はたそまりいつつ 誰かが失敗した苦痛
「父さん、どうしたんだよ。何が起きてんだよ!?」
ストレッチャーに乗せられた直郎の様子は、明らかに異常だ。溺れた人間が酸素を求めるように、口を大きく開け、悲鳴と共に手足をばたつかせている。
「あぁぁあっ……がっ、は、あああ……ッ」
「父さん! なあ、聞こえてる!?」
扉がバタンとしまり、急発進するGにかしぐ佐強の体を、救命士が支えてくれた。他のスタッフは直郎に何かの点滴を打ったり、上着を開いてセンサーを貼りつけていく。血圧計や心電図が動き出し、今起きている危険な何かをあぶり出そうとした。
消毒剤と吐瀉物の匂いが混ざる空気を、直郎の叫びと救命士の声がかき乱す。彼らはさまざまな質問をしているが、悲鳴は言葉の形を取る気配はなかった。
赤いサイレンが鳴る下で、佐強は父を呼ぶことしかできない。
だから鴉紋は警察で事情聴取を受けており、
救命士たちは無線で医師か誰かと話したり、互いに直郎に何が起きているか協議したり、忙しそうで声をかけられる雰囲気ではなかった。
こんな時に、佐強は父の手を握ることも、体をさすってなだめることもできない。改めて、自分から両手を奪ったみすらが憎たらしかった。
いや、そもそも直郎に突如起きたこの異変も、ことによると願施崎誠次による惨劇も、みすらの祟りと人魚の呪いが引き起こした怪異のせいかもしれないのだ。
(……いい加減にしろよ神さま、人間をなんだと思ってんだ……)
自分に残された二の腕で直郎の腹をさすりながら、佐強は涙をこらえた。どん底にはなんとも様々な形があるものだ。
にくべとの時は訳が分からないまま、赤い羊水に何もかも呑みこまれた。のとさまの時は、壊れていく八津次をほとんど見ることしか出来ず、最後は腹を裂くという決断になった。彼が今元気そうにしているのが救いだ。
そして今度は直郎が。いったい何が起きているのか? 彼は助かるのか? 今までは何とかなった、ではこれからは。次は、誰かが犠牲になるのではないか。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。
「何なんだよ、ちくしょう……」
それでも化け物に立ち向かわなければ、自分とまだ幼いすずめ、そして
果てしない暗闇の中、細い糸一本で宙づりにされた心地だった。決して光が届かないほど広く、深く、落ちてしまえばいつ底にたどり着くかも分からない。
すくみ上がった体の内、絞られたように内臓が浮かび上がる、高所特有の生理反応。それが地を這う車内にいながら、そっくり同じものが襲ってくる。
佐強は名前や素性を救命士に訊かれたが、上の空だったと思う。さぞかし自分は青ざめた顔をしていただろう。直郎とのことは父親と説明してしまった気がするが、ややこしい家庭の事情をつまびらかにする余裕はなかった。
病院に着くと直郎は診察室か何かへ担ぎこまれ、佐強は一人廊下に取り残されてしまう。もうここからは、専門家に任せるしかなかった。
これからどうしよう――などと、考える気力すらない。直郎のあんな姿は見たことがなかった、生きたまま腹を裂かれた人間はああではないだろうか、と思うような苦痛に満ちた狂乱。そこには父が普段持っていた柔和さも、知性も、尊厳もなく。
(……父さんが殺した人ってのも、あんな顔してたのかな)
いい気味だというわけではない、ただ、ふっとそんな考えがよぎってしまった。直郎の様子は、拷問でもされているような反応だった。体には何の傷も見えないのに。
命を絞り出すような苦痛に彩られた叫び声は、濁って、哀れで。
痛みの前にはどんな人間も、品位やプライドをかなぐり棄て、屈服せざる得ないのだ。嫌でも骨の髄までそう思い知らされる、
そんな物は見たくなかった、聞きたくなかった。忘れようと耳を塞ぎたくとも、佐強には手がなく。ただぎゅっとまぶたを閉じて、暗闇に逃避することだけ。
「おっ、サッちゃん弱気ー? なんかジュース飲む?」
底抜けに脳天気な声の主に、佐強はソファから飛び上がって、次にその胸に飛びこんだ。患者衣姿の八津次だ。そういえばここは、入院先と同じ市民病院だった。
