第六滴 ごうやふとりの、別れ道。

はたそまりななつ こうして彼は「ついぐなに成」った。

 松羅まつら八津次はつじという男は何なのだろう。

 屋敷左棟の座敷、祭壇の前で朝の務めを終えて裏巽うらたつみ信多郎しんたろうはほとほと思う。翠良みすら尾瀬おぜに招かれた四人の内、あれは飛び抜けて異常だ。

 せい直郎ちょくろう小田島おだじま佐強さきょうは良い、あれは最も血の価値が高きもの。宇生方うぶかた鴉紋あもんは、抜きん出た身体能力は充分に警戒すべきものだが、しょせん人間の範疇はんちゅうだ。


 松羅八津次だけが違う。理屈抜きで正解を選び取る直感は、しかしどういうわけか霊的なものではない。最初、信多郎は〝お守り〟が強いのだと思った。

 死した血族か、彼を特別気に入った神霊が見守り、加護や寵愛ちょうあいを与えているのではないかと。それは妥当性が高かったが、この十日観察して分かった。


 あれはもっと違うものだ。単純な霊感でもない。忌々しくも、別のチャンネル――超能力、と古典的に言った方がしっくりくる。

 人間は誰しも直感、第六感を持っているが、それに従うことが出来る者は多くない。強いて言えば、呪術を生業とする術師か霊能者。

 いかに優れた直感でも、単なる気のせいや誤読をふるいにかけ、正しいものにだけ従うということは、よほどの才能か修行がいる。


 松羅八津次はよほどの才能、の方だ。飼育箱で野生は生まれないと言えば、誰もが何を当然のことをと呆れるが、その実例がよりにもよって、こんな所に。

 現代文明に生きる人間とは思えぬ超直感と、その五感に依らない「ただの勘」を迷うことなく選び取り、判断に活かすことが出来る心性。


 総じて言えば、松羅八津次は「千里眼」を持っている。生まれついての脳回路の仕上がりか、どこか異界とつながってしまったのか、原因はまあどうでもいいのだ。

 いかに千里眼とて万里は見通せまい。あれを何とか出し抜くか、早々に憂慮ゆうりょの元を取り除くか。最初に自分が示して見せた期限は、もう長くないのだから。


「すずめちゃん」と娘の無事を祈って、信多郎は再度祭壇を伏し拝んだ。



 八月十一日、人魚狩りの期限まであと二十二夜。


 ホラー作家、ジャック・ケッチャムは短編『カウ』でこう記した。「痛みはもう怖くないんじゃないかと思う。頂点を知ってしまったからだ。」と。彼の著作は暴力的ポルノのそしりを受けたが、それほど過激な暴力と苦痛と悪意が多々描写される。

 八津次は同作の「〝キスは隠れた噛みつきである〟」という台詞が好きだった。

 これは人間が人間の顔を食いちぎった場面で発されたので、隠れもしていないのだが。誰かとキスをする時、八津次はいつも「噛んでいい?」と心に思っていた。


 EDのため、夜の営みに参加しなかった直郎は知るよしもないだろうが、自分は一つ嘘をついた。鴉紋と那智子、三人でセックスをした時、八津次はしばしば彼に唇を重ねたが、拒まれたことはなかったのだ。後で注意を受けることさえ。

 三人で寝るということは、数の多い方に同性愛的なコミュニケーションが発生することは回避不可能だ。鴉紋もそれを分かっていただろう。

 おそらく二人きりの時に求めたら、ぶん殴られたに違いない。


 自分はいつも、食べたことがない珍しいものを口にしたいと思っている。那智子を噛んで、んで、味わいたいという願いはかなった。

 だがまだ死んで欲しくなかった。彼女の身に起きたことも、早すぎる死を選んだことも、ずっとこの胸に残っていて、何度思い返しても八津次は笑うしかない。

 人生は喜劇だ。笑えない喜劇なんて、そこらの悲劇よりよっぽど酷い。


 八津次は鏡の中の己を見つめた。いつも通りの薄笑い、それでいい。普段と違うのは、髪をすべて刈って丸坊主になった頭だ。

 のとさまの一件後、八津次は入院中にネット通販でウィッグを買い、コンビニで受け取るためこっそり病院を抜け出していた。

 色味や細かな形を調整する時間はたっぷりあったし、細やかな作業には自分の器用さが存分に活躍する。実際仕事は完璧だ、誰も気づきやしない。


 頭を丸めたのは、「髪を染め直してくる」と部屋に戻ったタイミングだ。

 急に髪を切ったり、ましてや違う色に染め変えれば、皆にいつもと違うことをした、と印象づけてしまう。それはダメだ。何も変わらないと装おう必要があった。

 知られてはいけない。目立ってはいけない。誰にも気づかれぬまま事を遂行する。もはや八津次は、今起きている出来事を見過ごせない。


 鴉紋、直郎、そして佐強。このふざけた祟りを終わらせて、みんなで八王子の家に帰る。そのためには、何でもやってやると決めたのだ。

 ああ、必ず終わらせてみせる。神だか祟りだか呪いだか知らないが、邪魔をするな。ボクは決して許さない、一切の容赦はしない。

 どうせこの手は、とっくに血まみれなのだから。



「信多郎クンと仲良くしてる?」


 台所の入り口に、が立っていた。睡蓮の着物に蛇の帯。変わらぬ慈愛の微笑みを湛えて、在りし日のように。

 鴉紋は氷水につけた焼きナスを手に取ろうとして、ボウルに戻す。

 タオルで水気をぬぐい、彼女の方へと近づいた。隣の居間ではすずめがテレビを見ているはずだが、しんと静まりかえって、蝉の声も届かない。

 台所だけが世界から切り離され、無限の虚空に浮いているようだった。


「那智、お前は誰の味方だ。あいつはやはり、まともじゃねえ。信用できん」

「わたしは誰とも敵にならないわよ?」


 すっと上げられたおもては霊性を帯びている。彼女の喉は輝くように白く、瞳は湖のごとく透き通りながら、どこも、何も見ていない。

 世界中どの場所、どの時間に置いても異物感でもって浮かび上がり、誰もが忘れられなくなりそうなのに、一度眼を逸らせば記憶からこぼれ落ちてしまう。


 どんな顔をしていたか、瞬きのたびに忘れて、また再びその顔貌がんぼうに打たれるような。かつて見知っていた時よりも凄絶な、しかし拒絶の美だ。

 おまえのことなど知らない。

 どう生きようがどう思おうがどう死のうが、わたしの美しさには何も関係がない。人の心に共感を呼び起こす芸術とは真逆の、それは冷たい彫像だった。


「みんなといっしょに、翠良尾瀬で暮らしましょう。だから信多郎クンとも仲良くしてほしいの。わたしたち四人だって、いっしょにさっちゃんを育てたじゃない」

「……お前は誰だ」


 ついに鴉紋は自らの疑念を認め、血潮のように発する。偽物だと思っていても、その姿にすがっていたかった。だが、自分たちは追い詰められている。

 に狙われている直郎も、両手が奪われたまま二十日以上が経つ佐強も、これ以上放置するわけにはいかないのだ。自分は家長ではないか。


 八津次だって本当なら、腹の傷を思えば病院で寝ているべきだ。この村でも来足きたり家と願施がぜざき家、その近所で次々と死傷者が出ている。

 自分の感傷に浸って、眼を逸らし続けている場合ではない。


「わたしはわたし。あなたが那智と呼んだから、わたしは彼女」

「じゃあ言ってやる、龍神みすら。何の目的で俺たちにちょっかいをかける?」


 まあ、と女神は可憐に声を上げた。それは野に咲く花と同じだ、可憐だと思うのは人間の都合で、そのものは生殖のため花弁を開かせているだけのように。

 見方を変えれば、花畑は命が食い合う地獄絵図なのだから。


「軽々しく口にするべきではないわよ。でも、いい、赦してあげる。わたしは約束が遂げられるかどうか見守っているだけ。あなたたちといっしょになるのが、楽しみで仕方ないんですもの。とても素敵なことなのよ?」

「意味のあることを言う気がないなら、失せろ」


 決別の意をこめて、鴉紋は背を向けた。

 この神は、後ろから突如襲いかかるような真似はしない、その必要がない。万が一そのような気があれば、とっくに自分たちは終わっている。

 それはよりも、よりも、もっと悲惨な結末に違いない。


 朝食の用意を済ませ、コーヒーを淹れていると、「おは~よ~」と明朗快活な声が台所にやってきた。八津次だ。それでようやく、居間から聞こえるテレビの音や、蝉の声が戻っていることに気がつく。あれはもう帰ったのだ。

 振り返ると、いつもの青い髪に、青いチャイナシャツ姿の義弟がいた。


「直郎はどうだ」

「まだ寝てる」

「珈琲が冷めちまうな」


 淹れ立てのコーヒーは焼きたてのパンと同じく、最高だ。


「ってか、今日はもう休ませときゃいいんじゃないかな。昨日は願施崎の被害者一同の痛みをまとめて詰めこまれたのに、夜にはあんな拷問まがいのこと欲しがってさ」

「……お前、なにやった」声が低いうなりになる。


 直郎が求める痛みを八津次が与える、そのことに鴉紋も同意した。彼一人に任せたことに後ろめたさはあるが、今さら不安が押し寄せてくる。


「爪の間に針刺して、生爪剥がして、ちょっと塩をすりこんだの。指三本分だけね」

「それだけやって、あいつ悲鳴も上げなかったのか? そんなに思い詰めていたとはな……いや、か。さてはあれでタガが外れやがったな」


 拷問する時は苦痛の極みを味わえるよう、軽いものから徐々に段階を上げていく。ところが直郎は、によって死にゆく者と重軽傷者の苦痛を一息に与えられてしまった。だから耐性がついて、生半可なものでは足りなくなったのだろう。

 危険な状況だ。そもそも直郎は昨夜、八津次に自分の指を五本責めて欲しいと頼んだ。そんなことをしては、爪がいくつあっても足りない。

 鴉紋と八津次で説得させ、何とか指三本に譲歩させたが、本当なら一本で済ませてほしかったところだ。


「荒療治にもほどがある。そもそもあいつ医者だろうが、不養生どころじゃねえぞ」

「小児科と心療内科じゃ別物だからしょうがないでしょ。ボクにいたっては陶芸家だよ? まー、SMクラブでバイトしてた経験が、役に立つとは思わなかったけど」

「前にそんな話をしていたな……」


 聞いたのは八王子の陶芸工房、その地下に設えた拷問室だ。事が終わってあちらに帰ったとき、直郎はその部屋で拷問の限りを尽くされることを望むかも知れない。

 できれば勘弁してほしい。早急に適切な治療を出来る専門家を探すべきだろう。家族の問題というものはしばしば、家庭内だけで片付けようとすると悪化しがちだ。


「ま、死なれてから気がつくよりはずっと良かったでしょ。今日も一日、退治ガンバろ! おー!」


 満面笑顔で腕を振り上げる八津次に、鴉紋は苦笑で応えた。



 目が覚めた時、この十七年で一番、心が軽くなっていることに気がついて、直郎は顔をしかめた。おそらく存分に罰されたから、痛めつけられたからだ。

 を前にして、「帝王切開するしかない」と提案した手前、そして医師という立場ゆえ、自分の手で八津次の腹を切った感触を生々しく覚えている。


 あれは最悪だった。これと定めたターゲットを拷問するのは別によい。まぶたを切り落とそうが、睾丸を潰そうが、眼球を抉ろうが耐えられた。

 八津次は、インモラルな方だと思う。だがその明るさに自分は救われているし、包容力もある。大切な家族だ。外科手術ならまだ良かったが、あの時の彼は麻酔の代わりに、怪異なるものに痛覚を奪われていた。そんな状態の人間に刃を突き立て、大きく切り開くというのは医師としての倫理に、自分の感情にそむく。


 だから、八津次には本当に酷いことをさせてしまった。

 彼も自分たち家族を同じく大切に思ってくれているのは知っているのに、針を打つのも爪を剥がすのも苦しかっただろう。

 すみません、と胸中で謝りながら、直郎はまた己が同じものを、あるいは更なる痛みを求めるだろうと確信していた。ああ、いけない。聖書を読もう。

 くたびれた黒革の装丁に、人差し指の第二関節ほどの分厚さ。その重たさは直郎になじみ深く、心地よい。


 ヨハネによる福音書、第六章47節と48節。『よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には永遠の命がある。わたしは命のパンである』

 そこでふと、直郎は手を止めた。命のパン。


 49節から51節。『あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」』


 ここで言われる「わたし」とはイエス・キリストのことだ。パンは食べられるためにあり、なくなってしまった時にその使命をまっとうする。

 パンであるイエスもまた、食べられることこそ意義がある。それは文字通りの肉ではなく霊であり、イエスこそ永遠の命、その源だと説くのがこの下りだ。


 なお、「マナ」とはゲームやフィクションで扱われる魔力うんぬんではなく、モーゼが奴隷の立場にあったイスラエルの民をエジプトから大脱走エクソダスさせた時(『出エジプト記』)、飢えた民に神が天上から降らせた食べ物だ。


 直郎は胸騒ぎと、嫌な予感がした。神島かみしま市には三つのキリスト教会があるが、そのどれもが翠良尾瀬とは離れた場所にある。みすらは異教の神だが、しかし。

 これは自分たちの置かれた状況に符合する、と直感が働いた。


 53節から58節。『イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。

 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終わりの日によみがえらせるであろう。

 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。

 生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。

 天から下ってきたパンは、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろう」』


 心臓の鼓動が早鐘を打つ。

 もしかして自分たちはすべて、思い違いをしていたのではないか。人魚の肉を食べたものたちは祟られた、死ぬか、中途半端な不死でもって罰せられたと。

 それはひとえに、食べたことそのものが罪なのではなく、みすらへ、翡翠姫への信仰が足りなかったためではないか?


 ローマ人への手紙第九章33節。

『「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、さまたげの岩を置く。それにより頼む者は、失望に終わることがない」と書いてあるとおりである。』


 神を信じる者は現世利益を追い、死後運良く天国に行けたらいいな、などという心持ちであってはならない。信仰者はつまずくことなく、失望することなくその生活を歩まねばならないのだ。もちろん直郎は、すでにつまずいている。

 それは魂が救われないということだ。


 主の教えを生きる糧、いのちの糧と語る者だけが「永遠に生き」る。悔い改めるか、不遜ふそんになるか、その選択こそが重要だ。

 翠良尾瀬の人々はどうだった? かの人魚伝説では、村人は不老不死を望み、死者の復活を望み、現世利益を求めて翡翠を殺し、食らった。

 だから彼らはあのように罰せられたのだ。いや、違う、主なるイエスであればそのようなことはしない。であれば、これがみすら神の性質か。


 コリント人への第一の手紙第十一章24節、『これはあなたがたのための、わたしのからだである』25節『この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい』

 かくて聖餐せいさんの儀はキリスト教の礼拝において重要となった。


 同27節『だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。』29節『主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分のさばきを招くからである。』


 みすらは、別の、神だ。だが直郎はこの一致にどうしてもある論理を見いださずにはおられない。翠良尾瀬の人々が祟られた理由を、その罪を。

 人魚を食べたのは、聖餐であり、カトリック風に言えば聖体せいたい拝領はいりょうだったのだ。


 みすらの娘、翡翠はかの女神が賜った「天から下されたパン」だった。それを食らうことで、彼らはみすらのまったき信徒となる。

 だが当の彼らはそれを拒み、または信仰を抱かなかったため罰せられた。

 であれば、翠良尾瀬の人々が翡翠の血肉、人魚実にんぎょざねを返そうとするのは、まったく意味が異なってくる。それは過去の聖餐をなかったことにしたいのだ。


 の儀が、翡翠の血を結実させた人魚を生け贄とすることはもはや疑いようもない。信多郎は対媾ついぐな、兄弟姉妹同士の結婚を指すと言った。

 佐強はいわば、その申し子だ。そして言い換えれば、とは生け贄そのものを指すことは想像にかたくない。で、あれば。であれば。


 最初に失敗したの儀は、佐強を生け贄に捧げようとし、そしてし損じたということではないのか? あの子は「ついぐないけにえに成」ったのだ。

 それを裏巽信多郎が故意に行ったかまでは分からない。そして、人魚の血を引く那智子の体を食らった自分たち三人は、こうして翠良尾瀬に招かれている。

 血が薄い、という言葉は本当だろうか。もし事実が逆ならば? 信多郎の目、すずめの足、佐強の手。そして不遜に肉を食らった三人の男。


 神が人を喰らうのか。

 人が神を喰らうのか。


 すべての前提が、直郎の中で崩れ落ちようとしていた。

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