がんかじが、噛む。
はたそまりよつ もはや修羅の巷(ちまた)なり
「ごめんなさい、ごめんなさい、ゆるしてください」
小学校低学年の男児が、額を畳にこすりつけながら涙声で土下座していた。彼の前に座っているのは、ゆるい顔つきをしたクマのぬいぐるみだ。
ぎし、ぎし、と家屋が
かんしゃくを起こした甲高い泣き方ではなく、ガタガタと震えながら
ドタドタと足音が響き、ふすまを開けて血相を変えた母親が現れる。エプロン姿で、小脇に洗濯物を抱えていた。彼女が少し目を離した隙にこれだ。
「コウちゃん! またそんなことして!」
「ごめんなさい、ごめんなさい、たすっ、たすえてください、ぼっぼっぼく」
軋みが大きくなる。家自体が歯を鳴らすあぎとのように。
「謝らなくていいの!」
母親がコウの肩をつかんで起こすと、畳との間に鼻水が糸を引いた。泣きじゃくる我が子を抱きしめて、彼女は「ひゅっ」と息を詰まらせる。
座ったポーズに成型されていたぬいぐるみが、二本の足でしっかりと立っていた。
軋みが、
◇
「あぁ、やっぱ産んどるなあ」
最近よく見かけるキジトラの猫が、腹を大きくしてしばらくが経つ。子供たちには餌をやるなと注意したのに、最近では半分飼い猫のようなものだ。
しかしいくら可愛くとも、一度に五匹も八匹も産まれる猫の面倒をすべて見られるわけがない。目が開くと情が移るから、その前に処分してしまわなければ。
こちらのそんな腹づもりを分かっているのか、それとも出産直後で気が立っているのか、母猫はフシャーッと蛇のように威嚇した。
八匹の子猫は先を争って乳房に吸いついている。生まれたては三角の耳もぺたりと閉じて、尻尾も細くとがり、ネズミのようなものだ。それになんだか毛も薄い。
「……んん?」
何かがおかしい。子猫の半数はうっすらと毛皮の模様が見えるが、残り半分はネズミの子のようにピンク色だ。いや、そもそも毛がないのではないか?
それどころか、尻尾もない。母猫が引っかいてくるのを無視して、無理やり一匹を取り上げると、その姿がハッキリした。
爪のない五本の指、頭頂ではなく側頭部についた耳、完全に二足歩行に適した足の形。それは、子猫ほどの大きさの、小さな小さな赤ん坊たちだった。
ぱちりと開いた瞳が、強ばった男の顔を映す。
◇
「二人でいらっしゃい、肝試しに」
「新しくできたばかりのおうちじゃない」
「あばら屋は危ないよ。オバケ屋敷だと思っておいで」
「それじゃきもだめしになんないよ」
日常にちょっとした刺激を求める二人は、元々は市内に暮らしており、最近この翠良尾瀬に引っ越してきたばかりだ。 は、そんな時に話しかけてきた。
「オバケ屋敷は作り物だからね。そうでないと危ないよ、肝試しはいなくなっちゃうかもしれないから。私のお家は作り物です」
「そっか、じゃああんしんだ」
「そっか、じゃああんしんだ」
「作り物だから、ほんとうかもしれないなんて、考えないでね」
声だけの何かに男児と女児はついていく。これは作り話、住宅地の片隅にある未入居の家に、こっそり侵入するだけ。おかしな因縁なんて何もない。
けれど二人は帰ってこなかった。
◆
八月一日。
血の雨が降り注ぐ中、差し出された傘の下で、
水分と酸素を失い、固まっていた肺がほーっと息を吹き返す。
「……
先ほどかすれていた声は、今度はすべらかに出た。睡蓮の着物を着た眼鏡の女性が、黄金の仏像を思わせる柔らかな笑みを向けてくる。
すべてが正しい所に収まった気がした。血の雨など降っていない、打ち棄てられ肉塊のようになった命も、愛する人の死もない、自分本来の人生に。
「そうよ、直郎クン。きょうだいで愛し合うことなんて、何もおかしくないのよ」
「いいえ」
直郎はかぶりを振って後ずさった。傘から出た体が、透き通った雨粒に打たれる。あたりは血と肉色の地獄絵図から、古民家が建ち並ぶ風情ある町並みに戻っていた。
「嘘ばっかり。法律ではきょうだいは夫婦になれないけれど、あなたはわたしと結婚したじゃない。
彼女の言う通りだ、自分は形だけでも姉との関係を続けたかった。だが以前のように愛し合うことはできない、してはいけない。
改めて見れば、
誰も、二人を似ていると指摘したことはなかった。なぜ今さら、その姿が鏡写しのように思えてくるのだろう。目鼻立ちは記憶と寸分違わぬというのに。
「……わたしたちは互いのドッペルゲンガーだ」
自分の分身を見た者は、間もなく死なねばならない。
「勝手に分身にしないで。わたしにはわたしの、あなたにはあなたの、別々に心と体がある。でも安心して、それがあなたの望みなら、叶えてあげる」
蝋のように白く、すべらかな指が口に入りこんでくる。花弁のような爪が舌を引っかき、彼女の末端が唾に濡れながら、
知っている、直郎はよく知っている。その仕草の意味が〝わたしを食べて〟だと、何も知らずに恋人同士でいたころ、何度も求められた。
傘が雨の路面に落ちる。
「いっしょに翠良尾瀬で暮らしましょう。あなたとわたしは一つになる。嘘もぜんぶ本物よ、わたしは美味しかったでしょう? また食べてほしいわ。でないと、あなたも、鴉紋クンも、八クンも、さっちゃんも、ぜんぶもらっちゃうんだから」
か細くしなやかな手は、直郎を逃がさぬようしっかりと顎をつかんだ。
◆
八月六日。
鴉紋と
だが本当の訳は、二人とも受け容れるばかりで、自分を責めることも嫌悪することもなかったことだった。
(わたしを罰してほしかった)
けだものだと非難して、頭がおかしいと殴って、お前は汚らわしい存在だと罵ってほしかった。直郎は常に、自分を罰するものを求めている。
神か、法か、はては家族か。どうして自分のような唾棄すべき罪人が、のうのうとこの世にいるのだろうと、不思議で仕方がない。
那智子と双子の姉弟でありながら関係を持った、その秘密を知られたくなかったという気持ちは本心だ。だが、ついに秘密を打ち明けると決めた時、心が楽になった。
きっと彼らは自分を責めてくれるだろう。この罪悪感にトドメを刺して、罪を断じて、見放してくれるに違いないと。なんて傲慢なマゾヒストだ。
(救いようがない、わたしは、救いようがない)
自分がのとさまに祟られれば良かった。死ぬこともできない無感覚の地獄で、何も分からない責め苦にあえいで果ててしまえば。
あるいは――あの龍神が
◆
八月九日、人魚狩りの期限まで、残り二十四夜。
「朝起きたら部屋がすごく冷えていて。結露した窓が、手形でいっぱいなんです」
「最近、犬猫の死体が増えてなぁ」
「下荒川の鈴木さんち、旦那さんが色んな動物の耳を吐いたんやと」
「夜中に、家の
直郎は鴉紋、佐強と共に車で村内を回り、怪異の目撃情報や、異変のあった地の調査に出ていた。「佐強が
一方で、あの屋敷を出る理由と旨味がないのも事実だった。信多郎は翠良尾瀬の名家、みすらおがみ神社の神主として信頼がある。
自分たちはその彼が呼んだ拝み屋として知られ、連日人々が相談を持ちかけるようになった。そんな時に、裏巽家と距離を取るのは悪手だ。
それに、おかげで情報はいくらか集まった。とりわけ七つのオヤカタサマ、先日のとさまを鎮めた
分かったのは名前とおおまな概要だけで、ほとんどの家は詳細不明、ただ形骸化した儀式だけ伝わっている状態だ。だが何も分からないよりはいい。
あちらこちらで子供が行方不明になったり、怪奇現象の報告が相次いでいるのだ。人が死んだ例は現在、来足千乃だけだが、今後新たな犠牲者が出る可能性も高い。
「とんだ魔界だな、ここは。人間より化け物の方が多いんじゃねえか」
運転席。タンブラーから自家製コーヒーをあおりながら、鴉紋は嘆息した。助手席の直郎は、疲れを隠して苦笑する。最近、目元にクマが出てきた。
「いをが元々は村の祖先であった以上、本当にそうかもしれませんよ」
「……それが一斉に起きたって、祟りヤバすぎ……」
「言っておきますが、佐強くんのせいではありませんからね」
後部座席を振り返ってきっぱりと言う。体の一部を取られたのは人魚の呪いというのは、まあいい。しかしついぐなの儀の失敗と祟りがどうも怪しい。
オヤカタサマの何人かは、「裏巽すずめが神隠しにあったのは、みすらさまを怒らせたから」「その怒りが続いているから、儀式も失敗した」と言い立てた。
直郎と信多郎は従兄弟同士にあたるため、その子供のすずめは直郎から見て
奪われた体が「両足」というのは、何かふくみを感じた。
既に病死した信多郎の両親も、調べればイトコないしそれに近い血筋かもしれない。信多郎、佐強、すずめ、最初に祟りにあった三人がすべて人魚と深い関係にあるのは、決して偶然ではあるまい。そして今は直郎という血が翠良尾瀬にいる。
双子の姉である那智子はこの土地で命を落とし、今や龍神がその姿を利用していた。では、自分は? 龍神にとって、直郎も人魚の端くれではなかろうか。
――あんたは少し変わってるなぁ。
初めて顔を合わせた時、信多郎はそう言った。
――あなた、何か神さまを信じてらっしゃるでしょ。うちは神職の家系やけど、まあ神さまは気にせんと思うさかい――
あの時、信多郎は直郎がクリスチャンであることを見抜いたのだと思っていた。だが今振り返ってみると、別の意図が隠されていた気がする。
那智子は直郎と違い、神への信仰を持たなかった。多くの日本人と同じ、クリスマスや初詣を楽しみ、子供のころ出席した義祖父の葬儀は仏式。
万能の主がおわす世界にも、悪霊や悪魔は存在する。みすらがその一種ならば、直郎がその神に取られないのは、主が己を見捨てていないという証左ではないか。
直郎がぐるぐると思考の淵に沈んでいると、どこからが男の怒号めいた叫びが聞こえてきた。窓をしっかり閉めてエアコンを効かせた車内、エンジン音も突き破って。
「えっ、何!?」
佐強が眼を剥き、鴉紋は無言で急ハンドルを切った。物騒な気配が直郎の神経をざわめかせると同時に、怪我人がいるのではと思うと医師としての意識に切り替わる。
複数人の悲鳴が聞こえた。交通事故などではなさそうだ。
車は民家の間に入った。車道には狭いそこで鴉紋は運転席を飛び出す。直郎は佐強のシートベルトを外し、彼を下ろして運転席に差したままの鍵を抜いた。
車の中に置いた方が安全かどうか迷うが、もし怪異の仕業なら、一人きりにするのはまずい。「あまり前に出ないでくださいね」と釘を刺して直郎は鴉紋を追った。
背が高い義兄の姿はもう見えない。代わりに、腕から出血した若い男がこちらへ走ってきた。「
よく見れば、この所ひんぱんに裏巽家へ遊びに来ていた少年だ。
「さ、佐強! 親父が……親父が、がんかじに、噛まれた」
短く刈りこんだ金髪に、褐色の肌。記憶では快活な笑みを浮かべていた顔は、今や涙と鼻水でぐしゃぐしゃになり、腕には切り傷があるようだった。
志馬……確か、名字は願施崎だったか。がんかじは、願施崎家が祀る人魚實だったはずだ。では、その祟りが起きているに違いない。
「願施崎さん、手当を」
「あんた拝み屋さんだろ!? こっち来てくれ!」
志馬は思いのほか強い力で直郎を引っ張った。争うような物音に、甲高い金属音が混ざり、叫び声がほとばしる。いったい何が起きているのか。
アスファルトの路面に血の痕がいくつもあった。志馬一人のものではないのだろう。彼と同じように、何人もの人がこちらへ走って逃げてくる。
ほとんどは無傷だが、皆恐怖で顔を歪めていた。
つま先が何かを蹴飛ばし、甲高い音を立てる。見れば血のついた包丁だ。その先に鴉紋と、彼に腕を
頬には返り血が飛び散り、不愉快な笑みを浮かべている。カタカタと歯が壊れた鍵盤のように揺れ、明らかに正気ではない。
あるべき人間の理性や心性が腐り果て、無数の蛆にたかられているのに、まだヒトの形をして動いている――恐怖よりも、怒りよりも、生理的嫌悪感が最短距離で走り出し、石でも投げつけなければ収まらない、凶暴な気分がこみ上げてくる。
不意に、直郎は男の狂った瞳と眼が合ってしまった。
(苦は楽と異ならず、楽も苦と異ならず、苦
ばちん、と音を立てて直郎の指がすべてはじけ飛ぶ。血が流れ、ほとばしり、足元にどさっと落ちる生温かい塊は自分の内臓だ。あちこちが切られ、紫のアザや打ち身だらけだった。喉が裂かれて声が出ない。腹膜が突き破られ、激痛が全身をわななかせる。眼を潰されて片側の視界が消失する。頭が痛い。やめてくれ。肉と肉の間に硬い金属が差しこまれる感触がおぞましい。侵入してくる異物に己が破壊され、耐えがたい苦痛に焼かれた脳が混乱した指令を出し、直郎はその場で嘔吐した。
頭の中でささやいた声がなんなのか、考える余裕すらない。生きたまま
その体には傷一つない。
訳の分からない佐強と鴉紋、そして志馬が見ている前で、彼は吐瀉物にまみれ、喉を裂かんばかりの悲鳴を上げ続けていた。
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