はたそまりここのつ 終には、人、食べちゃった
警察とは三百六十五日・二十四時間営業の、国営治安総合商社である。平時から腐るほどやることがあり、内容は書類仕事から
そこに殺人事件が起こる――軍隊に例えれば「戦争が始まった」と同程度の〝有事〟だ。それは一警察署、この場合は
通常業務のストップはもちろん、土日祝日催事有給旅行飲み会すべて返上だ。大災害の時には、家族を見捨ててでも現場で働くのが国家公務員、警察官である。
……その意味では「息子が家出した」という理由で休職をもぎ取った
三日前、
なまじ本職の鴉紋としては、修羅場まっただ中に追い打ちをかけられる捜査員に同情を禁じ得ない。そして
来足老人こと来足
「どうだ、
「どうもこうも、鈴鳴んないじゃん。このへんにいをはいないって」
車の助手席から、佐強はブルーシートで覆われた杉林の一角を見つめた。当然ながら制服警官の姿がある。
仮に人ではなく怪異の仕業であれば、神具の翡翠鈴が反応するかと思ったのだが。
「現場に近づいて、蝋燭で照らせばなんか出るかもしれないけど」
「そいつは無理な相談だな」
「オヤジ、現役刑事でしょ。何とかなんないの」
はぁ、と鴉紋はため息をつく。捜査一課強行犯係、というのが彼の警察内に置ける身分だが、それは現在意味をなさない。
「警察手帳は八王子に置いてきた。でなくとも、滋賀県警の
休職中、という部分を、鴉紋は一語一語発音した。
そもそも「捜査」とは立法・司法・行政の三権中、行政が行う行政権の作用である。今の鴉紋は業界の知識がある一般人に過ぎない。
「こんなことになるなら、無理にでも銃の
「いや怖いよそれ。だいたいあいつら銃効くの?」
「知らん」
ここで出来ることはもうないだろう。鴉紋は次の目的地へ車を回した。
◆
八月十一日。
裏巽
何を求めて生け贄を差し出したのか。
なぜ、自分とすずめの体まで捧げたのか。
裏巽すずめは表向き信多郎の姪となっているが、実際は姉の
長年小児科医として働き、〝赤観音〟の名を借りて、直郎は多くの親と虐待者を見てきた。すずめは「叔父」によく懐き、信多郎も常に彼女を気遣っている。
その愛情に、直郎はどうしても嘘を見いだせない。自身が失明し、両足を失っていっそう手がかかる八歳の女児を、一切邪険に扱わない親族。
内心は切り捨てても良いと思っている存在であっても、そこまで心を砕ければ、愛情を抱いていることと何も変わらない。
目は口ほどにものを言う――失った両眼を包帯で覆い隠してなお、彼女に相対する信多郎の顔は柔らかく穏やかだ。
だから直郎の仮説は、どうしてもここで破綻する。まだ見落としている何かを求めて、すずめ本人に神隠しになった時のことを問いただしたが……。
「雪がきれいだったの」「それで、ぼうけんしたくて」「さむかった」「わかんない」「ちょっとこわかったかも」「おきたらビョーインだったの」「いまは元気!」
という調子で、要領を得ない。そもそも、家を出た後の記憶はほとんどないと聞いていた。隠し事をしているという風でもないし、本当に忘れているのだろう。
八歳児にとって、十日前の出来事など遙か昔だ、ましてや半年前など。
大人と子供では時間感覚が違うから、こちらからすれば半年前でも、彼女にとっては数年前の出来事に等しい。
のとさまの一件後、入院していた八津次は使鬼銭を使った消耗から回復するまで、二、三日はろくに動けなかったという。その後、一度だけ和泉子と話したそうだ。
なぜ、娘の行方不明を「神隠し」と思ったのか。それについて彼女はこう答えた。「屋敷の祭壇に祀られた鏡が曇った」と。
裏巽家左棟の奥、六畳もない狭い和室にそれはある。鴉紋が勝手に家捜しして、神具とは別の使鬼銭を発見した場所だ。
彼女によれば、庭にある祠と祭壇はどちらも龍神を拝み奉る重要なもの。特に祭壇は代々の当主が、朝な夕な
確かに信多郎は、早朝と夜に左棟の奥座敷に定期的に入っていた。
祠も祭壇も龍神の分霊が
『でも、あの時は鏡が霜で曇ったのよ』
そう言った彼女の声は震えていた、と八津次は語る。当時存命だった父・裏巽