こいつ「元気?」と訊く所を「弱気?」と訊いたなと気づいて苦笑する。どんどん奈落へ転がり落ちる一方だった気持ちが、やっと足を踏ん張る力を取り戻した。
「とうちゃん……父さんが、父さんが……」
「うんうん、嫌な予感したから来て良かった~。まあ飲み物がてら、パパに話してごらん。自販機いこ。カフェテリアって気分じゃないでしょ」
「父ちゃん……」
「パパだよ~」
八津次は満面の笑みで、一瞬本当にパパと呼ぼうか、と心がぐらつく。嫌だよ十七にもなって。そりゃちっさいころはそんな風に呼んでいたけどさ。
人間というものは、無意識に日々を安心して生きているのだ。
電車を待っている間に線路へ突き落とされないだとか、乗っているバスが横転しないだとか、〝そうはならないだろう〟という希望的観測と経験の積み重ね。
安心を失えば、人はたやすく狂ってしまうに違いない。
幼いころから自分を育ててくれた父の変わり果てた姿は、これまで化け物と対峙した時の「危険なものと対決している」感覚ではなく、「人生の延長線上にあるものが破壊され、二度と戻らないかもしれない」という恐怖だった。
状況は何も変わっていない。
けれど、八津次がいつもの「なんとなくそんな気がした」という理由だけで駆けつけてくれたことが、佐強にもたらした安心は計り知れなかった。
「その
「うん」
八津次の入院している六人部屋。
紙パックの緑茶をすすって説明してみると、佐強は忘れかけていた細かい所までだんだんと思い出す。〝がんかじ〟は確か、オヤカタサマが祀る
「それだとがんかじに噛まれた人間は、頭がおかしくなって人を襲うワケだけど。ナオちゃんは人を襲うどころか、自分が原因不明の痛みに苦しんでいる。なんかつながっているとは思うんだけど、順序がよく分かんないね」
「うん……」
八津次が入院している間に集まった情報は、鴉紋側から共有されている。彼は書き留めたメモを
がんかじ【願果寺】
かつて翠良尾瀬村願施崎に存在した寺の名。香木で作られた仏像が祀られていたが、現在は住職の末裔であるG家が保存。
願掛けに参拝すると、「がんかじ行」なるものを課せられる。これを行うものは他者の痛みが分かるようになり、神仏から多数の試練を受けるとされた。
『翠良尾瀬村民俗誌』の記述だ。
「〝他者の痛みが分かる〟、か。これだね」
仮にもクリスチャンである直郎に、廃寺へ参拝する理由はない。だが、ここで書かれているG家とは間違いなく願施崎のことだ。
願施崎誠次が〝がんかじ行〟を始めて、失敗したか何かの結果があの殺戮なのだろうか。そして、どういうわけかそれは直郎へ乗り移った。
「そーいえば、そんな漫画あったな~。あったら嫌な超能力ってアイデアでさ、テレパシーが聞こえないはずの人の心を聞いちゃうやつの、痛覚版。近くにいる他人の痛みを無差別に感じ取っちゃう、生きてるだけで拷問みたいなヤツ」
「それ、マズいんじゃないの」
八津次の仮説が正しければ、直郎の狂乱は、願施崎誠次の被害者たちが受けた傷を一度に感じたためだろう。だがそれが事実ならば、ここの場所は最悪だ。
病院には日々怪我人、病人が集まってくる。交通事故、自殺未遂、殺人未遂、火事、喧嘩――打撲、骨折、内臓破裂、火傷、刺し傷、切り傷、出血多量。
感じる範囲がどれほどの物かは分からないが、それがまとめて脳に飛びこんできたら、直郎はどうなってしまうのか。
「神島市の治安に期待しよっか?」
「言ってる場合じゃねえよ!」
市民病院は神島市最大の医療施設だ。願施崎誠次の犠牲者はほぼここへ運びこまれているに違いないし、他にもどれだけ怪我人がいることか。
これまで『翠良尾瀬村民俗誌』の記述が頼りにならないことはさんざんあったが、数少ない手がかりであることには間違いない。
そして、「他者の痛みが分かる」という箇所は、状況に符合した。これが事実なら、今すぐ直郎を病院から連れ出さなくてはならない。
当人の検査結果はみごとに「異常なし」。
外傷はゼロ、内臓などの損傷も確認できず、疾患については詳しい検査がまだ必要だが、八津次も佐強も、直郎が何らかの病気を患っているとは聞いていない。
(勃起不全について八津次は意図的に伏せた。さすがに関係ないでしょ)。
