はたそまりやつ 人の顔は一つだと誰が言った?

 自分の肘の断面を見ることにも慣れてきた。本当か? 血も骨もない、皮膚に覆われた真っ平らなそれは、マネキンのように不自然で気持ちが悪い。

 それでも佐強さきょうは、今日も今日とて残った二の腕を寄せて、食前の祈りを捧げる。脇をきつく締め、胸が苦しい恰好だが、長年の習慣を辞める気にはなれなかった。


しゅよ、この恵みに感謝します。主の御名によっていただきます。アーメン)


 父・直郎ちょくろうは日々の糧に感謝を、と言ったものだ。人はパンのみに生くるにあらずとか、主は天から下された命のパンである、とか。

 教育の成果か、食べ物に感謝する、という考えと行為は自然と佐強に身についた。


(もしオレが食べられる側になったら、ちゃんと感謝してほしいもんな)


 ふっとそんな考えがよぎる。座卓には白飯、焼きナス、昨夜の残りの鶏ゴボウ、だし巻きなどが並んでいた。なかなか渋いチョイスだ。

 食べられてしまうことは怖くない、どうせその時には死んでいるのだから。この翠良みすら尾瀬おぜなら、生きたまま人を貪る化け物がいるかもしれないが、それは嫌だ。


 フィクションでカニバリズムが描かれる時、食べる側はそれを楽しむか、粗末に扱うか、人肉を食わされたことにショックを受ける。

 どうせ食べられるなら、こちらの命に感謝して、美味しく食べてほしいものだ。父たち三人と自分は、母の遺体を大切に食べた。彼女も喜んでいるのではなかろうか。

 何しろあの男たちは、みんな母さんが選んだ連中なのだから。


「どうした佐強、ボーッとしやがって」


 今日の食事介助当番の鴉紋あもんが、端正な面構えに怪訝けげんそうな色を乗せて訊ねた。筋肉質で大きな肉体は、四十路の男が持つ脂っ気のことごとくが艶気になっている。

 男らしく血管が浮いた手には自分の物ではなく、佐強の箸が握られていた。息子が何を食べたいと言うのを待っているのだ。自分はそんなに考えこんでいたのか。


「……父さんと志馬しま、いねえなって思ってさ」


 佐強はくだらない雑談になりそうな物思いより、もっと深刻な憂慮ゆうりょの方を口にした。実際どうなのか、訊きたい気持ちも本当だ。


「あいつは今日一日休ませる。は対処法が何も分からんからな、お前、家の中でうっかりこけたりぶつけたりするなよ。直郎にも痛みが飛ぶからな」

「わぁってるよ」


 人の感覚を奪うとは逆に、他者の痛覚を共鳴させる

 まったく、どうしてこうは、特に人魚實にんぎょざねという守り神として祀られたやつは、こうもタチが悪いのか。

 そんなものを担ぎ上げなければならないほど、ここは追い詰められていたのだろう。翠良尾瀬が背負っている歴史は暗く深く、そして重たい。


 外から聞こえる蝉時雨は相変わらずうるさい。災いの直前、動物たちが一斉に静まりかえったり、ネズミが逃げ出したり、鳥が飛び立つという描写はよく見るのだが。

 いや、確か蝉の寿命は一週間程度。佐強がここへ来たころのものはとっくに死に絶えて、後から来たものが鳴いている。死は、いつもすぐ傍に。


……ああ、やめてくれ。蝉の声さえ、空が落ちる前触れみたいだ。


 ふと、佐強はこの場が、海の底のように茫漠ぼうばくとした奈落に思えた。

 体には水圧の重さがのしかかり、呼吸はまともにできず、あたりにはグロテスクな深海魚を思わせる異形の人魚たちが、今か今かとこちらをうかがっている。

 土の中には生まれ続け、食われ続ける赤子の姿をしたが埋まり、運の悪いものはに捕まって、永劫の地獄へ。一見のどかな山あいの村でしかないのに。


願施がぜざき志馬はそっとしておいてやれ、と言ったのはお前だろうが。で? 特にリクエストがないなら白米からかっこませるぞ」

「焼きナス食いたい」


 鴉紋の声で我に返りながら、佐強は父の顔を見つめた。相変わらず俳優のように整って、笑顔でも向ければ、大概の女性はコロッとまいってしまいそうな美貌。

 やや厳めしくはあるが、その鋭さがまた良いと言う人も少なくはないだろう。


 そしてこれが人殺しなのだ。世の中は分からない。一見柔和そうで、透き通るように優しげな雰囲気を持つ直郎も、髪を青く染めて、職業はヒモとかパチプロとかバンドマン志望とかのよろしくなさげな雰囲気だが顔は悪くない八津次はつじも、みんな。