鏡の霜が消えたのと、彼がすずめを抱えて玄関に立ったのは、ほぼ同時刻だ。
『だから、あれは神隠しなの。すずめは何かに触れてしまった、連れ去られてしまった。みすらさまがお助けくださったのか、お怒りを買ったかは分からなかったけれど。今にして思えば、やっぱり良くないことが起きたんだわ』
彼女自身が霜ついている最中のように、裏巽和泉子はおびえていたそうだ。
◆
再び八月十二日。
鴉紋は佐強と共に、田園風景が広がる
梲鳩家が祀る
裏巽家を出る前、直郎はごうやふとりのことを調べてくれ、と頼んできた。特に、この半年間で裏巽すずめがそれに近づいていないかどうかを、と。
「そりゃどういう意味だ、直郎」
「……色々。今の状況に、気になることがありまして。すずめちゃんは一度神隠しに遭っています。まだ仮説も仮説の段階でお話できることではないのですが、もし、彼女が既に人魚や龍神に成り代わられていたら、すべての前提がひっくり返る」
そう語る直郎の姿には、先日までの弱り切った様子はない。
(俺はまた、近しい者を取りこぼしている。
妹が若くして病死する運命は、避けられないものだった。
だが、彼女が助けを求めた時に、それを聞き入れて心に寄り添ってやれていれば、その魂はもっと安らかに眠れたはずだ。それが鴉紋には悔やんでも悔やみきれない。
直郎の告白は、その後悔を痛いほどに呼び覚ますものだった。
だが、彼は告白してくれた、今度は話を聞けた。八津次の荒療治は相当なものだが、結果として、義弟は吹っ切れた顔をしている。
透き通るほどに穏やかな雰囲気に、柔らかな物腰。直郎のそんなたたずまいに、鴉紋は急に呼吸が楽になったような安堵を覚えた。
直郎も、八津次も、そして佐強も、もう二度と自分は取りこぼさない。今は、彼が頼んだごうやふとりを、そしてがんかじを調べることに全力で挑もう。
がんかじ行に手を出した願施崎誠次は、数日でおかしくなった。
だが三日が経っても、直郎にはさしたる異変がない。八津次がのとさまに祟られた時は、たちまち感覚が奪われて行ったというのに大した違いだ。
やはり「香を聞く」という正式な手順を踏んでいない以上、事態の進行はゆっくりとしたものらしい。これは幸いだが、かといって油断もできない。
いをはどいつもこいつも、何を考えているか、何をしでかすか分からない、まさに超常の存在だ。人間の理屈や都合など通用しない。
「ごうやふとりかあ……出会ったら自分のドッペルゲンガーが出る、って本には書いてあったけど、そいつと顔合わせても死なないんだね」
『翠良尾瀬村民俗誌』の内容を思い返しながら、佐強はつぶやく。
「でも例によって、死ぬより悪いことになるんだろうなあ……」
「そもそも自分がもう一人増えて、勝手に動くってだけで相当面倒だがな。きちんと意思疎通できるなら、俺の仕事を分担してもらいたいくらいだが」
ふと鴉紋は警察での業務を思い出した。
被害者から調書を巻き、参考人から話を聞き、役所に照会し、証拠品を鑑定に出し、実況見分をし、見分結果の図面を引き、報告書をまとめ、被疑者の所在捜査をし、ひとたび事件が怒れば被疑者確保まで先の見えない捜査を、確保したらしたで取り調べやガサを行って、二十日内程度という厳しい納期で起訴に持ちこみ……
我ながら、よくこんなストレス
〝正義〟などと
それに背く者は許せない、被害者の仇討ちをしたい、と考えている。鴉紋もそうだ。そして、一線を越えて〝赤観音〟という私的制裁に手を出した。
挙げ句の果てにたどり着いたのが、この翠良尾瀬だ。鴉紋は自分を悪と断じている。必要悪などとうそぶく気も毛頭ない。
佐強は、自分たち三人の行いを知った上で、「やめてくれ」とは言ってこない。今は、まだ。何しろ、自分がにくべとという不死の化け物になるかどうかの瀬戸際だ。
それを解決した上で、佐強が自分たちと縁を切ると言うなら止めやしない。そして〝赤観音〟の活動をやめるつもりもない。まあ、告発される覚悟ぐらいはするが。
「……なんかさあ、オレ、最近マグロの気持ちが分かってきたかも」
帰り道の車内で、ぽつりと佐強はつぶやいた。
「赤い雨が降ってからずっと、同じ所をずーっとぐるぐる回ってる気がする。悪いことばかり起きて、ワケ分かんないまま振り回されて」
「人魚實は七つから六つに減った。一歩一歩、俺たちは進んでいる」
「……でも、それって」
間に合うの? という言外の声は鴉紋の耳にも届いている。人魚狩りの期限まで、残り二十二夜。あと六柱もの恐るべき人魚實をどう討てばいいものか。
直郎はがんかじに眼をつけられた。残る四つの人魚實によって、家族の誰かが命を落とすか、あるいはもっと酷いことになるかもしれない。
嫌なことに、来足老人の死にはこうべれという野良いをが関わっている、という噂も耳にした。人魚實として祀られていないたぐいのものだ。
首吊り自殺をした死者は、自分が成仏するために、生きた者を同じ死に方に誘うことがあると言う。中国の
こうべれとは
もはや、翠良尾瀬では虚実が入り乱れている。祟りに乗じて誰かが欲望を満たそうとしているのか、これがきっかけで噴き出した情念か。
「佐強、余計なことは考えるな。ただ警戒しろ。化け物どもだけじゃなく、生きている人間もな。ここは何もかもが狂いだしている」
「……うん」
うつむき気味になった息子の肩を軽く叩いて、鴉紋は裏巽家に戻った。玄関の前に立つと、八津次の陽気な歌声が聞こえてくる。
「あっくにん、た~べる、あかかお~ん♪ あくにんへって、おっなっかがぐう~♪ つ~いには、ぜんにん、たべちゃった♪」
〝あかかをんのうた〟。なぜ今の状況でそんなものを? 鴉紋が睨みつけると、八津次は庭先で洗濯物を取りこんでいる最中だった。
「何バカな歌うたってんだてめぇ」
「とーちゃん、声でかい」
「おーっ、鴉紋ちゃんサッちゃん、何か進展あった?」
洗濯物を満載にした籠をかかげて八津次は笑う。
屈託のない、LEDランプでも灯したような白々しいほど明るい笑顔。選曲のチョイスはともかく、いつものこいつだ。鴉紋は鼻を鳴らして屋敷に上がった。
直郎にごうやふとりについて報告するが、すでに梲鳩家から聞いたことばかりで、目新しい情報はない。直郎は難しい顔をしていたが、先日までの懊悩とは違う。
状況は厳しいが、家族たちが少しでも前を向けているなら、何よりだ。
◆
八月十一日、夜。
来足有長は七十八年の人生を終えようとしていた。背後から襲ってきた何者かが自分の首に縄を巻き、背負う形で絞め殺そうとしている。
弱々しい抵抗はそう長く続かず、やがて彼の
「ふう」
背中の死体を下ろして、目出し帽の八津次は息をつく。あとはこれを、目当ての木に吊してくるだけだ。来足家の人魚實はもういない、だから殺しても不都合はない。
それに、こいつは他に比べれば罪がある方だろう。
祟りが及ぶのを恐れたとはいえ、入り婿に命じて実の娘を殺させた。なんやかんやと自分は逃げおおせるつもりだったようだから、なおさらタチが悪い。
のとさまでよくよく痛感した、これ以上あんなものに関わってはいられない。
がんかじの件が片付いたら、次は願施崎から殺そう。佐強と同世代の
(鴉紋ちゃんもナオちゃんも、善とか悪とかこだわるんだよね。これは悪だ、って分かった上でやっている。ボクはそんなのどうでもいい。だから、一人でやるね)
入院してからずっと考えていた犯行だ。そのために頭を丸め、ウィッグを用意し、それを外した上で目出し帽で顔を隠して、夜陰に乗じた。
あと何人殺せば龍神が満足するかは知らない。オヤカタサマを皆殺しにしても佐強の両手が戻らなければ、裏巽信多郎を殺すだけだ。
いや、その前にあいつには、何か隠し事がないか吐いてもらおう。拷問道具なんてどこでも何でも調達できる。ヤツは必ず嘘を吐いている。
オヤカタサマはすべて殺す。自分一人で殺す。鴉紋は遅かれ早かれ気づくだろうが、その前に血の
みな死ね。自分と家族のために。愛する者たちのために。犯行に気づかれて弾劾されようが構わない。その時、家族の手で殺されようとも。
ただ、大好きなみんなに笑っていてほしい。幸せでいてほしい。
八津次が願うのはそれだけだ。
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