ただ血圧が高いことから、一定レベルの激痛を感じていることは確かなので、強めの鎮静剤を処方された。眠りに落ちた彼と話せたのは、夕方だ。
意識を取り戻すなり、直郎は頭痛を――あるいは、もっと酷い何かを――堪えるように顔をしかめ、ゆっくりと眼を開いた。
患者衣から黒のチャイナシャツに着替えた八津次は、朗らかに手を振ってみせる。
「やっほーナオちゃん、いをにやられたみたいで、お疲れさま」
「八津次さん……、佐強くん……」
直郎の眼はこの数時間でどろりと濁り、顔色は青ざめたというより、窒息しかけたような紫がかかって見えた。無傷の重傷者、まるでゾンビのようだ。
それとも、一通りの拷問を終えた後の罪人とは、こんな顔をしているのだろうか。暴力と脅威に対する怯えを通りこして、果てしない苦痛への諦めを湛えたまなざし。
それは佐強の目に、直郎の心のタガが一つ壊れて、二度と戻らないような不吉な印象を残した。痛みは人の尊厳を削る、誰に言われずともそう思い知る。
「ナオちゃん、今さ、下腹が痛かったりしない?」
「ええ……少し、ですが」
そこは数日前、直郎自身が切り裂いた傷だ。今は縫合され、だいぶくっついたはずである。それでもまだ痛みは残っているのだろう。
「んじゃ、ちょっと眼を閉じててねー」
直郎のまぶたを下ろさせると、八津次は自分の親指を噛み切った。「ぅ」と小さく声を上げる義兄の目を片手で覆い、血を舐めながら訊く。
「ナオちゃん、今どこか痛くなった?」
「右の親指が、急に……噛まれたような感じです」
「正解」
八津次は直郎の目を開けさせると、『がんかじ』のメモを渡した。
「ナオちゃんはこれのせいで、周りの痛みをぜんぶ感じ取っちゃってるってことで確定だね。異常なしって言われたし、急いで退院しよっか。ついでにボクもね」
「腹の傷いいの? とーちゃん」
「ここに居たらいい加減退屈なの! それに頭数が増えて悪いことないでしょ、ボクは足引っ張んないって。さーハリーハリーハリー!」
八津次は直郎が眠っている間に、退院する気満々で荷物をまとめている。鴉紋にも連絡を取ると、事情聴取を終えた彼が車で迎えに来てくれるそうだ。
病院は願施崎事件でざわついており、肉体的に何の問題もない直郎を引き留める理由もさほどなさそうだった。一応一晩様子を見ては、とも言われたが丁重にお断りをし、ロビーで三人、迎えを待つ。その間、直郎はずっと辛そうだった。
大怪我をした救急患者は正面ロビーとは別の入り口から搬送される。しかしこちらはこちらで、大小様々な疾患を抱えた人間が行き来するのだ。
ソファにぐったりと体重を預ける直郎の顔色は、お世辞にも良いとは言えない。それは死体を健康優良児と紹介するほどの無理やりさだ。
「でも、やっぱおかしいよ」
見ていられなくて、佐強はとにかく口を動かした。
「周りの人が傷ついたら自分が痛くなるのに、なんで……願施崎さんは、刃物を振り回して暴れたんだろ。理屈が合わない」
「他人の痛みが分かる、自体は単なる試練の始まりなのかもね。でもこの状況だと、願施崎家は警察が捜査しているだろうし、調べるの大変だな~」
「鴉紋さんが何か聞いているといいのですが」
「……父さん、無理にしゃべんなくていいからね」
息子の気遣いに、こんな時まで直郎は微笑みを作って見せる。いや、かろうじて微笑と言えなくもない、引きつりのような何かだ。
そんなことしなくていいのに、と佐強は胸の中で拳を握った。それは自分自身の心臓をつかんでいて、引き絞るような痛みをもたらす。
心の痛みまで、がんかじは伝えるのだろうか。そうでなければいい、と佐強は祈ることしかできなかった。
(……そういや、志馬のやつ大丈夫かな)
志馬は願施崎誠次の一人息子だ。父親が狂って人々を殺傷し、あげく自殺。殺人鬼という点では自分の父たちもそうだが、彼らの犯行はまだ世間に知られていない。
犯人が死んだことで、被害者たちはおそらく家族を責めるだろう。父が死んだらと考えた時の恐怖も合わせて、それは佐強にとっても他人事ではなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます