで他者の苦痛を感じ続けているかもしれないのだ。


「強いて言えば、指と下腹部が少々」

「100%とーちゃんのせいじゃん」

「靴ずれらしきものも通り過ぎますね」


 直郎は車窓の外に眼を向けた。あたりは神島かみしま市街から、山あいへ移り変わっている。渓谷と山々で街から区切られた翠良みすら尾瀬おぜ村は、同じ市内でも別世界だ。


「痛みが走ったと思えば、幻のように消え去る。傷ついた対象から距離を取れば、大したことはないようです。ただ、その範囲がやがて広がる可能性は高いかと」

「痛みとは別の何かも、来たりすんのかもねえ」


 助手席の八津次はつじは自身の体験を思い出しているのか、半分独り言のような調子でつぶやく。おそらくの一件に照らし合わせているのだ。

 あれは五感のみならず、温感痛覚に始まり圧覚あっかく、内臓感覚と知覚能力のことごとくを奪う危険なだった。仕留められたのは、奇跡的と言ってもいい。


「願施崎誠次だが、ヤツの体には真新しい傷でいっぱいだったそうだ」


 鴉紋は曲がりくねった渓谷沿いを走らせながら、現時点で分かっていることを伝え始めた。警察手帳は置いてきたそうだが、神島警察に身分を明かしたのだろうか。


にやられたヤツは、死んだ時に噛まれた傷が見えるようになるらしい。それにしちゃ、願施崎誠次の傷はどれも刃物によるものだったがな。他人の痛みを問答無用で押しつけてくるだ、行の一環で自傷を強いられたのかもしれん」


 直郎には使鬼銭を渡しているが、今のところ何の反応もない。裏巽うらたつみ家を訪れたオヤカタサマの内、願施崎家当主(誠次の父)はを以下のように説明した。


 願施崎の人魚實にんぎょざねは、かつて願施崎家が建立し、住職を務めた眼果がんかの森に本体がある。それは一本の白檀びゃくだんで、現在願施崎家に祀られている仏像は、その木から削り出した分身だそうだ。がんかじ行はただ寺跡に参るのではなく、白檀の木にもうでるか、仏像の一部を切り出して燃やし、香りを「聞く嗅ぐ」ことで始まる。


 一度がんかじ行を始めた行者ぎょうじゃ通力つうりきを授かり、毎日香りを聞くことが義務づけられる。それを十二日続ければ晴れて満願成就、ということだが。

――これまで願施崎の歴史で、それを成した者はいないそうだ。

 その末路は必ず、狂うか、死ぬか。


「警察も仏像は押収しちゃいない。問題は、香りを聞くことで悪化するのか、聞かなければ悪化するのかだな」

「とりあえず本体っぽい白檀切り倒しちゃわない?」

「とーちゃん、そういうことすると祟りにダイレクトアタックされるよ」


 幽霊屋敷を壊そうとして、作業員が病気や怪我など不幸に見舞われるのは、心霊スポットの定番だ。ましてや翠良尾瀬には、本物の怪異がいる。


「やってみなきゃ分かんないって」

「てめえは鏡をノックした時の反省をしろ、八津次」


 おしゃべりの彼も、痛いところを突かれて黙った。


「それと願施崎志馬しまだが、裏巽が保護ってことで今あの屋敷にいる。落ち着いたら佐強、お前から話を聞いてみろ。最近仲良くやっていたみてえだからな」

「……分かってるよ」


 佐強個人としては、志馬をしばらくそっとしてやりたい。何せ今朝、父親が人を傷つけて自殺してしまったのだ。一週間だって一ヶ月だって見守っていてやりたい。

 だが、それだけあれば、自分はになるし、直郎にも何が起こるか分からない。自分たち家族の運命がかかっている以上、佐強も鬼になるしかないのだ。

 だが、一日ぐらいはそっとしてやってもいいだろう。


「直郎さんは、その白檀と縁が結ばれてるようですなぁ」


 裏巽家に戻ると、包帯で覆われた両眼で、信多郎しんたろうはそのように霊視した。

 今日は鴉紋、八津次、直郎と全員が出払っていたため、〝拝み屋〟をあてこんだ客は訪問していない。久しぶりに屋敷は静かだった。


「コードのようなものというか、それが直郎さんの感覚をひろげて周囲の痛みをキャッチできるようにしてる。そしてつながりがある分、本体の木ぃ切ったり燃やしたりすると、脳神経に大きなダメージを負うかと」


 これで八津次の案は不採用だ。のおもてなしと同様、何らかの手順を踏んで直郎とのつながりを断たねばならない。


「もしかして、木の下にが埋まってて、そいつが孵化して木と一体化しちゃったのかねえ?」八津次が推論を述べる。「なんで植えたのかは気になるトコだけどね。白檀なんて日本に自生してないし、わざわざ育てて管理してんじゃん」

「神仏習合ってのは、昔はよくあったんだろ。龍神の祟りでが生まれて、何とかそれを鎮めようとして、仏の力を借りようとしたのが願施崎じゃねえのか」

「まあそんな所です」


 鴉紋の推測を信多郎は肯定した。直郎は眼鏡を直しながら問う。


「眼果寺は、なぜ潰れてしまったのでしょうか?」

「何代か前に火事があったそうで。噂ですが、誰かがあの白檀を燃やそうとした、と言われていますが真実は分かりません」


 そもそも、誰も成功したためしのないがんかじ行や、その犠牲者が出ていた時点で、願施崎家そのものが絶えなかった方が不思議です、と彼は続けた。


は木という安定した依り代があるためか、ここらじゃ意外と有名なんですよ。がんかじ行が、人を呪詛する方法としてねじ曲がって伝わっていますが」

「化け物の呪いが、人を呪う方法にか。都合が良いもんだな」


 ふざけやがって、と鴉紋は鼻を鳴らす。そこで八津次が病院帰りの荷物を片付けるついでに、髪を染め直すと言って席を外した。その流れで一旦解散となる。


 その夜、志馬は誰とも会わず、食事も借りた部屋で一人済ませた。



 八月十日、人魚狩りの期限まで、残り二十三夜。


「志馬」


 願施崎誠次は二人を死亡させ、七人の重軽傷者を出した。外傷のない直郎はふくめずにこの数だ。願施崎家は遠からず、翠良尾瀬を離れるしかないだろう。

 犯人の息子となってしまった同年代の少年に、佐強はどう声をかけるべきか分からない。例えば自分が志馬の立場で、父たちの殺人が明るみになった時、友人からなんと言葉をかけられれば気が休まるだろう。――答えは「放っておいてくれ」だ。


「父さんがに目をつけられた。だから知っていることを、教えてほしい」


 下手な慰めはいらない。志馬は部屋の隅で三角座りをし、のびやかな褐色の手足を縮めて世界から消えたそうにしていた。金色の頭がすべてを拒絶するようにうつむいて、こちらの声など端から無視しているように思える。


「オレの体がこんなんなったのは、みすらさまに祟られたせいってのは知ってるよな? このままだと、九月にはになっちまう。でも人魚實をみすらさまに捧げ物として返せば、祟りと呪いは解かれるかもしれない」


 志馬は何も答えない。自分の都合を語りすぎだろうか、必死すぎでみっともないだろうか。だが、激痛に苦悶する直郎のあんな姿は、二度と見たくない。


「誠次さんの仇、取りたくないか、志馬。オヤジたち拝み屋だからさ、少しでも分かることがあったら、教えてほしいんだ。頼む!」


 両手があれば手を合わせて拝んでいたところだ。佐強は畳に座りこみ、深々と頭を下げて土下座の姿勢を取った。一分が経ち、二分が過ぎる。志馬は。


「……分かったよ」


 重たいいかりを水中から引き上げるように、やっと言葉を発した。

 知り合って間もないとはいえ、友人とも言うべき相手が打ちひしがれている時、その心に土足で入るような真似をしていることが、佐強は悔しくて堪らない。


「つっても、おれが知ってることなんてな……」

「何でもいいから」

「おう」


 志馬が語ったがんかじの詳細は、既に願施崎当主から聞いたこととほぼ一致した。が、細かい所で重要そうな話がある。

 例えば、は香りを「聞いた」者を「視て」いること。

 そして行に失敗したとみれば「噛んで」殺す。そしてし損じた行者が死ぬ間際、その瞳を見た第三者に新しく行を課す。

 視線から行を課せられた者――つまり現在の直郎の状態――は、香を聞くことで正式に行者となる。これにより、行はより苛烈に進むと。


「がんかじ行は有名だからさ、うちにも色んな人が相談に来たんだよ。親父も爺ちゃんも、あれはやっちゃいけんって言っていたんだ。けど、親父は翠良尾瀬の祟りを鎮められるなら、ってがんかじ行に手を出しちまった……」


 それが八月五日のことだと言う。

 に祟られた来足きたり千乃ちのが夫に殺され、そのまま性急に葬儀を出そうとしていた日だ。願施崎誠次もその一件に決意を固めてしまったのだろう。


「一日目、親父は具合悪そうにしているだけだった。風邪でも引いたのかなって感じで、次の日にはずっと部屋で寝こんでた。母さんはロキソニンとかやたら買っていたかな、効いたかどうか分かんねえけどさ。で、三日目には様子がおかしかった」


 どうおかしかったかについて、志馬は口をつぐんだ。


「で、次の日の朝があれだ。突然ケタケタ笑いながら部屋から出てきて、ありったけの刃物持って、うちを飛び出した」


 そして起きたのが、あの凄惨な事件ということか。

 志馬は鴉紋を恨んでいないだろうか。彼が誠次を取り押さえたことで被害は収まったが、その際に父親が自殺してしまったのだから。

 もちろん鴉紋は意図的に殺してはいないが、事故の可能性はどこまであるのだろう。息子の志馬から殺したと思われるのは、自然な流れではないのか。

 つい先日まで、気軽にじゃれ合った仲なのに、今はお互いに間合いを牽制し合っている。人が死んで、殺されて、それが双方の父親で。

 祟りが、自分たち家族だけではなく、翠良尾瀬を狂わせていく。


「がんかじ行はさ、成功した人はいないって言われてるらしーけど。うちの言い伝えじゃ、最初に寺を建てたご先祖さまはそれに成功したから、を鎮められたんだと。寺と行、どっちが後でどっちが先か分かんねえけど、霊験あらたかだってうちじゃ昔から言われている。でも、常人には無理だからダメだって」


 そこで始めて、志馬は顔を上げて佐強と目を合わせた。


「佐強の親父さんたち、なんか分かんねえけど、三人いるんだろ? そんで拝み屋ってことは、プロじゃん、常人じゃないじゃん。だったら、がんかじ行が成功すんじゃないかな。そんで村を救ってくれよ。おれはもう、こんなのはたくさんだ……」


 その気持ちは佐強も同じだ。だが、父たちは拝み屋ではない。、二柱も怪異を退治したという点ではなかなかのものではあるが。

 がんかじ行をやれ、という勧めは志馬の願いなのか、悪意なのか。昨日までの友人にそんな疑いを抱いてしまったことに、佐強は胸が苦しくなった。


 二階、直郎の部屋。志馬からの話を伝えると、案の定と言うべきか、直郎は「がんかじ行に挑む価値はあるのではないでしょうか」と乗り気だった。


「ダメだよ父さん! 病院であんな苦しそうだったのに、これ以上んなことさせられないって! 心臓止まってショック死したらどうすんの!!」


 人間は激痛だけでも死ぬとどこかで聞いた知識を元に、佐強は必死で止める。しかし直郎は、何もかもすっかり腹をくくったとばかりに澄ました顔をしていた。


「いえ、おそらく死にはしないのではないでしょうか。は人を殺さず、むしろ生かした。であれば、もまた、心臓が止まろうが、脳が壊れようが、苦痛を与え続ける。そのようなかもしれません」

「生きた人間が決して味わえない、まさに地獄の責め苦か。そんなモンに耐えられちまったら、直郎。その時のてめえは人間って呼べるのか?」


 鴉紋が不機嫌をこもらせた低い声を出す。厳めしくもつややかな顔の中、不愉快だと言わんばかりに眉間に深々とシワを刻んでいた。


「そいつはもう、と同じようなもんだろ」

「うん、香を聞くのは反対。ボクの経験的にも、自分から進行を早めてもいいことないと思うな。あーそれとね、サッちゃん」

「何?」


 髪を青々と染め直した八津次から急に振られ、佐強は首を傾げる。


「ちょっと大人の話したいから席外して。そだね、一階に降りてテレビでも見ててよ。できたら音量上げて」

「何その不穏な言い方」


 何一つ希望的なことが想定できない物言いだ。鴉紋がフォローする。


「佐強。こいつが何を言い出すかは知らねえが、俺たちだけで話したいってことは、那智なちに起きたみてえに、聞いた方が後悔する何かだ。やめとけ」

「……うん」


 そこまで言われては仕方がない。佐強は大人しく、一階へと引き下がることにした。そして場には、大人たち三人だけが残される。


「んじゃ、ナオちゃんちょっと眼鏡を外して」


 意味が分からないまま従う直郎に、八津次は真正面へ膝を寄せた。片手を大きく振りかぶり、その頬を力いっぱい打ち抜く。

 ぱぁん! と派手な音がして、直郎の頭がかくんと振れるのを、八津次は胸ぐらをつかんで止めた。そして反対側の頬にも平手を見舞う。二度、三度、往復ビンタだ。

 その腕をつかんでひねり、鴉紋は八津次を止めた。


「何してやがる、てめえ!」

「ナオちゃんに必要なのって、適切なSMプレイだよね」


 鴉紋も直郎も、一瞬何を言われたか分からない、と呆けてしまう。


「マゾヒストは我慢型とか報酬型とか色々いるけど、SMには心理的補償とかカタルシスがあるわけで~。ナオちゃんの〝罰されたい〟は典型的なのよ」


 自由な方の手で、八津次はますます直郎の胸ぐらを強くつかんだ。その仕草に怒りも憎しみも、容赦もない。淡々と、お前に酷いことをしてやる、と手が語っていた。


「早く気づかなくてゴメンね。ナッちゃんと姉弟だって話してくれた時、本当はボクたちに失望されて、罵られて、お前はクズだって言われたかったんでしょ?」


 八津次の言うことは、完全に図星を突いていた。

 病院で苦しんでいる間、直郎はこう考えていたのだ。「これでいい、これこそが自分にふさわしい」「この痛みが永劫残って、己をさいなめばいいのだ」と。


「罰してほしいなら、ボクがいっぱい痛めつけてあげる。罵ってほしいならいくらでも。でも、ナオちゃんは大事な家族だよ。は片付けて、ナオちゃん自身の罪悪感は罪悪感で、きちんと整理していこうよ」

「……八津次、てめえはまず説明してからやれ。毎回唐突すぎだ」

「サプライズしたい欲を抑えられなくて」

「抑えろ」


 兄弟たちのやりとりを聞きながら、直郎は思わず笑みをこぼした。自身がマゾヒストだという自覚はないではなかったが、結局はそうなのか。

 それすらも受け容れようという兄弟たちは、あまりにも優しすぎる。自分にはもったいないほど。それが嬉しくて、申し訳なくて、直郎は泣き笑いになった。

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