 ちなみに八津次は一度だけパチンコに行ったが、大当たりを出し過ぎて店から出禁を食らった。小さかった佐強は、山盛りの菓子景品を喜んでいたことを覚えている。


 人も、村も、見た目だけでは何一つ分からない。今だって、両手を失った息子の口に、ほぐした焼きナスを運ぶ鴉紋は、ただの優しい父親だ。

 誰も、信多郎しんたろうのような霊能者でもなければ彼らが十年間ずっと、人を拉致して、監禁して、拷問の末に殺し、死体を始末してきた殺人鬼だなんて思わない。

 父たちの犯行を知って、逃げて、たどり着いた所は祟りで地獄絵図を見せている小さな村で。どうして自分は、そんな時に親子仲良くのんきに食事しているのだろう。


「また寝ぼけてんのか? 佐強。直郎の分の珈琲が余っちまっている、それでも飲んで眼を覚ませ」


 返事を聞かずに、鴉紋は立ち上がった。もらえるならもらっておこう。父特製のコーヒーは、缶コーヒーとは比べものにならない。

 ずっとずっと怖くて堪らない。父たちは大人同士で色々話し合っているみたいだが、そこから自分に共有される情報はごく一部だ。


 もしかしたらすべては手遅れで、父たちは誰を殺し、何を切り捨てるか決めてしまっているのではなかろうか。その切り捨てる物に自分が入ることは、おそらくない。あの人たちは一人息子を死なせるぐらいなら、容赦なく他者の命を奪う。

 そのことが、翠良尾瀬で父たちと合流して十日の間に、肌で伝わってきていた。



 自分が正気である保証などどこにもないのに、なぜまともな人間のように懊悩おうのうしているのだろう、と直郎は寝床で自嘲じちょうした。

 聖書を読み、今の事態に対する一通りの考察を終えると、思考はするりと己の内側へと傾く。人類三大タブー、殺人・食人・近親相姦。そのすべてを自分は犯した。


――ナオちゃんに必要なのって、適切なSMプレイだよね。


 八津次はそう言った、自分も一度納得した。だが。


――マゾヒストは我慢型とか報酬型とか色々いるけど、SMには心理的補償とかカタルシスがあるわけで~。ナオちゃんの〝罰されたい〟は典型的なのよ。


 八津次はこちらが乞うままに、爪の間に針を打ち、生爪を剥がして責めた。手慣れているのはともかく、そんなことを彼にさせてしまったことが、直郎は心苦しい。

 違うんです八津次さん、私の「罰されたい」なんて戯れ言だった。存分に苦痛を浴びて気が楽になったのは事実だけど、それも結局は逃げなんです。


 自分の罪は、那智子なちこを姉弟と知らず交わったことではない。

 なぜ近親相姦が罪なのかということ。それでも自分は彼女を愛している、という気持ちを中途半端にしか認めなかったこと。

 何もかもをあやふやにし、眼を逸らし、決定的な判断を避け続け、逃げ続けたことこそが、何よりの罪だ。

 罰されたいことも責められたいことも、「決定的な判断」を他人に丸投げして、甘えていただけにすぎない。本当なら、八津次の荒療治は断らねばならなかった。


(なんて、浅ましい)


 自分自身のおぞましさと醜悪さに、直郎はぶるっと身を震わせた。昨夜責め立てられた左手三本の指は、今もジクジクと骨身に染みる痛みと熱を持っている。

 だが苦痛におぼれてはいけない。それは快楽にふけることと何が違うのか。八津次にも、鴉紋にも、これ以上甘えている場合ではない。


 直郎は寝床から這い出した。

 部屋のふすま前には、鴉紋が置いていった朝食の盆がある。食べ終えた食器を片付け、顔を洗って身支度をすると、廊下で八津次に出会った。


「あんれま~、ナオちゃん。もう起きてきていいの? なんかスッキリした顔しているじゃん。やっぱ昨日のあれが良かったのかね」

「ええ、おかげさまで」


 直郎は深々とお辞儀する。


「ありがとうございました、八津次さん。そして心よりお詫び申し上げます。わたしは自分で自分を裁くことなく、他人に甘えていた。そのせいでとてもあなたを苦しめてしまった。本当に……本当に、申し訳、ありません」

「泣かないでよ」

「泣いてません」頭を下げたまま言う。

「同じだよ。でも、うーん、そっか。ボクもちょっと早とちりしちゃったな」


 直郎がようやく顔を上げると、八津次は腕と足をそれぞれ組み、体を斜めにして頭を壁につけていた。ぷらぷらと片足が揺れる。


「……わたしは、正常な判断力を失っていました。結果として、あなたのしてくださったことで、目が覚めたんですよ。八津次さんが気に病むことはありません」

「ならいいんだけど」ニコッと笑って。「じゃ、今日は鴉紋ちゃんサッちゃんと待機で大丈夫?」と八津次は体を縦に戻した。

「はい。お出かけですか?」

「うん、ちょっと調べたいことあってねー」


 分かりました、とうなずいて、直郎は八津次と別れた。

 聖書を読む内に思いついた自分の仮説は、誰かに話すには性急に過ぎる。

 あれが真実なら今すぐにでも裏巽うらたつみ家を出るか、信多郎を最後の手段――拷問にかけて、洗いざらい白状させるしかない。だが、直郎にはまだ確証が持てない。


 仮に、失敗したというの儀が実は成功していて、「誰か」が信多郎、すずめ、佐強を「体の一部だけ」つまり命は取らない形で生け贄ついぐなにしていたとしたら。

 その誰かは何者で、何の目的で生け贄を捧げたのか。

 思い浮かぶのは、儀式の執行者である裏巽信多郎だ。だが、彼自身はともかく、姪(娘)のすずめまで巻きこんでいる、それが解せない。

 だから彼女に話を聞かなくてはならないのだ。


「すずめちゃん、ちょっといいですか?」


 彼女の部屋はフローリングの洋間で、女子小学生らしくぬいぐるみや、ポップな柄のシールだらけの学習机、少女漫画雑誌などが置かれている。

 中に招き入れられると、車椅子のすずめは香西ヘルパーと共に、夏休みの宿題をしていた。そういえば佐強の勉強も見ておかねば、と思いつつ、香西に退室を願う。

 彼女は蚊帳の外にありながら、翠良尾瀬の怪奇にまつわる話をあれこれ聞かされてきた。居ない者として扱うわけにはいかない。


 幸い、香西は特に警戒することもなく、二人きりになることを承諾してくれた。あまり直郎を警戒していないのだろうが、ここが自分の得な所だ。

 昔から、誰もが直郎を〝危険〟だと判断したことはない。虫も殺せぬ人畜無害、眼にも入らぬ格下、暴力に屈する側にいる弱者だ、と。要は舐められている。

 そこに不満を抱いたことはなかった。逆の見られ方をされたら子供たちを怖がらせてしまうので、正しく自分の対外イメージを築き上げたということだ。

 ただ、その裏側にある本性が殺人鬼であるのだが。


「チョクローさん、おはよー。元気? おねぼうさん?」

「少し具合を悪くしてしまって。よく寝たのでもう元気ですよ」

「よかった!」


 にぱっと大輪のヒマワリのようにすずめは笑う。ああ、やはり子供の笑顔は素晴らしい。「子供が純真無垢なんて嘘だ」という言説があるが、半分賛成で半分反対だ。

 確かに幼い子供にも、ずる賢い悪知恵や、打算はあるだろう。だが、彼らは人間が人生で最も素直な時期にいるのも確かなのだ。

 わずかな時間でみるみる成長する様にはいつも驚かされるし、長年付き合いがある患者には、親戚の子供を見るような気分になる。


「すずめちゃん、ちょっと教えてほしいお話があるんですが、よろしいですか?」

「いいよ。なーに?」


 子供は大人のように言語能力や表現力が豊かではない。だから小児科医は彼らの小さな仕草や表情の変化を見逃さず、苦しみの原因を探り当てねばならない。


「辛かったら、答えなくて大丈夫です」


 不思議そうに、すずめは大きな目を瞬かせる。


「半年前の冬、あなたは行方不明になりましたね。その時のことを覚えていますか? どうして、あなたは帰ってこれなくなったのですか」


 裏巽すずめは神隠しに遭っている。そのことの件が、今の事態につながっているのはないか。直郎は期待を込めて質問を口にした。



 八月十二日、人魚狩りの期限まで、あと二十一夜。


 来足きたり有長ありなが――の件で、鴉紋たちに応対した来足家当主の老人――が、不自然な首吊り死体で見つかった。

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